Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏影13
会場は大混雑していた。
その中を颯爽と歩く由太を、慣れない下駄で追いかけるのは簡単とは行かず、亜紀子はところどころで駆け足をしなければならなかった。
すでに足の指の皮がむけ始めていたが、由太がいる手前、絆創膏を貼ることもできない。
ようやく二人が座れるくらいのスペースを見つけた時には、亜紀子はほっとしてため息をついたくらいだった。
だが由太といえば、そんな亜紀子を気にすることなく、遠くに視線を馳せていた。
何を見ているんだろうか。
それとも、探してる？
その答えを見つけるのが怖くて、亜紀子は由太に話しかけた。
「久しぶり、ですね」
「合宿だったからな」
そっけない受け答えは相変わらずのようだ。
おまけに亜紀子が差し入れを持って学校に行ったことすら、忘れている口調の由太に、亜紀子は心の中でため息をつきながら答える。
「そうじゃなくて、この花火大会。初めて来たの、2年前でしたから」
「…そうだったな」
二人にとっては、それが初デートだった。
亜紀子にとっては、それがつい昨日のことのように鮮明に思い出すことができた。
緊張しすぎて、はじめの十分ほどは、二人とも無言のまま、人混みの中を歩き続けたこと。
出店でコーラを頼む由太が、意外に思えて嬉しくなったこと。
手をつなぎたくて仕方なかったのに、結局つなげなかったこと。
スタスタ歩く由太に追いつけなくて、それでも必死に広い肩を追いかけた。
あの時、手を伸ばしても届かないと感じたその肩は、すぐ目の前にあるというのに、手を伸ばしても、伸ばしても、届かなくなってしまったように思える。俯きかけた亜紀子は、思い切って顔を上げ、由太に話しかけた。
「知ってます、ジンクスあるの」
「ジンクス？」
ふいに出てきた話に、由太はそう繰り返す。亜紀子は大きく頷いてから、話を続けた。
「この花火大会を見に来たカップルは、別れるって」
そう言って、夜空を見上げたままに、由太の反応を待つ。
ジンクスは、クラスの女の子が実際に話していたことだ。彼女の周りには、そういうカップルが何組もいたらしい。それを聞いた女子の多くは、逆に別れない というジンクスを持つ翌月の花火大会にデートをずらしていた。亜紀子もそうしたかったのだが、翌月の花火大会の頃、由太がインターハイに出場している為 に、凪浜にはいないことに気づき、諦めた。
勿論、花火大会に行かないという選択肢もあったのだが、噂に踊らされるよりも、由太に会いたいと思ったのだ。
「迷信だろう、そんなものは」
あっさりと由太が答えた。
由太らしい答えに、亜紀子はほっと一安心する。
「そうですよね、これだけ沢山のカップルがいるのに、全員別れるなんて、そんなひどいこと、神様もしないですよね」
山田が早くから場所取りをしてくれていたおかげで、サッカー部員たちは全員座れることができた。
だが、あたりを見回すとカップルばかりで、自分たちだけが男だらけであることに気づき、成は思わず近くに居た園部に聞いた。
「萌子は？」
「しらねぇ。っつーか来ないじゃね？福山さんと一緒に行くから」
「そ、っか」
あっさり答えられて、成はさりげなく落ち込んだ。
まあ、当然っちゃ当然だけど。
だけど。
『ごめん成。今の、聞かなかったことにして』
あの時の萌子の表情は、なんと言えばよかったのだろう。
驚いていた。
いや、戸惑っていたんだと思う。
『それは、…福山さんの恋人だから？』
そう言ったのは、単純にそう思っただけだ。
萌子の言葉、萌子の声、萌子の表情。
重圧に押しつぶれてしまいそうだった萌子を、単純にそう思っただけ。
だけど、それが本当だったら。
萌子はきっと。
きっと、福山さんと一緒にいても、辛いだけなんじゃないのだろうか。
「そういや、成。テニス部の斉藤断ったらしいじゃん」
いきなりケンにそう言われ、成は「へ？」と真顔で返してしまった。きちんと答えようとする前に、どこからか現れた山田が目を見開いて成に言う。
「え？そうなの？早坂。マジかよ、もったいねー。
ってか日比野は？」
ケンが突然現れた山田を睨みながら答える。
「小池とどっかに行ったぜ。あれはあれで、もう帰ってこないとみた」
「じゃなくて、テニス部の斉藤とのことだってば。合宿中、しょっちゅう話し込んでたじゃん」
「俺が知るかよ」
険悪なムードに、思わず成は答える。
「相談、してただけだって」
「何だよそれー。ってゆか、なんで断ったわけ？」
「それは…」
興味津々と言った表情で、成の顔を覗き込む山田から顔を逸らし、成は口ごもる。
成の返事を待っている山田に気づいたのか、ケンが助け舟を出した。
「まーいいじゃん。
お前には、愛しの紗依先生がいるんだろ。ほら、戻ってきたぜ」
買い忘れたものがあるのだとかで、一人駅に戻りかけていた紗依が、サッカー部員に気づくと、大きく手を振った。
「おおっ、田波せんせー」
それに答えるように、山田もスキップしながら紗依の方に向かう。
ほっと息を吐く成の隣で、ケンが呟いた。
「山田も単純だよなー。ほんと。お前もそう複雑そうな表情すんなよ。
お前が断ったんだから、堂々としてろよ。じゃねえと斉藤も可哀そうだろ」
可哀そう、と言われて、成は別れ際の友紀子のことを思い出した。
ぽろぽろと涙を流している友紀子に、けれど成は本当のことは言えなかった。
謝る成に、それでも友紀子は言ったのだ。
『気にしないで』
女の子を泣かせているのに、何もできない自分が、ひどく悔しかった。
落ち込む成の背中を、ケンが思い切り叩き、空を指差した。
「あ、ほら。花火始まった。行こうぜ」
空には大輪の花が豪華絢爛に咲き始めていた。
『話がある』
そう朔哉は言っていた。
『プロから、スカウトされたらしいよ、朔哉さん』
そう言ったのは、篤志だ。
つまりは、そういう話なのだろうか。
将来の、話。
萌子は、朔哉から、将来の夢の話は聞いたことが無い。
あるのは、選手権で優勝したいということだけだ。
プロに、行くのだろうか、やっぱり。
萌子にも、スカウトされるということが、そう簡単ではないことはわかる。
どのチームかはわからないが、凪浜にはプロチームがないわけだから、当然朔哉は凪浜を出て行くということになる。
当たり前か、来年の春には、卒業するんだから。
そう思うと、心の中に、急に鉛が置かれたような気持ちになった。
家に迎えに来た朔哉と向かった先は、なんとつい数時間前までいた学校の屋上だった。
ひっそり忍び込んだ学校の屋上には、誰一人としておらず、頭上に広がる夜空には、花火が、見事なまでに咲き乱れている。
萌子は気持ちを切り替えるように、手すりに手を伸ばして、はしゃぎながら言った。
「すごい。特等席ね。ここ」
萌子のあとを追いかけるようにして、隣に立つと、満足げな表情を浮かべた朔哉が、答える。
「サッカー部の歴代キャプテンだけが、使用可能なんだ」
「そうなの？」
「冗談。ただ、コウさんから教えてもらった」
くすくすと笑いあいながら、二人はしばし無言で空を見つめた。
艶やかに花火は夜空に咲くと、あっけなく消えていく。
「そういや篤志と少しだけ話したよ。小池を見舞うように言ったんだけど」
突然切り出された篤志の話に、萌子は僅かに俯いて答える。
「篤志、テニス部の子の相談にのってただけだったらしいの」
恋愛相談だという話をしてもよかったのかもしれないが、萌子はあえて言わずにいた。
「そうか、じゃ、一件落着だな」
黙った萌子の隣で、朔哉がすっきりした表情でそう答える。
一件落着だったのか、その答えは萌子にもわからなかった。
確かに、篤志は今回のことを理香に話すだろう。
理香はとりあえずは、納得するかもしれない。
だけど、また、同じように思う日が来るのではないだろうか。
萌子からすれば、二人は完璧に付き合っているように見えた。
それなのに、何も口にしない篤志。
問い詰められない理香。
理香は怖いのだ。
問い詰めて、結局今の関係が壊れてしまうことが。
篤志はどうなんだろう。
理香がいなくなったら、そうしたら自分の気持ちに気づくのだろうか。
「どうかした？萌子」
浮かない表情の萌子に気づいた朔哉がそう尋ねた。
「ううん。そうだといいな、と思って」
ため息混じりにそう答える。
本当にそう思う。
理香と、篤志が本当に幸せになれるといい。
だが、篤志の真剣な表情を思い出すと、まだまだ先は長いように思えた。
「司に言わせると、相思相愛同志が付き合える確率は、１％だそうだ」
「え」
唐突に朔哉が口にした言葉に、萌子は思わずそう言い返した。
『本当に好きな人と両想いになれる確率なんて、きっと１％にもならないぜ』
篤志が言っていたことと一緒だ。
思わず凝視する萌子を気にする様子も無く、朔哉は空を見上げたままで、話を続けた。
「だから、好きな相手と付き合うことは奇跡に近い。ただひたすらその奇跡を待つよりも、どこかで妥協した相手と付き合った方が、勉強にもなるし、いい経験になる。
もちろん、妥協が本気になることもあるだろうし、逆に妥協だからこそ、別れるかもしれない。
でも例え別れても、それは本当に好きな人と出会うための必要な出会いだ、って。
そう言って、あいつは女の子をくどく」
ああ、そうか。
あの篤志の言葉を聞いたとき、どこか違和感を覚えていたのは、それが篤志の言葉ではなかったからだ。だからこそ、矛盾に気づくことなく、口にしたのだとも言える。
納得して、萌子はようやく安心した。
やっぱり、篤志は篤志なのだ。
あの笑顔は、変わらない篤志の笑顔だったのだ。
『萌子は話してるんだね』
脳裏に、笑顔とともにそういった篤志の言葉が過ぎった。
そうだ。
話を、木原と初めて出会った頃の話を、朔哉には話さないといけない。
あの時、木原に朔哉が啖呵を切った時に、本当は話すべきだった。
だけど、萌子も篤志と一緒で、怖かったのだ。
もし、朔哉が受け止めてくれなかったら、萌子の過去を、萌子の家族のことを拒絶したらどうしよう、そう思うと積極的に話せなかった。
萌子からすると、朔哉は完璧主義者だ。
話すのであれば、どこかを割愛することなどできないから、きっと別居の話もしなければならないだろう。
それでも、受け止めてくれるのだろうか。
こんな自分でも。
黙りこんだ萌子の隣で、朔哉は話を続けていた。
「初め聞いたときは、何言ってんだって思った。
女の子口説くための、でまかせだろうって。
だけど、今までの出会いと出来事は、すべて萌子と出会うために必要だったとは、思う」
萌子は慌てて朔哉の方を見た。
すぐに朔哉と目が合う。
心の中を渦巻いていた靄が、さっと引いていった。
いいえ、朔哉さんなら、きっと。
きっと受け止めてくれるはず。
今までだって、萌子も他人には絶対に言わない朔哉の愚痴を聞いたこともある。
その度に、二人は一緒に考えて、答えを出してきたのだ。
あのね、と萌子が口を開こうとしたところで、朔哉が先に話し始めた。
「進路、決めたんだ。大学に行こうと思う」
「え」
思いがけない話に萌子がそう言うと、朔哉は力強く頷いた。
「早波大に、入りたいと思ってるんだ。
インターハイが終わったら、練習に参加してから、正式に決めるだろうけど、いずれにしても大学に、行く」
その力強い言葉は、萌子の予想を超えていた。
しかも、早波大ならば、凪浜からそれほど近い場所ではない。
「凪高からは、電車で二時間半くらいかかるところだけど、休みの日は、こっちに帰ってくるし、電話も毎日する。
萌子がどうしても会いたいってなったら、授業休んで凪浜に来るよ。
だから、萌子は心配しないで。俺の気持ちは変わらないから」
朔哉はそう言って、萌子を抱き寄せた。
花火を打ち上げる音が、聞こえてくる朔哉の鼓動と混ざり合い、うるさいくらいに萌子の耳に響いていた。
だが、萌子には、何も聞こえていなかった。