Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月10
おはよう。どうだった？
由太がグランドに現れたのを見て、そう話しかけようとした萌子だったが、ふいに自分を見つけた由太が視線を逸らすことに気づいて、挙げようとしていた手をそのままで止める。
由太？
拳を握りしめながら、萌子はそっと自分の胸にそれを下す。
俯いて駆け出そうとした由太が、ふと自分の足元に転がる小石に気づき、荒々しく蹴り上げる姿を見て、萌子の不安は更に増しながらも、グランドの中に入っていく由太の、どこか苛立った背中を見ていた。
昨日、お父さんと会えたのかしら。
それで何かあったの？
萌子がじっとその背中を見てると、ふいに後ろから清々しい声が聞こえてきた。
「おはよ、萌子」
「ああ、成。おはよ」
実のところ、最近成とはあまり話をしていない。お互い避けているという感じではないのだが、クラスも離れ、部活でも特に絡むことがないと、おしゃべりでもない成と話す機会はあまりない。
だけど、成。何だか、いつもより元気かも。
由太とは対照的に、弾むようにしてグランドに向う成の背中を見ながら、萌子はそう思う。
何か、いいことあったのかしら。
すると、目の前にコロコロとボールが転がってきた。
駆け寄ってきたのは、ケンだ。
「わりぃ、萌子。蹴ってくれ」
萌子の蹴ったボールは、弱弱しく、それでもきちんとケンの足元へと届いた。
「サンキュ」
ケンはそう答えて、グランドに戻りかけたところで、ああそういえば、と大きな声を出して、振り返った。
「な、萌子。木原って知ってる？」
「キハラ？」
考えてみたものの、思い当たる人はいない。
そんな萌子の様子を見て、ケンは納得して何度も頷いた。
「だよなぁ。やっぱり」
「え？」
「いや、何でもない」
それだけいうと、ケンはさっさとグランドに戻っていく。
今日も午後から雨という予報が出ていた。
週末の二戦目まで、日がないから、朝練とは言えど、貴重な時間なのだ。
そうよね。皆、練習に集中しなきゃ。
そう思う萌子だったが、それでもやはり、目は由太を追いかけていた。
昇降口で、一人靴に履き替えながら、好実はこの前の湊の言葉を思い出していた。
『彼女が笑ってくれてれば、その日一日が輝いて見えるんだ。
逃げ出したくなったことも、あったよ。でも。
彼女は、そこにいて、俺もここにいる。
和美がいて、微笑む彼女がいて。
それでいて、幸せになれる自分がいる。
だったら、それを受け止めようと思ったんだ』
あれは、そのまま自分にも当てはまる。
湊君が笑ってくれてれば、その日一日が幸せだったと思える。
でも、湊君はシーナが好き。
シーナがいて、笑ってる湊君がいて、
そんな湊君を見た時のあたしは、悔しいけど、やっぱり嬉しいと思った。
まだ、悔しいけど、シーナなんかいなきゃいいのにって、少しだけどやっぱり思うけど。
だけど、あたしもいつかはそれでもいいから、湊君を好きだって思えるのかな。
それが、大人になるってことなのかな。
大人になったら、そうやって、悲しいことも全部、受け止められるようになるのかな。
そう思ったところで、ふいに好実は由太のことを思い出した。
由太がずぶ濡れになって帰って来たのは、昨日のことだ。
今日は雨が降るから、練習もないし、家に帰っているよう、朝家を出る前に言われた好実は、だから由太がずぶ濡れになって帰って来たことにびっくりした。
忘れ物など絶対しない由太だ。雨が降ることがわかっていて、傘を忘れるはずもない。
だが、由太は濡れて帰ってきて、そのまま部屋に閉じこもってしまった。
「お兄ちゃん？どうしたの？」
という好実の声にも返事もしてくれなかった。
それは、母親に対しても同じで、由太は昨日から何もしゃべってくれない。
試合に負けたときでも、家ではいつもと変わらぬ態度を貫いていた由太だから、好実は驚いていた。
…お兄ちゃんも。
辛くて、悲しいこと、あったってことなのかな。
お兄ちゃんも、まだ大人になってないってことなのかな。
そう思うと、好実は遠い存在だった由太が、身近に思えて少し嬉しく思った。
校舎を出ると、霧のような雨が降り始めていた。
好実が用意した傘をさし、校門を出ようとしたところで、見覚えのあるスーツ姿の男性が近づいてくる。傘で顔が隠れていたけれど、見間違うはずもなかった。
「お父さん？」
好実がそういうと、久しぶりに顔を合わせた父親は傘を持ち上げて、ひきつったような笑いを浮かべた。
「話がある」
父はそう言うと、そのまま好実を学校の近くのファミリーレストランに連れて行った。
何でも食べていいというから、好実は素直にストロベリーパフェを頼む。前だったら、そんなに甘いものを、と顔をしかめられていたものの、今日の父は何も言わずに自分のコーヒーとあわせてそれを頼んでくれた。
話があると言ったのは父だったはずなのに、だが父はずっと黙り込んだまま、じっとパフェを食べる好実を見ている。途中交わした会話といえば、おいしいか？と聞かれたから、おいしいよ、と返した、ただそれだけだったし、好実としても父の話を聞くのが怖かった。
自然と食べるのも早くなり、ようやく食べ終わったところで、好実がジュースを飲んでいると、ふいに父が尋ねてきた。
「好実は、私と母さんと、どっちと暮らしたいんだ」
突然の質問だった。
けれど、答えは好実の中にはすでにあった。だが、それを口にしていいのか悩んでいると、ふっと自分を見つめる父の視線が和らいだ。
「…そうか、わかった。
実は、札幌に行くことになった」
「旅行？」
好実がそう尋ねると、父はいいやと答えた。
「転勤だ。向こうで暮らす。
だから、今の家には、母さんと由太と、お前と三人で暮らしてくれ」
あまりにも突然の展開に、好実は瞬きを繰り返し、尋ねた。
「ほんと？」
「ああ」
そう言って僅かに笑う父の表情は、何だかとても寂しそうで、好実は、ありがとうともいえずに、黙り込んだ。
しばらくその状態が続いてから、父は店を出ようと言い、一人立ち上がって先に歩き出した。
支払いを済ませ、外に出ると、雨が本格的に降りはじめていた。だが、その雨を見ても、好実が憂鬱になることはもうなかった。
「好実」
「なぁに？」
別れ際に引き止められて、好実は返事をする。
父は畏まっていた。そんな父を見るのは、初めてだった。
「…たまに東京に来ることがあれば、一緒に食事でもいってくれるか？」
「いいよ。お父さん」
好実がにこっと笑うと、父もつられてほっと安心したように笑顔を浮かべた。
練習が始まった頃は緩やかだった雨も、時間が経つにつれ激しくなり、練習も中止せざるをえなくなった。
グランドから部室へと引き上げる部員にタオルを渡す中で、萌子は由太を見つけてかけよった。
「ね、由太」
その声に、由太が僅かに振り返る。萌子はタオルを差し出しながら、周りに聞こえないように尋ねた。
「昨日、お父さんと会えたの？それとも何か別のことが―」
「親父とは会った。話もした」
まるでいつもの口調だった。必要なだけの言葉。低く、淡々と語られるその声は、いつもと同じはずなのに、由太は萌子の顔を見ようともしなかった。タオルで顔を拭いているその姿が何故かぎこちなく思える。
「それじゃ―」
言葉を続ける前に、萌子の前に由太のタオルが突き出される。萌子が口を開こうとする前に、由太がそれを遮った。
「何も変わらなかった。そういうことだ」
「由太―」
引きとめようとする萌子を無視して、由太は部室へと入って行った。
由太は苛立った気持ちのまま、着替えていた。
苛立っている。
鬱陶しい雨にも、
言いたいことだけ言った父にも、
心配してる萌子に、厭味を言うしかできない自分にも。
そう。
確かに父と話すことを勧めたのは萌子だ。
萌子は何かが変わると言っただけ。
確かに変わった。
そう、俺は、絶対に父のような男にはならない。
そう決めることができた。
けれど…。
畜生。
そう心の中で叫ぶことはできるのだが、いくらやっても、心は晴れない。
口に出せれば、少しは気も晴れるのかもしれないが、それも自分には出来ないし、すべきじゃないと思う。
人の上に立つというのは、その人よりも優れてなければならない。
弱みなど、見せたら最後。誰も、自分の指示を受けなくなる。
『無理はするな』
ふいに父の言葉が頭を過ぎる。
無理をするな、だと。
ふざけるな。
そうやって自分に何かを課して、それが果すことができて、初めて自分の価値があるんじゃないのか。
それなのに、無理をするな、だと。
自分の犯した罪を、そうやって正当化するつもりなのか。
そうやって、自分は間違っていないんだとでもいうつもりなのか。
何かを無性に殴りつけたいほどの衝動に駆られながらも、それを必死で耐えていると、ふいに部室のドアがノックされ、怒鳴りつけるほどの理香の大声が聞こえた。
「由太チャン、好実ちゃん来てるよ」
その言葉に、他の部員たちが反応する。
「コノミちゃんって、高岡の彼女？」
「違いますよ、彼女は佐々木亜紀子でしょう」
「えっ。じゃ、なに高岡ってば、二股かよ」
そう言った山田を思わず由太はジロリと睨んだ。その迫力に、思わず山田は顔を引きつらせる。慌てて篤志がその間に入った。
「好実ちゃんは由太の妹だよ」
なんだという声が部室中に響く。
由太はそんな空気が嫌になり、急いで着替え、お疲れ様と言いながら部室を出た。すると、すごい勢いで、好実が由太の前に走って来た。
「お兄ちゃんっ、聞いて聞いて、あのねっ、お父さんがねっ、い―」
由太は慌てて好実の口を押えると、興味津々の視線が飛んでくる部室のドアを閉めた。それから、好実を無理やり引っ張って、人気のない裏門を出たところまで連れて行った。
雨は本格的に降り始めていたが、傘を取りに戻る余裕はなく、由太は小さな好実の傘に入るようにして、戸惑っている好実を睨みつけるとしずかに怒鳴った。
「家の事を人前で大声で言うな」
おまけに言うなら、勝手に人の部活に入り込んでくるな。
そう言ってやりたかった由太だが、好実の言葉を聞いて、思わず言葉を詰まらせた。
「だってね、あのね、お父さんが、あのマンションで三人で暮らしても良いって」
一瞬、昨日のあの父の顔が思い浮かんだ。
「嘘、だろ」
一緒に暮らしたくないとは言った。自分も、好実も。
でも、だからと言って、あれだけ暴言を吐いたのだ。プライドの高い父が、すんなりこちらの願いを受け取ってくれるようには思えなかった。
「嘘じゃないよ。あのね、お父さん、転勤するんだって、札幌に」
「札幌？」
それ以上の言葉を無くした由太に対し、好実は無邪気に喜び続ける。
「やったね、お兄ちゃんっ、お兄ちゃんもサッカー続けられるよっ、お兄ちゃん？」
学校に戻ろうとする由太に気づき、好実は呼び止めた。だが、由太はかるく振り返ると、
「悪い。ちょっと、用事あるから。先に帰ってくれ」
とだけ言い、踵を返し、部室に向った。
振り続ける雨の為に、足元には水溜りが出来ていた。
空からの雨で、制服も濡れはじめていた。
けれど、それも気にせず、由太は部室に向っていた。
話さなければならないと思った。
礼を言わねばならないと。
そして、何より、話したいと思った。
萌子に。
その頃、朔哉と萌子は海辺を歩いていた。
帰りに海辺を歩こうという朔哉の話を聞きつけた理香たちが、マネージャーの仕事はもういいからと、気を遣って先に帰してくれたのだ。
本格的に雨が降っている為なのか、海沿いの道には、他に誰も歩いていなかった。
「ごめん、風が強くて」
加えて、海風がまともにあたる。
学校の前の横断歩道を渡り、ほどなくして朔哉は足を止めてそう言った。
「ただ。見たかったんだ。誰もいない海を」
確かに朔哉の言うとおりで、海辺には誰もいない。
そう言って黙り込む朔哉の隣で、萌子はその横顔を見つめていた。
僅かに目をひそめるようにして、朔哉はじっと雨にうたれる海を見ている。
何を思ってるんだろう、朔哉さんは。
萌子もそう思い、じっと朔哉を見つめていた。
ふいに風がやみ、あたりはしっとりとふる雨音と、波の音に包まれる。
「あ」
思わず萌子がそう言うと、朔哉もそれに気づいて答えた。
「夕凪だ」
夕凪、と呟いた萌子はふいに成の言葉を思い出した。
『夕方に一瞬だけ、海風が止むときがあるんだ』
そう、あの時も。
この世界の時間が、まるで止まっているようだった。
『このまま、時が止まってくれたらな』
突然に目の前が、夕陽に包まれ、記憶が、自然と頭の中で再生し始める。
「萌子？どうかした？」
ふいに朔哉に話しかけられ、その瞬間に萌子の視界には、雨に打たれる海と、その音が戻ってきた。
何だろう、今の感覚。
まるで、裸足で砂浜に立ち、波が足元をさらっていく、あの感覚に似ていた。
連れて行こうとするような。
何かを思い起こさせようとするような。
だけど、そっちに行っちゃいけない、思い出したらいけないって気がするの。
「何でも、ない」
戸惑いながら萌子はそう答える。すると、突風が二人を襲った。
萌子の傘が思わず飛びそうになり、朔哉も慌てて手を伸ばして、それを掴む。
自然と、萌子の手に朔哉の手が重なって、二人は一つの傘の下に、体を寄せ合っていた。萌子が顔を上げると、すぐ目の前には朔哉の顔がある。
目があったその瞬間。
唇に、柔らかいものが、そっと触れる。
けれど、それはほんの一瞬の出来事で、萌子がそれがキスだということに気づいた時には、すでに朔哉は萌子から体を離していた。カシャ、と小さな音を立てて、朔哉の傘が力なく朔哉の手から地面に落ちる。そうして傘は、そのまま飛ばされて行った。
「ごめん」
朔哉がふっと視線を落としてそう答える。朔哉は萌子の傘から、逃れるようにして、雨に濡れている。捨てられた犬のようだと萌子は思った。
萌子は、一歩前に出て、傘を傾けると、その中に朔哉を入れた。
「…どうして、謝るの？」
対等でありたいと、そう思った気持ちは変わらない。
だって、私は、朔哉さんと付き合っているんだから。
すると朔哉は、ハッとして顔を上げると、濡れて頬にかかっていた髪をかきあげてから、
「萌子」
と名前を呼んだ。
「はい」
萌子が答えると、今度は視線を逸らすことなく、朔哉は答えた。
「目、瞑って。さっきより、長く」
萌子がその意味を問う前に、朔哉は萌子の腰に右手を回して、体を抱き寄せると、萌子が目を瞑るより早く、唇を重ねていた。先ほどのそよ風が軽く触れたよ うなキスとは違い、ともすれば歯がぶつかり合うほどの情熱的なキスに、萌子は傘を掴む手から力を奪われた。ゆっくりと傾き始めた傘を、朔哉の左手が掴ん で、ゆっくりと天にかざす。
その間中は、雨も、風も、車の音も、萌子が感じることはなかった。
長いキスの後、朔哉はそのまま傘を萌子から奪うと、呆然としている萌子を抱きしめた。
小さくついたため息が、雨の音と共に、萌子に届き、それから吐息混じりに、朔哉が言った。
「送ってく」
弾んでいたはずの息が、いつの間にか落ち着いていた。
逆に鼓動は痛いほどに弾んでいる。
降り注ぐ雨に濡れ、髪も制服も、纏わりついているというのに、由太は喪失感に似た気持ちを感じていた。
目の前の出来事は、いたって日常の一部にしか過ぎない。
つきあっている二人が、キスをする。
自分だって経験がある。
至極普通の出来事だ。
だが、それを素直に受け取れない自分がいた。
そんな自分に、由太は驚いていた。
ほんの一瞬だった。
萌子が傾けた傘の向こうから、キスしている二人が見えただけ、というのに。
その一瞬に、戸惑った自分とは反対に、目の前の二人は抱き合い、そうして腕を組みながら、仲良く相合傘で海沿いの道を駅に向って進んでいく。
知っている。
萌子が福山さんと付き合っていること。
わかっている。
十分に、わかっている。
けれど…。
由太は拳を握りしめると、その先の言葉を振り切るようにして、萌子たちとは逆の方向に歩き始めた。
萌子を探していた由太が、海に行ったのは偶然ではなかったが、亜紀子がそこに通りかかったのは、偶然だった。
一緒に帰りたいとは思っていたけれど、このところの由太は今までにない苛立ちを抱えているのがわかるから、亜紀子としても、そんな由太に部活が早く終わったから一緒に帰ろうなどとは言えずにいた。
だからこそ、偶然でも、雨の中を走る由太を見かけたときは、ラッキーだと思った。
「先輩」
傘を持っていないのだから、校舎に取りに戻るのかもしれない。
弾んだ声で、呼びかけようとしたその時に、いきなり由太は歩き始めた。
しかも、駅とは逆の方向だ。
先輩？
不安を覚える亜紀子の視界に映ったのは、体を寄せ合い、一つの傘に入る萌子と朔哉だった。
先輩…？
亜紀子はゆっくりと、傘も差さずに走っていく由太の背中を、もう一度見つめた。
翌日、萌子がベンチからグランドを眺めていると、由太がふいに現れて、唐突に今の家で、母と好実と住むことになったと告げた。
「…それじゃ、お父さんとお母さんは―」
「それは別だ」
由太はさらりとそう答える。思わず萌子は言葉を詰まらせると、
「そうなった方が、いい。俺と、好実の為にも」
と、同じ口調で答えた。だけど、そこにも微か苛立ちを感じ、萌子は僅かに肩を落としたものの、気を取り直すように明るく言った。
「由太、転校しなくても？」
「ああ」
「よかった」
萌子が肩をほっと撫で下ろすと、由太がぽつりと呟いた。
「ありがとう」
「え？」
「お前のお陰だ。
お前が、親父にあった方がいいって言ってくれたから」
「そんなことないよ。だって、実際にお父さんと話したのは、由太なんだから」
萌子は笑顔でいるものの、由太の表情は何故か晴れない。
…そう、だよね。
だって、それでも。お父さんとお母さんは離婚をするわけだから。
「頑張らなきゃね。試合」
そういいながら萌子は由太の横顔を見つめると、あれ？と首を傾げた。
「ねえ。由太、顔赤くない？もしかして、風邪引いたの？」
額に手を伸ばすと、由太が必要以上に体を引いて、萌子を凝視する。
由太？
けれど、その答えを求める前に、別の声が聞こえてきた。
「萌子」
朔哉だ。
朔哉は流れてくる汗を拭いながら、萌子の前にやってきた。
その瞬間、由太がすっとベンチから腰を上げる。
「絆創膏くれないか…あれ？高岡？
話してたんじゃないのか？」
無言のままにグランドに向う由太の背中を一瞬見つめて、朔哉はそう萌子に尋ねる。
「うん。まあ。…でも、もう終わったから」
「そうか」
けれど萌子は、一瞬でも自分を拒絶した由太の顔が、再び頭を過ぎり、自分の行為が由太のプライドをまた傷つけてしまったのかもしれない、と後悔をしていた。
その週末も試合だった。
試合前のグランドで、黄色い悲鳴を聞きながら、試合直前の練習で、右京はグランドの片隅にいる紗依を見つけて、一瞬動きを止める。
「どうかした？右京」
右京からボールが来ないことに気づいた知朗が、そう尋ねる。
すると何でもない、というように強めのボールが、すぐに知朗の足元に飛んでくる。
「何だよ。自分にとって初戦だからって、力みすぎんなってーの」
笛が鳴り、選手たちはグランドを引き上げることになった。
試合前の軽いミーティングも終わった所で、ふいに知朗が湊に言った。
「なんだ、それ。湊」
湊が手にしているのは、サッカーボールを形どったフェルトで出来た小さなキーホルダーのようなものだった。
仕舞いかけていた鞄から、それを取り出して、湊は知朗に見せる。
「なんか、お守りだって。好実ちゃんが」
「愛されてるなぁ、お前」
ケンがそう言って湊の手から御守をかかれたそれを奪う。
「っていうか律儀すぎ。ちゃんと持ってるところが」
「優しすぎるよな、湊ってば」
部員たちの声に、ハハハと笑い返して、湊はその御守を鞄に仕舞う。
「これ持ってたら、インターハイに出れるんだって」
「そんな簡単に行けるかっつーの―っとぉ」
ケンが思い切り厭味っぽくいうと、部屋の隅にいた由太がジロリと自分を睨むのを感じ、ケンは慌てて口を閉ざした。由太としては、応援する気も、叶うと思っている気もないのだが、それでも自分の妹を馬鹿にされると、気分が悪く。
「そろそろ、時間だ。行くぞ」
ちょうどいいタイミングで朔哉がそう声をかけた。
掛け声と共に、選手たちは次々と控え室を出て行く。
気の張った選手たちを、萌子はドアのところから声をかけながら送り出していた。
どの顔も、程よく高揚している。
最後に萌子の前を通ったのは、成だった。
「頑張ってね」
「ああ。萌子も」
「え？」
驚く萌子に、成はにっこりと余裕の笑みを見せると、
「萌子も、応援してくれよ」
と答える。戸惑いながらも、萌子も答えた。
「…うん」
すると、成はじゃあ、と手を大きく挙げて、そのまま走って行った。
『応援してくれよ』
誰を？
凪高を？
それとも、…成のことを？
萌子は、光の中に消えていく成の背中を、じっと見つめていた。
その試合も、四対０という結果で、凪浜高校は勝利を収める。
その次も、その次も。
途中、諏訪学園や箕輪高校が敗退していく中で、凪浜は、無失点で試合に勝ち続けた。
結果、準決勝に顔を揃えたのは、清海大付属、川城、相模西、そして凪浜になっていた。
それは、ここ数年続いていた四強体制が終わりを告げた証拠でもあった。その中で、凪浜は、清海大付属、続いて相模西を倒し、インターハイの出場を決める。
多種多様な攻めに、ゾーンディフェンスでの鉄壁の守り。統率の取れた動き。
凪高は、インターハイの優勝候補の一角として、躍り出たのだった。