Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
風花4
朔哉は、改札の前で彩と立っていた。
結局ぎりぎりの時間まで待ってはみたものの、萌子が寮に現れることはなかった。
彩も心残りなのだろう。
ちらちらと朔哉の背後を見ては、萌子がやってこないかと思っているようだ。
「…萌子に会えないままでいいの？」
脳裏に先ほどの成の姿がちらりと過り、思わず朔哉がそう聞くと、彩は朔哉を見据えて小さく頷いた。
「はい。会えなくても、萌子が幸せなら、私はそれでいいんです」
その答えに、朔哉の気持ちは確かに揺れた。
「萌子は、…幸せかな」
さっきの成の言葉が、朔哉の心を揺らす。
彼女が萌子のあこがれの存在だったこと。
バレエで怪我した萌子の、目標になったこと。
俺の知らない萌子のことを、どうしてあいつは知ってたんだろう。
しかしよく考えてみれば、朔哉は萌子自身の口から彩と枡田のことを、聞いたわけではない。
去年の春先から、朝も昼も夜も、学校でもグランドでも、自分は萌子とずっと一緒にいたはずだ。
萌子のことは、何でもわかっているつもりだった。
色々と不安に思う時もあったけれど、それでもここまでやってこれた。
そう思っていた。
だけど、そう思っていたのが自分だけだったとしたら…？
そう気づいた時、不安が朔哉を大きく揺さぶった。
満たされず、ずっと不安で埋め尽くされていた気持ちが、ようやく満たされたと思っていたからこそ、足元がぐらりと大きく揺れた気がしていた。
朔哉の問いかけに、彩はにこりと微笑むと、大きく頷いた。
「だって、あんなに素敵な仲間が沢山いるじゃないですか。
それに、こんなに素敵な恋人も居るし。
幸せじゃないわけがないです」
そう言われた朔哉は、返す言葉をなくし、黙りこむ。
彩は大きく息を吸うと、朔哉ににっこりと笑いかけた。
「萌子のこと、よろしくお願いします。これからも」
「あぁ」
ぎこちない笑みを浮かべ、朔哉は改札を通って行く彩の後姿を見送る。
これでよかったんだろうか。
ふとそう思ったところで、朔哉ははたと気づく。
…いや、よかったんだ。
強くそう思いながら、彩の姿が見えなくなったところで、くるりと振り返ると同じタイミングで、誰かが朔哉の脇をすり抜ける。
そして背後に聞き覚えのある声が響いた。
「あやっ」
萌子の声は、駅の中に響き渡り、階段を上ろうとしていた彩の背中がぴたりと止まると、慌てたように振り返った。
「もえ…こ？」
「彩っ」
二人はお互いの名前を呼び合うと、そのまま駆け寄った。
改札の中と外で、萌子は彩と見つめあった。
お互い顔を合わせるのは二年ぶりだった。
名前を呼び合ったのは、もっとずっと前のこと。
鼻の奥がツンとして、涙が出てきそうになり、萌子は慌てて唇をかみしめる。
そして、自分が言うべき言葉を口にしようとしたところで、彩がそれを遮った。
「やめよう、その言葉。
…萌子も、あたしも、いっぱい悩んで、苦しんで、泣いたんだもん。
お互い様。だからもう、言うのやめよう」
「彩」
そう言った萌子の声は、まだ僅かに震えていた。
許してくれるの？
私のことを。
すると彩はその気持ちに答えるようににこっと笑うと、
「マネージャー、頑張ってるんだね。
萌子の彼が、寮に連れて行ってくれたんだけど。
面白かった」
と笑った。最後にくすりと笑う彩につられて、萌子も思わず微笑む。
それを見て、彩は安心したように優しい声をかけた。
「素敵な彼ね。それに、素敵な仲間がいっぱい、萌子の周りにはいる」
ちらりと彩は萌子の後ろにいる二人に視線を送る。
萌子は、小さく頷いた。
「うん…私には、もったいないくらい、素敵な―」
しかしそこで、彩が口を挟む。
「まーた萌子の悪い癖。
自分を卑下しない。
自分が頑張ってるから、周りに素敵な仲間が集まってくるんだよ」
でしょ？と彩は茶目っ気たっぷりに笑う。
二人で一緒にいた頃と、変わらない笑顔に、萌子もつられて微笑む。
「うん。彩は？吹奏楽部、やってるの？」
彩は中等部の時から、吹奏楽部でトランペットを担当していた。
実際上手だったし、練習にも真面目に出ていた。人をまとめる力もあるから、部長くらいになっているのかもしれない、と萌子が尋ねると、彩は冗談めいたように顔をしかめた。
「受験だから、お休み中。でも、大学入ったら、また始めるつもり」
その時、彩の乗る電車が入ってくるアナウンスが入った。
これを逃せば、友達との待ち合わせ時間にも間に合わないどころか、新幹線にも乗れない。
彩は大きく息をすうと、
「じゃ、行くね。
お互い、頑張ろう」
と右手を萌子に差し出した。
萌子は彩の顔を見つめると、その手を握りしめた。
「うん」
彩の背中が消えたところで、萌子はくるりと振り返った。
そして少し驚いた表情を浮かべている朔哉の前に立つと、あふれ出る笑みを止められないといったような笑顔で言った。
「彩のこと、寮に案内してくれたのね。朔哉さん。
ありがとう」
「…ああ、ちょっと外がうるさかったから。
それより、藤原とどこに行ってたんだ？」
怪訝そうな朔哉の表情に、萌子はにっこりと笑って答える。
「うん…ちょっと」
「ちょっと？」
「寮に戻ったら教えてあげる」
不服そうな朔哉に笑顔で答えると、萌子はその先に立っていた成に声をかけた。
「ありがとう」
成は何も言わなかったが、同じように笑顔で答えた。
それを受けて、萌子は嬉しそうに唇をかみしめると、俯いた。
そうでもしなければ、にやけた恥ずかしい顔を隠せなかった。
萌子は朔哉の腕を取り、寮に向かおうとしたところで、あっと顔を上げる。
「成は？寮に戻らないの？」
だが成は、その声に驚いたような表情を浮かべると、一瞬だけ朔哉を見てから、答えた。
「あ、いや、俺は。
ちょっとコンビニ寄ってから、帰るよ」
「それじゃ、後でね」
わかったと、寮とは反対方向に歩いてく成を見て、萌子も安心したように歩き出そうとしたが、朔哉がその場に立ち尽くしていることに気づいた。
「朔哉さん？」
どうかしたの？と心配そうに視線を向けると、朔哉はそれに気づき、笑顔を浮かべる。
「いや、何でもない」
だがその笑顔はほんの一瞬のことで、すぐに消え去る。
何も気づかぬ萌子は、そのまま朔哉の腕を取って歩き出していた。
ハミングで歌を歌いながら、歩く萌子を見つめながらも、朔哉が見ているのは、先ほど萌子が成に見せた笑顔だった。
それは時間にすれば、ほんの数秒のこと。
言葉にしても、萌子が礼を言っただけのこと。
けれど、それ以上の気持ちが、二人の間には強く通い合ってる。
少なくとも、朔哉にはそう思えてならなかった。
寮に戻ると、リビングでは仔犬を囲んで大騒ぎしていた。
中心には、篤志の母であり寮母でもある昌江がタマを抱きあげて声をあげている。
「可愛いわねぇ。名前は？」
環が面倒臭そうに答える。
「タマ」
「タマ？それって猫だろう、普通」
それを聞いた朔哉が思わずそう言ったが、隣で萌子が楽しそうに答える。
「そう？結構いい名前だと思うけど」
昌江がタマを床に下ろすと、タマは勢いよく寮の中を走りだした。
その様子に、何やら下が騒がしいと、事情も知らずに降りてきた寮生たちは、突然現れた小動物に、慌てふためいている。
昌江は、ふふと笑いながら、隣にいた右京に話しかけた。
「実は番犬が欲しかったところなのよ。
いい犬いないかしらねって環とも話してたところなの。
ありがとう右京君」
思わず環を見ると、わざとらしいくらいのウインクをして見せている。
「…いいえ」
右京はそう答えながら、じろりと環を睨みつけた。