Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
風花3
紗依は、驚いている萌子と右京の前を通り、職員に向かってはっきり言った。
「私が、引きとります。そのワンちゃん」
思わず萌子が口を出す。
「田波先生。でも―」
「大丈夫。うちは、ペット可のマンションだし、一人暮らしだから、ちょっと寂しいって思ってたし。
だったら、いいですよね？」
「そりゃ、別に引き取ってくれるっていうのなら…いいけど」
紗依にそう言われた職員は、口ごもりながら承諾する。
まだ驚いたままの右京と、どこか納得のいかない萌子を置いて、手続きをと事務所に紗依たちが向かおうとしたところで、凛とした環の声が響いた。
「よくないよ。そういうのはさ、先生」
「環さん…」
環は萌子に遅くなったことを謝ってから、紗依に向き合った。
「はじめまして。日比野篤志の姉、環です。
いつも弟が世話になってます」
「いいえ、こちらこそ。あの私、凪高で―」
環に続いて自己紹介をしようとした紗依だったが、環はそれを遮るように保健所の職員と紗依に向ってにっこりと営業スマイルを向けた。
「あと、サッカー部の寮母代理やってるから、藤原の保護者でもあります」
戸惑う紗依と、呆気にとられている職員の前で、環は振り返ると、
「藤原、帰るよ。萌子ちゃんも」
と声をかけた。右京は黙ったまま、動かず環を見つめている。
そんな右京と見て、萌子は環に尋ねる。
「でも環さん。仔犬は？」
「当然、寮じゃ飼えない。わかってるよな。藤原」
はっきりと環はそう言った。だが、言われた右京はそれには答えずに、ただ俯いた。
その様子に、環は大きなため息をつく。
そして、右京の前にツカツカと歩いてくると、俯いたままの右京にまるで喧嘩を売るように言った。
「この犬は、見たところまだ一歳にもなってないから、あと十四年は生きるだろう。もしかするとそれ以上かもしれない。
だけど、あんたが寮にいるのは、あとどのくらい？一年くらいでしょう。
残りの十三年間は、誰が面倒を見る？」
「だから、私が引き取って―」
まるで右京を守るように、紗依がそう言った。だが、環はそんな紗依を一蹴した。
「黙っててくれないかな。
あんたみたいに甘ったれた大人の意見なんて聞いてないから」
「環さん」
思わず萌子がそう言うと、環はふぅと息を強く吐いて、言った。
「生徒の希望全てを受け入れることが、教師のすべきこと？
それは違うと思うけど。
犬の世話をするってのは、藤原が考えている以上に大変なんだよ。
やってみて無理だからって、捨てられるってもんでもない。
飼い主としての責任感が伴う。
そういうこと、考えさせてから、決めるべきなんじゃないの？」
もう一度大きくため息をつく環に、紗依は何も言い返せずに唇をかみしめていた。
約束の時間になっていた。
ちらりと朔哉が時計を見ると、彩も同じ気持ちだったようだ。
駅まで送って行くという朔哉にも、彩は素直に応じた。
玄関で靴を履こうとしていると、寮生が大勢出てきて、彩を取り囲んだ。その中で、彩は靴をはくと、深く頭を下げた。
「それじゃ。お茶とお菓子、ごちそうさまでした」
「いいえ」
「また是非来てください！」
「いつでも歓迎しますんで！」
いつまでも玄関から彩を見送る寮生たちを見て、朔哉は早く駅に向かおうとした。
だが、思いがけず、その途中で声をかけられた。
「ちょっ、ちょっと待って」
「…早坂？」
目の前には回り込んできた成が、大きく肩を上下させながら、彩に言った。
「あの、もう少し待ってもらえませんか？萌子のために」
その言葉に、彩は首をかしげる。
「萌子のため？」
成は頷くと、呼吸を整えながら、それでもきちんと言った。
「萌子は、絶対あなたに会いたいと思ってるはずなんだ。
今は…いないけど、必ず戻ってくるから。
だから、もう少し、待ってもらえませんか？」
その真剣な表情に、彩も少し戸惑いを見せている。
「…早坂、電車の時間が近いんだ」
そう朔哉が言ってみたものの、成には聞こえないのか、再び頭を深く下げて言った。
「お願いします。少しだけでも。五分でもかまわない。
…色々あったとは思うけど、それでも萌子にとって、あなたは憧れていた。
マネージャーやろうと思ったのも、あなたがきっかけだったんです。
あなたみたいに、いつも元気で、優しくて、気がよく利くようになりたい。目をきらきらさせて、いつも誰かを心から応援したいって。
バレエっていう目標を、怪我で失くした萌子にとって、あなたが萌子の目標で、憧れだったから」
はっとしたように朔哉が成を見つめた。
だが成はそれも気づかずに、ただ必死に、彩に向って話し続けていた。
「マネージャーって、なるのも、続けるのも大変で、でも萌子は頑張ってやってます。
あなたなら、どうするんだろうか、どう答えるんだろうか。
そう思って必死に、頑張ってます。
そんな萌子の姿、見てやってほしいんです。
お願いです、もう少しだけでも、萌子を待ってやってもらえませんか？」
住宅街には、少しずつ落ち着いてきた成の息が響き渡っている。
彩はしばらく俯いていたものの、決心したように顔をあげて答えた。
「…わかりました。
あと、十分くらいなら、きっと大丈夫だと思うから」
「ありがとう」
心の底から素直にそう言って笑顔を向ける成を、朔哉はただじっと見ていた。
環に罵倒された紗依は、ただ黙りこんでいた。
すると、急に右京が口を開いた。
「先生は、関係ない」
「藤原君…」
「右京…」
紗依と萌子の声が重なった。
右京は目の前の環に向って、睨みつけながら言い放つ。
「卒業したら、俺がひきとって、面倒みる。
その先も、こいつが死ぬまで…。
面倒は俺が。
絶対」
環は、小さく二・三度頷くと、それじゃあと聞き返した。
「遠征の時はどうする？
ユース代表なら、海外遠征もあるだろう？
高校卒業したら、プロになるのか大学に行くのか知らないけど、その時はどうするんだ？
叔母さんたちに任せるって言うのは、面倒みれないっていうのと同じことじゃないの？」
そこまで言われてると、右京としても答えようがなかった。
遠征のたびに、犬を連れていくわけにもいかない。それが海外なら、なおさらだ。
気づけば萌子は口を開いていた。
「その時は、私が面倒をみます」
「萌子ちゃん…」
ため息交じりに環が力の抜けた声を上げる。
環としては、あくまでも右京一人が解決すべき問題だと言いたいのだろう。
だが、萌子はそのまま傍観者のままではいられなかった。
「だから、お願いします」
丁寧に頭を下げると、環の深いため息がふってきた。
少しして、
「わかった。母さんには私から話しておく」
と諦めたような声が聞こえた。
てっきり環は犬が嫌いなのかと思っていたら、そういうことでもないらしい。
保健所から萌子と右京と一緒に寮へ向かう途中、ふいに環は足元にじゃれつく仔犬を抱きあげた。
「結構かわいいな、こいつ。
名前、なんて言うんだ」
「…タマ」
呟くように答えた右京に、環はプッと吹き出しながら聞き返す。
「たまぁ？それって普通、猫の名前じゃないの？」
むっとした右京をとりなすように、萌子が代わって答えた。
「あ、でも。ホラ、背中に水玉模様があるわけだし」
環は思わずその模様を見つめてから、不機嫌そうな右京に軽く視線を投げて答えた。
「…まぁ、基本的にご主人様は藤原になるわけだし、そのあたり別にいいけど。
とりあえず、母さんに私から話してからになるから、それまでは寮の部屋に入れといて。
他の寮生にばれないように、大人しくさせておくんだよ」
「ワンッ」
右京の代わりにタマが元気よく答える。
思わずぷっと噴き出したところで、
「萌子っ」
と名前を呼ばれた。顔を向けると、成が真剣な表情でこっちに向かって走ってきている。
「あれ？どうしたの成？」
「いいからっ、早く」
成はそれだけ言うと、萌子の手を掴み、そのまま引っ張ろうとした。
「え？早くって、どこに？」
すでに暗くなっている冬の澄んだ空気に、成の熱い息が、白く舞って消えていく。
「駅っ」
苛立ったように成が答えた。
「駅？」
「根本さんが来てるんだっ」
その答えに、萌子ははっとする。
「…彩が？」
ああと成は答える。
「もう電車の時間だから、今朔哉さんと駅に向かってる。今から走れば、間に合うかもしれない」
そう言ってもう一度成は萌子の手を引っ張ったが、萌子は硬い表情のまま、そこに立ち尽くしている。
「萌子？」
「…彩が」
小さくそう呟いた萌子に、成は強く手を握り、ああそうだよ、と答えた。
「行こう、萌子」