Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月7
朔哉は寮を出てから、空を見上げた。
どんよりとした空からは、雨こそ降っていないものの、油断のならないといった厚い雲が覆っている。
どこかいつもより足取りが重いのは、だけど雲のせいじゃない。
昨日は丸一日、萌子とろくに会話も出来なかった。
避けられているわけじゃないのはわかっている。
休み時間に教室を覗いても、次の授業の為に誰も教室にいなかったり、昼休みは自分がクラスメートたちに拉致されたり、帰りは篤志たちと話があるからと一緒に帰れなかったり、そういう偶然がただ重なっただけだ。
それでも、朔哉はどこか心に靄がかかった気持ちになっていた。
だがそれも、最後の角を曲がった瞬間に、すべて吹き飛んだ。
「萌子」
家の前には、いつもの朔哉のようにして塀にもたれている萌子が立っていた。朔哉に気づくと、萌子は顔を上げていくらか強張った表情で、おはよう、と言った。
だがそういうと、萌子はきゅっと口許を引き締めたままに黙り込んでしまい、二人は無言のままに歩き出した。
どこか思いつめたような表情に、朔哉は正直戸惑っていた。
もしかして、篤志たちに何か言われたんだろうか。
例えば、俺と別れるように、とか？
ごくりと唾を飲み込んで、朔哉は慌てて口を開く。
「この前は―」
ごめん、と言おうとしたところで、
「昨日はごめんなさい」
と逆に萌子から謝られた。
「いや、いいよ。俺こそ―」
「私」
萌子はそこで一息つくと、一気に言った。
「私、朔哉さんのこと。もっともっと知りたい。楽しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、悔しいこと、辛いこと、全部。そうやって、わかりあっていきたいの」
唐突のあまり、朔哉が返答できずにいると、萌子が答えを求めるように朔哉を見つめた。
「つきあってるって、恋人同士って、そういうことでしょう？」
一呼吸置いてから、朔哉の鼓動が弾んだ。言葉に詰まってしまったのは、嬉しくて、それをどう言えばいいのか、わからなかったからだ。
緩んだ表情の朔哉とは反対に、萌子は真摯に朔哉を見つめていた。
答えを待っているのだと気づいた朔哉は、軽く咳払いをすると、話し出した。
「…そう、だな。
週末のインターハイ予選。あのメンバーで、勝ち進んでいけるのか、本当のことを言うと自信がない。
和泉は最近力つけていたし、左利きのサイドバックは貴重だ。藤原には、いつもゲーム運びを任せていて、正直藤原抜きのフォーメーションは監督も考えてなかった。いくら県予選だからって、個々のプレーだけで勝ち抜けはしないし、そもそも二人がいたとしても、勝てる保証はない。
しかも、トーナメントだから、負けたらそこで終わりだ。
受験もあるし、このインターが最後って三年もいる。
三年間、一度も試合に出れなかった三年も。
彼らの為にも、頑張らなきゃいけない。そう思うと、少し気が重い、かな」
朔哉が話し終わると、萌子の表情も和らいだ。
昨日の亜紀子の言葉が、萌子の胸に引っかかっていた。それに、篤志の言葉も。
理香のいう、特別というのとは違っている。
けれど萌子は、朔哉の心を知りたいと確かに思った。
「…ありがとう」
自分の思いを受け止めたくれた朔哉に萌子がそういうと、朔哉は萌子の持っていた鞄をさっと奪う。
朔哉さん？
そう問いかけようとする萌子に、朔哉はスッと自分の左手を差し出した。あわせるように萌子も手を差し出し、二人はそのまま手をつなぐと、ゆっくりと朝の街並みを歩き出した。
湊君、いるかなあ。
好実はそう思いながら、こっそりとフェンスに顔を覗かせる。フェンスの中のグランドでは、一日ぶりの練習を楽しむ部員たちがいる。
その中に由太の姿を見つけ、好実は側の自販機に身を潜めた。
好実が、家族と口を利かなくなって二日が過ぎた。
母親は、何とか好実に話しかけるものの、好実は完全無視だ。
由太はというと、あまり顔を突き合わせていない。試合が近いからなのか、朝は好実が起きる前に家を出て、帰ってきても、好実が家にいることを確認する と、部屋から出てこなくなった。由太も由太で色々悩んでいるのだろうと、どこかで思うものの、好実はそれよりも気になることがあった。
湊だ。
「好実…ちゃん？」
突然話しかけられた好実は、びっくりして振り返ろうとしたものの、足元の石に躓いて、その場にすてんと転んでしまった。
「どうした？擦り剥いた？」
心配そうに顔を覗き込むのは、好実がグランドで探していた湊本人だった。
「だ、大丈夫っ」
好実はそう答えて起き上がろうとするものの、膝を擦り剥いたらしく、思わず蹲ってしまった。それを見た湊は、好実の前でしゃがみ込んだ。
「いいから、背中に乗って」
膝からは血が滲んでいて、そのまま帰るのも恥かしい。
悩んだ好実は素直に湊に従った。
広い背中は、温かく、僅かに太陽のかおりがする。
このままずっとここにいたいな。
そう思う好実とは反対に、湊は足早にグランドのベンチ脇に向うと、そこにいた美都に声をかけた。
「ごめん、椎名。彼女、怪我したらしくて」
「あ、高岡君の妹さん？」
湊の肩越しに見えた美都の姿に、好実が戸惑っている間に、湊は自分の背から好実を下してベンチに座らせた。膝を見た美都は、救急箱を手にし、湊もすぐに立ち上がって言った。
「そう。俺は由太、呼んで来る。どこに―」
「いいのっ」
「「え」」
湊と美都の声が重なる。好実は思い切り叫んだ。
「お兄ちゃんには、内緒にしててくださいっっ」
そういったきり、黙り込む好実の前で、二人は顔をあわせると、
「あー。…うん。わかった。それじゃ、椎名。頼んだ」
と湊はいって、グランドの中に戻って行った。
「わかった。あの、ちょっと痛いけど我慢してね」
「早くお願いしますっっ」
好実がそういうと、美都はわかった、と頷いて、救急箱を開けた。
昨日も思ったけど、可愛い人だ。
体も細い。もしかしたら、体重だって、自分の方が重いかもしれない。このところ好実の体重は、成長期ということもあってかどんどん増えてきているのだ。
だけど、…遅い。
擦り傷の手当てだというのに、好実からしても、手つきが覚束ない。
「あの、急いでください」
立場を忘れて好実がそういうと、ごめんね、と美都がすまなそうに答えた。
どうしよう、お兄ちゃんに気づかれちゃう。
好実がそう思ってグランドを見渡すと、ふいに湊がこっちを見ていることに気づいた。
湊君っ。
嬉しくなる好実だが、その視線が自分ではなく、隣の美都にあることに気づき、思わず振り上げそうになっていた手を力なく下した。
目の前の湊は、さっきから視線がゴールに向っていない。
「湊の番だぞ」
耐えかねて成がそういうと、
「ああ」
と答えて湊がようやくゴールを向いた。
今はミドルシュートの練習中だ。簡単な壁パスを含めて、ペナルティーエリア外からキーパーである興仁が立つゴールに向って、シュートを放つ。
どこかぼんやりと壁となる部員にパスをした湊だったが、ペナルティーエリアに入ったばかりか、そのままシュートは、大きくゴールポストを外す。
「和泉っ、集中しろ、集中っ」
監督の声がして、湊がはいっと答えていた。
「湊先輩、まだ風邪治ってないのかな」
ぽつりと樹生が呟いたけれど、成は原因は、風邪ではなく、むしろ湊の視線の先にあったものだと思っていた。
それは、そのまま昨日の夜の会話に繋がる。
「お前、今でも椎名のこと、好きなのか？」
そう尋ねた成に、湊は一瞬、きょとんとした表情をしてから、柔らかく微笑み、
「どうした、成」
と言った。その表情が嘘だとは、成は思いたくなかった。だから、思わず拾い上げたコピーを湊に突き出すようにして渡す。
「…これ。椎名がくれたノートだろ。もしかして、椎名も―」
「それは違う」
湊はきっぱりと否定した。
湊と美都は、別のクラスだ。
それなのにノートをコピーしているということを、成はそれだけ二人の関係が親密だと思ったのだ。勿論、美都が和美と付き合っていることは、周知の事実だ。
つまり、秘めた恋。
だが湊は、真っ向からそれを否定した。
「この前風邪引いたから、椎名は気を使ってくれたんだ。それにコピーした元のノートは和美のだよ」
言われてよく見ると、書きなぐったような字は見覚えがあるし、赤い字とは別の人間のものだ。
「確かにそうだけど。でも、お前の風邪と椎名って、関係ないだろ」
成がそういうと、ああ、と湊は笑った。嘘のない笑いだった。
「そうなんだけどね。でも、椎名はそう思ってないみたいだから」
その先にある答えを成が聞こうとしたところで、突然ドアが開いて、きょとんとした厳巳が顔を覗かせた。
「ごめん、成。僕のこと探してたの？あれ？」
湊とはそれ以上、このことを話していない。
同じ部屋で寝起きしているというのに、成はそのタイミングをつかめなかった。
そんなことを考えていると、また監督が怒鳴りつけた。
「高岡っ、どうしたっ、試合は明後日だぞっ」
ゴールからはるか上を、ボールは飛び越えていく。由太がボールを追いかけようとすると、一年生が気を使ってか、そのボールを取りに行ってくれた。
ため息をつきながら由太が列に並ぶと、ケンが声をかけてきた。
「何か、調子悪そうだな、由太。もしかして湊の風邪がうつったとか？」
逆だ。調子がいいのは、体だけだ。
あとは何もかも、うまく行ってない。
そう思う由太だが、まさかそう言い返すわけにもいかない。
「何でもない。―あ」
素っ気なく答えたところで、ふいにベンチに佇む小学生が見え、由太は足を止めた。
「メシ。食って帰るか」
ずっと続いていた無言の状態は、由太のこの一言で一旦は終焉を迎えた。
由太からすれば、母からの離婚宣言の日以来、由太だけでなく母にも口を聞かない好実が、高校にまでやってきたというのだから、何か話があるのだろうと思っていた。だから、由太の姿を見て、逃げ帰ろうとした好実を引きとめ、練習が終わるまでベンチで見学をさせていたのだ。
つれてきたのは、アルジャーノンだ。
ドアを開けると、いらっしゃいませ、という一馬のサービス精神ゼロの声がした。
向かい合って食べるのも、と思い、由太はカウンターの奥の席に座った。仮に部員が来たとしても、この場所だと入り口からはあまり見えないのだ。
それぞれに注文を済ますと、また二人の間に沈黙が続いた。
好実の話はだいたい予想が付く。
まずは、離婚の反対だ。
気持ちはわかる。
だが、意外と頑固な母の性格と、ここ数ヶ月の生活からいっても、それは無理だと由太は感じていた。
そして好実は、尋ねるはずだ。
お兄ちゃんは、どっちにつくの？
正直、父に着いていく気はない。それは、おそらく好実も同じはずだ。
まだ小学五年生の好実が、基本的に仕事人間の父親についていくことは、教育上よくない気もしたし、同性の母親の方がいいのだろう。
そうなると、父に引き取られるのは自分の方が妥当だという気もする。
だが、それを由太は引き受けたくないと思っていた。
父と一緒に暮らしたくないという理由だけではない。
凪浜を離れたくはなかった。サッカーを続けたかった。仲間と、国立に立ちたいと思った。
今までならば、兄という立場と、責任で、引き受けていたかもしれない。
けれど、今回ばかりは、すんなりと受け取れない自分がいた。そうして由太はそんな自分を恥じていた。
気が付くと、このことばかり考えていて、明後日からインターハイ予選が始まるというのに、由太の気持ちは集中できずにいた。
無言のまま食べ終わると、ふいに隣で好実が眠っていることに気づいた。
自分と同じで、好実も人知れず、気疲れしているのかもしれない。
小さくため息をつくと、目の前にアルバイト中の一馬が現れて、洗物を始めた。
「大変か？」
急に話しかけられ、一馬は顔を上げる。
「何だ？急に」
「バイトと練習と、学業と。全部こなすのは大変なんだろうなと、思っただけだ」
素っ気なく由太がそういう。一馬の頬骨のシャープさが、増した気がしていた。だが、一馬はニヤリと笑った。
「まあ、俺の好きでサッカーやらせてもらってるわけだから、そういう多少の犠牲は仕方ない」
そのまま似合わないエプロン姿で洗物をする一馬を見ていて、ふいに由太は呟いた。
「…すまん」
驚いた表情で、一馬は手を止めると、再び顔を上げた。
「前に俺、お前が倒れた時に、自己管理の問題だと言った」
一年ほど前になる。
再婚して、転勤することになった母と妹を置いて、一馬は家出するように一人この凪浜に残った。そして、生活するために、部活の後にバイトを続け、そうしてあるとき練習で倒れたのだ。
「ああ。気にしてない。確かに、お前の言うこと、正しいから」
さり気なくそう言う一馬が大人に思え、由太は更に自分を責めた。そんな由太に気づいてか、一馬が笑って言った。
「なんかお前が謝るなんて、変だよな」
確かにそうかもしれない。
由太は人に頭を下げるのは、あまり好きではない。
好きではないから、謝ることのないよう完璧を求める。自分にも、仲間にも。それが時に厳しくなりすぎることは、由太自身も気にしているところだった。
思いつめた表情の由太に、一馬が冗談めいて言う。
「しっかし、仲いいよな、兄妹で。一緒に外食なんて。あ、それとも、もしかして、お前んちのおふくろさん、家出したとか言うなよ」
ハッとして由太が顔を上げると、それを見て一馬が頬を強張らせるのがほとんど同時だった。
「わりぃ…」
まさか当たるとは、という表情だった。
由太は誤魔化すということも、好きではない。
男らしくないと思う。
「正しくは、出て行ったのは親父で、追い出したのはおふくろだ」
一気にそういうと、気持ちが少しだけ軽くなった。誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない。気が緩んだ由太は、そのまま一馬に話しかける。
「一馬、妹は？」
「今は母親のとこ。すっかり馴染んでるよ。もう一年と三ヶ月くらいか。
もともと、父親のことを知らずに育ってきたから、その分今は父親っこらしい」
「親父さんは？」
「交通事故。俺も小さい頃だったから、正直あまり覚えてないし、妹なんかは１歳だったからな」
「そうか」
由太は自分の家族を思い浮かべる。
厳格な父。おっとりとした母。少し我侭だがそれも愛らしいといわれる妹。
数ヶ月前までは、きちんと形をなした家族だったはずだ。
それなのに。
由太はコップの水を飲み干して呟いた。
「…別れるくらいなら、結婚なんかしなければいい」
カウンター越しで、一馬が洗物を続けながら答える。
「色々あるんだろうよ。俺たちにはわからないことが、さ」
ずっと思っていた。
全ての原因は、父の浮気なのだと。
左遷よりも、母以外の女に向けたあの微笑みの方が、憎らしかった。
家族と言う存在がありながら、理性に負けた父を、由太は軽蔑していた。
「そこからすると、萌子の家は奇蹟かもな」
「え？」
唐突に言われた萌子の話に、思わず由太が答えると、
「あ」
と一馬が顔をしかめた。それから、軽く息を吐き、覚悟を決めたように言った。
「…前に、一度言われたことがあるんだ。
親が別居してたことがある、とか」
思わず目を見開いた由太に、一馬は、だけど、と話を続けた。
「前に来てたろ、試合。二人仲良く。だからさ、正直驚いた」
由太も確かにその夫婦を見ていた。
頼りがいのありそうな父。
優しそうな母。
一見すれば、理想の家族だった。
コップに付いた水滴をふき取りながら、一馬がさり気なく呟いた。
「足の傷も、その他も。あいつは思ったより骨太な人生だったのかもしれない」