Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
雨宵月1
あ。
そう心の中で呟く。
わずかにそのほっそりとした手が自分の腕に触れただけだというのに、松本充彦(みつひこ）の心臓は跳ね上がる。
不覚だった。
練習中に目の前のボールだけ見ていて、ゴールポストを見てなかった充彦は、ボールをクリアするとそのまま激しく肩をぶつけた。
結構な痣になって、実際に痛みはジンジンと体に響く。心配した萌子が、こうして肩に湿布を貼ってくれているのだが、充彦はさっきから、痛みを感じなくなっている。
それよりも、萌子が間近で手当てをするたびに、自分の肌に触れることの方が、気になってならないのだ。
「どうかしたの？」
何も気づいていない萌子が心配そうに充彦を見つめる。
おそらく、一年の中には萌子が目当てで入った部員もいるということすら、気づいてないのだろう。充彦は、それが目的ではないにしても、こうして辛い練習を乗り越えてきたいくつかの理由の一つに、萌子があった。
とはいえ、付き合いたいとか、そういう感情でもない。
「あっ、いっ、いえっ」
間近で見つめられて、充彦は思わず顔を逸らす。
第一、萌子にはあの朔哉がいる。その朔哉から萌子を奪おうなんておこがましい事、想像すらしていない。
そう、単なる憧れの人、なのだ。
「風邪かなあ。顔が赤いよ、松本君。さっきもぼーっとしててポストにぶつかってたわけだし」
萌子は心配そうにそう言って、救急箱の中を探る。
「いやっ、あのっ」
このままだと勘違いした萌子は、風邪薬まで出してきそうな勢いだ。
何か言おうとしたところで、萌子の後ろからひょいっと顔を覗かせて
「つまり、まっつんは、萌子さんのファンだってことだよ」
と、樹生が言った。
新田樹生は同じ一年だ。そして、性格は正反対とも思える充彦と、何気に仲がいい。
言い当てられて、思わず充彦は力を入れて叫んだ。
「余計なこというなよっ、樹生っ」
「何だよ、急に叫ぶなよ」
顔をしかめる樹生に、萌子も言う。
「そうよ、そんなことないわよね、松本君」
「いえ、あの」
にこっと微笑まれ、充彦は言葉に詰まった。
違うって言えば、萌子さんを否定することになるし、
だからって、そうですなんて、俺には言えないし。
顔を俯かせた充彦とは対象に、樹生はあっけらかんと答える。
「っつーか、俺も萌子さんのファンだよ。もちろん、成さんの方が萌子さんにはお似合いだけどね」
理由は知らないが、樹生は萌子と成がお似合いだと信じて疑っていないのだ。
実際に萌子には朔哉という公然の恋人がいるわけで、以前はむきになって否定していた成だったが、この頃は言い返す方が疲れると悟ったらしく、ほとんど放置している。
それは萌子も同じで、そっとため息をついていた。すると、
「新田、松本」
と、いきなり名前を呼ばた。
「うわっ、はいっ」
振り返った樹生が、思わず大きな声をあげる。
そこには仁王立ちする朔哉がいた。
「練習に戻れ」
「はいっ」
低くグランドに響くその声に、慌てて充彦も樹生も駆け出した。
ただ一人、萌子だけが淡々と後片付けをしている。
その呑気な様子に、思わず朔哉も呟いた。
「ったく。油断も隙も、あったもんじゃないな」
「え？」
「…いや、なんでもない」
朔哉はそういうと、萌子の隣に腰を下す。
そうしていれば、萌子のところに誰も寄ってこないということを、朔哉は知っている。
それにしても、どうして萌子はこんなに自分の周りには鈍感なんだろうか。
他人の色恋沙汰には敏感だというのに。
ふぅと小さくため息をつくと、グランドの中から石橋の怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい朔哉っ、何休んでるっ。早く練習に戻れっ」
テスト明け早々に行われた関東大会で、凪浜高校は優勝した。
大きな大会での優勝経験は、実のところ選手権の一度しかない凪高にとって、これは大きな功績だった。
関東大会は、その名の通り全国大会ではないが、上位に入れば、秋口に行われる全日本ユース選手権に出場することができる。
高校チームだけではなく、クラブのユースに属する選手たちも参加するこのユース選手権は、夏のインターハイ、年明けの選手権と並んで大きな大会だ。
ゴールデンウィークに行われた若葉杯での帝王高校からの勝利が、単なる幸運ではなかったということを証明した凪高は、そうして一気にインターハイ優勝の有力校として名を上げた。最も、神奈川のインターハイ予選決勝は、あと数週間後に始まるのだが、いずれにしても県外のチームからも要チェックされること は目に見えていた。
そのプレッシャーを跳ね返す為にも、石橋は練習を続けたいと思っていたのだが、このところ梅雨に入って天気も悪く、正直グランドでの練習はままならない状態だった。
見上げると、どんよりした雲が空一面を覆っている。
チームの流れに、暗雲が立ちこまないといい。
ふいに欠伸が出てきて、慌てて石橋はかみ殺す。
昨日も、ろくに寝ていないのだ。
原因が、妻・汐里との喧嘩とは、部員たちにはいえなかった。理由はわからないのだが、このところ汐里の機嫌はいいとはいえない。
それでも、家庭の問題を学校には持ち込まないと、石橋はいつもと変わらぬ厳しい態度で部員たちを見ていたのだが、それでも問題は起きた。
主力メンバーの右京が、練習の途中で、グランドにうずくまったのだ。
どうやら、実際にディフェンスをおいての実践に近い練習で、ディフェンスをしていた選手と競り合った際に、左足を捻ったようだ。
いつにも増して無口な右京だが、すぐに立ち上がり、走り出せないところを見ると、大きな怪我ではないようだが、とはいえ簡単に済まさないほうがいい。
インターハイは間近で、すでに右京は、チームの核となる選手だった。
「見てもらったほうが良さそうだな」
石橋はそう呟くと、側にいた萌子に声をかける。
時計を見ると、まだ五時前だった。
保健医の田波紗依が、保健室にまだいるかもしれない。
「沢木、保健室に連れて行ってもらえるか」
「はい、わかりました」
萌子はそう答えると、右京の左肩の下に入り、支えると、二人でグランドを出て行った。
「大丈夫かな、右京」
「インターハイ予選、近いってのに」
「何でもないと、いいけど」
ざわめく部員たちに、石橋は怒鳴るようして練習再開を告げた。
支えなくてもいいだろう。
そもそもあれじゃ、支えになんかなってない。
朔哉はそう思いつつも、グランドから出て行く萌子と右京の姿を見ていた。
右京の身長は、最近まだ伸びたらしく、百八十を越えていた。
一方の萌子は、百六十にもならない。
萌子としては、怪我している右京を支えているつもりかもしれないが、傍から見れば、右京の脇にくっついているだけ、つまりは仲のいいカップルにしか見えなかった。
「さーくーやっ、何見てんだよ」
肩を叩かれ、朔哉は視線を逸らして答える。
「何でもない」
「嫉妬すんなよな」
俊平がニヤついた顔でそういう。
どうも萌子と付き合いだしてから、俊平は何かにつけて朔哉をからかって楽しんでいるとしか思えなかった。
宮尾に週末コンパなこと、言ってやろうか。
朔哉は一瞬、俊平の恋人である宮尾真琴のことを思い描いたが、すぐにそれを諦めた。
忘れてた。
俊平は、コンパに行くことを必ず宮尾に報告してるってこと。
そして宮尾も、そんな俊平のことを責めないってこと。
「してない」
二人の絆の強さと、自分たちとの差を見せ付けられた気がして、思わず朔哉はぶっきらぼうにこたえる。
「意外と真面目だからなあ、朔哉ってば」
司までもがそう言って話に加わってくる。
真面目とか、そういうことじゃないんだ。
違うと言おうとすると、逆に司が朔哉の肩に手を回して耳元で囁いた。
「安心しろよ、朔哉。沢木、色気ねぇし、怖いからさ、誰も手ぇださねぇって」
サッカー部の中で一番手の早い司が言っているのだから、そう信じてもいいのかもしれない。
一瞬、サッカー部員が全員司のようだったら、と思ったが、朔哉はそれをすぐに否定した。
こんな問題児だらけの部なんて、百害あって一利なし、だ。
ぽつり、と髪に雫が落ちてきた気がして、成は足を止めると空を仰いだ。
このところ、天候があまり優れない。
雨が降らなくても、今日のようにどんよりと曇っていて、カラリと晴れることはほとんどない。
どっちつかず、というか。
はっきりしない、というか。
もやもやしてる、というか。
つまりは、俺みたいだなあ。
右京と同じくＵ−１７日本ユース代表に選ばれた成は、五月の合宿でもその成長振りを発揮し、練習試合でも得点を重ねた。監督の田村からは、珍しく褒められた。
というのに、どうしてサッカー以外のこととなるとうまくいかない。
そういや、中間テストの結果も悪かったしな。
すると、突然背中をバシッと叩かれる。
「って」
振り返ると、ケンがにやけた顔して立っている。
成が何をするんだと言おうとしたところで、ケンは成の肩に手を回すと、ぐっと体を引き寄せて耳元で言った。
「真似して怪我しようとかって、思ってたろ、成」
思わず成は、ケンから体を離す。
「なっ、なんでっ」
しかも、ほんの一瞬だけ、思った事がわかるんだよっ。
顔の赤い成を見て、ケンはますますにやける。
ケンはこのところ絶好調だ。
前はスタメンには選ばれずに、初めはベンチスタートが多かったのに、このところは同じポジションの小田原を凌ぐ成長振りで、この前の関東大会では、つい にフル出場を果たした。しかも、恋人の亮子とは、なんのかんのと言いながらも例のごとく毎日、寮の電話を使ってのラブラブトークを繰り広げていたりする。
敢えて言うなら、不調は、成よりも悪かった中間テストの数学くらいだ。
五十点と四十八点。どんぐりの背比べだけれども。
「お前の考えることなんて、お見通しなんだよ」
「えっ」
その瞬間、成はケンが自分にかまをかけたことに気づき、それを見たケンもぽつりと呟いた。
「…馬鹿正直なヤツ」
「ケ〜ン〜」
逃げようとするその背中に手を伸ばしたとき、またもその腕にぽつりと雫が落ちてきた。
「あ」
空を見上げると、同じようにケンも見上げていた。
「雨？」