Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月3
「失礼します」
成はそう言って、緊張気味に職員室のドアを開けた。日直であった成は、今日の最後の仕事として、日誌を担任の机の上に届けなければならなかった。一緒に日直をしていたはずの女の子は、ＨＲが終わったと思った途端に、自分の記入だけ終えた日誌を成に渡して、さっさと帰ってしまったのだ。
職員室は、用事が無い限り、成はほとんど入ることがない。だからこそ、緊張しながら、成はそろりとその中に入った。
目当ての担任はおらず、成はその机にそっと日誌を置く。
よし、完了。
その瞬間、一気に背中にあった緊張が緩んで、周りの声も成の耳に入ってきた。
わからないところを聞きに来ている生徒もいれば、
呼び出しをくらって、怒られている生徒もいる。
他人事ではあるけれど、誰かが怒られている場面に出くわすと、自分まで怒られているような気がした。
練習もあるし、急いで戻ろう。
そそくさと、出て行こうとしたところで、成の目に、見覚えのある姿が映る。
項垂れるその姿は、今までに見たことが無い由太の姿だった。
「いつも上位にいる高岡君が、平均点以下取るなんて、どうしたの」
由太は黙って立っている。口答えしないことからすると、それは事実のようだ。
「しかも、私の英語だけじゃなくて、他の教科もそうだっていうじゃない。
何か悩み事でもあるの？」
由太が黙ったままでいると、担任であるその女教師は声を潜めて言った。
「サッカー部？」
その瞬間、すくっと由太は顔を上げた。
「部活は関係ないです。自分の…努力不足です」
だが最後には再び項垂れた由太を見て、教師もいくらか口調を和らげて、励ますよう言った。
「そう…。なら、今度の期末は頑張ってよね。
君は、スポーツ推薦の生徒とは違うんだから、無理してサッカーを続けること、ないのよ」
「逆に返せば、スポーツ推薦者は、勉強は片手間でいいってことですか？」
声を荒げてはいないものの、由太のその言葉には明らかに棘があった。成としても、教師の今の言葉の方に棘があるように思ったけれど、表情を変えた教師を見て、由太は静かに頭を下げた。
「すみません。言葉が過ぎました。話がそれだけなら、失礼します」
雷が落ちる前に、ということなのだろうか。由太はそういうと、顔を真っ赤にしている教師に一礼して、素早く踵を返すと立ち去って行った。
由太が振り返った瞬間、成は慌てて机の影に身を潜めたおかげで、今の話を立ち聞きしてしまったことに、気づかれずにすんだようだ。
由太が職員室のドアを閉める音を聞いて、成はほっと一息ついた。
だけど、由太って、頭よかったよな、確か。
厳巳のように学年トップを争うほどではなかったはずだが、それでも上位にいつも入っていて、特に先生からの人望が厚い。
『自分の…努力不足です』
けれど、暗い表情で、だけどきっぱりそう答えた由太には、いつもの厳格さがなかった。
どうかしたのかな、由太。
考えながら職員室を出たところで、成は大きく背伸びをした。
さてと、部活に行くか。
昇降口に向う階段へと角を曲がりかけたところで、成はパタパタという足音と、石橋先生、という高めの女性の声を聞いた。
思わず振り返ると、職員室に入ろうとしていた石橋が、立ち止まり、廊下の遠くのほうを見つめていた。
「すみません、石橋先生」
走ってきたのは、保健医の紗依だった。
「何か？」
石橋は、息を弾ませやってきた紗依にそういう。紗依は、胸に手を当てて、呼吸を整えると、頭を下げた。
「あの、昨日はありがとうございました。わざわざ車で送っていただいて」
「いえ。あの時間まで先生を引き止めたのは、こちらの事情ですから」
「でも、傘を忘れていたので、助かりました。ありがとうございました」
「こちらこそ」
石橋の表情が、いくらか綻んだのを見て、紗依は元来た道に戻って行った。
石橋の言う、こちらの事情とは、右京の怪我のことなのだろう。
昨日の右京の怪我の治療をしたのが、紗依だという話は、サッカー部内でも持ちきりだった。
「いいなあ、右京」
寮に帰ってからもそれは同じで、右京の部屋に集まって、ケンたちと大富豪をしていた時、ベッドに転がる右京の怪我した足を見て、ふいに篤志がそう言った。
「アッチってば、気が多くない？」
「おい厳巳、あの田波先生だぞ。俺だって羨ましいよ」
篤志に代わって、横からケンが口を挟む。そうかな、と厳巳は首を傾げる。
「だって二人にはちゃんと、理香ちゃんと、亮子ちゃんって彼女がいるわけだし」
「だから、それとこれとは別。ってゆーか、だったら俺、田波先生のがいいっ。あ、いっそのこと俺も怪我しちまおうかな」
ケンってば、と厳巳がため息をつく。
何か同じようなこと、俺も言われてなかったか、と成は首を傾げた。
「成はどう思う？」
「俺？…うーん。美人だけど、美人って、そう思うだけかな」
するとカードを出しながら、ケンが荒々しく言った。
「だから厳巳、こいつに聞くのが間違いなんだって。この純情一筋男がっ」
そして、肘で成の方を小突く。
「ってっ。そんなこと、ない、と、思う、けど、でも―」
だが次の瞬間、篤志がエースを四枚そろえて出した。
革命だ。
今まで一番強かった２のカードが、一番弱いカードへと一気に変わる。
悲鳴があがり、成の言葉はその中でかき消されて行った。
今も、足取り軽やかに廊下を歩いていく紗依の後姿を見て、成は思う。
確かに美人だけど。
でも。
そう言って思い描くのは、萌子の笑顔だった。
インターハイが近づいてきたこともあって、再開された特別練習には、レギュラー選手を中心に部員の多くが引き続き参加していた。その特別練習も、この頃の雨で無しになることが多かったのだが、昨日とはうって変わっての晴天に、久しぶりに行われることになったのだ。
通常の練習が終わって、これから特別練習という時間に、萌子はグランドを見渡したところで声をあげた。
「あ、あの子」
そう言って萌子の指差す方向を、隣にいた朔哉も追いかける。
そこには小学校の高学年と思しき女の子が立っていた。
「ほら、あそこ。昨日も来てたのよ」
「知り合い？」
朔哉がそう聞き返すと、萌子は首を振った。
「ううん。あれ？由太。もう上がるの？」
タオルを手にした由太が、どこか急いで萌子たちの脇をすり抜け、グランドを出て行こうとしていた。
「悪い。用があって。お先に失礼します」
「お疲れ」
朔哉はそう答えると、手にしていたドリンクを一口飲んだ。
そろそろ特別練習を始めるとするか。
ふと隣と見ると、萌子はまだ由太の背中を見つめている。
「萌子？どうかした？」
「由太が、最近付き合いあまりよくないって理香がぼやいてたけど。何かあったのかな。
亜紀子ちゃんなのかしら」
独り言のように呟く萌子に、朔哉は尋ねる。
「亜紀子ちゃんって、高岡の彼女か。一年の」
「そう」
朔哉も何回か見たことがある程度ではあったが、なるほど由太にお似合いの女の子だと思った記憶がある。
数歩後を付き従うような、そんな風に思えた。
「でも。由太に限って、そういうこともない、か」
一人そう結論を出した萌子に、朔哉はからかい半分に言う。
「俺に限っては、あるってこと？」
「違います。朔哉さんも、そういうタイプじゃないと思うし」
「そういうって」
朔哉はそういって、じっと萌子の答えを待った。萌子はうーんと少し考えて、答えた。
「恋愛だけの人、というか。
恋愛に引きずられる人じゃないと思う」
その言葉の意味を、もう少し聞きたいと思ったところで、グランドの中から俊平が朔哉を呼んだ。
「朔哉っ。特別練習始めるぞ」
「頑張ってね」
萌子はそういうと、にっこりと微笑んで朔哉をグランドに送り出した。
グランドには沢山の部員たちが、駆け回っていた。
その一人ひとりを探しながら、好実は小さくため息をつく。
違う。
昨日の人じゃない。
その手に握られたのは、昨日その人から借りた傘だ。
何となく、一人で家に帰りたくなくて、兄の高校に顔を出したのは、ほんの思い付きだった。
けれど、兄の所属するサッカー部には沢山の部員がいて、兄を探すこともできなかった。誰かに聞こうとしても、皆真剣に練習に励んでいて、背も高く、怖さの方が先に立ち、好実は仕方なく、フェンス越しにグランドを眺めていた。
不安に駆られたところで、いきなりの大雨だった。
いつもだったら、出掛けに母親に傘を持っていくように言われるものの、このところそういうこともなく、好実は傘も持っていなかった。
雨に濡られながら、どこか庇のあるところに逃げることもできず、立ちすくんだ好実に自分の傘を差し出してくれた人。
必要なくなったら、このフェンスにかけてくれればいいとは言っていたけれど、好実は会って渡したいと思っていた。
会って、話がしたい。
微笑むと幾重にも出来た目じりの皺が、好実を安心させたあの人。
だけど、思い出すと、胸の奥が何かに捕まれたように、少し息苦しくなるあの人。
好実は、兄ではなく、その人物を探していた。
「どうかしたか、好実」
低い声が響く。
振り返ると、制服に着替えた兄・由太が立っていた。
笑顔を見せることも無く、待たせたことを謝ることもしない。
最も、部活のことを承知で由太の高校に押しかけたのは好実だから、由太としては謝る理由も無いのだが。
ふいに由太の視線が、好実の右手に移る。
「何だ、その傘」
「ううん。なんでもない」
好実は、思わずその傘を後ろ手に回した。
頭のよくて、何でもできて、だけどそれが当たり前だと思ってる意地悪な兄のことだ。
この傘の話をしたら、まずは鼻で笑うに違いない。
「じゃ。帰るぞ」
一瞬好実はグランドに視線を馳せながらも、そう言って、さっさと歩き出した由太の背中を追いかけた。
「あれ？もしかして、由太の知り合い？」
何となく気になって、特別練習が始まってからもちらちら見ていたところに、由太が現れて二人で歩き出したのを見て、思わず萌子は言った。
それに気づいた理香が、萌子の視線の先を追いかけてから答える。
「妹だよ、好実ちゃんっていうの。確か、小学五年生。
…だけど、どうしたんだろ」
二人の視線に気づいたのか、由太はさっさと歩き出してしまった。
それを見て、萌子は納得した。
そうか、妹さんが来てたから、由太。今日は早かったのか。
けれど理香の方は、逆に首をかしげている。
「もしかして、おばさん、入院してるとかかなあ。そういや、由太のランチって、最近買ってきたパンなんだよね」
「そうなの？」
驚いて萌子がそう聞き返したところで、美都が現れて二人に尋ねた。
「ねぇ、湊君は？」
「今日は休み。美都、気づいてなかったの？」
すると美都は小さく、えっと言ってから答えた。
「ごめん。クラスも離れちゃってたし」
「風邪なんだって。昨日びしょ濡れになってたから、それが原因みたい」
「昨日？」
表情の曇った美都に気づくことなく、萌子がため息混じりに言う。
「試合が近いのに、大丈夫かな、湊」
「ねぇねぇ今日お見舞いに寮、行こうよ」
突然はしゃぎだした理香に、萌子が首を振る。
「駄目だって。マネージャーに風邪がうつったら、部内に蔓延するからって、さっき篤志に言われたの」
「…そっか」
しゅんとして答えた理香に、萌子が湊の熱が下がったら寮に行こう、と誘っていた。
神奈川県は今までは四強といわれる高校がどの大会でも出場権を得ていた。
清南大付属、箕輪学園、諏訪高校、そして、凪浜高校だ。
だが、その図も今年辺りから崩れつつある。
今までは名前も聞いたこともないような高校が、県大会の上位に食い込んできたり、四強である高校と互角以上の勝負をするようになってきたのだ。
いずれにしても、油断はできないな。
ミーティングルームで、ライバルとなる高校のスコア表を閉じながら、朔哉はそう心の中で呟いた。
関東大会での優勝は、まぐれではないだろう。
部員たちにも、それなりの自信はついてきたといえる。
だからといって、すんなりインターハイに出場できるほど、高校サッカーも甘くは無い。
さてと、そろそろ萌子も戻ってくるだろうし、鞄でも取ってくるか。
練習が終わった所で、萌子は石橋に体育教官室まで呼び出しを受けていたのだ。
朔哉は部室に続くドアを開けようとしたところで、中からわさわさと声がすることに気づき、思わずその手を止める。
聞こえてくる声からすると、どうやら残っているのは、特別練習に参加した一年生たちのようだった。
そのメンバーは、言い換えれば、レギュラー選手に練習試合を挑んだ一年生でもあった。
「けどさ、樹生も大胆発言だよな」
そういったのは、学年代表となった伊東だ。
「何が」
ぶすっとした表情で、樹生が答える。
「昨日の。近くに福山先輩いるのに、沢木さんのファンだとか堂々と言って。ひやひやしたよ」
顔をしかめる伊東に、樹生があっけらかんと答える。
「あー？だって、俺ファンだもん。まっつんもそうだろ？」
「だけどっ俺、別に付き合いたいとかそういうんじゃないし」
樹生に引っ張り出されたように、充彦が慌てて答えた。
「あの時の福山先輩の表情、怖かったぞ」
「マジ？どうしよ…。そんなんじゃないのに」
「そんなんじゃないって？」
望がきょとんとした表情で聞き返す。充彦は、必死に答えた。
「だからさ、福山先輩から奪いたいとか、そういうライバルだとか思ってないってこと。だいたい足元にも及ばないよ。俺なんか。俺と比較なんかしなくても、やっぱりすごいもん。あの人。サッカーも、人格も、ルックスも、全部」
「そっか？俺は成さんの方が、全然かっこいいと思うけどな」
「樹生…。お前の早坂先輩の自慢話はもう聞き飽きたよ。
確かに、まっつんの気持ち。俺もわかるな」
「だよね、伊東」
伊東は松本が安心するように大きく頷いた。
「勝負する以前から、もう決まってるって感じ。
それに、仮に沢木さんが独り身になったとしても、俺は遠くから見れてればいいかなって思う」
「何でだよ」
納得がいかないというように樹生が怒ったように言う。
「比べられるだろう。沢木さんに、福山先輩と。どうやったって、勝ち目ないんだもん。無理だって」
すると突然、望が言い返した。
「だけどさ、そうやってまっつんが沢木さんのこと諦めるのって、おかしいよ。
好きなら相手にどんな恋人がいようとも、その恋を全うすべきだって」
「望ね、そういうこと目をキラキラさせて言うんじゃないっての」
伊東がそう言って、頭を抱えるその横で、樹生が叫ぶ。
「俺も、望に賛成！
まっつん、頑張れよっ。まあ、成さんには叶わないだろうけどさっ」
思わず耳を押えながら、伊東は言った。
「樹生まで。っつーか、沢木さんの彼氏は福山先輩だし、本当に応援してんのか、どうなのかわかんねぇけど。
頼むから、俺と一緒の三年間は、平穏無事なサッカー部でいてくれよ」
一人で盛り上がる樹生、その横で頭を抱える伊東、そして、目を必要以上に輝かせる望を見て、充彦は思わず小声で言う。
「…あの、俺、なんか勝手に頑張ることになってるんですけど―」
そんな充彦の声を遮って、樹生が更に声を張り上げた。
「じゃ、今日は、まっつん応援会の旗揚げってことで、これからアルジャーノンに集合！」
ざわついていた部室が、それから程なくして静まり返る。
朔哉はそっとドアを開けると、先ほどの喧騒が嘘のように部室は静まり返っていた。
中央には、誰が忘れたのかサッカーボールがひとつ転がっている。
朔哉はそれを拾い上げると、しばらくその場に立ち尽くしていた。