Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月4
珍しく亜紀子に、昼休みに呼び出された由太は、指定場所の渡り廊下に向った。
廊下にはすでに亜紀子が立っていて、由太の姿を見つけるなり、包みを差し出した。
「先輩、これ」
「何だ」
亜紀子はぎこちなく微笑んだ。
「お弁当、作ってみたんです。理香さんが、この頃の高岡先輩はお弁当を買ってるって聞いたから。美味しいかどうか、自信ないけど」
包みを持つ手に、昨日は見なかった絆創膏が張られている。
意外というのか、亜紀子は決して手先が器用なタイプではない。
「…無理することない」
「ううん。そんなことないは、ないです。でも」
亜紀子はそこで一息つくと、真剣に由太の目を見て尋ねた。
「どうかしたんですか？
この頃、妹さんも練習に来てるって聞いて」
思わず顔が強張る。由太は亜紀子の真っ直ぐな視線から顔を逸らすと、
「何でもない」
と答えた。沈黙の後に小さなため息が吐息となって零れる音が由太の耳にも届いた。
傷つけてしまった気がして、由太は視線を亜紀子に戻して言い直す。
「お前が、心配することじゃない」
亜紀子は項垂れていたが、少しして、
「…はい」
と答えた。だが、顔は上げないままだった。
ふと由太は、差し出された弁当をそのままにしていることに気づき、そっと亜紀子からそれを受け取った。
「ありがとう」
そう言うと、亜紀子もようやく顔を上げ、微笑み返した。
廊下に顔を出した湊に気づき、教室の入り口で立ち尽くしていた美都は慌てて呼びかけた。
「湊君っ」
すると、湊は美都に気づき軽く手を上げた。
「椎名。あ、和美？ちょっと待って―」
「ううん。違うの。これ」
美都はそう言って、束になったB5の紙を差し出す。
「和美君のコピーしただけなんだけど。使って」
「本当に？ありがとう。助かる」
そう言って素直に受け取る湊を見つめながら、美都はずっと言いたかった言葉を口にした。
「ごめんね」
「どうして椎名が謝るの？」
湊はそう言って紙と美都の顔を交互に見つめた。
その顔は心なしかまだ赤い。
理香の話だと、湊は朝練に参加してはいたけれど、熱はまだ完全に引いたわけではないらしいのだ。
「風邪、私のせいじゃない？」
美都よりも二十センチほど高い湊を見上げながらそういうと、湊は優しく微笑み返した。
「違うよ。風邪は俺の責任。俺の管理能力の低さが原因なんだから」
「そんなことないよ、湊君、しっかりしてるもん―」
そう力説する美都の前で、突然湊は顔を逸らして咳をした。
その姿を見て、美都は項垂れる。
「…大事な時なのに、ごめんね」
「だから謝ること無いって。
大丈夫。試合までにはまだ時間あるし」
とはいうものの、誰もがレギュラーの座を獲得しようとこの時期は必死なのだ。
特に、春に入った一年生も、高校生活に慣れ始めており、樹生のように立派にAチーム入りする選手も出てきていた。
和美も、初めて出場できるインターハイだということでとても気合が入っている。
そういった意味では、湊だって同じなのだ。
ごめんなさい。
心の中でもう一度謝る美都に、湊は優しくこう話した。
「試合前ってさ、部内の雰囲気って大事なんだ。
皆が頑張ろうって、この前の関東大会みたいになってたら、出る側としてもそれに応えようって思うんだよ。
反対に、皆の士気が下がってたら、そんな気持ちにもなれないんだ。
その皆の中心にいるのが、椎名たちマネージャーなんだよ」
「え？」
「だから、そんなに申し訳なさそうな顔しないで」
にっこり微笑んだ湊に、美都もようやく笑顔を見せ始めた。
「うん」
すると湊が、ふいに大きく手を振って、美都の後ろの方向に大きく叫んだ。
「あ、和美。椎名が探してたよ」
振り返ると、驚いた表情の和美がいて、美都と目が合った。
思わず微笑むと、和美は顔を顰めて、何だよ、と言った。
僅かに口を尖らせている。
けれど美都には、それが照れ隠しであることが、付き合い続ける中でわかるようになっていた。
前だったら、大慌てで逃げ出してたかもしれないけど。
「それじゃ」
くすりと美都が微笑んでいると、湊はそう言って、教室に戻っていった。
その頃萌子は、一人保健室にいた。
今朝だったか、右京のテーピングを取り替えようとしたところ、右京にそれを拒絶されたのだ。その理由が、
「お前にされるより、今の方がいい」
というひどい返事だったのだ。
確かに右京の足首に巻かれたテーピングは一寸の狂いもないように、綺麗に無駄なく巻かれていた。
悔しくなった萌子は、右京の治療をした紗依のところに、テーピング指南を頼みにやってきたのだ。
そして、紗依は丁寧にそれを受け止めてくれた。
実験台を萌子の足として、普通だったら昼食のこの時間を、臨時授業の時間に変えてくれたのだ。もう少しすれば、生徒たちが寛ぎにやってきてしまう、ということもあり、二人は真剣に取り組んでいた。
「そこを、左手で押えつつ押すと、綺麗に巻けるのよ。ね」
「あ、ほんとだ。やっぱり先生すごい」
巻き終わったところで、萌子は軽く歩いてみた。
綺麗にテーピングで固定された足首は、固定はされているものの、繊細な動きには対応してくれる。
「すごいことじゃないわよ。私もね、一応大学のテニスサークルでマネージャーしてたから、その時選手の人から教えてもらったの。
でもあれね、サッカー部の方が皆意識高いわ。大学のサークルは、本当にお遊びだったな、って、練習見てて思う」
一通り歩き回った萌子は、そのまかれ方を思い出しながら、今度はテーピングを剥がし始めた。そうしてもう一回、今度は自分だけで巻くことができれば、あとは教わらなくても何とかなりそうだった。
意識が高い、と聞いた萌子は僅かに微笑みながら答える。
「多分、目標があるから」
「目標？」
「選手権で優勝することなんです」
すると、紗依もそれに応えた。
「聞いたことあるわ。一昨年優勝したっていう」
「もう一度、あそこに行きたいんです」
「あそこ？」
「国立競技場です。野球で言えば甲子園、ラグビーで言えば花園みたいに、高校サッカーの聖地みたいなところなんです」
「聖地か。素敵ね」
ふふっと紗依が微笑んだところで、ふいに保健室のドアがノックされた。
「田波先生、いらっしゃいますか？」
誰かが尋ねてきたらしい。
「あら。ちょっと待っててね、沢木さん」
萌子はわかりましたと答えながら、カーテンの引かれたベッドの上に座り、再度テーピングを巻き始めた。
すると、ドアの開く音と同時に、訪問者の声が聞こえてきた。
「ああ、どうも」
「どうしたんですか？有田先生」
有田は保健体育の教師で、柔道部の顧問だ。
萌子は直接習ったことはないが、厭味な教師だという話で、実際に何故だか一馬を執拗に非難するという話も、厳巳から聞いたことがあった。
そういった意味で、印象は悪い。
「あの、今日は何時まで？」
「はい？」
戸惑った紗依の声に被るようにして、有田の声が大きく響く。
「映画のチケット、手に入ったんです。ご一緒にいかがかなぁと思いまして…」
「ごめんなさい。今日は、友達と約束があって」
「じゃ、明日。じゃなかったら、明後日。いや、今週いつでも先生の都合のいい日に」
どうやら有田は、紗依をデートに誘いたいようだ。
だが当然のごとく、紗依としてはその気がないのだろう。
「あの―」
萌子はほどし終わったテーピングを、再び足に数回巻きつけると、カーテンを開けて、二人の前に顔を出した。
「先生」
萌子に気づいた有田の顔が、見る見る赤くなっていく。恥かしさか、怒りか、わからないけれど、話は早くまとめたほうがいい、と萌子は思った。
「ごめんなさい。湿布、どこでしょうか。あの私、自分でもやってできないこともないと思うんで」
すると萌子の気持ちが伝わったのか、紗依もそれに応えて言った。
「何言ってるの、ちょっと待ってなさい。すみません、有田先生。生徒の治療しなきゃならなくて」
有無を言わせぬ速さで紗依はそう言うと、有田にすっと背を向けた。
「あ、はい…」
そう小声で答え、丸めた背中で去っていく後姿に、萌子は僅かに罪悪感を感じたものの、
「ありがと。沢木さん」
と笑顔で紗依に言われて、いいえと笑顔で返していた。
理香は珍しく教室に一人だった。
四時間目のチャイムと同時に、萌子も美都もどこかに行ってしまったのだ。
美都に限っては、どこいくの？という理香に、すぐ戻ってくると返事をしたため、理香もお弁当に手をつけることも出来ずに、一人待つことになってしまったのだ。
「理香」
ふいに声がしたかと思うと、目の前に由太が立っていた。
ああ、由太チャン、と答えようと思ったものの、一目で由太が怒っていることに理香は気づく。
「余計なこと、佐々木に言うな」
「余計なこと？あ、それ。亜紀ちゃんの手作り？すごいなあ」
由太が手にしていた包みをさして言うと、由太は慌てたようにそれを背中に隠した。
一年生たちは恐れる由太の存在だったが、小さい頃から知っている理香からすれば、由太は『由太チャン』でしかない。
「余計なことって由太のお昼のこと？でもさ、大変でしょう。おばさん働きだして」
すっと由太の表情が変わる。理香は思わず胸をはった。
「へへっ。パパから聞いたの。ご近所ネットワークってすごいよ。
だけどどうしてまた、働き出したの？
おばさん、結婚してから一度も働いたことないんでしょ―」
すると由太は突然理香の机を叩いた。
それほど大きな音にはならなかったものの、教室にいた何人かの生徒が理香たちのほうを見ていた。
それに気づいたのか、由太は手をぐっと握り締めると、低い声で言った。
「煩い。…とにかく。そういうことだ」
そして、くるりと踵を返し、教室から出て行った。
残されたのは、疑惑の目を一人で受けることになってしまった理香だ。
「何よ、由太チャン」
理香は小さくそう呟いた。
「先生、恋人いないんですか？」
改めてテーピングを一人で巻き始めた萌子がそう尋ねると、椅子に腰掛けた紗依は笑いながら答えてくれた。
「なあに突然」
「有田先生、結構執拗いタイプみたいだから」
すると紗依はくすりと笑った後に、萌子の顔をじっと見つめて答えた。
「学校中の憧れの男子生徒の彼女に言われると辛いけど、残念ながら今はいないわ」
戸惑ったのは萌子だ。
「そんなことっ」
「私が高校生だったら、確かに憧れるわね。福山君みたいな人には」
え、と思わず手を止める萌子に、紗依は余裕たっぷりに、
「なーんて冗談よ」
と答えた。冗談といわれ、いくらか鼓動の高まりが収まったことに萌子は気づく。
もしかして、わたし。
嫉妬、したのかな。
男子生徒の人気も高い紗依だが、萌子からしても、紗依は美人だと思う。
紗依はそうねぇ、と机に頬杖をついた形で答えた。
「有田先生はいい方とは思うけど、残念ながら好みのタイプじゃないのよね」
「どんなタイプですか？」
萌子の鼓動が、再びドキッとした。弾みで聞いてしまったものの、後悔する答えだったら、と思うと不安になる。
だが紗依は、首を傾げながらのんびりと答えた。
「うーん。いいお父さんって感じかな。いつもは怖くて厳しいんだけど、家では子煩悩で優しい人」
どう考えても、それに朔哉は当てはまらない。
萌子はほっとしながら答えた。
「それじゃ、監督ですね。まるで」
「監督って、石橋先生？」
「可愛い娘さん二人いるんですけど、二人の前じゃ、目じり下がりっぱなしなんですよ。グランドじゃいつも怒鳴ってるのに」
「へぇ」
意外だ、というように紗依もそう言った。