Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
凍空2
トイレから篤志が戻ってくると、さっきまでいたはずの右京の姿がない。
「あれ？右京は？」
代わりに右京が座っていた席には、ケンが座っていた。その向かいには厳己もいて、二人でトランプを楽しんでいる。
「知らねぇ。…逃げ出したんじゃねぇの？」
「甘いもの全般、嫌いだもんなあ。右京」
そう答えながら篤志も席に着くのを待って、厳己があらためてカードを配り始めた。
「けど、どうすんだ？あのチョコレートの山」
厭味ったらしくケンが言うのも無理はない。
右京の席には、すでにチョコレートの箱が本人が不在だと言うのにいくつか置かれていた。厳己がさらりと答える。
「去年は捨ててたみたいだったけど」
「もったいねぇ。右京に渡す女子たちもさ、そんな意味ないことしないで、他の奴らに渡せばいいのによ。ここに将来有望な男がいるってのに」
「って言ってもケンには亮子ちゃんがいるだろう？」
「まあなぁ」
ケンの彼女である亮子からのチョコレートは、昨日届けられたばかりだった。
上機嫌にケンが笑う。厳己が篤志に尋ねた。
「そういえば、今年も理香ちゃん達はチョコレート作ったのかな。部員に配る用の」
「三人で昨日集まって作ったってさ。あ、今年はチョコだけじゃなくってクッキーも作ったらしいよ」
「へぇ。…そういや成は？」
ケンの問いかけに、篤志が真剣な表情でカードとにらみ合いながら答えた。
「呼び出され中。今年は朔哉さんも学校に来ないし、右京は逃走中だから、意外と成が一番もらうんじゃない？」
その頃、右京は確かに逃げ出していた。
甘いものが苦手で、人見知りも激しく、他人と話すのが苦手な右京にとって、今日ほど災難な日はない。
教室、校庭、体育館。
だがどこにいても、誰かに見つかり、声をかけられ、一方的な告白やプレゼントを押し付けられる。断ろうものなら、泣かれたり、場合によっては詰られる。まるで受け取るのが当然とでも言うように。そういうことが面倒で、右京は、屋上に来ていた。
海風が直接吹き付けてくる屋上は、ここ凪浜においてはあまり人気のスポットではない。潮風にやられ、髪もべたべた、制服も潮臭くなってしまうからだ。
だが、珍しく先客がいた。
しかも相手は、右京が会いたいと思っていた人物だった。
おまけに、いつもとは全く異なる様子で、紗依はそこに座っていた。
無造作に床に座り込み、紗依は目の前に包みを広げて、その中から茶色の塊を掴むと、泣きながら必死に、押しこむようにそれを口に入れていたのだ。
「藤原…君」
紗依は右京に気づくと、ぽつりとそう呟いた。そして、右京の視線に気づき、慌てて食べていたブラウニーを口の中に押し込んだ。
そして涙をさりげなくぬぐいながら紗依は右京に話し続ける。
「どうしたの？珍しく保健室には来ないわね」
「先生こそ」
言い返されて紗依は動かしていた口を一瞬止めたものの、ごくりと口の中のものを飲み込んで立ち上がると、ブラウニーを右京に差し出した。
「ね、これ食べる？
結構、上手に作れたのよ」
確かに見た目も美味しそうではあった。
だが、今日の日に、手作りのチョコレート菓子を一人で泣きながら食べているということは、思った相手に渡せなかったということだろう。
右京がじっと見つめていると、紗依も恥ずかしくなったのか、差し出していた手をひっこめた。
「あ、ごめんなさい。甘いもの、苦手だったわね」
慌てて、袋にブラウニーを詰め直そうとしている紗依の手を掴むと、右京はその包みを奪い、中からブラウニーを取り出した。
「藤原君…」
そして、紗依に負けない勢いで、右京はそのブラウニーを食べ始めた。
甘いものは苦手だから、おいしいとか、まずいとか、そんな風には思えなかった。
ただ、おそらくは紗依が一生懸命心を込めて作ったものなのだと感じた。
だから、こちらも一生懸命食べなければならない。
正直言って、嬉しいものではない。
他の男に、渡そうとしていたものなのだから。
だが、泣きながら食べる紗依の姿を、これ以上見たくなかった。
右京が残りのブラウニーすべてを口に押し込んだところで、ふいに紗依の大きな瞳から、止まっていたはずの涙が流れ始めた。
先生、と呼びかけようとしたところで、右京はあっと体を強張らせた。
次の瞬間、両手で顔を覆い、俯いた紗依の体が、右京の胸の中にあった。
紗依はそのまま、声を押し殺すようにして、肩を上下に動かしながら泣いている。
紗依の体は想像以上に細く、すっぽりと自分の体の中に入ってしまいそうなほどだった。
右京は戸惑いながらも、その背中にそっと手を回そうとした。
だが、その手が紗依に触れる前に、はっと気づいたように紗依が右京から体を離した。
「ごめんなさい、私…」
必死に顔をぬぐいながら、紗依はそう言って震える声を整えて、何事もなかったかのように笑顔になって教師然と言った。
「保健室に戻らないと。
藤原君も、教室に戻りなさいね」
だがその顔には涙の跡があり、僅かだが紗依の唇は震えている。
しかしその表情には、教師としてのプライドのような毅然さがあり、紗依はそれじゃあと言うと、一人先に校舎に戻って行った。
右京は紗依の背中をしばらく見つめていたものの、その姿が見えなくなると、大きく息を吸って、揺れる気持ちと一緒に手に持っていた包みを床に投げつけた。
その日の練習は、いつもより早めに終わった。
特別練習も、今日ばかりはない。
美都は萌子と理香と、部活が終わるとすぐに別れた。
今日はそれぞれに、約束があるのだ。
「頑張ってね」
お互いそう言って、三人は別れ、美都は和美といつものように一緒に帰った。
早めに終わったことで、美都と和美が駅に着くのも、いつもより早い時間だった。
「和美くん」
いつもと同じ帰り道のはずなのに、前を歩く和美にそう声をかける美都は緊張していた。呼ばれた和美は、足を止めると面倒臭そうに振り返った。
「これ…チョコレート」
綺麗に包装された包みをそう言って差し出す。
手作りだとか、一生懸命作ったとか、ありがとうとか、伝えたいことはたくさんあるはずなのに、どうしてか美都はその言葉を和美に伝えられない。
和美に怒られたらどうしようかと、いつもそんな風に心配しているのだ。
もともと和美は気分屋で、機嫌の悪いときにはぶすっとした顔のまま、何もしゃべらない。
去年も、渡したところで和美は不機嫌そうな表情になり、無言のままチョコレートを受け取った。
チョコレート、嫌いだったかな？
そう不安に思う美都の前で、だが和美はいきなり包みを開けると、取り出したチョコレートを勢いよく口に入れた。そして、
「やっぱりうまいな。お前が作ったヤツ」
と背中を向けて言ったのだ。めったに褒めない和美が褒めてくれた嬉しさの余り、泣きそうにまでなったことを、ふいに美都は思い出した。
今年もほめてくれるかな。
できれば、ありがとうって言ってもらいたいし、
絶対無理だけど…好きだ、とかも言ってもらいたい。福山先輩みたいに。
期待も込めて、ドキドキしながら、美都はじっと和美を待った。
だが和美は、
「ああ」
と言っただけで、美都の手からすぐにチョコレートを受け取ると、ポケットに入れてしまった。そして、じっと立ち尽くしている美都を置いて、先を歩き始めたのだ。
自分を待つ様子のない和美を、慌てて美都は追いかけた。
「ねぇ、和美くん。
今日は早く部活終わったし。このあと映画でも見ない？」
本当は、映画なんで別によかったのだが、このまま別れたくはなかった。
もう少し、一緒にいたい。
だがそんな美都の気持ちを、和美ははっきりと断った。
「いや。見たいテレビあるから、今日は帰る。
じゃあな」
それだけ言うと、和美は手を振るわけでもなく、さっさと雑踏の中に消えていく。その後姿を見つめながら、美都はため息をついた。
一年前は、もっと自分を待っていてくれたように思うその背中が、最近はだんだんと遠のいているように思う。
福山先輩みたいに、なってほしいとは言わない。
だけど、もう少し。
私のことを見ていてほしい。
美都は深くため息をついた。
「こんばんわーっ」
理香が元気よく日比野家に上がると、母親の昌江が笑顔で迎える。
「あら理香ちゃん。いらっしゃい。篤志なら部屋にいるわよ」
理香が何も言わなくても、昌江は理香がどうして家にやってきたのかわかっているらしい。
「ありがと、おばさん」
「いいえ。頑張ってね、バレンタイン」
小さい頃はよく追いかけっこをしていた階段を駆け上がり、理香は目的のドアを大きく開けた。
「アッチいる？」
すると中にいた篤志が、びっくりしたように振り返る。
「うわっ、何だよ理香っ。
入る時はノックしろって」
篤志は珍しく、机の前に座っていた。理香の視線に気づき、篤志は慌てて立ち上がり、背中で机を隠した。
「何？あーやらしいもんでも見てたんでしょ？」
「違うって」
しかし理香は嫌がる篤志を無視して、机の上を覗き込んだ。
だが、そこには何もなかった。
なぁんだ。
てっきり、もらったチョコレートに入ってた手紙でも読んでたのかと思った。
理香は篤志が今日チョコレートを八個もらったことを知っていた。うち、二つは本気のチョコレートだ。
「何だよ」
「何だよって、せっかく渡しに来たのに。チョコレート。
今年はね、うまくいったんだから。今までで一番おいしいよ」
「どうせ椎名に手伝ってもらったんだろ？」
篤志にそう言われ、思わず理香もむっとして答える。
「そうだけど、作ったのは私。それに、気持ちをたっぷりこめたのも、私なんだから」
はい、と差し出すと、篤志は素直に受け取った。
「サンキュ」
照れているのか、篤志は唇を噛みしめて、俯いている。
理香はそんな篤志に一歩大きく近づいた。
篤志が大きくなったと言っても、理香との身長差は五センチ程度だ。篤志は急に近づいた理香に、驚いて顔を上げたところで、更に顔を突き出している理香に 気づき、戸惑った。思わず一歩後ずさりしそうになったところで、机が篤志の体にぶつかる。だが、すでに目を瞑っている理香には、そんな篤志の動きなど見えていない。
理香がもう一歩、篤志に近づいた。もう一歩前に進まれれば、望まなくてもキスできる距離だ。
「あ、タイム」
突然の篤志の声に、思わず理香は顔を上げる。すると、篤志が真っ赤な顔をそらしながら、
「ちょっと、トイレ行ってきてもいいか？」
と言った。
「仕方ないなあ」
理香がそう答えると、篤志はそそくさと部屋を出て行った。
まったくもう、アッチってば。
緊張しすぎだよ。
理香はそう思い、くすりと笑う。
だがそういう篤志のかわいいところも、好きなのだと理香はさらにほほ笑んだ。
何となく、視線が机の上にいったところで、理香はふと机の前に置かれているボードに気づいた。
前来たときにはそれほど多くなかった写真の数が増えている。その多くは、サッカー部の写真だった。
去年の夏に全国制覇したインターハイの写真、それからクリスマスパーティーの写真。それらが、重なり合いながら、ピンでとめられている。
その中でひときわ目立ったのが、朔哉の写真だった。
アッチ、本当に憧れてるからなあ。
朔哉の写真はいくつかあるのだが、その一つはなぜか朔哉の横顔を写したものだった。そんな写真でも、朔哉はかっこいいということなのだろうか。
憧れてるんだったら、ほんと爪の垢でも煎じて、飲んでほしいいくらい。
それでもって私にも、皆の前で愛してるって大告白してくれればいいのに。
写真の中の朔哉は、優しい表情で何かを見つめているようだった。
理香は写真の中の朔哉が見つめている先を覆っている写真を、指でずらしたところで、その手が止まる。
そこにいるのは、萌子だった。
篤志はもともと萌子と朔哉のツーショット写真を貼り、その上に萌子が隠れるようにして別の写真を飾っていたのだ。
その重ねたの写真の端に映っているのは篤志で、ずらすとまるで萌子と篤志が二人で並んでいるようにも思えた。
まさか…ね。
単なる偶然だよ。
理香が写真から手を離すと、笑顔の萌子は写真の影に隠れていった。
二月の凪浜は、一年で一番寒い。
今にも雪が降り出しそうなくらいの寒空の中を、萌子は家の前に立っていた。
そろそろなんだけどな。
すると、遠くから静かな息遣いとともに、角から朔哉が飛び出してきた。
「朔哉さん」
声をかけると、朔哉は驚いた表情を浮かべ、足を緩めてかぶっていたパーカーのフードを脱ぎながら、萌子の前にやってくる。
「寒いだろう？中で待ってくれればいいのに」
毎日萌子の家の前を走るのは、朔哉の日課で、萌子の家に寄ることも少なくなかった。
今日は必ず家に寄ってくれるよう言ってはいたけれど、萌子はじっと家で待っていられなかったのだ。
「だけど、早く会いたかったし。
それに、溶けちゃうから」
そういうと、萌子は背中に隠し持っていた包みを差し出した。
「今日はバレンタインデーでしょう？」
よく考えてみれば、それは萌子が朔哉に渡す最初のプレゼントだった。
誕生日も、優勝のご褒美も、クリスマスも、朔哉が萌子に要求するのは、常に物ではなかったのだ。
朔哉は少し戸惑いながらも、チョコレートを受け取った。
「…あぁ。ありがと」
「ううん。ね。せっかくだから上がっていって。お母さんからも、朔哉さんにプレゼントあるみたいだし」
笑顔でそう言って、家に入ろうと、門を開ける萌子を、朔哉は呼び止める。
「萌子」
「なぁに？」
だが萌子は、家に上がるのは当然とばかりに、門を開けると中に自分の体を入れてから、ゆっくりと振り返った。
そうして、初めていつもの朔哉と様子が違うことに、萌子はようやく気付いた。
どうしたの？
だがそう萌子が口を開くより先に、朔哉が言った。
「俺たち、別れよう」
「…え」
その言葉を、意味を、確かめようとする萌子に、朔哉はもう一度、ゆっくりとそしてはっきりと言った。
「別れよう」