Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月2
保健室に行くと、帰る準備を済ませていた紗依がいた。それでも、萌子が事情を話すと、すぐに右京を見てくれることになった。
右京はベッドに座らされると、すぐさま靴下を脱がされた。
僅かに熱を帯びた足首に、紗依のしっとりとした手が触れる。
「痛い？」
その心地よい冷たさに、思わず右京は体を強張らせる。
右京が何も答えないことを、否定と受け取ったのか、紗依は足首の逆側に触れる。
「ここは？」
紗依はそう言って、探るように右京を見つめる。
まともに長く見つめられるのは初めてだ。
右京が無言で思わず顔を逸らすと、小さなため息が聞こえてきた。
「藤原君って、いじっぱりなのね。
でも、痛いって言ってもらわないと、どこがどう悪いのか、わからないわ」
しっとりと、でも高めの声が、リズム良く右京に響く。
「…っ」
と、いきなり紗依が右京の足首を軽く捻った。痛みで思わず顔をゆがめると、安心したように紗依が呟いた。
「捻挫、みたいね。ただの。
大丈夫よ、腫れもそんなにないし、湿布をはって、二、三日安静にしていれば」
微笑んだ紗依の顔に、再び右京は顔を逸らす。すると、心配そうに見守っていた萌子がそわそわしながら聞いた。
「先生。二週間後には試合あるんですけど―」
「大丈夫よ。問題ないでしょう」
はー、という大きなため息が萌子の口からあふれ出た。
「よかった」
二、三日の安静が気にならなくも無いが、右京もそれを聞いて一応は安心した。
「あら？雨かしら」
右京から離れ、棚から包帯を取り出しながら、紗依がそういう。確かに、保健室の窓に、いくつか水滴が付き始めていた。
「あの、田波先生。私、部活に戻っても大丈夫でしょうか。
雨が降ってきたら、練習も終わりになるかもしれないし」
「いいわよ。藤原君の手当てはしておくから」
快くそう言う紗依に、萌子は明るく答えた。
「ありがとうございます」
突然振り出した雨は、すぐに大降りになった。
練習は一旦中止となり、部員たちも慌てて部室に駆け込んだものの、夕立のような激しい雨に、誰もがびしょ濡れになっていた。
その中を、理香が一人てんてこ舞いになりながらタオルを配っている。
成ももらったタオルで濡れた髪を拭いていると、湊がロッカーから傘を取り出して外に再び出ようとしていた。
「あれ？湊、どこいくわけ？」
「ちょっと、忘れ物して」
それだけ答えると、湊はさっと部室を出て行った。
理香が一人で忙しかったのには、わけがある。
萌子は右京の付き添いで保健室に、
そして、美都は体育倉庫での仕事を指示されていた。
体育倉庫は、グランドを間に挟んで、校舎のちょうど対角線上にある。
体育倉庫には、部活のボールと、授業に使うボールとがあるのだが、最近サッカー部のボールの数が減っていることに、まず石橋が気づいた。
授業の方に使われてしまっているようだ、という話になり、とりあえずサッカー部のボールは、部室に納めることになった。そして、授業で使うボールの入っている籠の中に、部のものがあるかどうか、その確認を美都が言い渡されたのだ。
けれど、湊は知っている。体育倉庫には、もう一つ、所属のわからないサッカーボールの籠があって、その中にサッカー部の古いボールがまぎれていること。
そして、美都ならば、それもひっくり返しているであろうことを。
しかも、美都のことだ。
雨に気づいた時は、もう土砂降りで、出るに出られずに困っているに違いない。
体育倉庫からこの部室に向うには、広いグランドを横断しなければならないのだ。
外に出ると、雨はいっそう激しさを増していた。
その中を急ぐ湊の目に、ふとグランドの前で、鞄を頭に掲げて立っている少女が映る。
小学生の高学年くらいだろうか。フェンス越しにただ立ち尽くしている少女に、湊は駆け寄った。
「どうかしたの？」
傘を差し掛けると、少女は驚いたように鞄の端から顔を覗かせる。
「あ、あの…」
誰かに似ていると思ったが、それが誰なのか、湊にはわからなかった。ただ、不安そうな表情が印象的だった。
おそらく一人で帰っていたところで、いきなり雨が降ってきて、不安に駆られたんだろう。一人でいる時に、予期せぬことが起きると、人は無性に不安になる。
湊はそう思いにっこりと微笑むと、そっと傘を少女に差し出した。
「ちょっと大きいかもしれないけど、これどうぞ」
少女の手に無理やり持たせると、湊は着ていたブレーカーのフードを深く頭に被った。一応防水加工されていたはずだ。少しは、ましだろう。
「でもっ」
少女の引き止めに、湊は再びにっこりと笑いかけた。
「気が向いたら返しに来てくれればいいから。このあたりにでもつるしておいて」
湊はそういって、フェンスを指差す。
美都が一人、不安になっているのではないかと気になっていた。
このままダッシュするか。
湊はそう覚悟を決めると、勢いよく大きな水溜りと化したグランドに駆け込んで行った。
「雨、強くなってきたわね。夕立かしら」
紗依はそういいながら右京の足に包帯を巻いていく。
右京が何も答えないことをわかってなのか、紗依はそのまま独り言のように話を続けた。
「最近、雨ばかりで嫌ね。
それにしても、困ったわ。今日は、傘持ってないのに」
小さなため息でさえ、右京の耳には心地よい風の音にも聞こえ、そのままそっと目を瞑った。紗依はそれに気づいてないのか、それともやはり独り言だったのか、まだ話を続けている。
「谷垣先生も帰っちゃったし、どうやって帰ろうかしら」
谷垣とは、担当が国語の、二十代後半の女性教師だ。
紗依と一緒に歩いているところを、右京は何度か目にしていた。どうやら仲がいいらしい。
「他の先生方と相合傘するのも、気が引けるし…」
困ったな、と紗依は呟いている。
ぽつぽつと語るその一言が、心地よく右京の体に響いた。
目を閉じると、それをいっそう強く感じる。
それにしても、意外と口数は多い。
このまま放っておけば、それこそ歌を歌いだしそうな勢いだ。
歌、しかも童謡。
雨なのだから、雨降りの唄とか。
くす、と笑いかけたところで、ふいに自分の腕にしっとりとした何かが触れて、思わず右京はハッとして目を開ける。
目の前には、右京の腕に手を触れて、右京の顔を覗き込んでいる紗依がいた。
右京の狼狽振りに、紗依も少し戸惑いながらも笑顔で答える。
「ごめんなさい。目を閉じてるから眠ったのかと思っちゃって」
すっと、紗依の体が右京から離れる。その瞬間、言いようのない寂しさが、右京を襲った。だが、その紗依の手をつなぎとめることも出来ずに、右京はそっと項垂れる。
すでに治療は終わり、左足には白い包帯が丁寧に巻かれていた。
紗依は椅子から立ち上がり、窓辺から空を見上げると、右京に尋ねた。
「サッカーって雨の中でも試合やるのよね。練習も、そうなの？」
雨でも、雪でも、試合があるのがサッカーだ。
だが練習となると、それは監督である石橋が決めることになる。
雨の中の練習で体を冷やしかねないとなれば休むだろうし、軽い雨で、逆にいい試合の予行練習になると判断すれば、練習は続行する。
黙りこんでいると、紗依も何も言わなかった。
自分の返事を待っているのだと気づき、右京はぽつりと答える。
「…場合に、よる」
すると保健室のドアが開き、当の石橋が顔を出した。
「すみません、田波先生。ご迷惑をかけて。どうですか、藤原の具合は」
石橋は一瞬、右京の左足を見て、その白い包帯に目を顰めた。思わず右京も顔を背ける。
そんなことに気づかぬ紗依は、明るく答えた。
「捻挫みたいです。できれば、三日間ほど安静にしていただきたいのですが」
「わかりました。藤原。こんな天気だし、練習も終わりにした。お前、歩いて帰れるか？」
学校から寮まではさほど距離はない。
雨だから傘を持たなければならないけれど、何とかなるだろう。
「はい」
そう答えて、右京はベッドから降りる。
きちんと包帯で固定されているからか、思ったほど痛みを感じなかった。
右京に保健室を出て行くよう促して、石橋が紗依に言う。
「田波先生もすみませんでした。お帰りのところ」
「いいえ。お役に立ててよかったです」
厭味ではなく紗依はにっこりと笑ってそう答えた。
「どうしよ…」
空から降る大粒の雨を見ながら、美都はそう呟いた。
何となく、グランドが静かになったなと思ってはいたものの、まさか全員引き上げていたとは思わなかった。
挙句にこの雨だ。
当然のごとく、体育倉庫に傘は無い。
しかも、校舎からは離れているため、叫んでも誰も来ない。
加えて、美都が持っているのは、サッカー部のボール五個。両手に抱えるのがやっとなのに、そんなのでグランドを横断すれば、全身ずぶ濡れなのは目に見えていた。
けれど、いつまでもここいるわけにはいかない。
体育倉庫の中で、美都が覚悟を決めようとしたとき、ガラガラとドアが開いて、湊が現れた。
「大丈夫？椎名」
「湊君っ。…うん。大丈夫。なんかすごい雨だね」
湊は中に入ると、濡れたブレーカーを脱ぎ、その水を払う。
途端に、湊の足元に水溜りができた。
「夕立だといいんだけど」
そう答えながら、湊はそのブレーカーを美都に差し出した。
「これ、使っていいから、椎名は部室に戻った方がいいよ」
「え、でも湊君が、それに、これ―」
言っているそばから、美都の持っていたボールを、湊は取り、手にする。
「俺が持ってくから、大丈夫」
「でも―」
いくら湊の方が足が速いとはいえ、雨に濡れないわけでもない。
美都が困っていると、大丈夫、と湊が力強く言った。
「部室の周り、雨に濡れた部員だらけで大変なことになってるんだ。そっちの方、頼みたい」
ね、と僅かに微笑む湊に、美都は最後には頷くしかなかった。
「…わかった。ありがとう。湊君」
「どういたしまして」
湊のブレーカーは、美都の体には大きすぎたが、雨避けにはそのほうがいいように思えた。傘を持ってくる、という美都の誘いを断り、湊はそのまま美都を送り出した。
何度も振り返ろうとする美都に、早く部室に行くよう湊は促す。
わかった、という美都だったが、駆け出して数メートルで、躓き、転びかける。
「気をつけて」
湊のその声に、美都は手を振りながら答えた。
その姿が建物の中に消えていくのを見ながら、湊は空を見上げる。
しかし、本当にやむのかな、この雨。
関東大会の優勝で、部員たちは盛り上がっていた。
この勢いで、インターも優勝するぞ、と思う部員たちは少なくない。
ただ、全国にはまだ沢山の強豪高があり、そこまで楽観視していない部員もいる。上にいる選手であればあるほど、その思いは強い。
皆、体が知っているのだ。
全国は、それほど簡単ではないということを。
その不安を解消する為にも、練習をしたくてたまらないのだが、そこに反するようにここ数日の天候は悪い。
梅雨だから仕方の無いこととはいえ、有り余るパワーを、皆どこに発散すればいいのかを、悩みだしてもいたのだ。
ま、そんなこと考えててもしょうがない。
行くか。
気合を入れると、湊はボールを四つ両脇に抱え、一つは足元に転がせながら、雨のグランドに飛び込んで行った。
結局帰る時刻になっても、雨は降り続いていた。
窓の外には、慌ててかけていく美都と、その先に不貞腐れたように傘も差さずに歩く和美の姿があった。どうやら天気予報を見てなかったらしく、和美は傘を持っていないようだ。美都が自分の傘に入るようにとしているのだが、和美はそれを拒否し続けている。
相合傘しているところを誰かに見られたくないらしい。
けれど結局、美都が和美のスピードに合わせて、一生懸命並走することに諦めたのか、和美は美都の手から傘を奪い取ると、ゆっくりと歩き始めた。
その様子をじっと見ていた萌子は、微笑みながらカーテンを締めた。
何だかんだいって、あの二人はうまくいってるんだなぁ。
振り返ると、いつものメンバーたちが、部室の中で帰り支度をしていた。それでも他の部員たちは、雨が激しくなるのを避けて、早々と帰っていた。
「そういえば、由太は？」
ふと気づいた萌子が尋ねると、知朗が答えた。
「知らね。先に帰ったんじゃね？」
そして、付け加えるように理香が言う。
「最近由太ちゃん、付き合い悪いからね」
そういえば、このところ由太は特別練習にも参加をせずにそそくさと一人帰っている。
何か、あったのかな。
そう思う萌子の前で、右京が一人、足を引きずりながら部室を出て行こうとして、萌子は慌てて声をかけた。
「そう。あ、右京。荷物、私が持つから。送ってく」
萌子が右京の前に立とうとすると、篤志が出てきて右京の鞄を取り上げた。
「いいよ、萌子。それは俺がやるから」
「でも、右京、足怪我してるわけだし、足引きずりながらだと傘も差しづらいだろうし」
すると理香が、萌子の肩をポンと叩いた。
「いいからって。
萌子は、いつもと一緒で、朔哉さんと一緒に帰りなよ」
「だけど―」
確かに朔哉はまだ一人、隣のミーティングルームにいて、インターハイ県予選の対策を練っている。
「代わりに部室の戸締り、よろしくね」
理香はそういうと、部室の鍵を投げて萌子に渡す。
萌子が何か言おうとすると、脇からケンが口を挟んだ。
「いざとなったら、俺が右京のことおぶってやるからさ」
「え、ケンが？」
「どうしたの。急に親切になって」
一年ほど前までは、ケンは右京のことを目の敵にしていたのだ。
思わず右京まで足を止める中で、ケンは腕組みをして答える。
「思ったわけよ。
俺が全国デビューするのには、こいつが必要なんだって。こいつが頑張って凪高が有名になれば、俺も雑誌に載ったりなんかして、そこから俺のファンもできたりして―」
大きなため息が、部室中に漏れる。
「またケンの妄想か」
「亮子ちゃんに言いつけておこうっと」
ついに右京はドアを開けた。むっとした湿気が部室に入り込む。
萌子が右京を引き止める前に、理香が早口に言った。
「とにかく萌子は、朔哉さんと一緒に帰ってよ。
今日の練習、萌子がいなくなってから、朔哉さん寂しそうだったんだよ」
え？と思う萌子に、残っていた部員たちが、お疲れと声をかける。
仕方なく萌子も、お疲れ様と返した。
「っくしゅん」
ふいに部室を出かけた湊がくしゃみをする。
「大丈夫かよ、湊」
「ああ」
いつものように湊は微笑んではいるが、それでもまたくしゃみをする。その様子を見て、厳巳が言った。
「気づいたらずぶ濡れになってんだもん。寮に戻ったら、お風呂だね」
「サンキュ」
湊がそう答えたところで、ドアがバタンと閉まり、萌子はため息と共に部室に残された。