Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月9
遠ざかっていくランドセルを見て、一瞬追いかけようかと思った湊だったが、すぐに好実には帰る場所があるのだと思い返した。この前の試合にも、好実は母親と一緒に来ていた。手をつなぐ二人を見て、湊は実家にいる母と妹を思い出したのだ。
それよりも、椎名。
湊は美都が駆けていった方向を見つめた。グランドでは、特別練習までの空き時間となり、一年生たちが楽しそうにボールを蹴りだしている。
海…？
湊は勘に任せて、海へと向った。
久しぶりの晴れの天気だった。赤い夕陽がその円を少しだけ海に浸かるようにして、空に浮かんでいる。
黄金色に輝いている海を目の前にして、湊は美都を探していた。
名を呼ぼうかと思ったところで、ふと聞き覚えのある声が下から聞こえてきた。
「ったく、いい加減泣き止めよ」
「ごっ、ごめんっ」
思わず湊は堤防からその下の砂地を見下ろす。
そこにはまだジャージ姿で、タオルを肩にかけた和美と、その脇でしゃがんでいる美都がいた。肩の震えからも、美都が泣いているのがわかる。
「ったく、ガキに本当のこと言われたくらいで、泣いてんじゃねぇよ。だいたい、膝ならまだマシな方で、この前の肘のテーピングの巻き方正直最悪だった」
あまりの言い方に、思わず湊は声を上げそうになったが、その前に、和美が更に続けて言った。
「悔しかったら、最高のマネージャーって胸張れるようになれよ」
「…でも」
「でもも、糞もねぇよ。言っとくけどな、俺から見ても、お前はまだまだだ。まだまだだけど、いや、だからこそ。頑張れるんだろう」
湊はぐっと息を飲む。
下では、美都が溢れかえる涙を隠しもせず、和美を見上げていた。
「…和美くん…」
「だーかーらっ、泣くなっつーの!!」
そう言って和美は、肩にかけていたタオルを美都の頭にかぶせる。
「っつーか、あと五分したら練習始まっからな、そうしたら、お前のこと置いてくぞ」
「わっわかっ…」
「何泣き出してんだよっ」
「だって、和美くん。優しいから…」
「バカッ、ふざけんなっ」
掛け合い漫才のようだった。
面白い、ということではなく、お互いに相手のことを思いやっているのがわかる、そんな二人だった。
湊は体を起こすと、すぅっと息を空に吐き出し、僅かに微笑むと、一人グランドへと戻り始めた。
特別練習が始まろうとしていた。
「由太、ごめん」
由太がボールを蹴りながらグランドの中に入ろうとすると、湊が声をかけてきた。
「好実ちゃんだっけ？妹さん。今日帰ったら、俺が謝ってたって伝えておいてもらえるかな」
そう言って湊は頭を下げた。
何を謝るんだ？と思う一方で、由太の中に別の疑問が強く浮かび上がった。
「あいつ来てたのか？」
確かに、ここ毎日のように、好実は凪高の練習を見にきては、由太と一緒に帰っていたのだ。
よく考えてみれば、今日も晴れているというのに、例のランドセル姿はフェンス越しに見えることはなかった。
「あ、うん。来てたんだけど…ごめん、俺。彼女を傷つけたみたいで、話してる途中で、学校出て行かれてさ」
由太はジロリと湊の顔を見て聞き返した。
「いつ頃？」
「通常の練習が終わった頃」
とすれば、ついさっきのことだ。
由太はふいにボールを蹴るのを止めると、そのままボールをやってきた篤志にパスをし、グランドを出て行こうとした。
「どうかした？由太」
その形相が厳しいことに、湊が尋ねたものの、由太はそれを無視して聞き返してきた。
「あいつ、どっち方向に出て行った？」
「わからないけど、正門側から―あっ」
湊の言葉を最後まで聞かずに、由太はスタスタとグランドの外に向った。
これから、という時に出て行く由太に気づいた萌子が、そのまま由太に話しかけた。
「由太？練習始まるけど、どうしたの？」
「好実が消えた？」
「え？消えたって？」
そこに心配して由太を追いかけてきた湊が加わる。
「家に帰ったんじゃないのか？」
由太はベンチにおいてあった自分のタオルを無造作に取り上げながら答えた。
「あいつに一人で帰れる場所なんかないんだ。今」
その言葉に驚いた萌子に、由太は間髪入れずに話し続けた。
「悪いが特別練習、休ませてもらうから。そう福山さんに伝えてくれ」
由太はそう言って、足早に正門に向って走り出したところで、萌子も慌てて追いかけていう。
「待ってっ。私も探す」
続けて、湊も言った。
「俺も」
「じゃ、あたしも」
「理香？」
萌子たちの後ろで、理香はにこっとわらった。
「人探しなら、人数多いほうがいいでしょう？大丈夫。マネージャーなら美都もいるし、特別練習は人数少ないから、一人でも何とかなるわよ。
それに最近、変質者多いっていうじゃない。あたしも好実ちゃんのこと心配だし」
思わず萌子と湊が顔を見合わせたところで、グランドから成が声を駆けながら現れた。
「おーい。萌子、お願いが…。どうしたの？みんなして」
一人きょとんとしている成の腕を、理香がむんずと掴んで言う。
「成くんも来てよっ。ほらっ」
「え？」
とりあえず正門の前に来たところで理香が言った。
「それじゃ、由太チャンと萌子は、海側ね。あたしたちは、山側探すから」
「うん」
そうして萌子は由太と坂を下り、理香は湊と成と一緒に、坂を上るため、分かれた。
海に続く道を歩きながら、萌子は先を急ぐ由太の背中に話しかけた。
「ね。由太。どういうこと？
好実ちゃん、一人で帰れる場所がないって」
一瞬だけ、由太が足を止めた。けれど、萌子が追いつく前に、由太は再び早足で歩きながら萌子に答えた。
「親が、離婚することになった。
原因は親父の浮気だ。
二十代の同じ会社のＯＬ。親父はクリスマスに、その女の為に高い指輪までプレゼントしてやってる。
結局、左遷のこともお袋にばれて、親父は家を出て行って、お袋も働き始めた。
それが三ヶ月くらい前。
先週、離婚が決定的になった。
俺か好実か、どちらかが父に付いていかなければならない。
どちらもそれを拒否するなら、俺たちは、お袋の実家に行かなければならない」
「…凪浜を出て行くって事？」
萌子の言葉に、突然、由太が足と止めた。
海から煽るような強い風が、由太の手にしたタオルを躍らせる。
その中で由太は、ゆっくりと、確かに頷いた。
理香も湊も、坂を上りながら、コノミちゃんっ、と誰かの名前を呼んでいた。
だが、突然引っ張り込まれた成には、それが誰なのか、どうしてその子を探す羽目になっているのか、全くわからずにただ後をついていた。
理香が小さくため息をついたタイミングを見計らって、聞いてみることにした。
「なあ小池。コノミちゃんって、誰？」
振り返りながら、理香は明らかに成を睨んだ。
「由太チャンの妹だよ、知らないの？成くん。ここ最近、よくフェンスのところに来てたじゃん」
「そう、だっけ？」
一応記憶を辿ってはみるものの、掠りもしなかった。
そんな成に理香は、苛立って叫ぶ。
「あーもう話にならないっ。とにかく赤いランドセルでおさげの女の子見つけたら、あたしに言って」
「了解…」
怒鳴られてシュンとした成を尻目に、先を歩く湊に理香は話しかけた。
「ねえねえ、好実ちゃん。湊君に何か言ってなかったの？」
「何かって？」
「うーん、例えば、彼女いますか？とか、好きな人いますか？とか」
「そういう話はしたことないけど」
「っていうか、湊君、彼女いるの？」
矢継ぎ早な理香の質問に、湊は戸惑い気味に答えた。
「いない、けど」
「じゃ、好きな人いるんだ」
湊は首を傾げた。
「どうして、理香は、彼女が俺にそういう話をするって思うの？」
すると理香も腕組みをして、うーんと言った。
「女の勘がね、言ってるわけよ。好実ちゃんの初恋の相手は、湊君だって。
それに、帰る場所がないっていったって、あれだけ毎日来てるのに、由太チャンとは全然話さないで、湊君とばかり話してるんだよ。好き以外の何物でもないよ」
答えに詰まったのは、湊の方だった。
「え…、でも彼女はまだ、小学生で…」
「小学五年生だって、立派に好きな人くらいいるでしょう。ね、成くんだって、そうじゃなかった？」
急に話がふられて、成は勢いで頷く。
「あ、うん」
「ほらね」
腰に手を当てて、理香は自慢げな表情を浮かべる。
確かに、理香の言っている通りだ。
彼女に好きな人がいたとしても、それはおかしなことではない。
だけど。
「だけど、俺―」
湊が口を開く前に、理香がそれを遮って言った。
「やっぱり。湊くん、好きな子いるんでしょう？」
ぽかんとしたのは成だった。
「いや、あの、小池、だから、その―」
だがそんな成の言葉を、今度は湊が遮って言った。
「いるよ」
理香の表情が一際真面目になった時、だけど、と湊は続けて言った。
「だけど、恋人がいる子だ」
萌子と由太は海へ出た。とりあえず、駅とは逆の方に歩き始める。
夕陽が海に反射して、目に痛かった。
海辺には、人がパラパラとやってきていた。
一人の人、カップルの人、家族連れ。様々だ。
だがそこに、好実の姿はなかった。
萌子は小さくため息をつく。このまま海辺を歩いて散策するにしても、距離がありすぎる。
手分けをした方がいいかもしれない。
そう思い、萌子は振り返って由太に向き合った。
「ね、私。駅の方に行くから、由太はこのまま―」
「お前は…お前の家は、どうやって？」
「え？」
唐突な話に、萌子は戸惑う。
由太は、顔を俯かせて答えた。
「…聞いた。別居してたって話」
売り言葉に買い言葉に近かったが、萌子がそう言ったのは一馬だけしかいなかった。
「うん…。確かにそうだったよ、私が中学生だった頃」
萌子はそう答えて捜索を始めようとするものの、由太の足は止まったままだった。
萌子も立ち止まり、そのまま由太を待つ。
海風が、萌子の髪を巻き上げていた。
ぴゅうっと音を立てる風の中で、由太が顔を上げて、萌子に尋ねた。
「どうやって、元に戻った？どうすればいい？俺は、どうすれば」
代わって顔を俯かせたのは、萌子だった。
「…わからない。うちの親は、勝手に別居して、勝手に元の鞘に戻ってたから。
わたしは何も、…できなかった」
小さなため息が由太の口から零れた。それを聞いた萌子は、顔を上げて由太に尋ねた。
「それより、由太はどうしたいの？」
正面切って聞かれるのは、初めてだ、と思いながら由太は答えた。
「好実が親父のことを嫌ってるんだ。それに、これから思春期にもなるし、だったら同性の親の元にいた方がいいだろう。それに、兄としては、好実の気持ちを優先してやるべきだと思う。
だけど、お袋からすれば、生活していく中で男手だって必要だろうし、何かと守ってやれると思うし―」
「でも、由太はどうしたいの？」
萌子が由太の言葉を遮ってそう尋ねた。
「由太がどうなりたいのか、それが一番大切だと思う。
叶うとか、叶わないとかじゃなくて、
長男とか、兄とかじゃなくて、由太自身の気持ち。
一番譲れないこと」
「俺は…」
そう考えて、答えは、ひとつしかなかった。
「ここでサッカーを続けたい。
皆と一緒に、国立に立ちたい」
小学生からの憧れだった青いユニホームを着て、石橋監督の元で。
そう口にした瞬間、ふっと肩が軽くなった気が由太はしていた。
「話してみたら、お父さんと」
「え？」
ふいに萌子がそういう。萌子は顔を夕陽に照らしながら、微笑んでいた。
「どうなるかはわからないけど、何かが変わると思う」
何かが変わる。
それは良いことなのだろうか。
それとも、悪いことなのだろうか。
「お前は、変わったのか」
由太がそう尋ねると、萌子はうん、と答えた。
「だけど、恋人がいる子だ」
湊がそういったのは、余計な詮索を止めさせるためだった。
ハッとした理香に、湊は今までにない勢いで言い切る。
「だから、悪いけど、これ以上―」
「もしかして、美都？」
「こっ。小池っ」
成が声を裏返していた。
湊は覚悟を決めて、頷いた。
「だからって、椎名に迷惑をかけたくないから、黙っていて欲しい。俺は、このままでいいから」
理香は小さく頷く。そうして、理香の声も、今までにない真剣な声に変わっていた。
「どうして湊君は、それでもいいって思えるの？」
驚いたように湊が理香を見つめると、僅かに理香の目には、涙が浮かんでいた。
「あたしはっ、あたしはアッチに気づいてもらいたい。知ってもらいたい。
あたしが、どれほどアッチのことを好きか。
それでもって、あたしと同じくらい、あたしのこともみてもらいたいってすごく思うのに」
「…臆病なんだよ。きっと俺。それにバカ」
湊はそう答えて、ふっと微笑んだ。
そう、バカなんだと思う。我ながら。
「彼女が笑ってくれてれば、その日一日が輝いて見えるんだ。
逃げ出したくなったことも、あったよ。でも。
彼女は、そこにいて、俺もここにいる。
和美がいて、微笑む彼女がいて。
それでいて、幸せになれる自分がいる。
だったら、それを受け止めようと思ったんだ」
そう語る湊を、恰好良いと、成は思った。
大人だと思った。
見習いたいと、思った。
「逃げたって始まらないし、
そういっても、いつか他の人を好きになるときも来るかもしれない。
だったら、それまで待つだけのことだ」
違うかな、と再び微笑んだ湊を見て、成は心底情けなくなった。
湊は全部受け入れてるっていうのに、俺は。
萌子からだけじゃない。
自分からも逃げてた。
俺は…。
成がそうじっと湊を見ていると、ふいに、その奥の公園に、緑の隙間から僅かだが、真っ赤なランドセルが見えた。
「あれ？あの、赤い鞄…」
成の指差す方向を、理香も慌てて追いかける。
「好実ちゃんっっ」
理香はそう叫ぶと、急いで公園の中に入っていった。
「ひどいこといって、すみませんでした」
勢いよく頭を下げられると、美都の目に赤いランドセルが映る。
理香が見つけた頃には、好実もひどく反省していた。
その証拠に、湊を見つけると、真っ先にごめんなさい、と謝ったのだ。湊はそれに対して、謝るべきは自分じゃない、と美都のところに好実を連れて行ったのだ。
ランドセルを背負うその小さな肩を、美都も優しく包んで答えた。
「いいの…あたしこそ、治療が下手でごめんね」
顔を上げた好実が、ぶるぶると左右に首を振る。
「でも、一生懸命やってくれてた。急いでってあたしが言ったから、慌ててやったから、それで―」
「いいのよ。本当のことだから。でも、次やるときは、もっときちんと手早くできるようにするから。膝でも、肘でも、どんと来い、よ！」
隣で理香がくすっと笑って言う。
「美都ってば。好実ちゃん、それじゃ傷だらけになっちゃうよ」
「あ、そっか、ごめんごめん」
くすくすと好実も笑い、場も和んだ。
用事は済んだとばかりに、由太は好実のランドセルを叩く。帰ろうということらしい。
「それじゃ」
先に学校を出て行こうとした由太を萌子は追いかけた。
「由太」
振り返った由太の表情が、いくらか安らかなことに気づく。萌子はすっと空を指して言った。
「明日、雨だって」
夕方は晴れていたというのに、夜空には星が見えないほどに雲が広がっていた。
「練習、休みになるわ。きっと」
萌子はそれだけ言った。
それ以上のことは、言わなくても、由太にはわかるはずだ。
すると、由太も、それに答えるように小さく頷いた。
「湊？寝た？」
暗闇の中で成がそう尋ねると、下から、
「いいや。まだだけど」
と湊の声がきこえてきた。消灯時間から、わずか十分が過ぎただけだった。下からは、寝返りを打つ衣擦れの音が聞こえてきた。
「あのさ…ありがと」
「ん？何が？」
少し眠いのか、湊の声がくぐもって聞こえた。
あのさ、と成は言ってから、息を吐きながら答えた。
「何ていうか、ふっきれた。俺」
暗闇に成の清々しい声が吸い込まれていく。
少ししてから、眠そうな湊の声が聞こえてきた。
「？そう…。よかったな」
それから一分も経たないで、湊の寝息が聞こえてくる。
ふっと息を吐き、成も寝返りをうった。
俺も、今夜はぐっすり眠れそうだ。
明日萌子に会ったら、一番に「おはよう」と言おう。そう心に決めて。
翌日、雨の放課後、掃除当番の萌子が教室の掃除をしていると、廊下を亜紀子が横切った。
「亜紀ちゃん」
思わずそう声をかけると、亜紀子は立ち止まって、萌子の方にやってきた。
「あの、今日の練習は？」
天気予報通りに、今日は朝からどしゃぶりの雨だった。
「今日はお休みになったの」
萌子がそう答えると、亜紀子は少し驚いた表情を見せてから、萌子に尋ねた。
「高岡先輩、どこに行ったか知りませんか？」
「由太？」
萌子の脳裏についさっき教室に現れた由太が過ぎった。
行ってくる、とだけ由太は言うと、足早に学校を出て行った。
だが萌子は、
「…ごめん、わからない」
と亜紀子には言わずにおくことにした。
由太の昨日の告白は、暗黙の了解で口外しないことになっている。
それに亜紀子に伝えるのであれば、それは由太の口からであるべきだ。萌子が伝えても、いらぬ心配をさせるだけなのだ。
「そう、ですか」
「大丈夫よ。亜紀子ちゃんが心配するようなことは、してないから由太は」
安心付けるように、萌子はそう言う。亜紀子もそれに同調するようにして、小さく頷いた。
「そう、だといいんですけど」
凪浜から、由太の父親の会社までは、電車で一時間程度だった。
授業が終わってからかけつければ、定時に会社を出なければならない父の帰宅時間にも間に合う。
雨の中、学ラン姿で現れた由太のことを、父は思ったほど驚いておらず、由太が言うより先に、近くの喫茶店に行かないか、と言ってきた。
雨のせいだから、それとも帰宅の時間だからだろうか。
喫茶店にはほとんど人はいなかった。
やる気のない店員が、はじめに出した生ぬるい水を飲みながら、由太は目の前の父親を見据えた。
わずか三ヶ月ほどの間に、父は変わり果てていた。
いつもびしっとアイロンがかっていたスーツには、いくつも皺が見られたし、いくらか頭頂部も薄くなっているようにも思える。
それに何より、覇気がなかった。
水を半分ほど飲み干して、由太は先に口を開いた。
「あなたを、尊敬していました。あなたのような人になりたいと、ずっと思ってきていた」
憧れの人と聞かれるときは、偉人ではなくいつも真っ先に父の名を上げていた。そのくらい、尊敬していた。
由太の言葉を聞き、目の前の父は、肩をすくめると、項垂れるように頭を下げた。
「すまない」
丸くなった背中に、哀愁が漂っている。
由太は思わず顔を背けた。
「そんな姿見たくなかった。謝るくらいなら、すべきことはあったはずなのに、それすらしない。だから、僕は、あなたとは暮らせない。好実もそうだ」
すると、のっそりと父が顔を上げた。
「由太」
そういった父の目は、どんよりと暗かった。
「無理はするな」
由太は眉をひそめた。
父の言葉の真意を測ろうと、自然と父の顔を見つめる。
「ずっと背中を曲げずに、顔を俯かずにやってきた。
正しいものを正しいといい、間違っていることを間違っていると言う。
そうすれば、正しい人生を生きていけると思ってこれまでやってきた。
だが、そうやって本部長にたてついた結果が、これだ。
毎日、呆然として家を出る。だが、誰も何も言わなかった。お前も、好実も。
母さんですらだ。
自分のことだけ考えて、家族のことになど見向きもしない。
いや、お前たちのことでいえば、それは私と母さんの責任だったかもしれない。
…そんな、私の行き詰まった気持ちに気づいてくれたのが、三保子だった―」
不倫相手の名前が出てきたところで、由太は思わずテーブルをドンと叩いた。
「そんな話、聞きたくないっ」
古いテーブルは安定も悪く、乗っているコップも揺れて、僅かに水が零れた。声の大きさに気づいてか、やる気のなかったはずの店員が、慌ててタオルを持ってきている。
その目に浮かんでいるのは、ただの興味本位。それだけだった。
由太は勢いそのままに、鞄を掴むと、立ち上がった。
「俺は。あなたとは違う。あなたのように愚かで、弱い人間ではないっ」
それだけ言うと、由太は引き止める父も無視して、さっさと店を出て行った。
しばらくしたところで、傘を店に忘れたことに気づいたものの、引き返す気持ちにもなれず、由太はそのまま雨の中を駅まで走っていった。