Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏兆3
お弁当を二つ手に持ち、朔哉はバスの中に顔を出した。
だが、いるはずの萌子は、そこにはいない。
「あれ？萌子は？」
思わずその場に居た美都に尋ねる。
「買出しに行っちゃいました」
「買出し？」
「コールドスプレー切れちゃって」
「…そう」
そのくらい、一年に頼んでもいいだろうに。
そう思いながら、朔哉は小さくため息を落とす。
午後の予定を考えると、朔哉にもそれほど時間があるわけではなく、手にした萌子の分のお弁当は、どうやらいらなくなりそうだった。
「そんなに心配しなくても、大丈夫ですよ。
萌子は迷子になるようなタイプじゃないし」
朔哉のため息を、誤解した理香がそう言う。
「まあ。そう、だね…」
自分でも、たまにおかしいかもしれないと思うくらい、朔哉は萌子と一緒にいたいと思っていた。
ふとした空き時間でも、顔が見たくなれば教室にでも、部室にでも、家にでも向った。
買出しなら、たかが数十分。
そう、たかが、の時間だ。
朔哉はそう思い直すと、すぐさまバスから降りた。
控え室代わりとして、凪高に割り当てられた教室の窓辺に、篤志はケンたち何人かの二年生と共に円座になっていた。
「あーつーしっ」
理香が勢い良く篤志の背中に抱きつく。だが、篤志は、
「何だよ」
と、いくらか眉をひそめて言った。
「一緒に食べようよ。お昼」
理香が見ると、すでに篤志はお弁当の半分を食べ終えていた。
だが、理香が一生懸命作った鳥のから揚げは、まだ残っている。
「ごめん、俺こっちで食べるからさ。理香は萌子たちと食べなよ」
「萌子も、美都も、彼と一緒に食べるんだって」
理香は少し嘘をついた。
萌子は、買出しに行っただけだし、
美都にはそうするよう言っただけだ。
それでも、朔哉は萌子と食べようとしてお弁当をふたつ手にしていたわけだし、
美都も、今頃はあのぶっきらぼうな和美と一緒に食べているはず。
そう思うと、理香のついた嘘も、まんざら嘘でもない気がした。
「じゃー、ここ座れば」
面倒くさそうにそういう篤志の腕を取り、理香は訴える。
「そうじゃなくて、二人で食べたいの」
そこでようやく横から茶々が入った。
「モテるね、篤志クン」
「うるさい、山田。
いいじゃん。ここで」
篤志はそれだけいうと、目の前に広げた雑誌に目を向けた。理香はぷぅっと頬を膨らますが、
「…わかった」
と答えると、無理やり篤志の隣に寄り添うようにして座る。
だが、当の篤志はというと、その雑誌に夢中のようだ。
「この子かわいくね？」
「えー、そっかぁ？おれ、こっちがいい」
「オレはこっち」
部員たちはそれぞれに雑誌に向って指差している。
「何、それ」
理香がそう言って雑誌を奪い取ると、そこには女の子の写真が沢山並んでいた。どうやら雑誌主催のミスコンの応募者らしい。
理香が、篤志がさした女の子を捜していると、横から篤志が雑誌を奪い取って、円の中心に戻した。
「しっかし、山田の趣味って正統派だよな、萌子といい、この前の女といい、この子といい」
からかうように言ったケンに、山田はむきになって言い返す。
「いいだろ、別に。お前の彼女だって、そういう意味じゃ正統派じゃねぇかよ」
和やかだった場が、一気に静まり返り、篤志が小声で諭した。
「…おい、山田」
「あ」
自分の言葉にようやく気づいた山田が思わず顔をしかめたが、ケンが先に応えた。
「もう別れたってば、何回言わせりゃ気が済むんだよ。
つーかお前らもさ、変な気の使い方すんなよ。別に、俺、山田みたいにふられたわけじゃねーし」
「え？山田ふられたの？」
何も知らない厳巳がそう聞き返す。山田はそれには答えず、真っ赤な顔してケンに抗議した。
「そっ、それを言うなよっっケン！」
だが、ケンは山田を無視すると、すくっと立ち上がった。
「あー、喰った喰った。
んじゃ俺、ランニングでもしてくるわ」
「食べたばかりだってのに？」
「当たり前。このまま小田原さん抜いて、レギュラーになるには、そのくらいしねぇとな」
そう言ってケンは、そっと教室を出て行った。
ドアが閉まったところで、園部が言う。
「山田のせいだぜ、絶対」
「そう、かな…」
ふいに篤志がだけどさ、と口を挟んだ。
「だけどさ、ほんとどうしてケンってば、亮子ちゃんと別れたんだろう。
あんな可愛い子、滅多にいないのにさ」
「そんな可愛かったっけ？」
実のところあまり知らない園部がそう聞き返す。
篤志はまるで自分の彼女のように、にこやかな笑顔で答えた。
「可愛い可愛い。ケンが別れたんなら、代わりに俺が付き合いたいくらいだもん」
「しかも毎日電話かけるくらい一途だったしね」
「へぇ、だったら俺も会ってみたかったなあ。
悪いけど俺、ケンになら勝てる自信あるぜ」
「園部がぁ？どっこいどっこいなんじゃねぇの？」
「なんだとぉ？」
「つーか、レベル低いって」
どっと笑いが起きたものの、理香はひとり黙り込んで、唇をかみ締めていた。
教えられた薬局に探し物がなく、萌子はそこからまた少し歩いた薬局で、ようやく目的のものを買うと、時計をみて、少し慌てた。
帝王の試合時間までにはまだ少しあるものの、その前にしなければならないことを考えると、少し走ったほうがよさそうだった。
だけど。
グランドって、こっちでよかったかな。
あたりをきょろきょろと見回していると、歩いている人の中で、見覚えのある姿を発見し、思わず声をあげた。
「あ」
それは、本当に偶然だった。
及川亮子は、声をあげられて、俯いていた顔をあげたところで、萌子と同じように声をあげ、呟いた。
「…マネージャーの…」
「沢木です。沢木、萌子」
萌子も、ケンの彼女である亮子にあったのは、文化祭の後夜祭でしかなかった。
しかも、一言挨拶をしたくらいだ。
向こうが覚えてくれていたのも、奇蹟だったかもしれない。
すると、亮子が言った。
「もしかして、昨日家に電話を？」
無言で萌子が頷くと、わずかに亮子の顔が強張った。
あの、と萌子が口を開きかけたところで、亮子の方が先に言う。
「ごめんなさい。彼が待ってるから」
彼？
萌子の驚きに気づいたのか、亮子は口早に説明する。
「デートなんです。友達のカップルもあわせて、ダブルデート」
すみません、と言うと、亮子は萌子の脇を通りすぎて行く。
ということは、本当なんだろうか。
ケンと別れたということも。
お互い、ふっきれたということも。
だが、何かが萌子の心の中でひっかかる。
「亮子ちゃん―」
思わずそう呼び止めると、亮子は足を止め、それからくるりと振り返り、萌子に向き直って言った。
「駄目ですか？
そばにいて欲しいって思うのに、いてもらえなくて。
寂しくて、辛くて、だから、近くにいる人に頼ることって、駄目なことですか？」
悲痛なその表情に、萌子は亮子の母親が言ったことを思い出した。
『あの子にはもっと伸び伸びとした高校生活を送ってもらいたいの』
一緒にいたときの二人は、本当に楽しそうだった。
何度か亮子と電話をしているケンの姿も見かけたけれど、それも本当に幸せそうだった。
けれどそれは、辛いとき寂しいときがあったからこそ、だったのかもしれない。
何も言えずにいる萌子に、亮子は一礼すると、そのまま足早に去って行った。
見つけたベンチに腰掛けて、お茶を一口飲むと、美都は青空に向って、小さなため息をついた。
朝早く起きて、萌子と理香と一緒に作ったお弁当に端を伸ばし、卵焼きを一口食べたものの、一人で食べても美味しいとは思えなかった。
こんなことなら、萌子についていけばよかったかな。
そんなことまで美都は考えた。
萌子が買出しに行ってしまい、その後を追いかけるようにして現れた朔哉もいなくなったと思ったら、理香が突然美都に言ったのだ。
「じゃ、あたしはアッチのところに行ってくる」
え？と戸惑っていると、理香は、
「美都も和美君と一緒にお昼食べなよ」
とウインクをして、足早に行ってしまったのだ。
お昼を一緒に食べる相手を二人もなくした美都は、仕方なく和美を探した。
もちろん、美都としては、和美と一緒に食べられるのであれば、嬉しい。
ただ、今は部活の時間であり、そういう時に、美都から話しかけられるのを和美が嫌がることも、美都はわかっていた。
きっと、怒られるんだろうな。
もっとも、部活外の時間ですら、和美はあまり美都に笑顔をみせてくれないのだが。
だが、他の部員たちと混ざって食べることもできない美都は、一人でお昼を食べるのを避けるために、素直に和美を捜し歩くことにした。
二年部員たちは、何グループかに分かれてご飯を食べているものの、その中に和美の姿はない。
歩きに歩いたところで、ようやく和美を見つけたのは、駐輪場のスペースだった。
美都はパッと表情を明るくして、呼びかけようとしたところで、和美が昼ごはんをすでに食べ終わり、自主練習をしていることに気づいた。
和美は、新しいチームになり、Aチーム入りしたものの、厚いFW層の中にいて、なかなかレギュラーにはなれずにいたのだ。しかもこの春、樹生という実力のある選手も入って、ますますレギュラー争いは激しくなっていた。
普段は生意気だと言われる和美だが、サッカーにかける意気込みが、人一倍真剣なことを、美都は知っていた。
休みなくボールを蹴り続ける和美を見て、結局美都は和美に話しかけずに、一人お弁当を食べることにした。
今日は晴天に恵まれ、雲ひとつない快晴だ。
それが余計に美都の寂しさを誘う。
小さくため息をつくと、
「ため息つくと、幸せが逃げていくんだって、聞いたことない？」
と突然声がした。美都が慌てて、視線を落とすと、そこには笑顔の湊が立っていた。
「湊君、どうしたの？一人？」
湊は、かるく頷くと、
「成と一緒に食べようと思ってたんだけどさ、どうやら大槻先輩たちに拉致られたみたいで。一緒に食べてもいい？」
と言ってきた。
美都としては、むしろ自分からお願いしたいくらいの気持ちだった。
「うん」
そう答えると、湊は、人ひとり分の間をあけて、ベンチに腰を下した。
男子がいくらか苦手な美都にとって、湊は例外的に話しかけやすい存在だった。一年の頃は同じクラスだったせいか、何かと話すこともあったのだ が、二年になりクラスが離れて、その回数は減った。だが、それでも人の垣根を壊すことなく飛び越える湊に、美都は安心して会話をすることができた。
他人に気を使えるとても優しい人。
しかもその気遣いは、自然すぎて気づかないほどで、一緒にいてすごくラク。
それが美都の思う湊だ。
だから美都としては、そんな湊に彼女ができないことがとても不思議だった。
人気がないわけではない。何人か、湊に告白したという女子生徒の話も聞いたことがある。けれど、結果はすべてお断りだった。
会話は、いつもの通りに初めは湊がリードして、他愛もないことを話していたのだが、そのうちにいつもの通りに、美都が心の中に溜まった愚痴を、思わず口にしていた。
「ねえ、湊君。
あたしね、いけないなぁって思うんだけど、たまに和美君が前みたいにBチームだったらな、って思っちゃうんだ。寝る時間削ってまで、ご飯食べる時間削ってまで、そんなに、頑張らなくてもいいって、ただ」
「だた？」
「そばにいて欲しいって」
思わず心の奥にある気持ちを吐き出したところで、美都は小さくため息をついた。
「駄目だよね、あたしって、彼女失格」
だが、それは本心だ。
美都はもう一度ため息をついて、だからね、と話を続けた。」
「萌子が、だから羨ましい。
福山先輩がいっつも一緒でいてくれて」
部活の時間だけではない。
昼休みや、ちょっとした移動のついでにと、教室にもちょくちょく朔哉は現れて、萌子に話しかけているのだ。
「あの人が特別なんだよ。椎名」
項垂れる美都に、湊が優しく言う。
「北内だって、心の中じゃ椎名と一緒にいたいって思ってるよ」
「そうかな」
「そうだって」
顔をあげると、湊がいつもと変わらぬ笑顔を浮かべている。
そう、だよね。
「ありがと」
美都はそう答えると、大きく背伸びをした。
ナオコとフミエというその女の子二人は、同じような髪型に、同じような服装で、同じような笑顔を浮かべて、俊平たちの話に応えていた。
司に突き飛ばされて、二人の前に立った成だが、あの、とだけ言うと、そのまま黙り込んでしまったのだ。そこに俊平が絶妙なフォローを入れて、そこに司も加わり、こうしてお茶をすることになったのだ。
にこやかに話をする四人の中にいて、成はただひとり、浮かない表情をしていた。
確かに偶然だったとはいえ、目の前の女の子たちは、そこそこに可愛い。
だけど、違うんだ。
そういうことじゃないんだ。
例え目の前にいるのが、どんなに可愛い女の子だったとしても、成の表情が、気持ちが変わることはない。
恋を忘れるには、新しい恋って大槻先輩は言ってたけど。
そういう意味で言うと、新しい恋なんて、今の俺にはまだ出来そうにない。
そんな準備。全然、できてない。
「あの、どうかしたんですか？」
ふいに左側に座る女の子が心配そうな表情で言う。
彼女がナオコだったか、フミエだったか、成にはわからなかった。
「あ、いえ。その―」
「緊張してるんだよな、早坂は。
初めて声かけた二人が、思いがけず可愛くてさ」
俊平がフォローを入れると、えー、そんなことないよーと謙遜しながらも、女の子たちは嬉しそうに笑顔を浮かべていた。何だか恥かしくなって、成は思わず顔を赤らめる。
すると、話しかけてきた女の子が、身を乗り出すようにして、成を見つめて言った。
「初めて、なんだ。ナンパ」
「俊平君も、司君も慣れてる感じだったから、早坂君もそうなんだと思った」
「オイオイ、慣れてるって、どう言う意味だよ、フミエ」
司はそういうと、フミエと呼んだ右側の女の子の髪に触れる。フミエも楽しそうに「こういうところがよ」と答えている。
大槻先輩ってば。まだ会って、一時間も経ってないですってば！
その雰囲気を見て、更に成が身を縮めると、俊平がそんな肩をポンと軽く叩いて、左側の女の子、ナオコに言った。
「いやさ。コイツ、最近失恋したんだ。それで、新しい恋を探してるってわけ」
「えー、可哀そう」
「ナオコも彼氏募集中だもんね」
隣のフミエが茶々を入れ、俊平がニヤリと微笑んで言う。
「へー、ナオコちゃんフリーなんだ。俺と一緒」
細谷先輩ってば。宮尾先輩ってゆー素敵な彼女いるじゃないですか！
そう叫んでしまいたい気持ちを抑えていると、ふと成の視界に、見覚えのある姿が目に付いた。
あれ？萌子？
幻覚かと、思わず成は何度も瞬きをして、ガラスの向こうに視線を向ける。
そこにいるのは、確かに萌子だった。
萌子は誰か女の子と話をしているようだったが、背中しか見えず、成にはそれが誰かはわからなかった。ただ、僅かに見える萌子の表情が暗いのだけが気になっていた。
どうしたんだろう。
すると、女の子は一礼し、くるりとこちらを向いて、萌子の前から立ち去るように歩き始めたのだ。その顔を見て、成は、あ、と思った。
ケンの彼女だ。
文化祭で本物は一度しか見たことがなかったが、写真では何度も見させられていたから、間違いない。
そして、残された萌子は、項垂れたまま、しばらく立ち尽くしていた。
偶然あったのかな。それとも？
成は、視線をそのまま亮子に移す。すると、亮子も、今にも泣き出しそうなくらい、険しい表情をしていた。
何かが、あったんだ。
そして成はまた、あ、と声をあげそうになる。
亮子の前に男が現れ、いきなりその肩に手を回したのだ。
亮子もそれに嫌がる風でもなく、軽く目をなぞると、笑顔を見せ、二人はそのまま仲良く街に消えて行ったのだ。
「どうした？早坂」
いきなり立ち上がった成に、俊平が驚いて尋ねる。
「いや。あの」
ケンの彼女が、別の男と歩いてた、とは言えなかった。
「そろそろ、戻らないと…」
ふと気づくと、いたはずの萌子も、姿を消していた。
試合は、完全に帝王ペースだった。
得点は四対０。
だが残り十分の間に、まだまだ点差は開きそうな勢いだった。
だが、その帝王を倒さなければ、選手権では優勝できない。
帝王だけじゃない。
邦南や、国里。全国には他にも強豪高がたくさんあるんだ。
選手権で優勝するということは、そのすべての頂点に立つということなのだ。
改めてその壁の高さを感じ、ごくりとつばを飲み込んだ朔哉の隣で、ぽつりと萌子が言った。
「あたしって、幸せ、なのかな」
「どうした？突然」
萌子は誰に語るというのでもなく、グランドを見つめ、ただ淡々と話し続ける。
「だって、何も言わなくても、何もしなくても、こうして隣に朔哉さんがいてくれる。それは、すごく幸せなことなんだって、理香が言ってたの」
膝の上に肘をつくかたちで、両手に顎を乗せ、萌子は呟くようにしてそう言う。
そうだな、と朔哉は言って、首を傾げて萌子に視線を投げる。
「俺としては、
幸せなのかな、って聞かれるよりは、幸せだね、って言って欲しかったけど」
それに気づいた萌子は顔を上げると慌てて言った。
「あ、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ、言わせるような言葉でもないし」
そう、できるなら。
幸せだと、そう言って欲しかったけど。
弁明の言葉を一生懸命考えている萌子に、朔哉は精一杯の笑顔を見せて、言う。
「俺は、幸せだよ。萌子がいてくれて」
高葦商の試合は、別の高校が会場だということで、凪高サッカー部員たちは、それぞれに動き始めていた。石橋や朔哉たち三年は、バスで、その他は歩いての移動だ。
何となく足が向かずに、ケンがひとり最後尾をのんびり歩いていると、ふいに理香が駆け寄って、ふくれっつらで怒鳴り込んできた。
「どうして別れたのよっ」
今にも泣き出しそうなその表情に戸惑ったのは、ケンだ。
「おいおい、待てよ。
どうして俺が、理香にそんなことで怒鳴られなきゃなんないわけ？」
「当たり前でしょっ。アッチの気持ちが揺らぐようなことしたんだから」
理香はヒステリックにそう叫ぶ。
「アッチ？どうしてここにアッチが出て来るんだよ」
「亮子ちゃんのこと、可愛いっていうんだもんっ」
「はあ？アッチもいい加減にしろだよな、うわっ、何だよっ理香」
理香は突然にケンの胸倉を掴み、激しく揺すった。
「寄り戻してよ」
「はい？」
「だから寄り戻してっっ」
だが、理香一人の力に動じることもなく、ケンは理香の手を離すと、逃げるようにして道路に飛び出して理香と距離を置いて、答える。
「勘弁してくれよ。どうして、俺がお前の為に、第一あいつにはもう新しい―」
男がいるんだから。
だが、ケンの言葉はそこまでで、その先はキキーッというブレーキ音にかき消されていた。
「危ないっ」
誰かがそう叫んでいた声も聞こえていたが、突然現れた車と、激しいクラクションの音に、それが誰の声だったのかも、その時のケンにはわからなかった。