Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏影1
「暑…」
成は大きな荷物を教室の床に置くと、窓から広がる雲ひとつない空と海を見て、机の上にある誰かの忘れてしまった下敷きを団扇代わりに扇ぐ。
夏休みに入ってすぐ、サッカー部は学校での4泊5日の合宿に入っていた。
去年と同じく、割り当てられた教室には15名の部員がいる。湊や、篤志にケン、いつもの気心知れた仲間だ。
この合宿が終わると、部員たちはインターハイの行われる仙台へと場所を移し、再び合宿に入る。こうして、凪浜にいるのも、あと僅か。インターハイはすぐそこだ。教室から覗く海も、開け放たれた窓から漂う潮風も、成の気持ちをどこか高揚させていた。
「あ、あそこって、テニス部女子の部屋じゃねぇ？」
廊下に出たケンが、教室にいる部員たちにそう言った。
「何々？」
「ラッキー」
教室に入るなり昼寝を始めた知朗、同じくウォークマンを聞き始めた右京たち、一部の部員を除いて、篤志や山田たちは、いそいそと廊下に出て行く。
今年の合宿では、テニス部が同時期に合宿をすることになっていた。
去年とは違い、女子の人数も多いということから、渡り廊下を隔てて、北校舎を女子が、南校舎を男子が使うことになっていた。
「成も来いって。結構見えるぞ」
ケンがそう言って成を呼ぶ。
「覗きだろ、それじゃただの」
成はそういうと、わざとらしいくらいに、逆の方向を見つめた。けれど、その片隅で、萌子のいる教室も見えるのだろうか、とふと思う。
「お、着替えが始まった―」
だがケンがそういったところで、思わず成が顔を向けると、ニヤついたケンの顔があった。
「冗談だよーんっ」
腹立たしさの代わりに、成はケンにタオルを投げつけた。しかし、ケンはそれを上手に交わすと、再び廊下から北校舎を見つめた。
「萌子たち、あの隣の教室とかじゃない？今回」
篤志がそう話すのが聞こえ、成はその情報を頭にいれる。だが、実際は、女子の寝泊りする北校舎の三階は、男子禁制なので、行けるはずもなかった。
「俺、夜中に遊びに行こうかな」
「どこにだよ」
ケンの呟きに、思わず篤志が言い返す。
「勿論女子テニス部。だって、可愛い子ぞろいだろ、今のテニス部って」
「確かにそうだよなぁ。あれ？成。何処行くんだよ」
廊下に出て、歩き出した成に気づき、篤志が引き止める。成が何も答えずにいると、ケンのからかう声が聞こえた。
「抜け駆けか？」
「トイレだよ、トイレっ」
去年はラッキーだったんだな、と萌子は荷物を広げ終わった教室を見て思った。
保健室は、ベッドもあったし、何より空調が効いていた。だが、この教室にはそういったものが何一つない。
机も下げて、寝る場所の確保をした萌子は、乾いた喉を潤そうと廊下に出たところで、隣の教室のあたりでうろうろしていた女子生徒にいきなり話しかけられた。
「あー、沢木さんっ」
知らない女の子だった。上履きの色は、黄色。というと、一年生だろうか。
「合宿、一緒ですよね。宜しくお願いします」
「こちらこそ…」
にっこり笑いかけられて、萌子もぎこちなくだが、笑顔をかわす。
二年になってから、正確には朔哉と付き合うようになってから、萌子は知らない人から、こうして話しかけられることが多くなっていた。それもこれも、朔哉の影響力の為だ。
人当たりのよい朔哉の隣では、自然と萌子もそうせざるを得ないのだ。
そそくさと、立ち去ろうと思った萌子だったが、そのまま引きとめられてしまった。
「あの、あたし。テニス部のマネージャーしている一年の近藤です。近藤良美」
「サッカー部のマネージャーしてる、沢木です」
すると近藤良美はキャッキャッと嬉しそうに笑い声を上げた。
「知ってますよ、もちろんっ。だって、あの福山先輩の彼女ですもんっ。凪高で沢木さんのこと知らない人がいたら、それは凪高生じゃないですからっ」
そんなことない、と思う萌子だが、そう答える前に、良美が話を続けた。
「あの、萌子さんって呼んでもいいですか？あたしのことも、良美とか、よっしーって呼んで下さいっ」
「は…い。わかったわ」
そう答えると、良美は両手を胸の前で組んで答えた。
「よかったぁ。あ、あの。実は、萌子サンに相談したいことがあって、あの。いつか話聞いてもらえますか？合宿一緒になったよしみで」
「うん…。いいけれど」
「ホントですか？やったぁ」
ぎこちなく笑みを浮かべながら、ふと萌子の視界に、テニス部女子の教室が見えた。女子だけだからなのか、教室ではスカートを平気で仰ぐ女子や、Ｔシャツを脱いでいる子までいる。
「あの…今もしかして、着替え中？」
「え？そういうわけじゃないんですけど」
萌子は中学時代を思い出しつつ、あえて助言することにした。
「カーテン、閉めたほうがいいかもよ。確か、サッカー部員たちの教室、ちょうど向かい側だから」
「えっ」
次の瞬間、良美は教室に駆け込むと窓の外を見て、キャーッと声を上げた。それに気づいた他の部員も、良美の視線の先に気づいて、同じように悲鳴を上げると、慌ててカーテンを閉めた。
体育教官室は、冷房はないものの、辛うじて扇風機が回っていて、少し強めの風が、朔哉の頬に当たっていた。
「悪いな、朔哉。呼び出して」
「いいえ。インターハイのことですか？」
目の前には石橋がいる。
午前中に集合の後、軽い練習があった。その後食事を終え、部屋の準備と、休憩をしている時間帯に、朔哉は呼び出しを受けた。
慌てて出向くと、少しばかり緊張したような石橋がいた。
あと二週間もしないで始まるインターハイのことかと先に尋ねた朔哉だったが、石橋は軽くそれを否定した。
「いや。朔哉に聞いておきたいと思ってな。
将来を、どう思っているのか、決めたのか。
大学に進学するのか、それともプロに入るのか。前に聞いたときは、大学進学だといっていたが、それから日も経ったし、正直、あの時のお前は何となく答えた感じだった」
確かに、石橋のいう通りだった。
聞かれたのは、確か二年に上がる前だったが、あの頃は光一を慕い、大学に行こうと思っていた。だが、その光一は、大学を休学し、今はドイツに行っている。
朔哉が答えに迷っていると、石橋は周囲を見回して、誰もいないことを確認してから口を開いた。
「実は、あるチームからのスカウトの話が来ていてな」
思わず朔哉は尋ねた。
「あるチーム、というのは？」
朔哉とて、プロに興味がないわけではない。できれば、一生サッカーに携わって生きたいとは思っている。
ただ、かつてプロ選手だった石橋や、大学の道を選んだ光一を見て、また自分の実力を思うと、プロとしての将来には、正直不安もあったのだ。
だけど、スカウトと言われると、心は惹かれる。
ごくりと唾を飲み込む朔哉に、石橋は言った。
「ブルーフェニックスだ。最近の日本リーグでは、２位に甘んじてるが、それでも日本のクラブチームの中では、最高峰だろう。どうだ、話。聞いてみるか？」
午後の練習が始まろうとしていた。
合宿における洗濯も、やはりマネージャーの仕事で、下着などは自分たちでやってもらってはいるものの、いくら洗濯機を回しても、間に合わない量になる。
とりあえず、一回目を干して、二回目をまわしているところで、萌子はグランドに座ってボールを磨きながら、どこか遠くを見ている理香に気づいた。
「どうしたの？理香。顔、強張ってるけど」
「あれ見てよ」
萌子は理香の指す方向を見つめる。理香は、テニスコートの方を指差した。
男女二人が、ネットを境にして、話をしているようだ。
「篤志？」
目を細めて萌子がそれを確認すると、理香はぶすっとした表情のままで答えた。
「隣で話してるの、テニス部の斉藤友紀子ちゃん」
「へぇ。知り合いなんだ―」
仲良く話している様子を見て、萌子がそういうと、理香は低い声で呟いた。
「聞いてない」
「え？」
笑い合っている篤志たちと、それを遠くから見つめて顔をゆがめている理香に、萌子は慌てて言った。
「あ、でも。篤志って顔広いし、フレンドリーだし―」
「それにしても、鼻の下伸ばしすぎ」
ジロリと篤志を睨んでいる理香に、何かいい言葉をと捜していると、グランドの中から知朗が萌子の名前を呼んだ。
「萌子っ」
何かで指を切ったのか、知朗は指をくわえている。
萌子は置いてあった救急箱を手にしながら、理香に言った。
「…理香、あまり気にしなくていいと思うよ」
初日の練習を終え、朔哉たちは汗をシャワーで洗い流すと、寝泊りするのとは別の空き教室に入っていた。消灯まではまだ時間もあるし、何より十五人揃った教室は、暑くているだけでむさくるしさを感じるのだ。
教卓に腰掛けながら、司が呟いた。
「しっかし、朔哉もいい日程引いたよな。女子テニス部と一緒なんてサイコー」
「おまけに、花火大会も最終日にかぶってるし」
学年が違っても、思うことは同じようだ。
ニヤニヤ笑いながらそういう司と俊平に、朔哉は言った。
「合宿中なんだ。花火大会どころじゃないだろう」
偶然ではあったが、今回の日程を引き当てた時は、ラッキーと心の中で呟いた。
凪浜周辺では、夏に七月と八月に隣り合った街でそれぞれ花火大会が開催される。
朔哉が凪高に来てからは、合宿やインターハイと重なって、その花火大会には参加できていないものの、噂によるとどちらも豪勢にあがるらしい。
しかも、会場に行けば、かなりの人ごみだが、凪高の校舎からは、相当綺麗な花火が見られるというのだ。
「朔哉、固いこというなって。高校最後の夏休みだぜ。パッと遊ぼうぜ、パッと。
お前だって、沢木とこっそり―」
「花火大会もいいけど、それよりインターハイ、だろ？」
釘を刺すように朔哉が言うと、司も渋々、というように答えた。
「はいはい、わかりましたよ」
とはいえ、朔哉も、実際にその花火を、萌子と見れたら、とは考えていた。
屋上から見える海に打ちあがる花火は、さぞかし綺麗なことだろう。
ぷいっと顔を逸らした司をよそに、俊平が言う。
「だけどさ、今回のインターも、くじ運よかったよな。順調に行けば、ベストエイトまでいけるだろ」
実際、強豪といわれる帝王や邦南たちは、反対のブロックに固まっているのだ。そのくじ引きをしたのも、キャプテンである朔哉だった。
「最近、絶好調だからな、朔哉サンは」
厭味な言い方に、先に反応したのは俊平だった。
「どういう意味？」
「あれ？聞いてないの、俊平。こいつってば、ついに沢木と―」
「司っっ」
思わず大声で朔哉が怒鳴る。
話してなんかないのに、と思うと、目の前で司が舌を出しながら笑っていた。
「…っ」
鎌、かけたのかよ。
司はニヤニヤと笑って言った。
「楽しいなぁ、朔哉」
「俺は全くもって、楽しくないけど」
そう答えて、朔哉は窓辺に佇んだ。
強い風が頬にあたり、朔哉はふいに昼間の石橋の話を思い出した。
そういえば、司はプロ志望だった。
「…司」
真剣な声でそういうと、
「俺のなら、やるぜ」
と司が答える。え？と思って朔哉は振り返った。
「やるって何を？」
次の瞬間、財布から出したそれを見て、思わず朔哉は顔を赤らめて怒鳴った。
「司っ！…合宿中に何持ってきてんだよっ」
「だって、若い男女が、一つ屋根の下ですから。余裕あるから、お前にもやるよ」
「そうじゃないっ。
…前に行ってた、将来プロになりたいって、あれ、今も変わってないか？」
突然真面目な話になって、司はえ？と驚いてから頷いた。
「ああ。勿論。お前は？大学行くって行ってたけど」
確かにそう思っていた。
プロには大学に入ってからでもなれると。
けれど、ドイツにいった光一のことが、朔哉の頭の中から離れなかった。
朔哉が黙っていると、司がいつになく真剣に答えた。
「俺だったら、行くぞ。どんなに厳しい世界でも。俺の夢だったから」
消灯まであと十五分となっていたけれど、朔哉は渡り廊下のところまで出向いていた。
この先の校舎には、萌子がいる。
だが、当然ながら、この先は男子禁制なのだ。
どうしたらいいんだろうかと悩んでいると、ふいに声をかけられた。
「福山君？どうしたの」
「田所…いや、ちょっと」
目の前を通りかかったのは、女子テニス部キャプテンの田所直子だった。
同じ運動部のキャプテン同士で、一年のとき同じクラスだったこともあり、二人は顔を合わせば、それなりに会話する関係だった。
「もしかして、彼女待ってるの？」
「いや別に、約束してるわけじゃないんだ」
「…待ち伏せ？」
朔哉が気まずそうに頷くと、田所はくすっと笑った。
「インターハイも近いのに、余裕あるのね。福山君」
「それゆうなら、田所だってそうだろ。受験生なのに、合宿に参加するなんて」
ほとんどの運動部の三年生がインターハイを最後に、引退をしているのだ。朔哉の言葉に田所は自嘲的に微笑みながら答えた。
「荒谷っていう二年生が、インターハイに出れることになったから。その相手してるだけよ」
田所もなかなか強い選手で、昨年はインターハイにも出場したのだが、今年は予選で敗退していた。
「残念だったな。インター」
「去年はまぐれだったってことよ」
田所はさらりとそういうと、ふいに思いついたように笑顔を見せた。
「待ってて」
「え？」
「呼んできて上げる」
そういって階段を上る田所の背中に、朔哉は思わず声をかけた。
「ああ。あ、名前―」
「知ってる。有名だもの。福山君の彼女」
そう答えると、田所はぽかんとしている朔哉を置いて、階段を颯爽と昇って行った。
消灯時間まであとわずかだった。
三人で川の字に布団を並べたところで、萌子はすでにへそを曲げて布団に潜り込んでいる理香に言った。
「理香、まだ気にしてるの？さっきのこと」
「さっきって？」
何も知らない美都が尋ねる。
「篤志が、テニス部の子と話し込んでたらしいのよ」
そう美都に説明をすると、萌子は再び理香に向き直って言った。
「大丈夫だってば」
すると、突然理香が布団を払って、起き上がった。
「どうして萌子が大丈夫って言えるの？」
「理香―」
萌子がそういうものの、理香はだって、と話を続けた。
「萌子は、萌子は付き合ってるのが朔哉さんだから、大丈夫って思うんだよ。朔哉さん、萌子のことすごく大事にしてるし、優しいし、かっこいいし、誠実だもん。理想の恋人じゃん」
「篤志だって、優しいじゃない」
「アッチは女の子に弱いだけなの。面食いだし、斉藤さん、可愛いし。それに…とにかく、朔哉さんみたく、できた人じゃないもの。萌子と付き合うって決めたときに、今までの女友達整理までして…。羨ましすぎる。悩みのない萌子には、わかんないよ」
確かに、朔哉はできた人だと萌子も思う。
理想の恋人、というのもわかる。
だからと言って、萌子に何も悩みがないわけではないのだ。
ため息をついたところで、フォローなのか、美都も口を開いた。
「理香の言いたいこと、あたしわかるよ。
だって、いくら付き合ってても、不安だもん。他の人好きにならないなんて保証ないし。和美君が、他の誰かと少しでも話してると、不安で仕方ないもの」
「美都…」
どことなく暗い雰囲気になり、萌子が小さくため息をついていると、いきなりコンコンとドアがノックされた。
見回りの教師かと、思わず姿勢を正すと、顔を出したのは、隣の女子テニス部のキャプテンだった。
「沢木さん、いる？」
「はい」
名前を呼ばれて、萌子は立ち上がり、入り口まで行くと、耳元で、
「昇降口で、福山君、待ってるって」
と囁かれた。
「え？」
驚いて思わずそう尋ねると、
「伝言、伝えたから」
と言い残して、女子テニス部キャプテンは、隣の教室へと向って行った。
消灯時間まであと少し、というところで、いきなり山田が教室中に響き渡る声で宣言した。
「決めたっ、俺、この合宿で決める」
「決めるって何を？」
園部が面倒臭そうに尋ねる。
「告白」
「って誰に？」
「斉藤友紀子。テニス部なんだけど、すっげー可愛いんだ。優しいし、さっきも俺にご飯持ってきてくれてさ」
「それは当番だからだろ」
しかし、ケンの冷たい突込みにも、山田は屈しなかった。
「いーんだよっ」
「っつーか、無理だろ。だって、斉藤って人気あんじゃん？」
「いーんだよっ。一応、彼氏いないって話しだし」
「止めといた方がいいとおもうけどな」
珍しく、そこまで黙って聞いていた篤志が、淡々と口を開いた。
山田がムッとしたように言い返す。
「そんなこといって、アッチ。斉藤に目ぇつけてんだろ。さっき話し込んでるの見たぜ」
「そんなんじゃないっつーの。姉ちゃんの客なんだって、斉藤って。それで、ちょっと話しかけられただけ」
「それって、もしかして斉藤がアッチ狙いってこと？！」
「まさか」
そんなことないって、とだけ答えると、篤志はそのまま布団に潜り込んだ。残された山田は、というと、頭を抱えている状況だ。
小池がいるわけだから、篤志には関係ない、と思う成だったが、いつもと違う篤志の行動に、少し疑問も感じていた。
「どうしたの？」
昇降口で佇む朔哉を見つけ、萌子は駆け寄りそう尋ねた。
朔哉は、いくらか言葉を詰まらせながら答えた。
「いや…会いたくなって。そうしたら、田所に会って」
「田所さんって、あの女子テニス部のキャプテン？」
「一年のとき、同じクラスだったんだ」
そう答えると、すぅっと朔哉は息を吸った。
純粋に、萌子の意見を聞いてみたかった。
「実は、ちょっと話したいことがあって―」
「福山？それから、沢木か」
突然ライトを顔に照らされ、朔哉も萌子も眩しさに目をひそめてから、その先に見えた姿に声をあげた。
「監督」
ジャージ姿の石橋だ。
「そろそろ消灯時間だぞ。もう教室に戻れ」
明日も朝から厳しい練習が控えている。
はい、と萌子は答えて、階段を二・三段上がったところで振り返って言った。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
軽く手を上げて朔哉はそう答えると、小さくため息をついた。
まあ、明日でもいいか。
これから五日間は、それこそ同じ屋根の下なのだから、と。