Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏影10
合宿最終日の朝。
練習が始まるグランドで、萌子は目の前に立つ右京に気づき、スコアブックから顔を上げた。
「おはよう、右京。え？」
いきなり白いＴシャツを投げつけられて、萌子は戸惑う。
広げると、それは萌子が無くしたと思った右京のＴシャツだった。
汚れは無く、むしろアイロンをかけたのか、ぱりっとして新品のようだった。
「きれいに洗ってるみたいだけど…」
萌子の問いかけに、右京はそっけなく答える。
「知らない女が持ってきた」
「知らない女？…もしかして、テニス部の…？」
「知らない」
良恵の顔が思い浮かんだが、仮に名前を言っても、右京は思い出すこともないだろう。
興味の無いことは、とにかくすぐに忘れてしまうのが、右京なのだ。
「とにかく洗ってくれ」
萌子の問いかけにも、右京は答えることなくそう言った。
「うん…わかった」
だが、相手が良恵だとすると、すべてがつながる気がした。
良恵の片思いの相手は、右京なのだ。けれど、人を寄せ付けない右京に近づける人間はそういない。だったら、近づける数少ない人を介せばよい。
簡単な発想だ。
一目ぼれの相手が、野球部とか、バスケ部とかで揺れたのも、サッカー部だということを隠すため。
おそらく、人から萌子がサッカー部員たちとの仲立ちをしないということも、どこからか聞きつけたんだろう。
たしかに、真っ向から言われてたら、あそこまで相談に乗ることも無かったかもしれない。
「萌子」
「ん？」
ため息をつこうとする前に、右京に名前を呼ばれて顔を上げると、右京は萌子を見据えて言った。
「らしくないこと、するな」
グランドの中では、レギュラーチームと、柳田たち卒業生とサブの選手を中心としたチームとで、練習試合が行われていた。
白熱した試合展開で、後半が始まっても、試合は０対０のままだった。
朔哉は、中盤から、左サイドを駆け上がっていた。
俊平に名前を呼ばれると、グランドの中央から、朔哉に向かってパスが蹴りだされていた。
『自分の惚れた女だろ。信じろよ』
昨日の俊平の言葉が頭を過ぎる。
自分は信じているつもりでいた、萌子のことを。
それでも、信じきれていなかったのかもしれない。
『信じなきゃ、何も始まらないだろう』
悔しいが、俊平の言う通りだ。
ちらりと、ベンチの方を一瞥する。
萌子は、真剣な表情でグランドを見つめている。
『お前が沢木のために、凪に一年残るなんて言ったら、それこそ沢木は別れるっていうぜ』
これも、俊平の言うとおりだ。
凪浜に残るか残らないか、プロになるのか、大学に行くのか。
決めるのは、自分なのだ。
それに、きっとその選択を、萌子は受け入れてくれるはずだ。
それが、信じるということ。
ボールはきちんと朔哉の走りこんだ先に落ち、相手ディフェンダーよりも先に朔哉はそれに追いついた。
サイドラインぎりぎりを、朔哉はドリブルをしてかけあがる。
部員たちの歓声が一際大きく聞こえる中で、ゴール前で知朗が手を上げているのが見えた。
よし。
「行かせんぞ、朔哉」
ついていたディフェンダーを交わし、センタリングをあげようとしたところで、突然相手チームの柳田が目の前現れた。
あ、と思った瞬間、ボールは朔哉のコントロールから離れ、精一杯ジャンプする知朗の頭上を越えていく。
歓声が、落胆に変わったと思った瞬間、知朗の背後から、出てきた影が、鋭いシュートを放ち、ゴールネットを激しく揺らした。
上がってきた右京の目の覚めるようなボレーシュートだった。
「ナイスッ、右京」
知朗が嬉しそうに、右京に駆け寄る。俊平や司も、右京に一声かけてから朔哉のほうにも駆け寄ってきた。
「ナイスセンタリング、朔哉」
「おい朔哉、もっと俺のほうにもセンタリングあげろよな」
誰も気づいていないようだが、本人にはわかっていた。
違う、あれはパスミスだ。
偶然、あそこに藤原が走りこんでたから、よかっただけ。
…偶然？
朔哉は思わず無表情のままでポジションに戻る右京を見つめた。
あのボレーは、タイミングが絶妙だった。
偶然だったとしても、右京はそれを必然にすり替えたのだ。
ごくりと喉をならす朔哉の視線の先には、それでもいつもと変わらない右京がいた。
結局紅白戦は、右京のボレーの一点が決まったのみの1対０で、レギュラーチームが勝利を収めた。今日の練習は、ほぼ終了だ。
軽いランニング、ストレッチ、そしてミーティングの後、合宿もお昼前には終了ということになる。
「よかったね、理香ちゃん復活して」
「うん」
無事終了することへの祝杯にと、萌子は部員全員の数だけの紙コップにジュースを入れながら、手伝ってくれている隣の厳巳にそう答えた。
昨日の宣言通り、理香は朝から練習に参加していた。
いつもと変わりなく明るい声を響かせる理香に、柳田などは「仮病だったんじゃないのか」などと冗談めいて言ってはいたものの、それでもたまに見せる表情は、やはり元気が無い。
あの時、篤志は事情があって、斉藤さんと話してるってことだったけど、何だったんだろう。
もし、本当に心配するようなことじゃないなら、せめて、理香には話してあげてほしいのに。
昨日の理香を思い出したところで、萌子はポケットに入れたままの写真に、ジャージの上からそっと触れた。
これ、いい加減渡さないと。
きっかけが掴めずに、萌子は昨日理香からもらった写真を、まだ朔哉に渡せずにいた。
会話をしていないわけではない。
ただ、渡そうと思うと、昨日の成の言葉が頭を過ぎるのだ。
「萌子？」
「うん？」
厳巳に呼ばれて、はっとしたように萌子は近くにあるコップにジュースを注ごうとすると、厳巳が冷静に答えた。
「それもういっぱいだよ。さっき入れてたし」
「あ」
コップいっぱいにオレンジ色の液体がこぼれそうになっている。
あぶない。あぶない。
萌子はそう思いながら、ふうとため息をつくと、額の汗をぬぐった。
「もしかして、萌子も夏ばてとかじゃないよね」
心配そうに厳巳が萌子の顔を覗き込む。
「大丈夫。ごめん、ちょっと考え事してて」
「考え事？」
余計なことを言ってしまった、と萌子は慌てて取り繕う。
「ああ…何でも無い。夕飯、何かなって」
萌子の夕飯は、おそらくすでに冷蔵庫の中にあるのだろう。
冷たく、ラップでくるまれたそれを、レンジで温めることを思い、萌子の胸には一抹の寂しさが過ぎる。
すると、厳巳はあれ？と呟いて、萌子に聞き返す。
「夕飯って、萌子は花火大会行かないの？」
「え？」
「花火大会。今日だよ」
知らなかった？という厳巳に、萌子は笑顔で答えるしかなかった。
合宿の最終日は、ミーティングの前に全員でグランド整備するのがサッカー部の約束だった。キャプテンである朔哉も例外ではなく、自分の持分を済ませ、グランド脇に佇んでいると、着替えの終わった笠間が声をかけてきた。
「おつかれ、朔哉」
「笠間さん。ありがとうございました、練習に来てくれて」
頭を下げる朔哉に、笠間はゆっくりと首を振る。
「たいした役には立てなかったよ」
「そんなこと、ないです」
「楽しませてもらったのは、こっちのほうだよ」
笠間はそう答えると、大きく伸びをした。
私服だからなのだろうか、笠間も雰囲気が少しばかり変わっていた。
肩の力が抜けたっていうか、自然体、なんだろうか。
「どうです？大学生活」
さりげなく尋ねると、笠間はあっさりと答えた。
「楽しいよ。だけど、自由すぎてちょっと戸惑ってるかな」
「戸惑う？」
「そう。選択肢がありすぎて、自分がちゃんとしてないと、色んなものに飲み込まれてしまう」
一瞬目を細め、笠間は遠くを見つめた。
その先にあるものを朔哉が見つける前に、笠間はふっと表情を和らげて口を開いた。
「それにしても、いいチームだな。今年は。
インターもいいとこまで狙えるだろ」
どうなんだ？という笠間の視線に、朔哉は微笑みながら答えた。
「下馬評は高いみたいですけどね。どうだろう。まだ、未知数なところがありますから」
稼動し始めた新しい戦法は、今のところ成功はしているが、この先失敗しないとは限らない。
そうかなあ、と笠間は呟いて答えた。
「正直俺は、菊地さんの時よりも、強いと思う。
巡り会わせがいいのかもしれないな。
朔哉がキャプテンの時に、藤原がいて、早坂がいて、他にも大槻や、友近たち、いい選手が揃ってる。滅多に無いことだと思うよ」
「その分問題児も、多いですよ」
照れ隠しに朔哉が答えるが、笠間はゆっくり首を左右に振った。
「でもそれをお前がちゃんと見てやれる、先導してやれる。
うまい具合に欠けた穴を誰かが補ってやってるんだ。
この相乗効果があれば、一足す一は、三にも四にもなれる。
中心にいるお前がいなかったら、今のチームはこれほどまで強くなってないはずだよ」
「そんなことは、ないです」
朔哉の脳裏に先ほどの右京のボレーシュートが鮮明に浮かんだ。
真剣な朔哉の表情を見た笠間は、それを朔哉の謙虚さと感じ、軽く肩を叩く。
「決勝行けたら、応援に行くから。がんばれよ」