Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏兆4
移動の途中、電話ボックスを見かけた由太は、さりげなく部員たちの群れから離れるとすぐさま受話器を上げて、ボタンを押した。
時間に余裕があるわけではない。五度目のコールで、ようやく「はい」という声が聞こえたとき、由太はようやく安心した。
「俺だ」
短くそう答えると、受話器の向こうで不安げだった声が大きくなる。
「お兄ちゃんっ。どうして昨日電話くれなかったの？」
大きくなったとはいえ、まだ小学五年生の妹・好実の甲高い声で責めたてるように言われ、由太は思わず耳から受話器を遠ざける。
「すまん」
夜に一度、必ず家に電話をすることは、この遠征に参加する由太に課せられた好実との約束だった。
だがそれを、初日からさっそく破ってしまったのだ。
もちろん理由はあった。
まず電話だ。今の高岡家の実情は、両親とも面識のある篤志にも言ってないほど、周囲には秘密にしてあるから、誰かに聞かれる可能性のある宿泊所からはかけられなかった。
加えて、近所に電話ボックスもなく、数分歩いてようやく見つけたところで、萌子に出会ってしまったのだ。
萌子を先に帰して、一人ボックスに入ればよかったのかもしれないが、暗い夜道を萌子一人に歩かせるわけにも行かず、結局由太は、今来た道を戻る羽目になってしまった。
由太が素直に謝ると、そんな由太に好実が驚いていた。
「珍しいね、お兄ちゃんが謝るのなんて」
今までならば、うるさいだのと言い返す由太だが、今日は違った。
第一、 そんな時間の余裕がない。
「それで、どうだ。母さんは？」
「…まだ。お父さんもどこかに出かけてる」
ということは、家には好実一人ということになる。
ゴールデンウィークの真っ最中だというのに、好実は一人、家で留守番することになってしまったのだ。友人たちは、家族旅行に行っているだろうに。
「メシは、どうした？」
「昨日はね、あたしが作ったんだよ。お父さんも美味しいって言ってくれたの」
嬉しそうに弾んだ声がして、由太はほっと安心する。
このところの好実は、夜になると一人で泣いて、その声が、隣の部屋の由太にも響くのだ。その為、急遽決まった今回の遠征は、由太はあまり乗り気ではなかった。
とにかく、大丈夫そうだ。
ほっと安心していると、何やら女の声が聞こえてきた。
どうやら理香が誰かと言い争っているようだ。
「それじゃな。夜はかけないぞ」
そう言って電話を切ろうとすると、好実が慌てて聞いてきた。
「明日の夕方には、帰ってくるんだよね」
それほど仲のよい兄妹とは思っていなかったし、どちらかといえば、優等生タイプの兄を、好実はコンプレックスに思っていたようにも思う。
だが、その好実の声が、寂しそうに由太を頼っている。
「ああ。夕飯の時間には家に着く」
わかった、とホッとした声を聞きながら、由太は電話を切った。
すると、背後のほうから途端に激しいクラクションと、タイヤとアスファルトが強く擦れる音がした。
「キャーッッ」
そして響いた女の声が理香の声に思えて、由太は思わず唾を飲み込み、慌てて振り返る。
住宅街の狭い十字路を塞ぐように止まっている車の下には、見覚えのある鞄が組み敷かれていた。
由太は何も考えることなく、すぐさま受話器を手にして、ボタンを押す。
今度は待たされることもなく、相手はすぐに出てくれた。
「すみません。救急車一台お願いします。交通事故です。至急お願いします」
萌子は、部員用の飲み物を積んだ大きな荷物を両肩に背負うと、一番最後にマイクロバスを降りた。
マイクロバス組が三年ばかりだと、世話役がいないということもあり、特別に乗せてもらったものの、その代償の仕事は決して楽ではなかった。
マイクロバスの中では隣に座っていた朔哉は、高葦商と片岡学園の試合会場に着いた途端に石橋に呼び出されていた。
水というのは、意外に重さがある。
鞄を一旦床に置き、小さくため息をつくと、再び持ち上げようとして、右肩がふっと軽くなったことに気づいた。
「あれ？右京」
右の荷物を持ち上げて、右京は無言でグランドへと向う。
右京も三年以外でマイクロバス組になった一人だった。
だが、理由は萌子とは違う。右京の場合は、緊急避難、のようなものだったと萌子は思っていた。
マイクロバスの準備も終わり、あとは監督を待つのみという状況の中、目の前を一人歩いていた右京を、見知らぬ女子高生たちが、いきなり取り囲んだのだ。
「藤原君っ、あのっ、一緒に写真撮ってくださいっ」
「試合、頑張ってくださいねっ」
「応援してますからっ、ユースも」
どうやら、右京のファンのようだった。
しかし、当の本人は、というと無視して歩き始めたのだが、彼女たちも諦めずにその周りを追いかけた。
そして、その中の一人が、右京の行く手を遮るようにて立つと、手にした包みを右京に差し出した。
「あのっ。これ、作ってきたんで食べてください。クッキーです」
思わず足を止めてしまった右京は、仕方なく答えた。
「甘いもの苦手なんで」
すると右京が答えたことが、彼女たちを興奮させてしまったらしい。
「じゃ、辛いものとか好きなんですか？」
「それとも酸っぱいものとか？」
まずいなぁ、と萌子はその様子をマイクロバスの中から見ていた。
右京の表情は、相変わらずの無表情だけれども、背中の辺りに明らかに漂っている。
蹴散らすなんてこと、しなきゃいいけど。
だが彼女たちは、右京の変化に気づくことなく、勝手に写真まで取り始めていた。
まずいっ。
萌子が慌ててマイクロバスのドアを開けようとする一歩前に、ドアが開くと、朔哉が身を乗り出して右京に言った。
「藤原、お前も乗って行け」
無言のまま右京が乗り込み、通路を歩いて空いてる席を探していると、どこからか厭味な声が聞こえてきたのだ。
「もうスター気取りかよ」
マイクロバスの空気が一瞬にして凍りつく。思わず立ち上がりかけた萌子の肩を隣の朔哉が抑え、代わりに言った。
「気取り、じゃなくて、そうなんだよ」
マイクロバスの中は静まり返った。
凪高は、決して右京一人の力で勝ち残っていくチームではなかったが、右京の調子が試合にも大きく影響するのは、事実で、それをキャプテンである朔哉が認めたことに、誰もが戸惑っていたのだ。
「じゃ、次のナンパメンバーは、お前に決定！」
緊迫した空気を、思い切り壊したのは、最後尾に陣取っている司だった。皆が唖然としている中で、呆れたような俊平の声が響く。
「おいおい、早坂じゃなかったのかよ」
「だってあいつってば、口下手じゃん。
あんなんじゃ、こっちのセンス疑われるしよ」
「どう考えたって、藤原の方が口下手だろ…」
「けどさ、ハクがつくだろ、ハクがさ」
部員全員がきょとんとしていた。萌子などは、成がナンパしたという事実に驚いていた。
そんなタイプに見えなかったけど、成。
すると、隣の朔哉がくすくすと笑って答える。
「藤原、断るなら今だぞ」
司が機嫌悪そうに答える。
「おうおう、そこの生真面目彼女一筋男は黙ってろよ」
「どうせなら、立候補集えよ。田島とか、どう？」
朔哉は司を無視して田島にそういうと、田島は思わず立ち上がり、勢い良く答える。
「お、おう。立候補するする！」
するとドアが開き、石橋が顔を出した。
「何だ、田島。一年生の教育係、引き受けてくれるのか」
「え？」
石橋はマイクロバスの外を見ながらため息をつく。
「あいつら後片付けがなってない。あれじゃ、小学生以下だ。じゃ、頼んだぞ」
田島はそう言った石橋に背中を叩かれて思わず答えた。
「えっ、えー…ハイ」
そうして田島はマイクロバスを降り一年と一緒に徒歩組となり、空いた席には右京が座って、マイクロバスは動き出したのだ。
萌子の仕事を手伝うことにしたのは、マイクロバスに乗ることになった代償なのかと思いながた、目の前を無言で歩いていく右京を見て、萌子は話しかける。
「右京」
呼びかけに気づいた右京が、僅かに足を緩め、ちらりと萌子を横目で見た。
「右京は、寂しいとか思わない？
お母さんと、離れ離れで」
学園祭を抜け出し、一緒に母親に会いに行ったことを、ふと思い出して萌子がそういうと、右京の綺麗な切れ長の目が、鋭く萌子を見据えていた。
「ごめん、唐突に変なこと聞いたね」
「何が言いたい」
ストレートに言われ、萌子は安心しながら、ぽつりと答える。
「…ケン、まだ亮子ちゃんのこと、好きなんじゃないかと思って」
「あいつは」
右京はそこで一呼吸する。
「そんな器用じゃない」
賛同してくれたことに、萌子は息を吐き、迷いながら答える。
「そう、だよね。
多分。亮子ちゃんもそうなの。
だけど、ケンが凪浜を出れるわけじゃないし。
亮子ちゃんも、凪浜に来れるわけじゃないし―」
「一緒にいるからって、気持ちが繋がっていられるわけでもない」
小さな声だが、右京ははっきりとそう言った。
「…右京」
それは、つまり。
二人の問題は、距離だけじゃないってこと？
萌子は隣を歩く右京を見つめるが、その返事はない。
ただ、確かに、二人の遠距離はもう一年にもなる。ただ以前のケンからは、二人の距離感を全くと言っていいほど感じなかった。
だとしたら、何が？
すると突然、目の前から石橋がバタバタと走ってきた。
「監督？どうしました？」
石橋は、萌子をちらりと見ると、慌ててマイクロバスの運転席に乗り込む。
「名取が事故に遭ったらしい。救急車で病院に運ばれたそうだ。すぐに病院に行って来る。あとは昭彦に任せてある。おい、朔哉。場所はどこだ？」
「市立中央病院だそうです」
後から追いかけてきた朔哉がそう答える。その表情も緊迫したものがあった。
「お前も来い」
「わかりました。ああ、ご両親には連絡したから。悪いけど、先に行ってる」
朔哉は萌子にそう言い残すと、マイクロバスの助手席に飛び乗った。
走り去るマイクロバスを見ながら、右京がふと萌子のほうを見ると、そこには萌子が持っていた荷物だけが置かれていた。
その数十分後には、萌子は、必死で街を探していた。
思い出すのは、亮子が最後に言った言葉。
『駄目ですか？
そばにいて欲しいって思うのに、いてもらえなくて。
寂しくて、辛くて、だから、近くにいる人に頼ることって、駄目なことですか？』
その答えは、まだ萌子にはなかった。
ただわかったことは、亮子もまだケンのことが好きだということだった。
親から反対されて、おそらく、ケンのことを知っている人からしても、ケンと付き合い続ける亮子のことだってよくは思ってないはずだ。ましてや、扶洋のサッカー部員などは。
その中で亮子が頼れるのは、ケンだけだったのかもしれない。
そうやって、亮子も必死だったのだ。
そして、ケンも、ケンなりに必死だった。
自分が凪高に来た意味を探し、
その為にレギュラーになろうと、一生懸命練習をしてきた。
せめてそれだけは、亮子に伝えなければいけない。
萌子はそう思って、とにかく歩き回っていた。
「わ」
キョロキョロしていたせいか、正面から歩いてきた人と、萌子はぶつかって、足を絡ませたものの、何とか転ばずにすんだ。
「すいません」
ぶつかってしまった相手に謝って、顔を上げた瞬間に、萌子の目には、男女四人のグループが見えた。
見た目は中のよさそうな高校生グループ。その中に、はにかんで笑いながらも、たまに俯いている亮子がいた。
「亮子ちゃんっっ」
萌子が叫びながら、追いかけると、萌子に気づいた亮子が驚いた。
「沢木…さん。どうして」
「来てほしいの。ケンがっ―」
無理やりに亮子の手を取って、連れ出そうとすると、亮子の腰に手を回していた男が、萌子が掴んだのと反対の亮子の手を掴む。
「亮子、誰？その子。
ナギハマサッカークラブ？」
萌子のジャージに刻まれた名前を読み上げると、一緒にいた女の子が答える。
「もしかして、亮子の前の彼氏の学校の？」
萌子に向けられる視線が、いっそう険しいものになる。
そして、亮子の腕を掴んでいる男が言った。
「何だよ。勝手なヤツだな。
亮子のこと、ほったらかしたのは、お前だってのに。今更なんだっつーの」
「ケンは、ケンなりに一生懸命だったの。別に亮子ちゃんのこと、ほったらかしにしたわけじゃないわ」
思わず萌子はそう答える。だが、男はケッと短く笑った。
「けど、実際そうだったわけだろ。
三ヶ月も連絡一つよこさないなんて、亮子のことどうでもいい、って言ってるようなもんだろ」
「そうじゃないわ。
ただ…。ただケンは、不器用だから。
自分の我侭でこうなったのわかってるから、亮子ちゃんにも甘えられなくて、だから、頑張ることで認めてもらおうとしてたんだけど、意地っ張りだから、そういう気持ちも言えなくて、だけど―」
取り留めなく話す萌子を無視して、女の子が言う。
「もういいから行こうぜ。映画始まっちゃうよ」
男が強く亮子の手を引く。萌子の手から、するりと亮子が離れる。歩き出そうとした亮子を、萌子はもう一度引きとめた。
「待って、亮子ちゃん」
だが、今度は亮子も足を止めなかった。仕方なく、萌子は叫ぶ。
「ケンがっ。
ケンが、事故にあったらしいの」
「え」
慌てたように亮子が振り返る。
「救急車で病院に運ばれたって、連絡があったの」
立ち止まる亮子を、先に促そうとする男の腕を、亮子は静かに振り払う。
「おい、亮子―」
「ごめんなさい」
亮子はそれだけ答えると、必死な表情で、萌子に病院名を尋ねた。
タクシーに乗り込むと、萌子より先に、亮子が市立中央病院まで、と行き先を告げた。
走り出したタクシーの中で、亮子は神に祈るように、俯いた額の前で両手を組んでいた。
「どうして、ケンちゃん。
こんな時に、怪我なんか…。
サッカーできなくなったりしたら、どうするの―」
「亮子ちゃん、まだ好きなんでしょう？ケンのこと」
萌子がそう尋ねると、亮子は呟くのを止めて、小さく答えた。
「でも」
「ケンも、亮子ちゃんのこと、好きよ」
矢継ぎ早に萌子がそう言う。けれど、ケンと同じく、亮子も頑固者のようだった。
「でも。
でも、ケンちゃんにとっては、あたしはきっと重荷になるから。
ライバル高に通う彼女なんて、
しかも遠距離なんて、
今のケンちゃんにとって、重荷でしかないよ」
「そんなことない」
即答する萌子に、亮子は不思議そうな目を向ける。
確かに亮子としてはそうなのだろう。
たかが一度、萌子とは顔をあわせただけなのだ。
けれど萌子にとって亮子は、ただの顔見知り以上の存在だった。
「二人のこと、本当のところ、私はわかってないのかもしれない。
でも、亮子ちゃんの話をするときのケンの表情や、
亮子ちゃんと電話してるときのケンの表情は、知ってる。
すごく幸せそうだった、楽しそうだった、嬉しそうだった」
日々のありふれたひと時に見せる表情や、思い出。言葉たち。
そうやって、ケンを通して、萌子は二人をずっと見てきたのだ。
「前に、ケンに聞いたこともあるの」
それは、まだ入学して一ヶ月も経たない頃。
日々強くなる陽射しが、若葉を優しく照らしていた。
『ねぇ、寂しくないの？遠距離恋愛』
『仕方ねぇだろ。俺の都合であいつをこっちに連れてくることなんて無理だし』
『でも心配でしょう？彼女、かわいいんなら』
『亮子なら大丈夫。俺のこと愛してるし、俺もあいつのことを愛してるからな』
あの時萌子は、正直驚いて、それから自分の方が照れて、思わずケンを茶化してしまった。だけど、その反面――。
「すごく、羨ましかった。
好きな人のことを堂々と好きだといえること、
その好きな人に愛されてるんだといえること。
ちょっとだけケンがかっこよく見えて、
ちょっとだけ二人に嫉妬した」
そう、あの時のケンは、自信に満ち溢れていた。
隣に座る亮子の目から、スッと一筋の涙がその頬をつたっていた。
「誰かに頼ることは、悪いことじゃないと思う。
だけど、亮子ちゃんは、今の自分に自信、もてる？」