Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月5
昨日より少し早い時間に現れたその姿を見ていた萌子は、通常の練習から特別練習に切り替わるその間に、わざわざ校庭を抜け出して、駆け寄って話しかけた。
「由太のこと、待ってるの？」
「あっ」
グランドのほうをじっと見ていたためか、近くの萌子にようやく気づいた由太の妹・好実は、ひどく慌てたように振り替えると、それまで掴んでいたフェンスに背中を押し付ける。
「由太の妹さん、だよね」
萌子がそう話しかけると、好実は慌てて背中に隠した傘の柄を強く握りしめながらゆっくり頷いた。意外と人見知りをするらしい。
ふと萌子の目に留まった傘は、濃紺でサイズも大きい、好実くらいの女の子がおおよそ持たないような傘だった。しかも、今日は晴れている。
「傘？どうかしたの？」
困ったようにじっと萌子を見つめていた好実だったが、はっと気づいたように息を吸うと、いきなりその傘を萌子に差し出し、口早に言った。
「あの、これ渡してください。あの人に」
「あの人？」
「あの人。えっと、四番」
好実はそう言って、グランドの中をさす。
中では練習試合の為に、ビブスを着た部員たちが軽くストレッチを始めている。その中で四番をつけているのは湊だった。
「四番。湊、かな？和泉湊のこと？」
すると好実は何度も頷いた。
「うん。お願いっ―」
「萌子？」
好実の声に被るようにして背後から聞こえてきた声に、萌子が振り返ろうとすると、好実は手にしていた傘を萌子にさり気なく押し付け、その声の主のところに駆け寄っていた。
「お兄ちゃん、行こう」
制服の袖を掴まれた由太が面食らいながら、萌子をじっと訝しげに見ている。だが、好実が更に強く引っ張るので、由太も萌子に何か尋ねるのを諦めたらしかった。
「あ、ああ…」
今日も由太は特別練習を休むらしい。
「お疲れ様」
萌子はそう言って、微妙に距離感のある兄妹を見送った。
グランドに戻ると、偶然湊が走ってきたので、萌子は手に持っていた傘を見せて言った。
「湊、これ由太の妹さんが」
「由太の妹？ああ、そうなんだ。あの子」
思い出したように頷く湊に、萌子は驚いた。
「知ってたんじゃないの？」
いいや、と湊はそっと左右に首をふる。
「この前の土砂降りの時、傘持ってなかったから、貸してあげたんだ」
湊らしい、と思う萌子の前で、湊が数回咳き込んだ。
「ごめん」
咳き込んだせいなのか、湊の顔が僅かに赤い。
「それより湊。大丈夫？試合近いのに」
もう一度コホンと咳をして、湊は頷いた。
「大丈夫。すぐに治るよ」
しばらく歩いたところで、好実は安心して、それまで掴んでいた由太の手を離した。
ここまでくれば、由太も振り返ったりすることも無い。
そうすれば、好実が渡したあの傘に気づくこともない。
昨日と今日は晴れていたが、明日からまた天気は崩れるそうだ。梅雨なのだから当然だけれど、その前にあの傘を返さなきゃ、と好実は思っていた。
あの人。
和泉、湊ってあの女の人言ってた。
イズミ、ミナト。
名前が二つあるみたいだ。
「どうかしたのか？」
くすっと笑いそうになったところで、それに気づいて由太が聞き返す。
「ううん。何でもない」
好実はそういいながら自然とスキップを踏んで、由太よりも先を歩く。
あの人、傘ちゃんと渡してくれたかな。
本当は、自分で渡したかったんだ。
だって、そうしたらお話できるもん。
だけどお兄ちゃんが来ちゃったから、頼むしかなかった。
お礼、いえなかった。
あ。でも、そうか。
明日お礼、言えばいいんだ。
「…好実」
数歩後を歩く由太が、重々しく言った。
「なぁに？」
けれど好実は明るく返事をする。
いつだって兄は、真面目腐って、優しさの欠片もなかった。
きっと、和泉湊の話をしても、鼻で笑うだろう。
「母さん、今日は早く帰ってくるそうだ。
俺とお前に、話があるらしい」
「…話、って？」
強張った由太の表情に気づいた好実は思わず足を止める。
だが、由太はそっと首を左右に振った。
「わからん」
特別練習も終わり、萌子が一人でミーティングルームにいると、朔哉が顔を出した。
「萌子、仕度できた？」
理香も美都も、ついさっきここを出て行ったばかりだ。二人はアルジャーノンに寄ると言っていたが、萌子には朔哉がいるので、断っていた。
着替え終わった様子からして、朔哉も帰れるようだ。
「ごめんなさい。これ片付けたら終わり」
萌子はそう言いながら、椅子に登り、段ボールをロッカーの上へと押し上げた。
中には今日の練習で使ったビブスがある。中身は軽いので重さは無いのだが、ロッカーの高さに、萌子は爪先立ちになっていた。
「手伝うよ」
朔哉はそういって、萌子の背後に立つと、同じように手で段ボールを押し上げた。だが朔哉はその段ボールを重いと想像していたのか、あまりの勢いに、段ボールがバランスを崩した。
「あっ」
萌子が思ったときは、段ボールはひっくり返り、二人の頭上からカラフルなビブスがバサバサと降りかかる。それだけだったらよかったのだが、段ボールまでもが落ちてきて、気づくと萌子は朔哉の胸の中にいた。
段ボールは朔哉の肩にぶつかると、そのまま床に転がった。
「…朔哉、さん？」
萌子が呼びかけると、ああ、と気づいた朔哉は、安全を確認してか、ゆっくりと腕の力を緩める。そうして朔哉は自分の肩にかかった赤いビブスを取りながら、萌子の頭にかかった埃などもはらってくれる。
「萌子は？大丈夫？」
そういったところで、朔哉はふと萌子に視線を移した。
「わたしは。だって―」
その一瞬、朔哉の頬に僅かな緊張が走る。空気が、時間が、全てが、朔哉と目を合わせたその一瞬に止まった。
そして、次の瞬間に、萌子は言葉を詰まらせていた。
肩に置かれた朔哉の手が、僅かに萌子を引き寄せる。
そうして、朔哉は身をかがめ、萌子の唇に自分のそれを重ねようとしていた。
それに気づいた萌子は、気づかぬうちに上げていた顎を引く。
朔哉の匂い、朔哉の体温、朔哉の呼吸。
その全てが、萌子の鼓動を高ぶらせる。
思わず萌子が目をぎゅっと瞑ったところで、ドアがいきなり開いて、静寂を破る無神経な明るい声が響いた。
「さっくやー。あ」
朔哉の肩越しに萌子が見たのは、入り口で立ち止まっている司と俊平だった。
唖然としているその顔が、中の状況を察知してか、ニタリと微笑んだ。
その顔を見た瞬間に、萌子は朔哉から体を離して、早口に言った。
「ごめんなさいっ今日は先に帰ります」
「あ、もえ―」
引き止めようとする朔哉の声を無視して、慌てて鞄を掴むと、
「お疲れ様でしたっ」
と入り口の二人に叫びながらミーティングルームを後にする。
「朔哉ちゃーん。なぁにしてるの？神聖なる部室でさ」
わざとらしい司の声だけが、僅かに萌子の耳に聞こえたが、萌子は無視して走り続けた。
「朔哉ちゃーん。なぁにしてるの？神聖なる部室でさ」
部室に響く司の声は、いやらしいほどに耳障りだ。
悪いが俺は、お前が知らない女とキスしてるところ、何度もここで見てるんだぞ。しかも毎回違う女と。
そう言い返してやりたいのを朔哉はぐっと堪えて、黙って床に転がったビブスを拾い上げる。
俊平が、ぶっきらぼうに言った。
「悪かったな、邪魔して」
邪魔も邪魔。
せめてあと、一分入るのが遅かったら。
無言で俯いていると、更に恥かしさと僅かな怒りで頭に血が上るのがわかった。
「しっかし、凪高のアイドルが、何焦っちゃってんのよ」
「焦ってなんか、ない」
そう答えるものの、乾いた喉が言葉を詰まらせる。朔哉はそんな自分に苛立っていた。
全く、なんでこういうことに司ってば鋭いんだよ。
拾い上げたビブスを乱暴に段ボールに入れ込むと、朔哉はひょいと持ち上げ、ロッカーに置いた。
こんな簡単なことが、萌子には大変だったのか。
ふいに朔哉は萌子が意外と小柄なことを思い出した。
さっき抱きしめた時だって、朔哉の鎖骨に額が当たる程度だったのだ。
否、抱きしめようとして抱きしめたわけじゃない。決して。
『何焦っちゃってんのよ』
だけど、朔哉が焦っていたのは確かだ。
萌子と付き合うようになってから、三ヶ月が経っていた。けれど、付き合う前の関係と違っているといえば、送り迎えしていることと、名前で呼び合えるようになったことくらいだ。
例えば何回目のデートでキスをするとか、
そのあと何ヶ月でその先に進むとか、
そういうことを朔哉は、気にしたことはない。
けれど、あまりに進展がないと、流石に考えてしまうのだ。
むろん、その為に付き合いたいと思ったわけじゃないし、
寧ろ、萌子は大事にしていかなきゃいけないこともわかっている。
けれど、朔哉だって、健全な男子高校生なのだ。
好きな女の子と、キスだって、それ以上のことだって、とは思っている。
だけど。
「じゃお前、あいつとキスしたのかよ」
司がいきなりそういった。
思わず睨み返すと、
「やっぱりな」
と言ってニヤリと司は笑った。
アルジャーノンに萌子が向かうと、ちょうど理香と美都が、そのドアを開けようとしているところだった。
三人が中に入ると、一足早く学校を出ていた一馬がいらっしゃいませと言って、三人に気づいた。
時間が中途半端なためか、お客はあまりいない。
「久しぶりだね、こうやって三人で一緒にアルジャーノンにくるの」
正面の席で嬉しそうにそう言った美都に、萌子は申し訳なさそうに答える。
「ごめんね。私がいつも別だから」
美都の隣に座った理香が、口をつけかけたコップを慌てて下ろして言う。
「なーに言ってるのっ。萌子は、朔哉先輩とラブラブなんだからしょうがないよ」
朔哉の名前が出たところで、萌子は思わずどきっとした。
先ほどの出来事を思い出し、萌子は慌てて話を逸らす。
「そういえば、あの子。今日も来てたね。えっと、こ―」
名前の出てこない萌子に代わって、理香が答える。
「好実ちゃん？由太チャンの妹の」
「そうそう」
好実と話していた時に、話しかけてきた由太の顔は、いくらか疲れきっていたように思えた。
「何かあったのかな、由太」
ぽつりと萌子がそういうと、待ってましたとばかりに理香が答えた。
「パパから聞いたんだけど、由太チャンちのママ、働き出したらしいんだよね」
「へぇ」
萌子の母親も、今は働きだしている。
子育ても一段落したから、という時期なのかもしれない。
だが黙り込んでしまった理香が気になって、萌子は聞き返した。
「どうかしたの？理香」
「うん。こう言っちゃ、なんだけど。由太チャンちのパパ、すごく亭主関白なんだよね。
女は黙って三歩後ろを歩けってタイプでさ。女が外で働くなんてもってのほかって言いそうなんだけどね」
美都も口を挟む。
「高岡君も、ちょっとそういうところあるよね」
「そうそう。由太チャンは、パパ大好きだから」
理香がそういうくらいだから、よほど好きなのだろうと萌子は思った。
だが。
『俺は父親として尊敬していた』
去年の暮れ、そう呟いた由太を、萌子は知っていた。
尊敬しているではなく、それは過去形だった。
理由はわからないが、由太の父親は左遷されたらしいが、それを家族に黙り続けているそうだ。萌子は由太に、話をするようにと言った。
あれから半年。
母親の仕事は、家計を助けるためなんだろうか。
ただそれだけで、小学生の妹と一緒に下校しなければならないのだろうか。
ふいにそう思ったが、萌子は口を噤む。
「何でもないと、いいね」
何も知らない美都が、のんびりとそう答えた。
「天下の凪高アイドルがねぇ」
司の厭味が更にひどくなる。
返事をしない朔哉を無視して、司と俊平は勝手に話し始めていた。
「まあ相手があの沢木だからなぁ、タイミング間違ったらビンタされそうだってのはわかるけど」
「けど付き合い始めてどんだけ経ってるんだよ。俺だったら別れるな、ソッコー」
「俺とお前の付き合い方を、一緒にするなよ」
朔哉はそういうと、コップに水を注いで一口で飲み込む。乾いた喉が潤うと、多少気持ちも落ちついた気がした。
「大事に、していきたいんだ」
そう呟くように答えると、朔哉はコップを置いて、壁にもたれて天井を見上げた。
やっと掴まえたんだ。
今までのことを思えば、想い続けた日々のことを思えば、この三ヶ月など、まだまだ短い気がした。
「そんなしけた面、すんなよな」
司が仏頂面になって言う。
「他の女にそんな面見せたら、イチコロでお前に持ってかれちまうだろうが」
ニヤリと笑う司に、朔哉もふっと笑顔を見せる。
「大事にすんのもいいけどさ、たまには押し倒してもいんじゃね？」
司は決してからかう口調ではなく、真剣に答えた。
「気ぃつえぇけどさ、あれでいて自分のことには弱気じゃん。沢木って」
「確かにそうかもな」
俊平もそれに同調する。
顔をを近づけた一瞬、萌子はきつく目を瞑った。
だけど、俺のことを拒絶はしなかった…。
落ち込んだ朔哉の気持ちが、少し浮上したところで、司がいつもの無責任口調で言った。
「ま、それでビンタ食らっても、俺にゃ関係ねぇけどな」
ちょっとお手洗い、と席を立つ理香の背中を見つめていると、目の前でアイスティーを飲みながら美都が言った。
「もうすぐ、インター予選始まるね」
関東大会予選で神奈川県代表に選ばれた凪高は、決勝トーナメントからの出場になる。
そろそろレギュラー選手も発表されることだろう。
「湊は大丈夫かな。こんな時に風邪引いちゃったりして」
「あ」
「どうしたの？美都」
両手で口を押える美都に、萌子が尋ねる。
「ごめん。湊君の風邪、あたしのせいなの」
美都はそういうと、萌子に話した。
この前雨の中、湊が迎えに来てくれたこと。
そうして美都に自分のブレーカーを渡したこと。
あの時、萌子はびしょ濡れになって戻ってくる湊をちらりと見かけていた。
雨の降り方もすごかったが、まるで滝に打たれたようにずぶ濡れになって帰ってきた湊に、ひどく驚いていたことを思い出す。
そういうことだったのか。
だけど、雨ならば、傘を持っていけばよかったのに―。
「あ」
だから、好実ちゃんに傘。
萌子には湊の行動が見えてきた。
けれど、それを誰にも言わない湊の優しさも。
「どうかした？萌子」
美都がそう言ったが、萌子は首を振った。
「ううん。なんでもない」
そこに理香が現れた。
「あーすっきりした。トイレ、大混雑だったよ」
「もう理香ってば」
クスクスと笑う二人を目の前に、萌子は一人黙り込んだ。
傘は持っていたのだ。でも、その傘は好実に貸した。
美都の為の傘を取りに、戻ることも出来たかもしれない。
けれど湊はそうしなかった。
それが、いち早く美都の場所に駆けつけたかったからと思うのは、自分の思い込みだろうか。一人不安がっているであろう美都のところに、少しでも早く。
美都が和美と付き合うようになって、そろそろ一年になる。
あの頃はぎこちなかった二人だが、今では二人が一緒にいても、それが普通に感じられるようになってきた。
萌子が、湊が美都の事を好きだということに気づいたのは、二人が付き合いだす少し前のことだ。気づいたけれども、湊自身も美都が和美と付き合いだすことを望んでいたし、美都も和美も両想いで、萌子たちは二人が付き合いだすようお膳立てをした。
だけど、湊。
湊は、今も美都のこと？
萌子は美都を見つめたものの、美都はそれに気づくことなく、理香と楽しそうに話をしていた。
しとしとと雨が降り始めていた。
電気を消した部屋で、由太はベッドの上で大の字になって寝転がっていた。
隣から聞こえていた好実の泣き声がいつの間にか消えていた。流石に無き疲れてしまったのだろう。
母の話は、由太の予想を僅かに越えていた。
「お父さんとお母さん、離婚しようと思うの」
由太と好実を目の前に座らせて、母は食卓越しにそう言った。
やっぱり、そうか。
由太は無言でいたが、好実は、
「嘘、でしょ」
というと、身を乗り出した。
「ごめんね。好実。
でも、これが二人で話し合った結果なの」
左遷を隠しただけなら、こうはならなかっただろう。
だが、それは、偶然母が見てしまった父の姿から、一転した。
普通なら母も家にいる時間なのだが、このところ父のこともあり、憂さ晴らしとばかりに、夜遅くに帰ってくることもあった。
母は見てしまったのだ。
父の、浮気現場を。
そこから後は早かった。
その夜、帰ってきた父に、積もり積もっていた母の怒りが、一気に暴露された。
父は何も言えずに、ただじっとその怒りを受け止めていた。
そして、最後に深々と頭を下げたのだ。
すまない、と。
情けない背中だった。
結局、母に出て行くよう言われた父は、口ごたえすることもなく、そのまま家を出て行った。
そして、働き始めた母を見て、由太はいずれは離婚するんだろうと、まるで人事のように思っていたのだ。
由太の、ただ一つの不安は、将来のことだった。
女一人の手で、高校生と小学生の養育費を払えるわけも無い。
となれば、由太もバイトや働き始めなければならない。高校を辞めることはないだろうが、サッカーのことや、大学進学のことを考えると、頭が痛かった。
「お母さんも仕事続ける自信持てたし。この家も、慰謝料としてお母さんがもらうことに一応はなったの、それからお父さんからもいくらかは養育費をもらえるから、そういう心配は要らないわ。でも」
でも？
思わず由太が顔を上げると、母と目が合った。
母は、ごくりと唾を飲み込むと、小さく頷き、それを合図のようにして話した。
「お父さん、由太か好実のどちらかと、一緒に暮らしたいって言ってるの。
勿論、お母さんも二人と一緒に暮らしたいわ。ただ…そうなると、お父さんこの家は渡せないっていうかもしれない。そうしたら、…きっとこの街には暮らせないと思うの」
それは、考えても無かった展開だった。
由太の中に、父と暮らすという選択肢はない。
尊敬していた分、失望と嫌悪感が強くなった。
となれば、この街から出て行くかもしれないということなのだ。
凪浜から、出て行く？
「お父さんもお母さんも、二人の気持ちを尊重しようと思うから。
考えてみてくれる？」
好実とはその後話していない。
母のその言葉を聞いた好実は、その後何も言わずに部屋に鍵をかけてこもったままだ。
好実は、どうなんだろう。
父と、母と。どちらと暮らしたいと思っているんだろうか。
由太はそう思いながら、雨空に向ってため息をついた。
「湊、風呂でたぞー。あれ？」
部屋に入った成だったが、ふと机に伏せるようにして湊が眠り込んでいることに気づいた。
「湊？」
顔のすぐ側には、ノートのコピーが置かれてあった。どうやら休んでいる間のもののようだ。
風邪なんか、滅多にひくヤツじゃないのに。
そう思いながら、成はどうしようかと考え込む。
このまま湊を起こすか、それとも起こさないようにしてベッドに寝かせるか。
だがすやすやと気持ちよさそうに寝ているその横顔を見ていると、起こす気にはなれなかった。
仕方ない、と成は湊の腕を持ち上げて、その下に体をもぐりこませる。
決して細身ではなく、筋肉もちゃんとついている湊の体重は、決して軽くはなかったが、それでも成は湊をベッドに寝かせると、ふうとため息をついた。
二段ベッドの下でよかった。
今さっき汗を洗い流してきたというのに、また成の額に汗が流れた。
次に成は、点けっぱなしになっている机の上の灯りを消そうとしたところで、ふいにコピーに目が言った。
書きなぐったような字は、読みづらく、たまにその字を赤い丁寧なボールペンが修正しているのだ。
そして、最後に、赤いペンでメッセージが書かれてあった。
『ごめんね、湊君。
早く、風邪治りますように。椎名』
思わず成は、はっとしたように湊の寝顔を振り返った。
それから、何となくそのままにしておかないほうがいいと、成は慌てて机の一番上の引き出しにそれを仕舞う。
湊…？
スッと引き出しを戻したところで、成は眠り込んでいる湊を見つめた。