Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
凍空4
相変わらず、海から吹きつける風は強かったけれど、それでも冷たさが和らぎ、春が近づいているのを感じることができる。
気がつけば二月も終わるのだから、当然と言えば当然だろう。
そして、三月になれば、卒業式がある。
その後朔哉は、この凪高から、凪浜という街から、出て行くのだ。
このところ遠征続きだった為か、今日の練習は休みになった。
萌子は、一緒に帰ろうと言う理香と美都の誘いを断って、一人駐車場から砂浜へと続く階段に腰を掛けて、海に沈む夕日を眺めていた。
二人が萌子のことを心配してくれているのは、痛いほどわかる。
大丈夫だと、何でもないと言いたいけれど、笑顔がうまく浮かべられない。
そんな萌子を見れば、二人はますます心配するだろう。萌子はそんな二人に気を遣う余裕もなかったし、二人に余計な気遣いをさせたくもなかった。
ふぅ、と小さくため息をついたところで、砂を踏みしめる足音がした。
ふと隣を見ると、ジャージ姿の右京が立っていた。
「…右京」
「悩み事があるとここに来るのか」
そう言って、右京は少し萌子と距離を置き、腰掛ける。
「心配してるぞ、皆」
右京の言葉に、萌子は小さく頷いた。朔哉との話を知っているのかいないのか、誰も正面切って聞いてこないものの、元気がない萌子に皆がいつも以上に優しいことには気づいていた。
「わかってる。気を遣ってもらってるの。
だめね、選手に心配されるマネージャーなんて、マネージャー失格」
自嘲気味にそう言ったが、右京は何も答えない。
萌子は静かに視線を目の前の海に落とすと、ぽつりと呟くように言った。
「ねぇ、右京。私、ふられちゃった。朔哉さんに、別れようって言われちゃった」
「福山さんが？」
驚いたように右京がそう言って自分の方を向くのがわかり、萌子はあふれてきそうになった涙をこらえようと、今度は空を見上げた。
「その方が、お互いのためだって。今はわからないかもしれないけど、そのうちそう思える時が来るって」
あれからずっと考えているが、萌子はその答えが見つけられずにいる。あと数日で、朔哉がこの凪浜を去っていくというのに。
少しして、右京が口を開く。
「あの人は、萌子のことを傷つけるような人じゃない」
「わかってる」
どれほど萌子のことを大事に思ってきていたのか、それは萌子自身わかっていた。
だからこそ、今回出した朔哉の答えには、同意もできないし、納得もできないのだ。
「このままでいいのか？」
「…わからない」
今度は即答できなかった。
自分がどうしたらいいのか、萌子にはわからない。
ただこの気持ちのまま、朔哉と別れたくはなかった。
ふいに右京が声を張り上げた。
「逃げるな。その想いから」
思わず萌子が右京の方を見ると、右京も萌子の方を見た。
「おまえ、そう言ったよな」
あ、と思わず声が漏れる。
それは、右京が紗依が石橋を好きなことを知り、八つ当たりをしていた時に、萌子が右京に言ったことだった。
右京は視線を萌子から正面に広がる茜色の空と交わって輝いている海に移す。
「俺は、向き合ってるつもりだ。全然、楽じゃないが。
…好きな人が、自分以外の誰かを好きだってのも辛いけど、
その人が好きな人を全く相手にもしてないってのも、辛いから」
ため息交じりにそう言った右京に、萌子は慌てて謝った。
「ごめん、右京。
私一人、辛いみたいな顔して」
「いや、いい。俺が、今のこの道を選んだんだ」
きっぱりと右京はそう言うと、萌子を見つめ返すことなく、立ち上がった。
「考えて、それで答え出せ。お前の納得できるような答え」
「…うん」
砂を踏む足音が遠のいて、波音だけが残された。
時間だけは、着実に過ぎていった。
萌子が答えを出せないままに、卒業式の二日前、朔哉が実家から寮に戻ってくる日になっていた。
夕方には寮に戻る予定だということは、バレンタインデーの前、つまり別れを言われる前に聞いていたことだった。
会いに行くべきかどうか、朝から萌子はそのことを悩み続けていた。
誰かに話を聞いてもらいたいと思うものの、やはり朔哉とのもめごとは誰にも相談することができない。
ため息をついた萌子だが、ふと一人だけ相談できる相手を見つけた。
成だ。
昼休み、お弁当を食べ終えた萌子は、ひっそりと一人で成のいる九組に向かった。
萌子たちの教室は二階だが、成のいる九組は三階で、雰囲気も違う。萌子は少し緊張しながら、教室を覗くと、ちょうど成が出てきたところだった。
呼びかけると、成は驚いた表情を浮かべて、
「萌子？どうした？」
と言った。少し首をかしげた成を見ただけで、萌子は安心感からか涙が出てきそうになるのを、ぐっと我慢して平然を装って言った。
「あのね、ちょっと。…相談したいことが、あるんだけど」
その時萌子の後ろから、ケンの声が廊下に響く。
「おい成？マジでやんの？昼休みなのに？」
萌子が振り返ると、ケンも気づいたようで、
「萌子も何とか言ってくれよ、そのサッカー馬鹿に」
と言う。話の見えない萌子を無視して、成はケンに強く言った。
「当たり前だろう。昼寝してるくらいなら、時間はもっと有効活用しないと」
「何するの？」
「練習するって言うんだ。成のヤツ。ああ、湊も来た」
ケンがそう言って、湊も成たちの教室前にやってきた。萌子に気づいて、湊が尋ねる。
「あれ？萌子も、参加するの？」
「まさか。松本は、もう行ったかな。俺たちも早く行こう」
萌子より先に否定したのは成だった。そして、成は萌子に向かって言う。
「ごめん。あとでもいいかな。今の話の続き」
成の真剣な目を見ると、萌子も嫌だとは言えなかった。
頷く萌子を見て、成は湊を伴い階段を下りて行く。見送る萌子の隣で、ケンがため息交じりに言った。
「はぁ。何だよ、あいつ。この前だって川城に勝って優勝したってのに、このままじゃ全国にはいけない。
練習しないと川城には勝てないとか言ってさ。
んなもん楽勝だよなぁ、萌子」
成、湊、ケン、それに二年の松本が集合するとなると、おそらくはディフェンス体制の話だろう。
萌子は隣にいるケンに言った。
「ケン、行った方がいいんじゃない？」
ため息をつきながら成たちの後を追いかけたケンを見送ってしばらくすると、グラウンドには制服姿のままボールを蹴る成たちの姿があった。
楽しそうにボールを蹴っているように思えるが、実際に真剣なのは成だけのようだ。
ケンはわざとなのか時々あくびをしているし、松本は、どこか遠慮がちだ。
湊はいつもと変わらない様子だが、それでも積極的にというよりは、成に言われたから、参加しているのだろう。
『このままじゃ全国には行けない』
確かに成の言うとおりだ。選手権出場の座を取られたのは主軸メンバーの不在が原因とするには弱い。それに実際、川城の強さは、選手権でも実証されている。
チームが一新された新人戦での優勝は、川城のエースが不在だった上に、凪浜としても不本意な試合内容だった。
夢に向かって、まっしぐらなんだなぁ。
目が、キラキラしてるもの。
萌子はそう思いながら、廊下からグラウンドを走る成を見つめて、ほほ笑んだ。
成を前にすると、今の自分はなんて不甲斐ないんだろう。
ため息をこぼす萌子の耳に、後ろを歩く女子生徒たちの声が聞こえてきた。
「絶対絶対、真琴先輩からボタンもらうんだ。卒業式に」
おそらくは真琴のファンなのだろう。
中等部では朔哉よりも人気があると言う真琴のファンは、高校でも少なくはない。
だけど、こんな話、細谷先輩が聞いたら、どう思うのかしら。
萌子がそう思ってくすりと笑うと、偶然にも女子生徒たちは俊平のことを話題にする。
「それにしても、真琴先輩だったら、もっとカッコイイ彼氏でいいと思うのにな」
「確かにサッカーは巧いのかもしれないけど、だったら福山先輩がいるし、ねぇ」
だが、当の本人たちは、お互いを大事に思い合っている。
いつだったか、どうして俊平と付き合うことにしたのかと萌子が尋ねた時も、真琴はさらりと答えた。
『疲れない相手、私にはそれが細谷だった。それだけ』
自分にとっての疲れない相手。
あの時は、辛いことがあって、それが朔哉だと思っていた。
だから、萌子は朔哉と付き合うことにした。
なのに…。
『それは、…福山さんの恋人だから？』
成の言葉が、萌子の心に響く。
気づけば、朔哉の恋人であることが周囲からの重圧になっていた。
そして、今萌子の心に思い描いているその相手は、朔哉ではなかった。
『初めの一歩は、誰でも勇気がいるけど、大事なのはその幅じゃなくて、踏み出すってことだと思うから』
『不安になることがあったら。
俺、言うから。
萌子は必要だよ。
必要な存在だって。何度でも』
『俺は目の前で今まで見てきた萌子を信じることにする』
『がんばろうな、これから三年間』
溢れ出るように、思い出が浮かんでくる。それはどれも、成が言った言葉だった。
…私。
零れた涙をさり気なく拭いて、萌子は駆け出した。
気づいていたのだろうか、朔哉は。
気づいて、それであんなことを言ったのだろうか。
だとしたら私は…。
急いで下駄箱に手を伸ばしたところで、萌子は呼び止められた。
「萌子っ」
顔を上げると、そこには知朗が立っていた。知朗も、萌子と同じように走ってきたのか呼吸が荒い。
「どこに行くんだ？」
「寮。もしかしたら、朔哉さん、帰ってきてるかもしれないし」
萌子がそう言って靴を取り出そうとした手を、知朗は強い力で掴む。
「あの人の気持ち、察してやれ」
その言葉に、萌子もはっとした表情で知朗を見返す。
「どういう意味？」
知朗は唇を噛みしめながら、苛立つ気持ちを抑えたような表情で答えた。
「俺はお前をずっと見てきたんだ。お前が誰のことをずっと見てたのか、わかってるつもりだ」
「…知朗」
自分でも気づいていなかった思いに、気付かれていたことに萌子は戸惑い、口を閉ざす。俯いた萌子に、知朗はそれでも語り続けた。
「前に聞いたよな。
あの人の言葉で、仕草で、表情で、自分が幸せになったり、落ち込んだり、悩んだり、そういうことあるのかって。
付き合ってきた一年間で、あったのかよ、どうなんだよ」
答えられない萌子に、知朗が押し殺した声でその答えを言う。
「お前の心の一番真中にいたのは、福山さんじゃなくて、成だったんじゃないのか？」
萌子の目から、その質問に答えるように涙が一粒零れ落ちる。知朗がそっと萌子から手を離した。
「…私、ずっと朔哉さんのこと傷けてきたの？」
朔哉はいつ気づいたのだろうか。
気づいて、でも何も言わずに、萌子の隣にいたというのだろうか。
成を見つめる萌子の隣で。
涙の止まらなくなった萌子に、知朗が言う。
「福山さんは最初からわかってた、そんなこと。
それでもいい、あの時そう言ってただろ？」
去年の春、知朗に呼び出された時、萌子を追いかけてきた朔哉と知朗のやり取りを、萌子は思い出す。
あの時にはすでに、萌子の目が成を見ていることを二人は知っていたのだ。
萌子はわからなかったあの時の会話の意味を、初めて理解した。
「だから、お前があの人に負い目を感じることはない。
悪いと思ってるんだったら、あの人の希望に応えてやれよ」
希望？
萌子はその言葉に顔を上げる。
ああ、と知朗は頷いて答えた。
「解放してやれ」
卒業式の前日、寮では追い出し会が始まっていた。
通常ならば、卒業式の日にやるのだが、明日は式の後遠征することが決まっていて、日程が前倒しになったのだ。
練習を早めに切り上げて、寮で準備をしながらも、萌子はドキドキしていた。
朔哉と、どう顔を会わせたらいいのかわからなかったのだ。だが幸いにも、朔哉はクラスメートたちと遊びに出ていて、少し遅れてから参加することになっていた。
それ以外の部員が全員顔を揃えたところで、乾杯をしようと紙コップを持ち上げた時、ようやく朔哉が顔を出した。
「すみません、遅れました」
「皆がお前のこと待ってたぞ。早く来い」
石橋がそう言って、朔哉にも紙コップが手渡される。朔哉は人をかき分けながら、石橋が示した隣の席に座る。
「では改めまして、乾杯！」
乾杯と、一斉に声が上がる。その中で、萌子はコップに軽く口をつけながら、じっと朔哉の方を見ていた。
この数週間で、萌子は少し食欲を落とし、体重も減ったが、朔哉の方は何も変わりがないようだった。石橋や、部員たちともいつものように明るく談笑している。
今までだってそうだった。
萌子と付き合う前からも、朔哉はどんなに辛い苦しいことがあっても、それを周囲に見せることなく、いつも笑顔を絶やさなかった。
わかっていたはずなのに。
耐えきれず、萌子は朔哉から視線を外して、部屋を出て行こうとした。
「…萌子？」
気づいた美都に呼び止められたが、
「ジュース、足りなくなりそうだから、ちょっと買ってくる」
と答えると、そそくさと部屋を出て行った。
だがそれが、萌子なりの言い訳であることは確かだった。
横目で見ていたケンがため息交じりに言う。
「大丈夫かな、萌子」
「やっぱりきついよな。別れた恋人が目の前にいるって」
「え？別れたって？」
隣で上がる驚いた声に、ケンは顔を強張らせた。
「萌子と朔哉さんのこと？冗談だろう？」
だが成は、そんなケンに更に問いかける。黙り込むケンに代わって、湊が答えた。
「別れようって朔哉さんに言われたんだよ、萌子」
成は目を見開いて、周囲の人間にその答えを求めるべく視線を送る。だが、誰もが成から逃げるように顔を俯かせた。
「皆は…知ってたんだ」
確かに最近の萌子は、どことなく元気がなかった。だがそれは、新人戦の試合内容に落胆しているからなのだと、成は考えていたのだ。
だからこそ、必死になって練習に励んでいたと言うのに。
そう思ったところで、成は小さく声を上げた。
そう言えば…相談したいことがあるって、俺のところに来てたのに。
練習のことで頭がいっぱいで、萌子のこと、後回しにしてた。
項垂れた成を見て、勘違いした篤志が言う。
「別にお前のこと、仲間外れにしようとか、そういうことじゃないんだ。
ただ、これからどうするか決めるのは、萌子自身のことだから、萌子が答えを見つけた方がいいって。皆で決めたんだ」
篤志の話に、他の部員たちも頷く。
しかし成はそれには答えずに、俯いたままで声を震わせて言った。
「…そうやって、ずっと腫れものに障るみたいにしてるっていうのか？」
「落ち着けよ、成」
ケンが宥めようと肩に手を置いたが、成はそれを振り払って顔を上げた。
「だってそうだろう？今までのあいつ、どうしてた？
誰か思い悩んでたら、萌子は隣に行って、一緒に悩んでたろう？」
言われた皆が黙り込んだ。成は持っていたコップを、湊に押し付けた。
「…行ってくる」
そう言うと、成は部屋を出て行こうとする。理香が慌てて聞いた。
「行くってどこに？」
「萌子のところだよっ」
「ちょっと成」
「待てってば」
成の後を慌てて篤志やケンたちが追いかける。成はそれを振り払って、玄関に向かおうとしたところで、目の前に影が過り、思わず足を止めた。
「福山さん…」
主賓席に座っていたはずの朔哉だったが、手にジュースを持ったままで、どうやら後輩たちに挨拶をしながら回っているようだった。
「早坂。どうした？」
鬼気迫る成の表情に、思わず朔哉が尋ねる。
成はじっと朔哉の顔を見ていたかと思うと、
「話、あるんです」
と言った。
萌子を追いかけて話を聞く前に、朔哉から話を聞いておくべきだと思ったのだ。
成の話に朔哉も、にっこりと微笑んで答える。
「ちょうどよかった。俺も、お前に話があった」
ともすれば、一緒に話を聞きかねない篤志たちを下に置いて、朔哉は成を二階の自分の部屋へと連れていった。
がらんとしているその部屋には、もうほとんど朔哉の荷物はない。
実家に戻った際に、一緒に荷物は送っておいた。明日の卒業式が終わったら、朔哉はこの部屋どころか、凪浜を出て行くことにしていた。
ドアを閉めた途端に、成が堰を切ったように話しだした。
「どういうことなんですか？萌子と別れるって、どうして―」
「座れ」
朔哉は短くそう言うと、同室の小田原が使っていた椅子を、成に差し出し、自分も椅子に座る。
成は納得がいかない様子を見せていたが、諦めたように椅子に乱暴に座る。
「俺から先にいいか？」
目の前の朔哉には、先ほどの甘い微笑みの欠片もない。
「…はい」
成がそう答えると、朔哉は大きく息を吸い、椅子から立ち上がって、窓辺に手を置き、外の景色を眺めながら、口を開いた。
「二年前の春、男だらけの部の中に、一人の女の子が入ってきた。正確には、三人だけど、中でも一人だけ他人との距離感を掴むのが下手な子がいた。
高校ともなれば、性格の合わない奴らがいるのも悟り始める頃だし、そういう時はあまり近づかないようにするのが普通なのに、彼女は、いつも真っ直ぐ突っ込んでいった。
おかげで傷ついたことは、沢山あったと思う。だけど、彼女は強く思われていたし、実際そう振る舞っていた。
けれど、本当は人一倍傷つきやすかった。
そう気づいた時に、思ったんだ。
俺が彼女を守ろうと」
窓にぼんやりと映る朔哉の表情は、成にはよくわからなかった。
だが、誰のことを言っているのかはわかる。
「…萌子のこと、ですよね」
だがそう言った成の言葉に朔哉は答えずに、淡々と自分の話を進める。
「だけど、彼女を残して、俺は凪浜を出て行く。
もう、彼女のことを守ってやれない」
だから萌子と別れるというのだろうか。
立ち上がり、そう尋ねようとする成の前で、朔哉は振り返ると、成の目をじっと見つめて言った。
「卒業式が終わったら、グラウンドにいてくれ。
あとのことは、頼む」
朔哉はそう言ってにこりと笑う。だが、本心では笑っていないことくらい、成にも目を見ればわかった。
「それ、どういうことですか？」
卒業式に、何をするというのか。
何を考えていると言うのか。
その答えを追求する成の視線の先で、すっと朔哉の表情から笑いが消え、朔哉はぽつりと独り言のように呟いた。
「俺は、彼女を傷つける」
目を見開いた成に、朔哉は瞬き一つせずに続けて言った。
「萌子のこと、頼んだぞ。早坂」