Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
凍空3
朝練の準備をしてロッカーを閉めたところで、美都は深くため息をついた。
昨日の和美の態度が、どこか気になっていたのだ。
…私のことなんてどうでもよくなっちゃったのかな。
ふとそんな考えが過る。が、美都は思い切りその考えを追い払うように頭を振った。
ダメダメ、そうやって悪い方にばっかり考えちゃ。
そして、顔を上げたところで、萌子がまだ準備もせずに椅子に座っていることに気づいた。
そういえば、顔色もあまり冴えない。
自分のことで頭がいっぱいだった美都は反省して、萌子に話しかけた。
「萌子？」
呼ばれた萌子はゆっくりと顔をあげ、美都を無言のままに見つめている。だが、その目はどこか虚ろだ。
「大丈夫？なんか、調子悪そうだけど」
「うん…」
そう答えるものの、いつもの萌子とどこか様子がおかしい。
美都は萌子の気を紛らわせようと、話を変えた。
「昨日はちゃんと渡せた？」
自分と違って、萌子はきっと幸せな時間を過ごしたに違いない。すると、萌子も「うん」と答えた。
いいなあ。
思わずそう呟こうとした美都の耳に、萌子の小さな声が聞こえた。
「別れようって言われたの」
「え」
思わず、萌子の顔を見つめ返す。
萌子は驚いている美都に顔を向けているものの、明らかに視線は遠くを見つめて、もう一度呟いた。
「朔哉さんに、別れようって言われた」
昼休み、部室に集められたケンたちいつものメンバーは、理香からの話を聞いて、声を荒げた。
「萌子が朔哉さんと別れる？」
「冗談だろ」
「何でだよ？どうして？」
答えを求める視線に、堪りかねたように理香が大声で叫ぶ。
「それがわかんないから、こうやって集めたんじゃない。皆のこと」
場が静まり返ったところで、ふいに篤志が声を上げた。
「あれ？成は？」
「担任に呼び出されて職員室だよ」
湊が答える。そういえば、と理香が揃った部員の顔を見て、ふと気づいた。
「右京君と知くんは？」
「知らね。でも、話がそういうことじゃ知朗はいない方がいいだろう」
ケンがそう言うのももっともだった。それ以外、集まっているのはほかに由太と厳己、興仁に美都といつもと変わらないメンバーだ。
「けど、つい最近だったよね？あの大告白」
厳己の意見に、多くが頷く。しかし美都は首をふって答えた。
「でも萌子が言ってたの。
昨日チョコレート渡したら、別れようって言われたって」
「…チョコが嫌いだとか？」
「冗談言ってる場合じゃないの、ケン」
理香がケンを睨みつける。首をすくめるケンの隣で、湊が冷静に呟いていた。
「遠距離恋愛はできないってそういうことなのかな」
考えとしてはそれが一番まっとうに思えた。
だが、大学を凪浜から遠い場所に選んだのは朔哉だと聞いているし、萌子に学校中に響き渡るほどの告白をしたのも朔哉なのだ。
皆が黙り込む中で、厳己が様子を伺いながら口を開いた。
「あの、さ…。ちょっと聞いたんだけど。
昨日、朔哉さん萌子以外の人と歩いてたらしいんだ」
ケンが面倒臭そうに答える。
「歩くくらい、別に友達だったのかもしれないだろう。街で偶然会ったのかもしれないし」
「いや…腕、組んでたって」
厳己のその言葉に、皆の視線が一斉に集まる。その中で、篤志がいきなり厳己に突っかかっていった。
「嘘言うなよっイズッ。
朔哉さんはそんな人じゃない！」
厳己の胸倉を掴む篤志を、由太が止める。
「やめろ、篤志」
興仁も手を貸し、篤志を厳己から引き離す。厳己も少し息を荒げながら、それでもきちんと答えた。
「僕も、そう思ってるよ。朔哉さんは二股かけるような人じゃない。
でもだからこそ…萌子に別れを切り出したんじゃないかな」
つまり、朔哉に他に好きな人ができたということだ。
少しだけ胸の疼く由太の耳に、篤志が呟く声が聞こえる。
「絶対に…違う…」
朔哉は篤志にとって、単なる憧れ以上の存在だった。その朔哉が道義にもとることをやっている、そう噂されることも、篤志には許せなかったのだろう。
だが、由太は自分の意志と反してしまうことが、時としてあること知っていた。
張りつめた雰囲気の中で、ぽつりと美都が呟いた。
「もしかして」
「何？美都」
しかし全員の視線を集めたところで、美都は俯いて答えた。
「…なんでもない」
「何だよ、言えよ」
美都は全員の顔を見つめ直すと、声を小さくして答えた。
「もしかして、福山先輩も気づいたのかなって。
萌子と…早坂君のこと」
「成？」
「どうして」
「萌子が成と浮気してるっていうのか？」
突然出てきた成の名前に、誰もが反応した。
美都は最後のケンの言葉には力強く首を振った。
「ううん。浮気とかじゃなくて、別に何かがあったわけじゃないけど、ただ…」
言い淀んだ美都に代わって、
「交わされる視線が違うってことだ」
と興仁が答えた。湊が真剣な表情で聞き返す。
「視線？」
「まあ、空気でもいいけど」
それは、興仁が由太の気持ちを見抜いたと同じく、気付いたことだった。気のせいだとは思っていたが、そう考えると確かに朔哉の行動にも納得がいく気がした。
だが他に賛成する人間はいなかったようだ。ケンがまず立ち上がると大きく手を振って言った。
「冗談だろ？そりゃ、成のやつはバカみたいにずっと萌子のこと思い続けてるみたいだけど、相手は、天下の福山朔哉だぞ。
成だって、萌子のこと奪おうとまでは思ってない。
それに萌子が、朔哉さんのこと嫌いになる理由なんてないだろ？」
「そういうことじゃないわ」
嫌いになって気持ちが動くのではない。
美都はため息をついて、理香を見つめた。だが理香は、ショックを受けた表情のままで、美都の視線から逃れるように、
「由太チャンは？どう思う？」
と話を由太に振った。
どう思う？
そう聞かれて、由太は言葉に詰まった。
自分の気持ちに気づく前であれば、そんな女最低だと云って退けただろう。だが、今の由太は、恋人がいながらも別の人間に惹かれてしまう気持ちを知っていた。
萌子がそんな人間だとは、思いたくないと考える一方で、どこかそれに安心する自分もいる。
興仁のさりげない視線に気づいて、由太は慌てて口を開いた。
「萌子は…付き合っている相手がいるのに、他の男に気持ちが向くような女じゃないだろう」
「俺もそう思う」
篤志が賛同する。するとケンや厳己も同じように声を上げた。湊だけが、心配そうに美都を見つめていた。追い詰められたようになった美都は、逆切れのようにいきなり立ち上がって叫んだ。
「だったら…どう説明がつくの？
福山先輩が浮気をしてるんじゃないとして、
あんなに萌子のこと好きな人が、どうして別れようなんて言いだすの？」
美都も好きでこんな話をしたわけではなかった。
学校中の憧れである朔哉と、その隣にいる萌子は、こうなりたいと思う恋人の見本のような存在だったのだ。
理香は美都の肩に手を置き、座るように宥めると、小さな声で俯いている美都に尋ねた。
「萌子が言ったの？成くんを、好きだって」
美都は力なく首を振る。
「…きっと、まだ萌子も気づいてないんだと思う。
だけど…わかるの。萌子を見てると。
福山先輩は、萌子のそんな気持ちに気づいたんじゃないかな。萌子が自分でも気づいてない気持ちに。
気づいたからこそ、身を引くことにしたんじゃないのかな。萌子の重荷にならないようにって。
自分は卒業して、凪高を出て行くけど、萌子は早坂君の近くに居る。近くにいれば、萌子だってきっと自分の気持ちに気づく。
そうなれば、萌子は苦しむはずよ。福山先輩って恋人がいれば、余計に」
「それでも、ちょっと信じられないな。萌子が、成のこと好きになったって。だって、あんなに朔哉さんと仲がいいじゃないか」
そう言った厳己に、美都は小さく首を振る。
「…萌子は、きっと。福山先輩とつきあうずっと前から早坂君のことが好きだったのよ」
「だったら、何で一年の時、あいつのことふったんだよ。萌子は」
納得がいかない様子のケンに、美都は力なく答えた。
「それは。萌子の友達が早坂君のこと好きだったから…」
理香がじろりと美都のことを見たが、こうなっては朔哉との約束も守れない。篤志が小さな声で言った。
「それって…白井のこと？」
美都が頷くと、篤志はまさかそれで？と呟いて、理香に背中を小突かれていた。
静まり返った中で美都が口を開いた。
「一年前の、バレンタイン覚えてる？理香」
「うん？」
「三人で、チョコレート作る計画をしてたのに、萌子が遅れてきて、結局チョコレート作らなかったの。
それでいいの？って聞いたら、自分にはチョコレートは必要ないって。
誰にも渡さないってことかと思ったんだけど、次の日萌子、お菓子の甘い香りが漂ってた」
それは、萌子が誰かにプレゼントをしたということだ。チョコレートか、それに代わるものを。
そして、今年。萌子は言った。チョコレートが苦手な人がいるかもしれないから、部員へのプレゼントはクッキーにしないかと。
あれは、成のことを言っていたのではないか。
しかしケンが、再び言い返した。
「だけど成は、去年のバレンタインデーはむしろ凹んでたぜ。その前は、テンション高かったけど。
もし萌子から何かもらってたんだったら、有頂天で踊り狂ってたはずだぜ」
「萌子もバレンタインの次の日から、しばらく元気がなかったわ。それで、気付いたら朔哉先輩が側にいて、それからすぐに二人は付き合い始めた」
意味ありげな美都の言い方に、思わずケンは乱暴に答える。
「何かあったっつーのかよ」
「わからない」
「憶測でモノをいうなよ」
今までの美都ならば、ここで口を閉ざすはずだった。しかし、美都は勇気を振り絞って答えた。
「去年のことは、わからない。でも、今回のことはそう考えると全てがつながる気がするの。
あの日から、福山先輩は萌子のこと、ずっと守ってきていた。
そんな福山先輩が意味なく萌子を傷つけるようなことするはずないもの。
萌子の気持ちに気づいて、ショックは受けたのかもしれない。だから、別の女の人と腕を組んで歩いたりして、気持ちを紛らわせてたのかも」
確かに美都の言う通りだったが、誰もそうだと答えなかった。
戸惑いの中、深いため息ばかりが積もる。
認めたくない事実が、そこにはあった。
ああっと突然髪の毛を掻きむしると、ケンが誰ともなしに叫んだ。
「俺たちどうすればいいんだよっ。萌子に成とつきあえって言えばいいのかよっ」
すると、それに興仁が冷静に答えた。
「何もしない方がいいんじゃないか。今の話は、憶測でしかないし。これは、萌子自身の問題だし、俺たちが口を出すようなことじゃない。
萌子の人生だ。自分で選ぶべきだろう？
もちろん萌子が相談してきたら、それは別の話だけど」
皆がその意見に賛成なのか、批判的な声は上がらなかった。
萌子は、その頃、机に伏せるようにして教室の窓から見える海を見つめていた。
昨日から、頭が働いていない気がしている。
頭だけではない。体中が、全てを拒否しているような気持ちになっていた。
こんな気持ちのままで、練習に出られるんだろうか。
朝練は、気を遣った美都たちが、体調不良だと言って保健室に逃がしてくれたけれど、午後の練習ではそうはいかないだろう。
虚ろな目をした萌子が思い返しているのは、昨日の朔哉との会話だった。
「別れよう」
はっきりとそう言われた時、萌子は思わず息をのんだ。冷たい空気が、体の中に入ってきて、ぼんやりとしかけていた頭がすっきりとする。
そうして朔哉の言ったことの意味を確認してから、萌子は口を開いた。
「ど、して？」
寒さと動揺で、口がうまく動かない。凍りついたように動けなくなっている萌子に、朔哉は俯きながら答えた。
「その方が、お互いのためだと思うんだ」
「そんなこと―」
ない、と言う前に、朔哉が顔をあげて、萌子の顔をしっかりと見て言う。
「今はわからないかもしれないけど、そのうちお互いのために一番よかったんだって思える時が来るから」
わかるはずがない。今だって、これからだって。
別れることが、二人のためだなんて。
だが見つめる朔哉の表情は真剣で、頑なだった。
瞬きを何度も繰り返し、萌子はとりあえず頭に浮かんだことを聞く。
「私のこと、嫌いになったの？」
「違う」
「じゃあ、他の人を好きになった？」
「そういうことじゃない」
「遠距離恋愛になるから？
私なら大丈夫。少しくらい、朔哉さんから連絡がなくても、寂しがったりしないし、それに―」
まくしたてる様に話し出す萌子に、朔哉は「萌子」と呼びかけた。
もう、いいから。
朔哉の目がそう言っているのが、萌子にもわかった。
「俺のこと、信じてほしいんだ」
最後にそう言って、朔哉は萌子の前から去っていった。
自由登校に入ってしまった朔哉が学校に出てくるのは卒業式の前日からだ。そして今日から朔哉は自宅に戻っている。自宅の電話番号は知ってはいるが、電話で話すようなことではないし、朔哉の様子からしても萌子が嫌だと言っても、受け付けないような頑なさがあった。
ため息をつきながら、萌子は崩れるように机に顔を伏せる。
私のことが嫌いになったわけでもない。
他に好きな人ができたわけでもない。
遠距離になるからでもない。
だったら、何故。
別れるというのだろうか。
だったら、何故。
愛してるなんて言ったのだろうか。
その答えを、萌子は探していた。