Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
夏兆2
受話器を置き、萌子はかるくため息をつくと、電話ボックスを出る。
俯いていた顔をあげたところで、目があい、驚いた萌子がその名前を呼ぶ。
「由太？」
呼ばれた由太の方も萌子に驚いたらしく、しばし動きを止めていた。
「どうしたの？」
合宿所にも当然公衆電話はある。
萌子がそれを使わずに、そこから五分ほど歩いた電話ボックスに入ったのは、やはり他の部員に、というよりはケンに聞かれないほうがいいと思ったからだ。 だが、由太が自分と同じようにして電話をかけるということに、萌子はほんの少し驚いていた。潔癖ともいえる由太には、どんなことであれ、人に隠れて何かを していることを嫌う気がしていたからだ。由太はというと、気まずそうに視線を逸らしている。
「もしかして、亜紀ちゃん？」
ならば、萌子も納得ができる。
恋人である亜紀子が高等部にあがったというものの、萌子は校内で、二人が仲良く話している姿をあまり見たことがない。おそらく照れ屋な由太が、そういう風に決めてしまったのだろう。
由太は照れ隠しなのか、無視するように萌子の脇を通り抜け、受話器をあげようとしていたが、ふいにそれを置くと、
「送ってく」
とだけ言って、すたすたと萌子の前を歩き出してしまった。萌子には、それが由太の答えなのだと思った。
「いいの？亜紀ちゃん」
由太の意地っ張りなところに触れてしまったかと萌子が後悔しながら尋ねたが、由太はそんな萌子の言葉を無視するようにして、先を歩いていく。
ごめん、亜紀ちゃん。
萌子は心の中でそう謝りながら、由太の後を歩いた。
亭主関白を地で行くような由太ですら、たった三日地元にいないというだけで、恋人の亜紀に電話をかけるのだ。
半年も会わずにいることに、ケンも、そして亮子もそうして耐えることができなかったのかもしれない。
そう萌子は思った。
「そりゃそうだよ。あたしだったら、一時間でも寂しいもん」
合宿所に戻って、消灯の準備をしながら、遠距離恋愛の話を萌子がしたところ、理香が即答した。
その理香に同調して、美都も答える。
「うん。あたしもそうかな。
そういう意味では、マネージャーでよかったって思う、けど」
「けど？」
萌子がそう繰り返すと、頷いて、美都は表情を曇らせる。
「嬉しいんだよ。和美君、頑張って、Ａチームに入ったこと。
でも。ちょっとだけ寂しいの。これからは担当が違うから、Ａだけ遠征ってなると、あたしは置いてけぼりになるから」
マネージャーは、それぞれ実力別の３チームに、各一名と決まっていた。
レギュラーのいるＡチームは萌子、Ｂチームは美都、そしてＣチームは理香だ。
「美都」
励ますように萌子が言うと、美都は慌てて顔を上げた。
「あ、だからって。そんな理由でチーム換えしたいとか、遠征についていきたいなんてこと、言っちゃいけないことくらい、わかってる」
とはいえ、美都の表情は変わらず暗い。
萌子が気づかれないようにそっとため息をつくと、理香も合わせるように言った。
「あたしも、美都の気持ちわかる。
あたしは、今はアッチと同じチームだけど、アッチはもっと上に行きたいって思ってるし、それは応援したいけど、でも。
だから、本当に萌子が羨ましい」
「え？」
「だって、朔哉さんと毎日一緒じゃない。
遠征先でも、ミーティングでも。
しかも、朔哉さん、時間を作っては、萌子と一緒にいられるようにってするでしょう。そういうの、すごく羨ましいし、理想だよ」
そうかな、と萌子が答える前に、まさしくドアがノックされた。
「はい」
萌子たちが答えると、ためらいがちな声がドア越しに聞こえてくる。
「福山だけど。もうそろそろ、消灯時間になるから…」
口を閉ざした朔哉に代わって、理香が萌子の背中を押す。
「はーいっ、ホラッ萌子」
「え？」
「消灯時間になるまで、一緒にいたいって」
でもあと十分もないよ、と萌子が言う前に、美都が答えた。
「あたしたちはここにいて、監督には適当に言っておくから。ちょっとくらい出ても大丈夫だよ」
追い立てられるように、萌子がドアを開けると、壁に寄りかかっていた朔哉が萌子を見て、ほっと安心したように微笑んだ。
消灯時間になり、電気が消されたものの、成は全然眠れる気がしなかった。
寝返りをうつと、隣のケンに向って、ひそひそと話しかける。
「な、ケン」
「何だよ、成。もう寝ろよ。明日も試合あるんだぜ」
それはそうなんだけど、と成は慎重にケンに尋ねる。
「あのさ。…本当に別れたわけ？」
「何度も聞くなっつーの」
実のところ、ケンは成以外にも、篤志にも、理香にも、朔哉にすら聞かれていたのだ。
あー、面倒。
寝返りをうつケンに、諦めの悪い成が、
「だってさ」
と答える。
しばらく沈黙が続いたが、ケンは成の視線を背中に痛く感じていて、眠れそうになかった。仕方ない、とケンは体を起こすと、成と向かい合った。
「あーもう、しょーがねぇなぁ。
何だっつーの」
「別にケンがふられたわけじゃないんだろう？」
真っ直ぐ自分を見つめる視線が痛い。
ケンはさりげなく視線を逸らすと、気づけば大きな声で言っていた。
「お前ね、どうせなら俺がふったにしてくれねぇ？何で俺がふられなきゃなんねぇの。
言っとくけど、俺、過去を振り返るっつーの、大嫌いだからな」
静まり返った部屋で、苛立った声が響くと、すぐに由太の冷静な声が返ってきた。
「名取、うるさいぞ」
「あ、わり」
ケンはそう言って、まるで子犬のように自分を見ている成に言った。
「ホラ、怒られただろう。さっさと寝ろよ」
だが、成はケンの言葉は全く耳に入らなかったかのように話を続けた。
「わかった。じゃさ。
どうやって、彼女のこと忘れられたの？」
「へ？」
「ずっと好きだったんだろう。
だったら、どうして忘れられたのかなって、さ」
どうして好きになったとか、
どうして別れたなら、ケンも答えたことはある。
だが、成の質問は、初めてで、ケンも思わず考え込んでしまった。
どうして忘れられたのか、って…。
ケンの脳裏に亮子の鮮やかな笑顔が過ぎる。だが、その笑顔は、最後に電話した時の少し寂しそうな声にかき消されていく。
思わず唇をかみしめている自分に気づき、ケンは慌てて乱暴に答えた。
「朝起きて、学校行って練習。終わっても練習で、へとへとなって帰ってきて、あとはメシ喰って、風呂入って、寝るだけ。疲れてるから、電話して話す気力も、ましてやたまの休みの日に、会いに行く気も起きない。そういう生活何ヶ月もしてたら、忘れるなんて、簡単だ」
「でも―」
成がそれでも何かを聞こうとするので、ケンは寝返りを打って先に言い切った。
「もう寝るぜ、成。オレは疲れてんだよ」
ケンに背中を向けられて、成は布団の中で小さくため息をついた。
でも、忘れなきゃならない相手が目の前にいるんだとしたら？
毎日、会うし、
その気になれば会話だって、いくらでもできる。
だけど、どうしたって、忘れなきゃならない。
だとしたら、どうすればいい？
どうしたら、忘れられる？
しばらくして、ケンの寝息が聞こえてきたけれど、それでも成はその背中を黙って見つめていた。
「ふーっっ」
ケンは水を飲むと、そう息をはいた。
予選リーグの最終試合、ケンはめでたくスタメンで出場することができた。
凪高のいるリーグは、一敗もしていないのが、帝王と凪高だけで、しかも今日の試合相手は、すでに二敗している学校だったから、凪高の決勝トーナメント出場は、ほぼ確実だった。
それに、直前になってケンとポジション争いしている三年の小田原が腹痛で出場辞退した。どうやら昨日夜中にこっそり食べた菓子パンが当たったらしい。
実力と言うよりは、運に恵まれたという気がしなくもないが、それでもケンは最初のホイッスルをグランドの中で聞けたことが嬉しかった。
その結果、凪高は四対０で快勝し、予選リーグ２位で、決勝トーナメント出場を決めていた。
そうなると、凪高の今日の試合はもう終了で、監督である石橋からは、決勝トーナメントに出場する帝王の試合と、もうひとつのリーグでトーナメント進出を決めた高葦商と、片岡学園の試合を見ておくよう言い渡されていた。
結局、扶洋は高葦商に、二対０で負けたのだ。結果、二敗一分で、予選リーグ敗退が確定した。
優勝した邦南高校に負け、選手権でベスト８という結果を残した扶洋が、今年のチーム作りは、難航しているという話は聞いていたものの、その波は予想以上に高かったようだ。
『赤坂君がみんなの期待を全部背負っちゃってるんだから』
昨日の母親の言葉を思い出し、苛立ったケンはその勢いで流れる水に頭を突っ込む。隣にふと誰かが立つ気配がしたが、気にすることなく暫くそのままで水に打たれていた。
つーか昨日の成も何なんだよ。
苛立つ気持ちを忘れるつもりが、余計不愉快になって目をあげたところで、ケンは隣にたって同じように頭から水を浴びているのが、赤坂であることに気づいた。
「あ」
思わずあげたケンの声に、赤坂も気づき、視線を向けてきた。
そのまま暫く二人は見詰め合っていた。
ケンとしては、何を言えばいいのかわからなかった。
すると、ふいにケンの耳の中に水が勢い良く流れて、うわっと声をあげるとケンは水道から離れた。
頭を左右にふるものの、入った水が抜けずに、ケンは片足でぴょんぴょんと跳ね回る。
うわっ、抜けねぇっ。
すると、ふいにケンにタオルが投げられた。その方向を見ると、赤坂がくすりと笑っていた。ケンもつられるようにして、くすりと笑った。
試合が終わり、配られた弁当を食べようとしていた成は、ふいに司に名前を呼ばれた。
「早坂成」
「はい、あれ？大槻さん。どうして制服？」
いつの間にか制服に着替えた司はそのまま成の腕を掴む。
「いいからちょっと来い」
そういうと、有無を言わせぬ速さで、成をそのまま人気のない校舎の裏に連れて行った。成は何とか弁当をこぼさぬようについていくと、ようやく司の手が離れたところで尋ねた。
「あの、何でしょう？」
司は、ニヤリと微笑むと、成の顔をぐっと見つめて言った。
「失恋の痛みを忘れるのに、一番いい方法を教えてやる」
「へ？」
「新しい恋だよ」
すると無理やり成のユニホームを脱がそうとし始めた。
「うわ、ちょっ、ちょっと大槻さんっっ」
抵抗する成が気づいたときは、手にしていた弁当は地面に落ちていた。ふと気づくと、成は誰のだか知らない制服を着させられそうになっていた。すると、あーあというため息と共に、後ろから制服にすでに着替えている俊平が現れた。
「司ってば強引すぎ。
早坂、昨日名取に色々聞いたんだって？」
「え？」
どうして知っているんだろうかと思わず成の顔がカッと赤くなる。だが司はその顔に、制服のズボンを投げて言った。
「おい、さっさと下履けよ！早坂っ」
「あの、俺、いったい…」
制服を手にして戸惑う成に、俊平が答える。
「まあ運が悪かったってことだな。
朔哉が抜けたもんだからさ、ちょうどいい餌がなくて、俺たち困ってたわけよ」
「餌？」
「そ。ナンパするのにね」
その瞬間、成の顔が引きつる。
「いや、俺。そういうの、無理ですからっ」
だがすでにその両腕はしっかりと司と俊平に掴まれていた。
「いんだよ。お前みたいな甘い顔の方が、女は油断するんだから。ったくさっさと着替えろって」
「まあいんじゃねぇの？司。あえてこのスポーツ少年的な爽やかさ、前面に押し出して」
「そっか」
自分を無視して進む会話に、思わず成が叫ぶ。
「ってか先輩っ。帝王とかの試合見なくていいんですかっ」
「まあ、何とかなるだろ、帝王も」
司があっけらかんと答える。
「だったら、引き分けなんかしてないと思います―」
「いーから。ほら、あそこの女の子二人組。試しに声かけて来い」
「え？」
視線の先には、高校生と思しき女の子が二人、楽しそうに会話していた。
買ったジュースを一口飲むと、すぐに赤坂が口を開いた。
「シュートがさ、全然はいんねんだよ。この数ヶ月。
蹴っても蹴っても、枠の外。スランプかもしんねぇ」
くすりと笑って、ケンは答える。
「お前、弱いからな、プレッシャーに」
「そりゃケンだって同じだろ」
「ばかやろ、オレは試合中はきっちりしてるよ。ただ、試合前にトイレに立てこもるだけだろ」
くすくすと赤坂が笑って答える。
「そうだった」
赤坂が笑ったのを見て、ケンがニヤリと笑って言う。
「またふられたのかよ」
「え？」
「気づいてなかったのかよ。お前がシュートはいらないって時は、たいてい失恋してる時だって事」
半分は冗談で言ったつもりだったケンだが、赤坂は、小さく、
「そっか」
と答えた。俯いた赤坂に、慌てたのはケンの方だ。
「したのかよ」
「まあな」
そう答え、顔をあげた赤坂の顔には、笑顔が浮かんでいた。
笑い合う二人は、中学時代に戻ったかのようだった。
意地っ張りだもんな、赤坂。
そう思いながら、ケンがジュースを飲み干していると、ふいに赤坂の声が真剣になる。
「ケン。俺、負けねえから、凪浜には負けねえから」
そういいながら自分を見つめる視線は、もう笑い合っていた時とは違っていた。
「俺もだ」
赤坂は、まだ飲み終わっていない缶を握りしめる。僅かにジュースが零れた。
「それに俺、お前の選択が正しかったとも思わねえから。絶対に。
そう思うってことは、俺の選択が間違ってたってことになるから」
「わかったよ」
ケンはそっと答える。
それが、意地っ張りなお前の、精一杯の俺への友情だってことも。
そして、別々の高校にいる限りは、お互いライバルだってことも。
ケンは空の缶をゴミ箱に投げる。缶は音を立てて、その中に綺麗に入った。
「ケン」
赤坂に名前を呼ばれて振り返ると、赤坂が神妙な面持ちで言った。
「亮子、彼氏できたって知ってたか？」