Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏兆5
慌てて集まった部員たちが、大きくため息をつく中で、ベッドに横たわったケンはわざとらしく、大きな笑い声を上げ、包帯の巻かれた右手を頭の後ろに回して言った。
「いやー、俺ってば、結構愛されてるんだな、アッチっ」
ベッドサイドで、篤志が大きくため息をついた。
「笑い事じゃないって、ケン」
その隣に立っている理香も、腕組みをしてため息をつく。
「まったく、もう」
「おいおい、待てよ。理香。
お前がそもそも俺に掴みかかったのが悪いんだろう。
それに由太だって。焦って救急車呼んじまうし」
病室の入り口に立っていた由太は、僅かに頬を引きつらせると、ケンを睨んだ。その鋭さに、ケンが視線を逸らすと、今度は理香の怒鳴り声が浴びせられた。
「何よっ」
「まあまあ、二人とも。
とにかく、ケンが無事でよかったよ」
間に湊が入り、その場は落ち着きを取り戻す。
あの時も、車が向ってきたことを知らせてくれたのは湊の声だった。
おかげで、ケンは間一髪のところで車との衝突事故を免れた。
ただ、思わずついた右手に、自分の全体重がのっかり、そのまま手首を捻挫してしまったのだ。けれど、もしあの時、一秒でもケンが動くのが遅かったら、もし車がブレーキを踏むのが遅かったら、それどころでは済まなかったのだと思うと、捻挫でよかったのだと思えた。
予想外だったのは、由太の呼んだ救急車で、大丈夫だからと断るケンを、理香が無理やり救急車に押し込み、そのまま病院まで運ばれてしまったのだ。
理香も理香なりに罪悪感を感じていて、だからこそ、捻挫と聞いて心底安心した反面、へらへらと笑うケンが許せずに、思わず怒鳴ってしまうのだ。
由太は救急車と同時に、試合会場にも連絡をしていて、気づけば病室には、溢れんばかりの部員が集まっていた。その中で、ケンとしても心配して来てくれたという嬉しさと、この程度の怪我でという恥ずかしさの為に、冗談めいたことを言ってしまったのだ。
静まり返ったところで、朔哉が時計を見てから言う。
「名取。悪いが、俺たち、そろそろ戻るから」
見るはずだった高葦商と片岡学園の試合には、今病院を出れば前半の終わりのほうから見ることができる。
「あ、はい。すんませんでした」
途端に部員がぞろぞろと病室を出始める。
その中で、朔哉は病室を見回したところで、ふとケンに尋ねた。
「そういえば、萌子は？」
「え？」
「ここの場所、知ってるはずなんだ。
試合会場にもいないらしいから、てっきりこっちに向ったんだと思ったんだけど」
当然後から追いかけてくるものと思って伝えたのだが、萌子は病院に一向に現れず、状況を伝えるために会場に残った俊平に尋ねると、朔哉たちが病院に向ったのと同時刻に、試合会場から姿を消したというのだ。
「いや…。俺は、見かけてないですけど」
「そうか…」
場所を間違えたか、或いは道路が混んでいるとか、そういうことかもしれない。
もう少し、ここに留まろうかと思い始めた朔哉に、成の呟きが聞こえてきた。
「あ」
「あ、って何だよ。成」
独り言にしては大きな声に、思わず篤志が聞き返す。
「もしかして、萌子の居場所に思い当たるところあるのかよ」
ハッとして朔哉が成に視線を向けると、成は首を傾げながら答えていた。
「ところってわけじゃないけど。今日、見たんだ。萌子が、ケンの彼女と会ってるの」
「亮子と？」
ケンも思わず体を起こした。
篤志もへぇ？と思わず声をあげる。
「おいおい、成。ケンたち、別れたんだぜ。何で萌子が―」
けれど、それを遮るように、ケンが大きな声をあげる。
「あいつってば、どうしてそう余計なことするかな。
亮子には今、付き合ってる男がいるってのにさ―」
「ケン」
諭すように成が言う。弾かれたように顔を上げるケンに、成はゆっくりと言う。
「会ってたのは、偶然かもしれない。
でも、どうして萌子が、彼女にあったのか。
それは、ケンが一番、わかってるだろ」
病院につくと、萌子より先に亮子がタクシーを飛び出して行った。
ロビーに入り、受付を探していると、ふいに名前を呼ばれた。
「萌子？」
「朔哉さんっ」
少し呆然としている朔哉に、萌子は駆け寄って尋ねる。
「ケンは？ケンの容態はっ？」
「…ああ、大丈夫だから」
「え？」
拍子抜けする答えに、萌子は思わず掴んだ手の力を緩める。朔哉は小さくため息をつきながら答えた。
「突っ込んできた車を避けて、思わずついた右手を捻挫した。全治一週間」
すると、萌子より先に、背後の亮子が呟いた。
「…よかった」
そして、緊張の解けた亮子はそのまま床にずるずると座り込む。慌てて萌子が駆け寄った。
「亮子ちゃん、大丈夫？」
軽く頷くものの、亮子はすぐに歩けだしそうに無かった。
落ち着くまで、と待合室のベンチに座らせたところで、朔哉が萌子に尋ねた。
「名取の別れた彼女？」
「ケンが怪我したっていうから、連れてきたの」
「会わせるのか？」
「そう、だけど」
朔哉の言い方が、僅かに険のある言い方に、萌子は戸惑う。朔哉は亮子に聞こえないようにと、萌子の腕を掴み、植木の陰に隠れて言った。
「怪我もたいしたこと無かったし、会わせないほうがいいと俺は思う」
「え？」
予想外の言葉に、萌子も思わず必死で訴える。
「でも、朔哉さん。ケンも、それに亮子ちゃんも、お互いのこと好きで―」
「だけど別れた。そして、彼女には新しい恋人がいる。それでいいじゃないか」
さらりと答える朔哉に、萌子は訴え続けた。
「亮子ちゃんは、寂しくて、それで、頼りたくなっただけで、その恋人のことが本当に好きなわけじゃないのよ」
そして、ケンも亮子のことを忘れたわけではないのだ。
二人の気持ちを考えると、会わせることの方が当然に思っていた萌子に、朔哉は表情を暗くして答える。
「だったら尚更、今の二人の傷を大きくすることはないだろう」
「傷？」
ああ、と朔哉は頷いて、続けた。
「お互い好きあっている二人が別れた。
付き合い続けるか、別れるか。辛い選択だったと思う。どっちにしても、心の奥に傷はあると思うよ、お互いね。揺らいでるのが、その証拠なんだろうけれど、俺は二人の決断は間違ってるとは思わない」
「だけど、今でも二人はお互いのこと好きなのに、なのに別れるなんておかしいと思わない？」
だが朔哉は無言のまま、しばらく答えずにいた。それから、一段声色を落として答えた。
「状況は変わらない。名取は、凪浜で、彼女はこの扶洋で、二人はあと二年は離れて暮らす。
今日はこうして会えるかもしれないけれど、明日からはまた別々の場所だ。しかもしばらく会うことはできない。
この一年間で、二人が別れることを決めたように、同じことを思う日がこの先ないとも限らない。だがその時には、彼女も、そういう風に追い込んだ名取も、一度決めてしまっただけに今よりずっと辛いだろう」
朔哉はそこで大きく息を吸った。
「傷つくだけかもしれない、二人の再会は」
朔哉さん、と萌子は名前を呼んだ。けれど、朔哉は話を続ける。
「今は、確かに辛いかもしれない。だけどその傷は、時間と今の恋人が癒してくれる。
だけど、今ここで会えば、また二人はお互いへの思いを引きずってその先に進めなくなるかもしれない、そう思わないか」
朔哉の言っていることを、勿論萌子は理解していた。
確かに、そうだと思う。
だけど、どうしてもそれを認められない自分がいる。
「でも、亮子ちゃん。楽しそうには見えなかった。彼と一緒にいても。
ケンもそう。女の子紹介してっていうけど、全然楽しそうじゃない」
萌子は掴んでいた朔哉の腕を、更に強く握りしめた。
「少なくとも、今のままじゃ、いけないと思うの」
今のまま、お互いのことを、忘れてないのに忘れたふりをして、
心の隅に何かを抱えたまま、他の誰かの隣で、心の底から笑うことなんてできない。
そうでしょう？
問いかける萌子の視線に、朔哉は悲しそうに微笑んで返す。
「二人の問題なんだ。
萌子が、背負うことではないんだよ」
それは、萌子の求める言葉ではなかった。
違うの。
そういうことじゃない。
そうじゃなくて。
更に強く握りしめていると、後ろから甲高い声が聞こえてきた。
「あれ？萌子？」
理香が驚いた表情を浮かべ、萌子を見ている。それから、ベンチに座る亮子の姿を見つめ、理香はロビー中に響き渡るほどの大きな声をあげた。
「亮子ちゃんっっ」
呼ばれた亮子が戸惑う中で、理香はその腕を掴むと、引っ張りあげて言った。
「ケンなら、今病室にいるからっ、こっちこっち」
不安そうに振り返る亮子を見て、萌子も朔哉から手を離すと、ごめんなさいとだけ小さく言って、理香の後を追いかけた。