Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
浅春1
時計は、八時を指そうとしていた。
卒業式当日ということもあって、今日は朝練がないということは聞いていた。
だがそうはいっても、そろそろ出ていかないと学校に遅刻する時間である。
しかし起きた様子のない萌子に、母親の元子は階段を上って部屋のドアをノックして開ける。
「萌子、起きなさい。今日は卒業式なんでしょう？」
だが部屋には、すでに身支度を終えている萌子が立っていた。
「あらもう起きてたの。
お弁当も作って置いたわ。そのまま試合に行くんでしょう？今日は東京の方だって？」
朝練はないものの、午後には練習試合で東京の方に行くことになっている。
「さあ、ご飯食べに降りていらっしゃい。遅刻したら目立つわよ」
元子はそれだけ言って、ドアを閉めた。
階段を下りていく足音を聞きながら、萌子はドアが開くまで眺めていた今年のインターハイ優勝時の写真を再び眺めた。
初めてのインターハイ優勝に、あの夏は皆が浮かれていた。
その中央で、ほっと一安心といった表情の朔哉が、トロフィーを掲げて立っている。そこから少し離れたところには、成が無邪気な笑顔を浮かべていた。
萌子は、というと隅の方に緊張した表情で写っている。
『別れよう』
あの言葉は、知朗の言うとおり、朔哉が萌子の為にできる最後のことだったのだろうか。
『その方が、お互いのためだと思うんだ』
『今はわからないかもしれないけど、そのうちお互いのために一番よかったんだって思える時が来るから』
『俺のこと、信じてほしいんだ』
朔哉の言葉に、萌子は深いため息をつくと、唇を噛みしめた。
気づいてしまった自分の気持ちを、なかったことにも忘れてしまうことにもできなかった。
だからといって、朔哉を忘れてその気持ちに正直にもなれない、なるわけにはいかない。
それに、朔哉と一緒に過ごしたこの一年間は、萌子にとってもかけがえのない一年間になっていた。
知朗は、朔哉の気持ちに気づかなかったふりをして、受け入れろと言っていた。
朔哉も本気なのだろう。昨日の三年生の追い出し会でも、どう対処していいかわからない萌子のことなど、気にも留めない様子で朔哉は周囲の人間と談笑していた。理由をつけて一旦は外に出た萌子だけれど、帰って来ても変わらない状況に、結局体調が悪いと言って、逃げだすように帰ってしまった。
話したい。
だけど、何をどう話したらいいのか、わからない。
口を開けば、思わず別れたくないと言ってしまいそうだった。
だがそれが、どれだけ身勝手なことかは、萌子もわかっている。
どうしたら、いいの？
しかし、鏡を見ても、そこには思いつめた表情の自分が映るだけで、萌子は諦めたようにため息をつくと、鞄を持ち、下に降りていった。そのまま靴をはいて出ていこうとすると、元子が慌ててお弁当を持って出てきた。
「朝ごはんは食べないの？」
「うん、卒業式遅れちゃうし」
「そう。じゃ、お弁当は持ってってね」
心配そうな母親の表情を見て、萌子はここしばらく元気のない萌子を、そうやって元子が心配そうに見つめていたことを思い出した。
「ありがとう」
笑顔で受け取ると、元子も笑顔でいってらっしゃいと答えた。
いってきますと、家を出る。
自然と、周囲に朔哉がいないかと探してしまうのは、すでに萌子の癖になっていた。
朔哉が引退してからは、朝練がある時は萌子一人で学校に行くことが多かったはずなのに、それでも、朔哉が待っていてくれるのではないかと思ってしまう。
最後だからと期待した分だけ、落胆は大きい。
萌子は小さく息を吐くと、冷たい空気が白くなった。
重いドアを開けると、風と光がその向こうから差し込んできた。その強さに思わず目の前に手で庇を作り、屋上に一歩踏み出す。
その柵の向こうに、探していた相手は立っていた。その向こうには海が広がっているようにも見える。
普通だったら、自殺するんじゃないかって思うぞ。全く。
俊平はため息をつきながら、その名前を呼ぶ。
「おい、朔哉っ」
驚いた風もなく振り返った朔哉に、俊平は心の中で舌打ちをしながら叫ぶ。
「式、始まるぞっ」
「ああ」
そう答えて、軽やかに柵を乗り越えようとした朔哉を見て、思わず俊平が指でファインダーを作る。その様子に、朔哉は少しムッとした表情で言った。
「なんだよ」
「いやぁ、写真でも撮っときゃ、高く売れそうだなと思ってさ。なんてな、冗談だ」
とは言うものの、実際にその写真が売れることを俊平は知っていた。朝から朔哉と俊平のクラスには、朔哉目当ての生徒たちが押し掛けている。どうやら卒業式前に、ボタンやらネクタイやら、朔哉の身につけているものの予約をしようという算段らしい。
萌子と言う恋人がいるというのに、その人気は相変わらずだ。
ふいに俊平は、朔哉が薄いブルーの封筒を持っていることに気づいた。
「何だよ、ラブレターかよ」
朔哉はそっと制服のポケットにそれをしまいながら、ああと答えた。
この期に及んで、ラブレターをもらうとは。
「まったく、お前ってヤツは」
俊平が憎たらしくそう言うと、朔哉はくすりと笑った。
少し先を歩きながら、俊平は思った。
結局、こいつはずーっとアイドルやってたな。
中学の時も、高校の時も。
人から向けられる称賛の声は、同時に朔哉にとってプレッシャーでもあったはずだ。
その裏にある期待に応えなければならないと。
だがそれを見事に乗り切り、凌駕した。
気づいちゃないけど、
絶対に認めようとはしないけど、
お前はすごい奴だよ。朔哉。
俊平の気持ちが伝わったわけではないだろうが、ふいに朔哉が話しかけてきた。
「俺さ、お前に話したいことあったんだ」
「何？」
振り返り、俊平は立ち止まる。朔哉はじっとその姿を見ていたが、ふいに笑みをこぼして、
「絶対に、お前より宮尾の方が告られる人数。多いよな」
と言った。宮尾は、そのボーイッシュな風貌もあって、女子生徒からの人気が高いのだ。
だが俊平にとって、それは誇りでもあった。
「何わかりきったこと言ってんだよ。
それよりお前は自分のこと心配でもしてろよ」
「え？」
急に朔哉の表情が真顔になる。俊平は、さっきまでの教室の風景を思い出しながら答えた。
「女ってのは怖いからな。実力行使でボタン取りに来るぞ。去年の横田さん覚えてるか？
もみくちゃにされて、他校の彼女に渡すはずの第二ボタン、誰かにとられちまったって話。着ていたコートまでぼろぼろで、顔には引っかき傷まで作って。
お前も、コートは別のところに置いておいた方がいいぞ。それに大事なボタンは早いうちに外しておけよ」
誰の為に、とまで言う必要はない。
朔哉は無邪気に笑うと、
「サンキュ」
と答えた。
「卒業生入場」
マイクから響く声と同時に拍手が起こり、三年生が入ってくる。だが萌子は拍手もせずに、じっと正面を見つめたまま考えていた。
このままでいいのかな。
このまま、朔哉さんに何も言わずに別れて、会えなくなる。
このままで。
その時、突然黄色い声が体育館に響き渡った。朔哉が入ってきたのだ。
萌子が思わず顔をあげて振り返ると、朔哉と目が合った。
だがそれもほんの一瞬のことで、朔哉は何事もなかったかのように視線をすっと逸らした。
萌子は胸がひどく傷むのを感じた。
自分の気持ちがまとまったわけではない。
今だに相反する気持ちが、自分勝手な気持ちが萌子の中では蠢いている。
だがそうこうしているうちに、時間は過ぎ、朔哉は目の前からいなくなってしまうのだ。次に会う時には、朔哉のことだから、きっと何事もなかったかのように、普通の後輩として萌子と接するはずだ。だが萌子には、その時に平然と対応できる自信がなかった。
項垂れて正面に顔を戻した萌子に、隣の理香が話しかけた。
「あのね、今日の三年生へのプレゼントなんだけど」
部からは毎年卒業生には花を一輪渡すことになっている。今年はスイートピーだ。去年は、マネージャー三人で振り分け、配り歩いた。
夏に引退した部員にも渡すので、一学年がだいたい三十人弱。一人十人と聞けば、簡単と思うかもしれないが、それぞれの居場所がわからない上に、今年は練習試合のため、タイムリミットもある。正直なところで言えば、感傷に浸っている暇はない。
「アッチたちにも協力してもらうことにしたから、萌子の割り振りは一人ね」
「え？」
思わず萌子が顔を上げると、理香の奥にいる美都もにっこりと笑った。
「言いたいことは、全部言っちゃった方がいいよ」
「萌子は何でもため込むのが、悪い癖なんだからね」
その相手が誰かということは、聞かなくてもわかった。
二人の、というよりは部員の気遣いなのだろう。
「ありがとう」
消えそうな声で、萌子は理香と美都に言った。
練習試合に向かうバスが出るまで、あと二十分。
「時間厳守だよ」
「頑張ろうね」
萌子たちは円陣を組むと、それぞれ割り振られた花を持ち、校舎や校庭に散らばって行った。
卒業式も最後のＨＲも無事終えた卒業生たちは、学校中にいた。保護者と話している人もいれば、クラスメートたちと写真を撮っている人もいる。そして、物陰に隠れるようにして、秘めていた思いを告げている人たちもいた。
まずは教室から、と萌子は朔哉の教室に顔を出した。だが、中には朔哉はおろか、一緒に連れ立っていそうな俊平の姿もない。
諦めて別の場所にと思ったところで、萌子は声をかけられた。
「沢木！久し振りだな。あ、もしかして、それ…俺の？」
サッカー部の田島だ。田島は萌子が握りしめていたスイートピーに手を伸ばして、奪おうとした。萌子は慌ててスイートピーをその手から遠ざけると、
「ごめんなさい、違うんです」
と答えた。田島はふーんと言いながら、残念そうに言った。
「最後だから沢木からもらいたかったなあ。この前の追い出し会だって、途中で帰っちまったし。あ、じゃあ写真一緒に撮ろうぜ！写真！」
田島はそう言うと、教室に戻って鞄からカメラを取り出してきた。おまけに、そばにいた生徒に撮ってもらうよう頼み始めている。
萌子は慌てて言った。
「ごめんなさい、時間ないんで。もうすぐ、練習試合で学校出なきゃいけなくて」
「そっか…」
さすがの田島も表情を曇らせた。萌子は思い切り頭を下げる。
「本当にごめんなさい。で、あの。朔哉さん、知りませんか？」
「朔哉？さあ。今日は、女子からひっぱりだこであいつも忙しそうでさ…あ」
自分の発言が、朔哉の恋人である萌子に対して不適当だと感じた田島は、慌てて言い直した。
「そ、そういやグラウンドに行くとか言ってた、かも」
その言葉を聞き、
「ありがとうございましたっ」
と萌子は大きく頭を下げてそう答えると、グラウンドに向かって走り出した。
ＳＨＲも終わった二年生の教室は、生徒も疎らになっていた。
卒業生を探す生徒たちは、すでに三年生の教室や昇降口に向かっていたし、その他の生徒たちは、テストも近いからとさっさと帰ってしまっていたのだ。
ただがらんとしている教室には、昇降口やグラウンドから聞こえてくる歓声やシャッターの音が響いていた。
その中で、成はじっと席に座っていた。
『卒業式が終わったら、グラウンドにいてくれ』
昨日、確かに朔哉はそう成に言った。
『萌子のこと、頼んだぞ』
とも。
だがそれでいいのだろうかと、ずっと成は自問自答していた。
傍にいて守ってやれないから、萌子と別れる。
朔哉がそう思った気持ちもわかる。
だけど朔哉のその気持ちを、成は受け入れることができずにいた。
だいいち、お互いの気持ちはどうなんだ。
福山さんはもちろん萌子のことが好きだし、萌子だって、きっと同じ気持ちでいるはずだ。
それなのになぜ、別れるなんて言うんだろう。
おまけに、自分の代わりに選んだナイト役が、俺だ。
俺だったら、きっともっと別の人間を選んでる。
右京とか、知朗とか、萌子にとって特別な人間なら他にもたくさんいるのに。
どうして俺なんだろう。
確かに、俺は萌子のことが好きだけど、萌子にはふられっぱなしだし。
そう考えれば考えるほど、成は自分はグラウンドに行くべきではないように思えていた。
「成、行こうぜ」
クラスメートでもある知朗がそう言って成に声をかける。
「…ああ」
成はゆっくりと立ち上がり、知朗について行く。隣の教室からちょうど篤志と右京も出てきて、四人は連れ立って部室へと向かい始めた。
「今日の相手は、楠学園だったよな。この前の新人戦は東京都でベスト十六。楽勝、楽勝」
篤志がテンション高く一人話している。
「あ、俺らは、後から電車で行くことになっているからさ。頑張ってくれよ」
「了解」
そう短く知朗が答えているのが、聞こえてくる。成はそっと廊下の窓から見えるグラウンドに視線を送った。グランドにはいくつもの人だかりができている。
『卒業式が終わったら、グラウンドにいてくれ』
本当に俺に…行く資格なんて、あるのか。
「どうかした？成」
「え？」
ふいに呼びかけられて成は、正面を向いた。少し先に不思議そうな顔で自分を見つめる篤志の顔と知朗たちが立っている。
「心此処にあらずだけど」
「ああ、ごめん」
成はそう答えると、篤志たちのところまで駆け出して行った。
慌ててグランドに飛び出したところで、萌子は思わず足を止めた。
グランドには、いくつもの人の塊ができていたのだ。皆がそれぞれに写真を撮ったり、堂あげしている生徒たちもいる。
朔哉さん？どこにいるの？
萌子はグランドを見回した。まだ蕾を付けたばかりの桜の木が、まだ冷たい春風に吹かれている。
ふいに、去年この桜の花を、ゆっくりと朔哉と一緒に見上げていたことを、萌子は思い出した。
それだけじゃない。
いつも一緒に登校をして、まだ誰もいないグラウンドで、ストレッチする朔哉を手伝い、その背中を押したこともある。
逆にライトの消えたグラウンドの整備を、遅くまで練習した朔哉に付き合って、一緒にやったこともある。
文化祭では中央に作ったステージの上で、朔哉と一緒にベストカップル賞をもらった。
グラウンドだけじゃない。
昇降口にも、
体育館にも、
図書室にも、
屋上にも、
海辺にも。
この凪浜には朔哉との思い出が、たくさん溢れていた。
朔哉さんは、この一年、私のそばにずっといてくれた。
私のことを、守ってくれていた。
泣きたい時には胸を貸してくれたし、
さびしい時には抱きしめてくれた。
別れたくない。
一緒に、いたいよ。
萌子がそう思ったところで、グラウンドの入口から黄色い声が聞こえてきた。
「ボタンください」
「写真、一枚だけでもお願いします！」
「福山先輩っ、握手してくださいっ」
その声に、思わず萌子は振り向いた。
すると女子生徒の人だかりの中に、頭が飛び出た形で歩いている朔哉が見えた。もみくちゃにされているようで、たまに左右に引っ張られたように動きながら、朔哉はグラウンドの中に入ってくる。
「朔哉さん…」
集団が萌子の脇を通り過ぎ、思わず萌子はそう呟いた。だがその声はあまりに小さく、朔哉にも取り巻きたちにも届かなかった。
朔哉はそのまま表門の方に向かって歩いてく。
このまま行ってしまう。
「朔哉さん」
萌子はもう一度呼んだ。数人の取り巻きが足を止めて萌子を見止めたものの、朔哉は足を止めない。
「朔哉さん！」
今度は思い切り叫んだ。
突き出た頭が、振り返って萌子を見つける。目があったものの、萌子は次の言葉が見つからなかった。
「あの…」
思わず萌子が視線をそらすと、朔哉がゆっくりと女子生徒たちをかき分けて、萌子の前にやってきた。
話すのは別れようと言われたバレンタインの日以来だった。こうして対峙するのも、そうだ。
萌子は、ためらいながらも、手に持っていたスイートピーを差し出した。
「これ…卒業祝い…です。
部員…みんな…から…の」
溢れてきた涙で、うまく言えたかわからなかった。萌子は堪えきれずに手で口許を覆った。肩を震わせる萌子を見て、朔哉は思わず手を伸ばしかける。だが、 何かを思い出したようにその手を引き戻すと、着ていた学ランを脱ぎ、萌子の肩にかけた。気付けば萌子の差し出したスイートピーは、朔哉の手の中にあった。
「顔あげて、萌子」
涙をぬぐいながら萌子が顔を上げると、朔哉は優しく笑っていた。
いつもと変わらない笑顔。
そして、これからは見れなくなる笑顔。
そう思うと、ますます涙が止まらなくなり、萌子は再び顔を俯かせる。
朔哉は、優しく言った。
「笑って、萌子。
萌子の笑顔が見たいんだ」
萌子は涙を拭って、唇を噛みしめながら笑顔を作ろうとする。だが、どうやってもうまくいかない。
最後なのだから、最高の笑顔を。
そう思えば思うほど、涙は止まらなくなる一方だ。
顔を上げられない萌子を見て、朔哉は小さくため息をつくと、その手を伸ばして、そっと萌子の髪に触れる。
「萌子は、正しいよ。
萌子が見つけた答えは、きっと正しい。だから、自信もって」
萌子は俯いたままで首を小さく振った。
私は正しくなんかない。
ずっと朔哉さんを傷つけて、だけどそれに気づいてなかった。
それなのに、そばにいてほしいなんて、言えるわけがない。
そんなこと、いいわけがない。
すると朔哉がくすりと冗談めいて笑いながら言った。
「俺が惚れた女なんだからさ」
思わず顔を上げると、朔哉は笑っていた。少し悲しそうだったけれど、それでも笑っていた。
その笑顔に、萌子は胸がいっぱいになる。
ごめんなさい。ごめんなさい。
いっぱい傷つけて、ごめんなさい。
「それじゃ」
朔哉は軽快にそう言うと、踵を返して、グラウンドを横切り、正門へと歩き始める。少しずつ小さくなっていくその背中に、萌子は体中の力を振り絞りながら呼びかけた。
「朔哉さんっ」
その声に、びくんと朔哉の足が止まる。
振り返りはしなかった。
それでも、せめてこの気持ちが朔哉に届いてくれればいいと、萌子は力の限り叫んだ。
「ありがとうございましたっ」
萌子の最後の声を聞き届けたからか、朔哉はすぐに歩き出した。
その姿に気持ちが緩み、萌子の体がぐらりと揺れる。だが、誰かが萌子の肩をしっかりと掴んで、支えた。
「…成」
見上げると、そこには強張った表情の成が立っている。
成を見つめた萌子だったが、すぐに顔を正面に戻すと、再び泣き始めた。
最後の最後まで、成はグランドに行くべきかを悩んでいた。だが、思ったのだ。
萌子が傷つけられるというのなら、黙って見ているわけにはいかない。
それに、自分は福山さんに選ばれたのだ。
あの、福山朔哉に。
目の前の萌子は、見たことがないほどに泣きじゃくっていた。それでも、朔哉の背中をじっと眺めている。
その気持ちが痛いほどにわかるから、成もどうしていいのかわからなくなっていた。
その時、グラウンド内が微かにざわめいた。
一人歩いていた朔哉の横に、ショートカットの女子生徒が現れたのだ。彼女は朔哉に濃紺のダッフルコートを渡し、朔哉は手に持っていた荷物を彼女に預けるとそれを着た。そして二人はしばらく見つめあったかと思うと、朔哉が徐にその肩に手を回した。
成は咄嗟に思った。
萌子に見せてはいけない。これ以上、傷つけてはいけない。
『萌子のこと、頼んだぞ』
頭の中を、朔哉の声がリフレインする。成は咄嗟に、萌子の肩を強く引くと、自分の胸に抱き寄せていた。
自分の胸の中で、突然のことに驚いたのか萌子のしゃくりあげる声が一瞬止まり、僅かに肩に力を入れたのがわかる。
成には、それが自分に対する萌子の気持ちだと思った。
その通りだと思う。
今の萌子は、恋人と別れたばかりなのだ。
今までの成であれば、ごめんと一言言って、その手を離しただろう。だが、成は萌子の肩に置いた手を、離さなかった。
見込まれたんだ、あの人に。
俺は。
微かな自信が、成の中に息づく。成は、萌子をやさしく包むように、自分の胸に萌子の頭を押しあてる。
萌子もそんな成に戸惑っていた。だが、好きなだけ泣いていいのだと、成が言っている気がした。
泣いて、綺麗さっぱり諦めればいい。
朔哉さんのこと。
そして、萌子は成の学ランをギュッと握りしめると、大きな声をあげて泣き始めた。
朔哉は夕陽に染まって金色に輝く海を見つめながら、座っていた。
かつて美智子に教えてもらったこの場所には、萌子との思い出もたくさん詰まっている。
ここだけではない。
凪高の校舎、部室、グランド、屋上、寮までの道のり。
萌子と出会う前までは、なんてことない場所だったはずなのに、今ではどれも大切な場所だ。
それは萌子も同じであるはずだと、朔哉は思っていた。
そう、俺は信じてる。
萌子のことを。
「おーい、朔哉」
ふいに誰かが自分を呼ぶ声がした。
歩道に戻ると、向かい側からサッカー部員でクラスメートの田島が走ってやってきた。
「いたいた。クラスの送別会、これから絵島のカラオケ行くってことになったからさ、行こうぜ」
「そうか」
そう答えるものの、朔哉の視線は相変わらず海に向いている。
田島が困ったように言った。
「じゃないとお前、もう実家に戻ってこっちに帰ってこないんだろう？みんなお前のこと待ってるぞ」
朔哉のためのカラオケなのだと田島が言いたげなのが、朔哉にもわかって、思わずくすりと笑みをこぼす。
「ああ、わかった」
ふいに寒気を覚えて、朔哉はコートのボタンを締める。
三月とはいえ、学ランがあるのとないのでは、体感温度は違うらしい。
歩きだした朔哉の後を、田島がにやけた顔で追いかける。
「そういやお前が言っていた通り、沢木が教室に来たから、お前はグラウンドだって言ってやったよ。それよりさ、さっきの女子？何？お前の新しい彼女？沢木とは別れたわけ？で、今度はクールビューティー系？」
好奇心を隠すことなく田島は朔哉を質問攻めにした。
だが朔哉はそれに答えることはなく、田島の肩に手を回すと、
「行くぞ」
とにっこり笑って答えた。