Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏兆6
たいした怪我でもないためか、医者はケンにもう帰ってもよいと告げた。
結局最後まで残ってくれた篤志と二人で病室を出たようとしたところ、ガラガラとドアが開いた。顔を上げたところで思わずケンは息を呑んだ。
「…ケンちゃん」
そこには久しぶりに見る亮子の姿があった。
「亮子…」
その後ろにいる理香と萌子の姿を見つけ、篤志は驚いたように答える。
「理香、萌子まで。あれ？偶然？」
「いいから、アッチ」
そのまま亮子に話しかけようとする篤志の腕を掴むと、理香はそのまま二人きりにさせようと篤志を廊下に連れ出し、代わりに亮子を病室に押し入れた。
夕陽の差し込む病室で、亮子は無言のままベッド脇の椅子に座る。
だがケンは亮子の方を見ることは無く、その夕陽を見つめて、重苦しくなった雰囲気を、振り払うように明るく言った。
「早とちりした萌子に、無理やり連れてこられたんだろ。
悪いな、ただの捻挫で。しかも、休みの日に」
亮子は首をふるものの、ケンは振り返ろうとはしない。それどころか、話を続けた。
「帰っていいぞ。天気もいいし、彼氏とデートでもしてこいよ」
「どうして…」
驚いた亮子が思わず顔を上げるが、それでもケンは一向に振り返らずに答える。
「赤坂から聞いた」
ということは、赤坂とケンが話したということだろうか。
仲直りをした、ということだろうか。
そう思ったところで、亮子はその考えを否定する。
赤坂のケン非難は、ケンが凪浜に行って一年経った今でも変わらない。
『どうして亮子ちゃんは、許せるわけ？あいつは、亮子ちゃんを置いて行ったんだぜ』
何度と無く、赤坂からはそう言われていた。
『別れちゃえよ』
ということも、何度も言われた。その度に、亮子は必死に反論していたはずだったのに。
「…ごめんなさい」
謝ると、ようやくケンが振り返った。
「どうして謝るんだよ。亮子のこと、放っておいたのは俺だし。
お前は、悪くないよ。悪いのは…」
その先の言葉を飲み込んで、ケンは話を続けた。
「お前さ、かわいいし、もてるし。新しい男できても当然だって思う」
「そんなことないよ」
亮子が首を振ると、負けじとケンも首をふる。
「それはお前が鈍いからだ。俺が、お前と付き合うってなった時、いったい何人の男に殺されそうになったと思ってんだよ」
「嘘だよ」
「嘘じゃねぇよ。もっと自分に自信持てって。お前は俺の自慢の彼女だ…ったんだから」
お決まりだった台詞を過去形に言い換えて、ケンはベッドから立ち上がった。
「そんじゃな」
俯く亮子の脇をすり抜けて、病室を出ようとケンはドアに手を伸ばす。
これ以上、平常心のままで話す自信がなかったし、見苦しい自分を亮子に見せたくは無かった。だが。
「ケンちゃんっっ」
名前を呼ばれ、ふいに背中に温かくやわらかい体温を感じた。
「ごめん…なさい…」
亮子はケンの背中を抱きしめて、何度と無くそう謝る。
謝るべきは、自分だと思いつつ、
それを口にすれば、二人の関係が元に戻ってしまうことも、
けれど二人の距離は何もかわらないことも、ケンにはわかっていた。
だが、気づけばケンは言っていた。
「…また何ヶ月も会えねぇんだぞ」
「わかってる」
「電話だって…毎日するって約束、散々破りまくってるからもうできねぇぞ」
「あたしが毎日電話する」
「お前が寂しいって時、すぐ側にいてやれねぇんだぞ」
「…」
亮子の答えはない。
ケンはきつく目を閉じる。
だけど、それが現実なのだから。
その寂しさに耐える自信がないんだったら、戻ることは無い。
ふっとケンの体に回った亮子の腕の力が抜けた。
…そう、それで、いいんだ。
それじゃ、と言いながら去ろうとするケンの右手を、その時亮子はしっかりと握り締めていた。
「…だけどやっぱり。
あたしは、ケンちゃんが好きだから」
「亮子…」
怪我した手を気遣ってか、掴んでいるのはその指先だったものの、亮子の力は強く、ケンが戸惑っていると、あたしね、と亮子が顔を上げて言った。
「あたし、決めたの。
ケンちゃんの夢を応援するって。
だから、あと二年。頑張るから。
今のあたしなら、頑張れる自信、あるから。
あたし、ケンちゃんのことが大好―」
その先の告白を聞くことも無く、ケンは夢中で亮子を抱き寄せていた。
高葦商と片岡学園の試合は、片岡学園が勝利を収め、結果準決勝で凪浜が戦うのは片岡学園になった。
若葉杯の最終日、凪浜はその片岡学園に対し、先制されながらも、その後逆転し、勝利を修める。そして、決勝の相手は、古豪・帝王高校だった。
扶洋や、試合の終えた高葦商などが見守る中で、凪浜は、予選リーグのお返しとばかりに右京が先制ゴールを決める。帝王も、選手権ベスト４のプライドからか、フォワード陣たちが果敢に攻めるものの、よく統制された凪浜のディフェンスに阻まれて、その後ゴールを割ることもなく、試合終了のホイッスルがグラン ドに鳴り響いた。
次の瞬間、観客席は大いに湧いた。
「っつーかまじ？」
「あの帝王だぜ？」
「すっげぇ！」
浮かれるベンチと違い、グランドの中の選手たちには、確かな自信と笑顔が漲っていた。
その中で、キャプテンである朔哉は、選手一人ひとりに労いの声をかけ、センターサークルへと招き入れていた。この勝利は、誰のお陰でもない。皆の力なのだ。
「早坂」
そうして湊と共に駆け寄ってくる成を見つけると、朔哉はその名前を呼んだ。
「あ、はい」
呼ばれた成は、何故自分だけ名前を呼ばれたのかわからずに、それでも勝利の喜びに溢れる笑顔で駆け寄ってくる。朔哉は手を伸ばし、強く握手を交わすと、こう言った。
「この試合の一番の功労者はお前だな」
決定的なシュートまで帝王が行き着けなかったのは、その前段階での早い成のプレスがよく効いていたからだということを、朔哉は知っていた。
しかし、成はきょとんとした目つきで、え？と答える。
「え？いや、そんなことないですよ。小田原さんも、湊も、みんな頑張ってたし…」
何故だか一瞬、朔哉の視線が鋭くなった気がしたが、すぐに主審が整列を促すホイッスルを鳴らし、朔哉は途惑っている成に笑顔を向けると、その一番先頭に並んでしまった。
「ありがとうございましたっっ」
グランドに元気のいい声が響くと、観客からは大きな拍手が沸きあがっていた。
その中にまぎれるようにして、帝都新聞の大木は凪浜イレブンをフレームに押えると写真を撮った。
そこには、まだ消化不良とも思える表情を浮かべる選手が多数いる。
全国的な公式戦ではないものの、この試合で凪浜が得たものは大きい。
「また、楽しみになってきたな。今年の冬が」
萌子はいくつかの荷物を持って、バスに向かって歩いていた。
実のところ、昨日はあまりよく眠れず寝不足気味で、足元も覚束ない状態だったが、選手たちは皆、勝利の余韻に酔っていて、興奮気味に試合の話で盛り上 がっていて、誰も萌子に気づくことも無かった。いつもなら気づく朔哉も、どうやら監督と他の高校に挨拶に回っているらしい。
凪高のマイクロバスが見えたところで、その脇で二人の女の子に囲まれている成が見えた。
僅かに顔を赤らめて、途惑っている成に、彼女たちは手を大きく振って、それじゃね、成くん、と呼んでいる。
ぎこちなく手を振り返していた成だが、ふと萌子に気づくと、
「あ」
と大きな声をあげて、そそくさとその手を下した。
そして、萌子の荷物に気づくと、
「荷物、持つよ」
と手を差し出した。萌子も、ありがとうと答えながら、成に荷物を手渡すその瞬間に、萌子は言った。
「友達？」
名前で呼ぶくらいだから、初めてでもないし、それなりに知り合いなんだろう。
萌子がそう言うと、成は言葉を詰まらせて答える。
「いや、その…」
答えに悩んでいる成を見て、萌子はピンと来た。
「あ、もしかして、ナンパしたっていう？」
「えっ、ど、どうしてそのこと―」
「大槻先輩が言ってたから。まさか成がって、思ってたんだけど。ほんと、なんだ」
ふーんと萌子が答えると、成が必死に首を振った。
「いやっ、それは、色々と事情があって、無理やり。そもそも、ケンが俺の質問に―」
「ケン？」
聞き返された成は、あ、と気づいて口を閉ざした。
「あ、いや。何でも、ない」
どうやら萌子には話せない、もしくは話したくない事情があるようだ。
今の反応からしても、ナンパも無理やり参加させられたのだろう。
顔を赤らめている成を見て、萌子は安心して、思わず笑いかける。
「大丈夫よ、きっと。今度は田島先輩がメンバーになるみたいだから」
「え？」
「おかしいと思った。成が、ナンパするなんて」
成も安心したのか、つられたように微笑んだ。
「あり得ないだろ？興仁がダイエットするのと同じくらい」
「うん。右京が笑ってるのと同じくらい」
「それを言うなら、ケンたちが別れることくらい、だろう？」
成がおどけてそういうが、萌子は軽く微笑むことしかできなかった。そんな萌子に気づくことなく、成は続ける。
「萌子のお陰だな、二人が寄り戻せたの」
「そんなことないよ。二人がお互いを想い合ってるから、よりを戻せたのよ」
今日の試合にも、亮子は来ていた。
残念ながら、ケンは準決勝の途中から出場しただけだったけれど、それでも亮子は扶洋の生徒たちに混じって、グランドから堂々と応援していた。
でも、と萌子はトーンを落として答える。
「でも、きっとこれからはもっと、大変なのかもしれない」
明日からしばらく、二人は会えなくなってしまう。
次に会えるのは、夏休みだろうか。
そうしたって、あと三ヶ月ほどは、会えないのだ。
寂しいと思っても、抱き寄せてくれる腕はそこにない。
朔哉の言ったことは、そういうことなのだ。
項垂れる萌子に、成が明るく答えた。
「大丈夫だよ、あの二人なら」
ハッとして顔を上げると、成は自信に満ちた笑顔で、大丈夫、ともう一度言った。その笑顔を見てると、萌子も確かにそう思えることができた。
「そう、だね」
荷物を積み終わり、マイクロバスから降りると、湊が成を探してやってきていた。
「成。そろそろ、駅に向うバスに乗らないとだってさ。右京はもうバス停行ってるって」
「わかった」
萌子たちはこのまま凪浜に戻るが、成と右京にはこれから全日本ユースの合宿が待っているのだ。予定では今回の大会には出場しないはずだったから、昨日から始まっている合宿にそのまま参加するはずだったのだが、急遽参加することになったのと、決勝トーナメントに出ることになった為に、二人は一日遅れで参加することになっていた。
「それじゃね。ユース、頑張ってきて」
萌子がそういうと、成は大きく手を振って、バス停に向って走り始めていた。
その後姿が見えなくなるまで、萌子が黙って見つめていると、今度は後ろから美都の声が聞こえてきた。
「萌子。帰りの準備できたって」
「わかった」
帰りのバスで、ようやくぐっすり熟睡できそうだと、萌子は思った。
一通り挨拶を終えた石橋は、自転車置き場という地味な場所で空に向ってため息をついていた。ポケットに手を突っ込むと、久しく吸っていない煙草の箱に触れる。取り出そうかと思っていると、後ろからふいに話しかけられた。
「優勝できてよかった、ってところですか？」
「君は―」
年は自分よりいくらか若いといったところだろう。石橋にそう尋ねられると、小汚い男はポケットから名刺を取り出した。
「帝都新聞の大木です」
石橋はその名を確認すると、素っ気なく答えて、その場を立ち去ろうとした。
「目標は選手権だ。その前にいい経験と自信を選手たちに持たせることができたと思う」
だが、大木は石橋を引きとめた。
「ああ、監督。ひとつ質問なのですが、今回の大会、突然参加したのは何故ですか？」
足と止めると、空気で大木が自分の答えを待っているのがわかった。
今回の参加に、コーチの佐藤もはじめ反対をしたし、事実何人かの生徒は参加を見合わせたりもした。一度は断った大会だった。だが再び、しかも急に参加することにしたのは、石橋の意思ではない。
「…意味のある試合だからだ。関東地区では、それなりに力のあるチームが参加している」
そこでそれなりの成果を残せなかったら、今後の援助は考えさせてもらうこともあるから、そのつもりで。
教育に携わる者が言う言葉ではないと、あの時の石橋は思った。
生徒たちは、部員たちは、純粋にサッカーが好きで、日夜グランドを走り回っているというのに。
だが、断ることはできなかった。
選手権制覇という、生徒たちと自分の夢を叶えるために、学校からの援助というのは必要不可欠だった。
歩き出そうとした石橋を、なおも大木は引き止める。
「それだけですか？」
うるさい記者だと、石橋は思い、言葉を返す。
「質問は、ひとつ、と言っていたはずだが」
「同じ質問ですよ」
「では、答えも同じだな」
そう言い放ち、歩き出す石橋に、大木はこう言った。
「川城も力つけてきてるようだし、上を見すぎて、足元すくわれないように、気をつけてくださいね、監督」
マイクロバスを前にして、亮子は窓越しにケンに言った。
「それじゃね。ケンちゃん」
「おう」
そんな二人を他の部員がからかう。
「何だよ、ラブラブじゃんかよ」
「しかし、美女と野獣とは、このことか」
「うるせーなっ、山田っ」
その横で、篤志が亮子に話しかける。
「亮子ちゃん、安心してね。コイツが浮気しないように、俺が監視してるからさ」
「ありがとう、日比野君」
「どういたしまして、ぁてっ、理香？」
鼻の下を伸ばす篤志の耳を掴んだ理香が、にっこりと亮子に笑いかける。
「また今年の文化祭にも来てね、亮子ちゃん」
うん、と亮子は答えたところで、前の方に座っている萌子に視線を投げかけた。
「あの、沢木さん」
はい？と萌子が亮子に顔を向けると、亮子は満面の笑みを向けていた。
「ありがとう」
途惑う萌子に、亮子は手を差し伸べる。
「あと二年、頑張ろうと思う自信がついたの、あなたのおかげ。
ケンちゃんの自慢の彼女になれるように、もっともっとしっかりしようと思うから。
よかったら、今度はうちの学園祭に来てね。ケンちゃんも一緒に」
萌子も手を差し伸べて、二人は固い握手を交わした。
「…そうだ、沢木さん。あたし、聞きたいことがあって」
「何？」
「沢木さんて、昔―」
その時、出発を告げるようにバスがクラクションを鳴らした。
言葉を切って、またねと亮子から手を離す瞬間、萌子はどこからか強い視線が自分に向けられているのを感じたが、それが誰なのか、全く分からなかった。
「それじゃな、亮子っ」
バスから身を乗り出してケンが手を振る。
「おい、名取。危ないから止めろ。
怪我しても、置いていくぞ」
監督がそういうと、篤志がそれに便乗して言う。
「今度は誰も見舞いになんかいかないからなっ」
バスの中は笑いに包まれた。
走り始めて三十分もすると、バスの中は静まり返っていた。
誰もが試合の疲れと、緊張の緩みから、眠り込んでいたのだ。
萌子も、気づけばそっと朔哉の肩に寄りかかるようにして眠り込んでいる。
無造作に投げ出された萌子の右手を、朔哉はそっと握り、その寝顔を眺めながら、ふいに昨日のことを思い出していた。
翌日の試合相手が片岡学園とわかり、その作戦会議も終わった消灯時間までの僅かな自由時間。
マネージャーの部屋の前で朔哉が立っていると、少しして歯磨きを終えた萌子が現れた。そして、朔哉を見るなり俯いて言った。
「ごめんなさい」
その頃には、朔哉もケンと亮子が寄りを戻したという話は聞いていた。夕食の時間に、そのことで篤志が騒いでいたのだ。
元気のない萌子を見て、朔哉は微笑み返す。
「萌子が謝ることでもないよ。
言っただろう、結局は二人の問題だって。
二人が付き合うことを決めたんだったら、応援してやればいいんだよ」
すると萌子は、わかったと頷く。だがその表情には、まだ戸惑いが残っていた。
それを複雑な思いで朔哉は見つめていたが、ふいに明るくおどけるように言った。
「だけど、いきなりいなくなるのは、やめてもらいたいな」
心配した、というと、萌子はもう一度頭を下げる。
「…ごめんなさい」
「もういいから。そのかわり、ペナルティ」
「え？」
朔哉は萌子の体を引き寄せると、そのまま萌子を抱きしめた。
「ちょっと、サク―」
萌子は戸惑いからか、僅かに朔哉の腕から逃れようとしている。
だったら尚更のこと、とでもいうように、朔哉も萌子に回す腕に力を入れた。
「十分、いいや五分、このままでいること。それが心配かけたことのペナルティ」
洗い立ての髪から、シャンプーの香がした。
しなやかな体からも、程よい湿度とあたたかさを感じる。
朔哉はゆっくりと目を閉じたが、それでも、萌子はまだ抵抗していた。
「だけど、こんなところじゃ誰か見てるよ」
宿泊所の廊下なのだ。
この階には、マネージャーしかいないとはいえ、誰かが通らないとは限らない。
「構わない」
「でも―」
「いいから」
黙って、と言う代わりに、朔哉は更に萌子を強く抱きしめると、諦めたのか、頑なだった萌子の体からふっと力が抜けた。
けれど、朔哉はそれでも精一杯の力で、萌子を抱きしめ続けた。
あの時と一緒だ。
朔哉は、知らず知らずのうちに力のこもる手を、持て余していた。
何故だろう。
しっかりと掴んでいるはずなのに、いつの間にかするりとすり抜けてそうで、思わず力づくに掴みたくなってしまう。
朔哉は小さくため息をついた。
独占欲、こんなに強いとは思わなかったな。
誰にも、渡したくないと思う。
自分にとって、萌子さえいればいいように、
萌子にとっても、自分がそうでありたいと願う。
だから、成が萌子の居場所を口にした時は、驚きと同時に腹が立った。しかもそれが本当だとわかったとき、その苛立ちを萌子にも向けてしまった。
謝りたくて、会いに行ったのに、逆に謝られて、朔哉は戸惑っていた。
戸惑って、そしてふいに萌子を抱きしめたくなったのだ。
ふいに沸き起こった不安を、かき消してしまいたくて、
ここにいることを、確かめたくて。
ここに。
そう。俺の隣に。