Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
風花1
新学期も始まって、一週間ほどが経っていた。
クリスマスも、お正月も終わって、寂しさと共にほっと一息ついたような空気が、街にも学校にも流れていた。
その日も練習が終わって、右京はひとりランニングをしていた。
始めた頃は、体力がなく、途中で歩きだしたこともあったが、流石に一年以上続けていると、そんなこともなくなっていた。
手術した膝の具合も、今は気にならないほどに回復している。
選手権も終わり、これから本格的に右京たちにとって最後の一年が始まろうとしていた。
一息つこうと、右京は公園の前で、足を止めた。
そして、ポケットに入れてきた牛乳パックを取り出す。２００ｍｌのそれは、決して右京が飲むために持ってきたのではない。
右京はきょろきょろと辺りを見回すと、小さく口笛を吹いた。
だが、何かがやってくる気配はない。
右京はもう一度しゃがみながら、パックを開けて、手の平に広げる。
匂いにつられて現れるかと思ったが、その気配は全くない。
右京は手のひらから流れていく牛乳を見つめながら、首をかしげた。
本当ならば受け皿を持ってくればいいのだが、ランニングにそれでは走りづらいし、前にも同じように手のひらから、牛乳を与えていた。
何より手のひらに舌が当たるたびに、くすぐったいような、温かいような、そんな気持ちが心地よかったのだ。
手のひらから牛乳がすべてこぼれおちたところで、右京はゆっくりと立ち上がった。
いったい、どうしたというのだろうか。
「タマ？」
名前を呼んでみたが、反応もない。
右京が、勝手につけた名前だから、当然かもしれないが。
タマは、背中に水玉模様の斑が少しあるので、そう名付けた仔犬だった。
捨て犬らしく、首輪もなく、体も泥が少し付いていた。
犬種はわからないが、足がずんぐりとして太く、コロコロと太っていて、右京の投げるボールを、必死で追いかけていた。
「タマ？」
もう一度、右京はその名前を呼ぶ。
しかし帰ってくるのは静寂ばかりだった。
「なぁ。今日、俺の部屋に来ない？」
放課後、掃除当番の成と知朗が教室の掃除をしていたところで、篤志が顔を出してきた。
今日は珍しく部活が休みだ。
それぞれがそれぞれの放課後を楽しもうとしていたところでの、篤志からの誘いだった。
「お、いいモノ入手したってか？俺行く行く」
クラスは違うが顔を出していたケンが篤志ににやけた顔でそう言い返す。
篤志は深いため息をついて答えた。
「違うって。
そうじゃなくて、選手権のＶＴＲ、皆で見て、作戦立てようって話。
新人戦、週末からだろう？」
「ああ」
成が答える。
新人戦の中央大会は、週末から行われることになっていた。
四人の中で、ただ一人選手に選ばれていない篤志は、それでも熱心に語る。
「選手権に行くためには、ベスト１６になった川城は、俺達の目の前の敵なんだ。
あいつらのこと、もっと研究しなきゃまずいだろう？」
優勝候補であった凪浜を破って、選手権に出場した川城は、本選でもベスト16まで勝ち上がった。
インターハイでは神奈川県の代表枠は二つだが、選手権では一つしかない。
成は、大きく頷くと、
「わかった。帰ったら、篤志の部屋に直行する」
と答えた。
「俺も」
「んじゃ俺も」
知朗もケンもあわせて答える。すると、ちょうどその時廊下を右京が通って行くのが見えた。
「あ、右京は？」
思わず篤志が呼び止めると、右京もそれに気づき、足を止める。
篤志が放課後自分の部屋で川城の作戦を練るのだというと、
「ああ」
と意外にも、あっさり返事が返ってきた。
思わず顔を見合わせた成とケンを無視して、篤志は満面の笑みを浮かべて、
「待ってるから」
と大きく手を振り答えた。
川城、か。
皆は去年の選手権予選で、川城と対戦している。だが、その時右京は観客席からその試合を眺めることしかできなかった。
ちらりとテレビで中継されていた試合を見たけれど、なかなかいいチームだった。
特に、攻撃は、勢いがつけば大量得点することも多いと聞く。
週末から始まる新人戦で川城にあたるのは、決勝までお互いが勝ち残った場合で、おそらくそうなることは目に見えていた。
右京たちが一年生の頃には、神奈川は四つ巴と言って、全国大会には決まった四校からの出場しかなかった。
それが崩れ始めたのは去年あたりからで、おそらくそれはこの先も変わらないだろうと思われた。
敢えて言うならば、凪浜と川城がその中から一歩抜きんでている。
凪高が、全国に行くための、一番の敵は川城だ。
右京はふいに、朔哉と交わした約束を思い出す。
『全国へは…、国立へは、来年必ず行きます。
行って、勝ってきます』
右京は約束というものが嫌いだった。
それは母親が原因だった。
右京と交わした約束を、母親はあっさりと忘れて、家を出て行ってしまった。
迎えに来ると言っていたのに、迎えには来なかったことが、右京の心をひどく傷つけていた。
だが―。
『約束、したんです。
いつか高校生になったら、絶対に選手権に出て優勝するって』
母はもう一つの約束を覚えていてくれた。
それが、右京の固く閉ざした心を少しずつ溶かしていった。
そして、自分から朔哉に約束したのだ。
選手権に出て、優勝すること。
そのために自分がすべきこと。
とりあえずは、練習だ。
練習がない今日は浜ランをしようと、ＨＲを終えた右京は、ジャージに着替えるべく、部室に向かっていた。
階段を下りて行く途中、下から上がってくる女子生徒たちの甲高い会話が、右京の耳に五月蝿く聞こえてきた。
「へぇお姉さんに赤ちゃん生まれたんだ。立派なおばさんじゃん」
「まだまだ高校生だもん。おばさんなんて呼ばせないってば。
そういえば、近所の公園に住み着いてる野良の仔犬いたじゃない。
お姉ちゃん、安心して子供を連れていけないからって、保健所に連絡したんだって。
昨日、連れて行かれたみたいだったけど」
ただでさえ放課後の校舎はそわそわして騒がしい。
右京はその声から逃れるように急ぎ足で階段を降りようとしたところで、すれ違いざまに聞こえてきた次の会話に、思わず足を止めた。
「あーあの背中が水玉模様の犬？
えーかわいそう」
水玉模様の野良の仔犬…。
「かわいがってたもんね、由美子。だったら、引きとりに行けば？」
「…そこまでは。それにうち、団地で犬飼えないし」
「そっか」
おまけに公園に住み着いている。
昨日、連れて行かれた。
…タマ？
保健所に連れて行かれれば、その先は見えている。
「藤原君？」
呼びかけられた右京だったが、頭がそのことでいっぱいで、気付かずにいると、声の主はもう一度右京の名前を呼んだ。
「どうかしたの？藤原君？」
はっとして顔をあげると、そこには紗依が立っている。
「…保健所って、どこ？」
思わず口がそう言っていた。
いつも以上に無表情でそう尋ねる右京に、紗依は戸惑いながらも答える。
「保健所？え…っと、市役所の裏だったじゃないかしら？」
すぐに行かないと。
右京は礼も言わずに、紗依の脇を駆け抜けていった。
「藤原君？」
だがいつもだったら立ち止まる紗依の声も、右京は無視して走り続けた。
「あ、右京―」
下駄箱に向かう直前で、萌子がそんな右京の姿に目を留めて、呼びかける。
「どこ行くの？」
「保健所」
「保健室じゃなくて？
右京？
ちょっと待ってっ」
だが右京は靴に履き替えると、萌子の質問には答えずに、昇降口を駆けて出て行ってしまった。
いったい、どうしたというのだろう？
何があったというのだろうか？
萌子はどこか強張った右京の横顔を思い起こした。
今日は練習がないから、自由時間ではあるけれど…。
下駄箱の前で呆然としていると、偶然そこを理香が通りかかる。
「あれ？萌子…どこに？」
急に靴に履き替えている萌子に気づき、理香がそう言うと、萌子は顔もあげずに、早口に答えた。
「ごめん、理香。朔哉さんに伝えてもらえる？
今日は一緒に帰れなくなったけど、必ず寮には寄るって」
「え、ちょっと萌―」
どういうことなのかと理香が問いかける前に、
「それじゃ、頼んだから」
とだけ言い残し、萌子も昇降口を慌てて出て行った。
「で、学校を出ていったと」
目の前の朔哉は、腕組みをして、その右手をあごの下に当ててそう答えた。
「はい」
理香はそう答えつつ、朔哉の様子を伺った。
練習がない日の放課後は、萌子と朔哉にとっては久々で、ということは当然、二人はデートの約束をしていたのかもしれなかった。
でもそれを、萌子が反故にしたのだとなると、当然朔哉は怒るはずだ。
しかも…。
迷いながらも、理香はさっき聞いたばかりの話を口にする。
「どうも…右京君の後を追いかけて出て行ったみたいで…」
駅へと向かう道の途中にある渡り廊下で、何人かがその様子を見ていたと言うのだ。
初めは、右京が走りすぎ、少しして、萌子もその後を追うように、右京の名前を叫びながら追いかけて行ったという。
「藤原？」
朔哉はそう答えると、僅かに眉をひそめた。
「あの…朔哉先輩？」
そのまま朔哉の顔がしかめっ面になるかと思った理香だったが、意外にも、朔哉の表情はふっと和らいだ。
「いや。萌子らしいなって思ってさ」
その表情に、逆に理香が腹を立てる。
「怒らないんですか？萌子のこと。
先輩との約束を差し置いて、他の男の子の後追いかけていっちゃっても」
おまけに右京とということであれば、前例もある。
しかし理香の気持ちとは裏腹に、朔哉はふっと微笑んで答えた。
「萌子がそうするのなら、それなりの理由があるんだろうし、
それに萌子の恋人なら、このくらいは我慢しないとね」
理香が大きくため息をついたところで、別の声が飛び込んできた。
「朔哉さんっ」
「なんだ、篤志か」
走ってきたのか、篤志の息は少し切れている。
だが篤志は呼吸を整えることもせずに、朔哉に尋ねた。
「萌子知りませんか？」
思わず理香から大きなため息が漏れる。
だが朔哉はそれに気づかぬように答えた。
「もう学校出たぞ」
「えー、なんだよ。もう」
篤志はそういうと、壁に寄りかかったまま、ずるずると廊下に座り込んだ。
「何か用事か？」
「はあ、まあ。萌子に客が来てるんです」
「客？」
思わず理香がそう口を挟む。
篤志は、うんと頷くと、再び立ち上がって朔哉に向かって言った。
「萌子の友達だって言ってますけど。可愛いんすよ」
「可愛いのは余計でしょう？アッチ」
睨みつける理香に、篤志は大きく手を振った。
「いや、マジでかわいいんだってば。理香も見たらそう思うって。
やっぱ類は友を呼ぶのかなぁ。
あれ？朔哉さん？」
ふいに歩きだした朔哉に、篤志がそう声をかける。
「どこにいる？」
「校門です」
「朔哉先輩まで？」
可愛いから見に行くのだと誤解して、朔哉を睨む理香に、
「違う。萌子の代わりだ」
と朔哉は答えた。
校門の周りには、少しばかり人が集まっていた。
その先に、校門に寄りかかるようにして私服の女の子が一人立っている。
その横顔を見て、朔哉は素直になるほど、と思った。
確かに篤志が可愛いと騒ぐのもわかる。
ふんわりとカールされた長い髪もそうだが、確かに愛らしい顔だちをしている。
くりくりとした大きな目が、時折校舎の方に向けられていた。
萌子がやってくるのを待っているのだろうか。
朔哉は、声をかけることにした。
「あの」
彼女は驚いたように振り返ると、少し怪訝そうに朔哉を見つめた。
「沢木萌子は、用事があって、もう学校を出たんだけど。
何の用かな？」
彼女は、朔哉を値踏みするようにじっと見つめてから、鋭く聞き返した。
「…あなたは？」
気が弱いタイプではないらしい。
朔哉は少し背筋を伸ばして答えた。
「福山朔哉。萌子の、彼氏です」
萌子の名前が出たところで、彼女の表情が少し驚いたものに変わる。
「萌子の？
萌子…恋人できたんですね」
よかったと呟きながら、彼女はそして穏やかそうな表情へと落ち着いた。
怪訝そうな表情になるのは、朔哉の方だった。
それに気づいた彼女が顔を上げる。
「あ、すみません。
私、根本彩と言います。
萌子とは中学校が一緒でした」
はきはきと答える彼女を見て、それが本来の彼女の姿なのだと朔哉は気づく。
それにしても、どこかで聞いたことのある名前。
萌子と同じ中学校の…。
「根本、彩、さん…」
名前をそう呟いた瞬間、朔哉はそれが誰なのかをはっきりと思い出していた。