Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月8
インターハイ県予選の決勝トーナメント、凪高の初戦は、曇り空の下で行われた。
このトーナメントで決勝に進出したチームが、そのまま八月に行われるインターハイに出場することが出来る。
「行くぞっ」
グランドの中で、凪高イレブンは円陣を組んだ。朔哉の掛け声にあわせ、声を上げて答える面々は、このところのレギュラーメンバーとは少し異なっている。
不安がないといえば嘘になる。
右京の代わりにゲームメイクを任されたのは、朔哉ではなく和美だったし、あまり言われていないが、湊のベンチ入りは、影響が少なくないと朔哉は感じてい た。サイドバックの攻撃参加は、凪浜の重要な戦略でもあったが、グランドの端から端へと走るわけで、その消費量はかなりのものだ。湊はそういったところ で、スタミナはあった。 だが、代わりの竹山はどうかというと、足もそこまで速くなく、あまりタフなタイプではない。
また、このところ由太の調子も、集中力に欠いているのか、良いとは言えない。
いや、それをいうならば、司もそうだ。
それから…。
そう考えたところで、朔哉は大きく頭をふった。
…弱気になるな。
とにかく、目の前のことに集中するんだ。
初めのコイントスで、朔哉はボールを選んだ。
ホイッスルが鳴り、司がボールを知朗に蹴りだした。
「好実、久しぶりにお兄ちゃんの試合見に行こうか」
休日の朝、無言で席につき、出された朝食を食べる好実に、母親が唐突に言ったせいで、思わず好実も顔を上げてしまった。
本心で言えば、好実も試合に行きたいと思っていた。
由太の応援、というより、理由は別にあるけれど。
「それじゃ、ご飯食べたら支度しましょう」
僅かに浮かべてしまった肯定の表情に気づいてか、母親はそう言った。
由太が中学生になったあたりから、好実は由太の試合を見に行かなくなった。
由太が両親が試合に見に来ることを嫌がったこともあるが、好実も行くことを嫌がった。というのも、まだ由太が小学生の時、所属していた少年サッカーチームが当時の新任監督のおかげで、全国大会に出場するようになったことがその発端だ。
由太は、小さい頃から優等生を絵に描いたような存在だった。
成績も優秀、スポーツも万能、皆の手本であり、クラスをまとめるのもうまかった由太は、クラス委員長としても、先生の信頼が厚かった。それは家でもそうで、好実は由太が誰かに怒られる姿を見たことがなかった。そんな兄は、誇りでもあり、そして憎たらしくもあった。
そんな時に、母親に連れてこられたサッカーの試合で、好実は初めて由太が怒鳴られ、頭を下げ、謝っている姿を見た。
由太が怒鳴られているという現実に驚くと同時に、その怒鳴り声の恐ろしさに、思わず見ていた好実の方が泣き出してしまったくらいだった。
それがトラウマになって、たまに母から誘われても、好実は絶対に試合に行こうとしなかったのだ。だがそれも、湊の前では関係なかった。
「あら、高岡さん」
「日比野さん。ご無沙汰してます」
試合会場のグランドに顔を出すと、すぐさま篤志の母親・昌江が声をかけてきた。
「珍しいわね。試合に来るなんて」
「ええ。久しぶりに」
母親同士の会話を頭の片隅に聞きながら、好実は湊を探す。グランドに選手が並び始めていたけれど、その中に湊の姿はない。
『でも週末の試合だけ。次からは、スタメンになるよう、頑張るよ』
美都にそう言っていた湊を思い出す。その瞬間、湊の美都に向かう視線を思い出し、苛立ちと共に好実はすぐに別の方向を探す。
「好実ちゃんも大きくなって。そうそう、由太君、もうレギュラー選手ですって。本当に羨ましいわ。うちの篤志なんか下手の横好きってもので、いつまでたっても上達しなくて」
「母ちゃん！」
大声で笑う昌江に気づいた篤志は、慌てて顔を出してきた。
好実が篤志の方をみると、その向こうに凪高のジャージを着た部員が見えて、思わずそこに湊を探した。だが篤志は、それに気づくことなく会話を続けた。
「そんな話すんなよ」
「だって本当のことじゃないの。ほんと、由太君は出来た子だから、羨ましくて」
「しょうがないじゃん。蛙の子は蛙なんだから。くだらない井戸端会議なら試合が終わってからにしてくれよ。もう少しで始まるんだから」
「はいはい。わかりましたよ。高岡さん、他にお母様方がこちらにいらっしゃるから、どうぞ」
昌江はそう言って、部員たちとは違う集団を指した。
湊君、どこにいるんだろう。
キョロキョロと見回していると、母親が好実の手を掴んで言った。
「好実、行くわよ」
試合は、朔哉の不安の通り、凪高は押すものの、なかなか最終ラインにボールが繋がらず、無理やり放ったミドルシュートはポストから大きく逸れてゴールラインをわった。
一見すると五分五分。だがそれは、相手のレベルからすると、つまりは凪高の調子が悪いということになる。
その証拠に、石橋は先ほどからグランドぎりぎりとのところに立ち、叫んでいた。
「高岡っ。もっと上がれっ」
由太は走りながら叫ぶ。
「はいっ」
だが、いい形で攻め込んでいた凪高は、スペースに走りこむ選手がおらず、結局ボールを持った知朗が無理やりセンタリングを上げるものの、そのままゴールラインを再び割った。
ゴールキックの指示をしようとした審判だったが、知朗と競り合った相手チームのディフェンダーがグランドに倒れているのをみて、試合がしばし中断された。
その間、自分のポジションに戻ってきた由太を、石橋は呼びつけると、いきなり怒鳴りつけた。
「周りよりもワンテンポ遅い。後ろばかり気にしないで、さっさと上がれ」
「はいっ」
「お前の上がりが遅いから、ディフェンスのラインも上がっていかないんだぞ」
「はいっ」
「集中しろっ、集中。気合の入ってない奴は、遠慮なく入れ替えるぞ」
「すみませんでしたっ」
由太の表情が悔しさで歪む。
決して監督に怒鳴られたことに対しての怒りではない。
監督の言うように、体の切れがいまひとつの自分に対しての怒りだった。
結局相手選手は、やっとこさ、ではあるが立ち上がった。
試合再開だ。
「よし、行けっ」
石橋がそう言って由太の背中を叩く。
はい、と答え、由太はグランドの中に駆け出して行った。
湊を探していた好実は、その姿をベンチで見つけて思わず頬が緩んだ。
心が弾んだところで、だがそれを突き落とすような恐ろしい声が耳につんざく。それは前にもサッカーグランドを前に聞いたことのある声。
かつて、由太を怒鳴りつけた怖い声だ。
好実はそう思った瞬間、思わず体を震わせた。
だが、その声を前に、由太は恐れもせず、謝りながら、素直にそれを受け入れている。
好実にはそれが、自分の兄には思えなかった。
好実は由太が謝ったところをみたことがない。
そもそも、ミスをしたり、怒られるようなことをしないのが、由太だと思っている。
その反動なのか、何をやっても両親や先生に怒られてきたのが好実だ。
「相変わらず、厳しいわね。監督」
小さなため息と共に、隣で座っている母が言った。
その目はベンチで仁王立ちしている石橋を見てから、ゆっくりとグランドの中で悔しそうに唇をかみ締めて全力疾走している我が子に向っている。
「お兄ちゃん。嫌じゃないのかな」
ぽつりと好実が呟く。
すると、母親はくすりと微笑んで、優しく好実に答えた。
「あの子はね、あの監督の下でサッカーしたいって凪浜を選んだのよ」
中学受験させるつもりはなかったし、その準備もしていなかった。
だが、石橋が凪浜の高校サッカー部の監督をやると聞いた由太は、親の反対を押し切り受験勉強を始めた。何でも、たまに中等部の様子も見たり、中等部と高等部で合同練習をするという話を聞きつけたらしい。
もともとやると決めたらとことんやるタイプだとは思っていたが、最後には志を同じくした篤志と一緒に合格をした。
「そうよね。そういうことなのよね」
母親がそう呟くのを聞きながら、好実はグランドで汗を流す兄の姿を見つめていた。
試合終了のホイッスルが鳴った瞬間、朔哉がついたのは、安堵のため息だった。
スコアは三対０。凪浜は、次の試合に駒を進めた。
だが内容は、散々たるものだった。
グランドから引き上げる中で、朔哉は目の前を歩く成の肩を叩いた。
「大活躍だったな、早坂」
振り返った成は、驚いたように答えた。
「俺よりも、先制点を決めた樹生の方が―」
確かに、ベンチから喜ばれているのは樹生のように思える。
スタミナの切れた知朗に代わって、後半二十分からの途中出場。
その五分後にはシュートを決め、スコアが一対０と動いたのだ。
だが朔哉は成の言葉を遮って、首を振った。
「何度もあった相手の決定的なチャンスを、結局失点０で終えられたのは、お前のお陰だ。先制点は、確かにいいリズムができたけど、その前に点を取られていたらどうなっていたかわからない」
「チェッ、俺だって頑張ったのに」
それを聞きつけた樹生が口を挟んできた。だが、成の方を見ると、
「まあでも、成さんに取って代わられるんなら、それでもいいや」
と素直に答えた。朔哉は樹生の方を向きながらこう言う。
「新田はもっと正確にシュートしろ。もう一点は取れたぞ。この試合」
確かに樹生は決定的だと思われた瞬間に、シュートを外した。
しかも二度だ。
樹生は顔を顰めると、逃げるようにして走り出して行った。
まだまだ、だな。
まだまだ、伸びる余白があいつにはある。
走り行く樹生の背中を見て僅かな嫉妬にかられながらもそう思っていると、ベンチのところで立っていた萌子が、タオルを差し出した。
「朔哉さん。タオル」
お疲れ様、と笑顔を浮かべる萌子の視線は、まっすぐ自分を捕らえていた。
「サンキュ」
タオルと受け取り、朔哉が萌子に話しかけようとしたところで、前を後ろから追いかけてきた司に背中を思い切り叩かれ、そのまま流れるように、朔哉は控え室に戻って行った。
その背中を萌子がじっと見ていると、ふいに横を成が通りかかった。
「成、タオル」
「あ…、ありがと」
成はぎこちなくそう答えると、タオルを受け取ったところで、萌子の視線にようやく気づいて、首を傾げた。
「ん？」
「ううん。…何でもない」
萌子は慌ててそう答えると、成はさほど疑問を持たなかったのか、そのまま控え室へと歩いていった。
その背中を見つめながら、僅かに萌子は気持ちが昂ぶっていた。
それまでの凪高のサッカーは、どちらかといえば右京の華麗なるパスから繰り出される攻撃に目が向けられていた。実際、今日の試合でも、結果三点を取ったように、その攻撃力は確かなものだろう。
その影に隠れるようにして、成の役割があまり目立つようなことはなかった。だが、今日の試合は、湊が欠いたこともあってか、逆にそれが目立っていたのだ。
きっと、いける。
インターハイも、
選手権も。
萌子はそう思いながら、弾む胸を押えるように手にしていたタオルをギュッと握りしめた。
「おい」
掲げていた横断幕を座って仕舞っていた美都は、振り返ると、安心して笑顔を見せる。
「和美君」
そこには、すでに制服に着替えた和美が、肩から大きな鞄を提げて、斜に構えて美都を見下ろしていた。
「何チンタラしてんだよ。帰るぞ」
「え？だけど、みんな―」
集合してるんじゃないの？と言いかけた美都の言葉を遮って、和美がぶっきらぼうに答える。
「ここで解散だって、監督が。荷物は、明日の練習で持ってくればいいってさ」
そうなんだ、と手を止めた美都から、和美は乱暴にその荷物を取った。
「あ」
「さっさと、行くぞ」
「え？何処に？」
和美は数歩歩いたところで足を止めて言う。
「今から行けば、映画間に合うだろ」
「映画？…あ。もしかして、『君のために』？え、ほんと？一緒に行ってくれるの？」
その映画は、美都が見たいと思っていた甘い恋愛映画だ。
だが、和美がそういった映画が嫌いなことはわかっていたし、だから美都も和美を誘ってはいなかった。ただ、一度だけ、ついうっかり独り言のように見たい とだけ言ったことがあった。その時の反応もイマイチで、だから見に行くなら理香や萌子と一緒だな、と思っていたところだったのだ。
「ツベコベ言わずに、さっさと準備したらな」
捨て台詞のように和美はそういって、美都に背中を向ける。美都は嬉しくなって立ち上がった。
「わかった！荷物はもうないから大丈夫」
美都はそういうと、床においていた自分の鞄を取り上げ、和美の隣にすぐさま駆け寄った。
すり寄るように側に立つと、和美がわざと顔を顰めて言う。
「何だよ」
「デート、久しぶりだなって思って」
チッという舌打ちが聞こえた後に、和美は鞄を右手に持ち帰ると、左手をズボンのポケットに突っ込んだ。そうして、僅かにその腕を外側に張り出す。
腕組んでいいって、サインだ。
美都はえへへと笑いながら、そこに自分の腕を絡ませた。
腕を組みながら歩くその後姿は、どうみても恋人同士だ。
『デート、久しぶりだなって思って』
そういって、カズミクンと呼んでいた男の人に向けるシーナの視線は、明らかにハートマークが描いてあった。カズミクンなんて可愛い名前に似合わないよう な怖い人だったけど、湊君とは全然違って、優しくなんかなさそうだったけど、それでもシーナはあの人のことが好きなんだ。
湊君が、シーナを好きなように。
小さくなっている二人の後姿を見つめながら、好実はごくりと唾を飲み込んでいた。
つまり、湊君の好きなシーナには、カズミクンという恋人がいる、そういうことだ。
湊君は、そのことを知ってるの？
知っていて、それでも、シーナが好きなの？
「好実？帰るわよ」
急に母親の声がして、好実はハッと顔を声のするほうに向けた。母親が、どこか力の抜けた笑顔を見せている。
「お兄ちゃんは？」
「学校に寄ってから帰るって」
母親はそういうと、行くわよ、と言った。
由太が重い体を引きずるようにして家に帰ると、リビングで母親が出迎えてくれた。
「お疲れ様」
「あ。ああ…」
僅かに戸惑いながら由太はそう答えて、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
離婚の話を切り出されてから、母親とまともな会話を由太は避けていた。
質問は決まっていて、それに由太はまだ答えられないからだ。
こうしなければならないと思ってはいるものの、正直由太自身がそれを受け止められない。こんなことは初めてで、由太もどう扱っていいのかわからなかったのだ。
三口ほど麦茶を飲んだところで、母親がこう言った。
「由太。お母さん、考えたんだけど。
あなたはしっかりしてるから、一人でもやっていけるわよね」
一人？
その言葉の意味を求めようと振り返ると、母親は机の上で手を組みながら話を続けた。
「今日、日比野さんにお会いして、サッカー部の寮の話を聞いたのよ。同級生もたくさんいるんですってね。皆、親元を離れて立派に暮らしてるって言ってたわ」
「母さん」
それは、自分を寮に入れるということか。
この家はどうなるというのだ？
由太の問いかけに、母は答えた。
「残念だけど、母さんは好実と母さんの実家に戻ることになりそう」
母の実家は、群馬にある。
「…そのこと、好実は？」
母は首を振った。
「まだ言ってないわ。本当は、あなたも一緒にと思ってたんだけど、あなたにはここでやりたいことがあるものね」
高校サッカーの頂点、選手権で優勝すること。
しかも、凪浜高校として。
確かにそうだった。だが―。
「けど、寮だって、家賃や管理費が―」
「そのくらい、母さんが何とかするわよ」
その声の力強さに、由太は正直面食らった。
短大を出て、腰掛程度に会社に勤めた後、父と見合い結婚をした。それからここ最近まで、父の給料をあてにして、ずっと働いたことなどなかったというのに。
言葉を無くしていると、母は由太、と優しく名前を呼んでから言った。
「たまには親にくらい、甘えなさい」
週が明けた月曜日の放課後。
グランドを見ていた理香が突然言った。
「また来てる、好実ちゃん。中に入ればいいのに」
理香の視線の先には、フェンスを握りしめて立っているランドセル姿の好実が確かにいた。萌子はテーピングの整理をしながら答える。
「由太に見つかりたくないんでしょう。前にそう言ってたって湊が」
「でもさ、どうみてもバレバレだと思う」
フェンスがあるからと言っても、好実の体を隠すほどの塀はないし、他にも見学者はいたりもするのだが、ランドセル姿は明らかに目立っていた。
「いつもの由太だったら、気づいてるわね」
先日の試合でも、一番監督に怒鳴られていたのは由太だった。
萌子からしても、ここ一週間ほどの由太は、明らかにどこかおかしい。
萌子はそう答えると、部室に戻って足りないものの補充に出向こうとすると、理香がうーんと顎に人差し指を押し付けて言った。
「思うに、好実ちゃん。サッカー部の誰かが好きなんじゃないかな」
「え？…でも小学生でしょう？クラスメート相手じゃないの？」
「恋に年齢は関係ないのっ。ねね、萌子は誰だと思う？やっぱり朔哉先輩かな、それとも右京君？それとも―」
「そんな誰かと話してるところなんて、見たこと…あ」
息を呑んだ萌子を見て、理香はニヤリと微笑んだ。
「誰？」
「…湊」
そういえば、傘を貸したといっていたような気がする。
それで湊を好きになったんだろうか。
思わず立ち止まっている萌子と理香に、篤志が唐突にやってきて言った。
「あのさー。俺。昨日母ちゃんから言われたんだけどさ」
「何よ、篤志。突然。あたしと萌子は今、大事な話を―」
「由太。寮に入るかもしれないらしい」
え？と萌子は篤志を見つめ返す。篤志はどこか複雑な表情を浮かべていた。そんな篤志に理香は冗談でしょうという雰囲気で言い返す。
「寮？だって。由太ちゃん家あるじゃん」
グランドの中で、由太は相変わらず精彩を欠く雰囲気で走っている。
「だからさー。何か、色々あるみたいで、そのあたりは母ちゃんも聞いてないらしいんだけどさ。でも、寮生活のこと、由太の母ちゃんから色々質問されたって」
何かが確かに起きているのだと、萌子は感じだ。
グランドの中では、相変わらず元気な声が響いていた。
それを聞きながら、好実はフェンスに手をかけて中を覗きこむ。
湊を探すことは、ほぼ好実の日課になっていた。
あの笑顔を見ると、海に浮かんで、波に揺られているように、心が安らぐのだ。
どうしても、あの笑顔を見たい。
そのくらい、好実の心はささくれ立っていた。
今思うと、運が悪かったのかもしれない。
あのとき、トイレに行こうと部屋をでなければ、
そうでなくても、二人の会話に耳を立たなければ、
そうすれば少しはましだったのに、とも思った。
いつだって大人はそうなのだ。
子供には決められないと、話を聞かずに決めてしまう。
こっちの気持ちも知らないで。
「どうかしたの、かな」
突然声をかけられて、好実は思わず、あ、と声をあげた。目の前では美都は楚々とした笑顔を浮かべている。
「この前の傷は、もう平気？」
にっこりと微笑む姿を見て、好実はむかつくと、
「ぜんっぜん平気っ」
と厭味たっぷりに答えた。
けれど美都はというと、その厭味に気づかないのか、
「良かった」
などとほっと肩を撫で下ろしてさえいる。
気づいてないの？
ってか鈍そうだもんな、シーナって。
好実は意地悪く言い返した。
「だけど、あなたが早く手当てしてくれないから、お兄ちゃんにばれちゃったじゃん。それに、絆創膏だって、あのあとすぐにはがれちゃったんだよ」
手当てをしてもらって恩を忘れてそういうと、美都は本当にすまなそうな表情を浮かべた。
「そう…ごめんなさい」
ともすれば、涙さえ浮かべてしまいそうな表情だ。
だがそれが、余計に好実の心を刺激する。
「どうしてサッカー部のマネージャーなのかな」
「え？」
美都の目が、更に大きく見開いた。
「だってすごい人気なんでしょう？サッカー部のマネージャー。理香ちゃんが言ってたもん。だけど、あなたってばトロいし、転んでばっかりだし、手当ても遅いし、全然いいところなんかないんだもん」
顔からすぅっと血の気が引いていた。
青白い顔というのは、ああいうことを言うのかもしれない。
その瞬間、好実の心はちくりと痛んだ。
美都は、何も答えることなく、顔を俯かせると、足早に好実の前から去っていった。
「椎名？」
逃げていくその背中を見ていると、美都はボールを追いかけて来た湊の脇をすり抜けて走っていく。その姿に湊が呼びかけるものの、美都は答えることなくグランドを出て行った。
無視されたというのに、心配そうに美都の背中を見ている湊に向って、気づけば好実はフェンスを思い切り握りしめると叫んでいた。
「湊君は、バカよ」
「え」
堰を切ったように、好実は叫び続けていた。
「あの人、あのシーナって人には、彼氏いるんだよ。
無駄だよ、いくら湊君が好きでも、両思いにはなれないんだよ、手に入らないんだよ」
「知ってるよ」
あっさりそう言われ、好実は言葉を無くして、必死に掴んでいた手の力を落とす。
湊は、淡々と、でもその一言をかみ締めるように言った。
「椎名と和美が付き合っていることも、俺が想っても椎名には何も届かないことも、彼女がそんなことすら気づいてないことも。
でも、いいんだ」
「どうして」
悲鳴のような好実の声に、湊は小さく頷くと、じっと好実の目を見て言った。
「好きになってもらいたくて、人を好きになるわけじゃない、よね」
湊は、ゆっくりゆっくりと、好実に優しく言った。
「椎名はね、好実ちゃんの言うとおり、少しのんびりしてるところもあるし、声だって小さいし、おっちょこちょいだし、人見知りもする。
だけどね。頑張ってという言葉は、誰よりも力強く言える人だ。
好きな人の為なら、辛いことも我慢できる人だ」
好きな人には恋人がいる。
だから自分には振り向かない。
そういった湊は、決して自暴自棄になっているわけでもなく、自分の置かれた状況を哀れんでいるわけでもなかった。
ただそこにある事実を、自分の気持ちと一緒に受け止めていたのだ。
「それでも、いいの？」
思わず好実が尋ねると、湊は目じりに皺をつくって微笑んだ。
「いいも、悪いも。これが、俺だと思うから」
どうしてこの人は、それができるんだろう。
どうにもならないことを、どうしてそのまま受け止められるんだろう。
どうしてあたしは、受け止めてもらえないんだろう。
そう思った瞬間、好実は走り出していた。