Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
冬燈7
紅白戦がＢチームの勝利で終わると、興仁は軽いランニングを命じ、その日の練習を終りにした。
グランドでは、当番の一年生がグランド整備をしている。
その脇で、萌子と興仁はグランドの入口を見つめながら話をしていた。
「本当に、帰ってくるのかしら」
「本人がそう言ったんだから、帰ってくるだろ。由太ってそういうとこ、妙に律儀だし」
「でも、苦手じゃない。謝ること」
だから、笑顔でとは言わないが、何事もなかったように由太を受け入れねばと、二人は着替えもせずに立っているのだ。
萌子が苛立ったように腕組みをしたところで、興仁が声を上げた。
「あっ、来た」
顔を少し俯かせながら、由太がグランドに入ってくる。
萌子は安心して、ため息をついた。
由太は二人に気づくと、気まりの悪そうな表情をしながらも、歩いてきた。
少し手前で立ち止まり、唇を噛みしめて言葉を探す由太の背後から、棘のある声が響く。
「大口叩いたわりにはさ、大したことないなんてさ。
ええかっこしいもいいところだよな」
グランド整備で側を通りかかった樹生だった。
隣にいた伊東が思わず樹生を黙らせようとしたが、樹生は無視して話を続けた。
「おい樹生―」
「他人に厳しくて、自分には甘いなんてさ。
情けねぇ。
だいたい、練習から逃げだしたんなら、一言言うべき言葉があるんじゃねぇの？」
「ちょっとみき―」
思わず萌子が樹生を怒鳴り飛ばそうとしたところで、思わぬところから声が上がった。
同じくグランド整備をしていた一年生の吉見だ。
「違う、高岡先輩は、そんな人じゃないっ。
新田たちが夜ランニングしてることだって、知ってたんだぞ」
驚いたように樹生が由太の顔を見直す。
その視線から逃れるように顔を逸らした由太に、吉見は話し続けた。
「それに、グランド整備は立派な仕事だって言ってくれた」
耐えきれず由太は思わず声を出す。
「おい吉見―」
「万年Ｃチームの俺の名前だって、覚えててくれた。
嬉しかったんです。
俺みたいなのでも、サッカー部にいていいんだって、言ってもらえたような気がしたから。
高岡先輩は、確かに言葉がきついかもしれないけど、
でも絶対絶対、心は優しい人なんです」
大きく息を吐きながら、いらだちを隠しきれずに唇をかみしめる由太を見て、萌子は握りしめていた手の力を緩める。
ぶっきらぼうだから、本当の気持ちがなかなか伝わらなくて、誤解されることも多いかもしれない。
それでもわかってくれてる人はいる。
しかし由太はそんな吉見に答えることなく、唐突に樹生の方に向き直ると、深く頭を下げようとした。
「新田、青山、伊東。今まで、すまなか―」
が、頭が下がるところで、その肩を興仁が押しとどめる。
「謝ることはないだろ。
別にお前のやり方が間違ってたわけじゃないんだから。
ただちょっと。やりすぎただけ」
由太が顔をあげると、興仁がにやりと笑った。
「高津…」
興仁は由太の肩から手を離すと、そのまま樹生の肩に手をまわして言った。
「新田も、調子乗りすぎだぜ。
何だったら、俺とPK勝負、やるか？」
「え」
「俺お前の癖もちゃーんとわかってるから」
その一言に、樹生が顔を強張らせる。
「げっ、いや、いいっすよ」
雰囲気がいくらか和らいだところで、由太は真剣な表情に戻って興仁に尋ねた。
「で、何なんだ？俺へのペナルティーは？
キャプテンを辞めろと言うなら、辞める覚悟はできてる」
その言葉に、萌子は息をのむと、興仁を見つめた。
興仁はくすっと笑うと、
「何言ってんだよ。
俺がそんなこと言うわけじゃん。
こんな我儘野郎がいっぱいいる部、まとめあげれる人間なんてそういないっつーの。
罰ゲームは…そうだな。
歌、歌ってくれ」
「え」
思いがけぬペナルティーに、由太が気の抜けた声を上げる。
「あー、あの曲、歌ってよ。振りつきでさ。こういうやつ」
興仁はそう言うと、巷で流行っている女性アイドルデュオの歌を、くねくねとした振りつきで歌い始めた。
どこか盆踊り風なのと、ところどころで音程が外れてはいたが、何の歌かはわかった。
由太は思わず真顔になって、答えた。
「いや、その歌全部は知らないし、振付だって―」
「じゃあさ、今年のクリスマスパーティーまでに覚えてきてよ。
理香、やるんだろう？今年もクリスマスパーティー」
荷物の整理をベンチでしていた理香が、驚いてから答える。
「…一応、やるつもりだけど」
「決まり！」
嬉しそうに声を上げる興仁に、思わず由太は聞き返した。
「…俺、一人でやるのか？」
「そりゃ罰ゲームだからなあ。
あ、でもあれって二人組だったっけ？
おし、それじゃ、やろうぜ、新田。ＰＫ勝負」
「へ？」
突然話を振られて、樹生も間抜けな声を上げる。だが、興仁は気にする風もなく、話を進める。
「負けた方が、由太と一緒に踊るってことで」
「冗談―」
「副キャプテン命令。嫌なら、勝てばいいんだ。自信あるんだろう？」
売られたケンカは、買わずにはいられない。
興仁は樹生のそんな性格も熟知しているようだ。
「…わかりましたよっ」
怒鳴るように樹生はそう答えると、手にしていたトンボを隣にいた望に託し、グランドに戻って行った。
部室には、興仁と由太の二人だけだった。
他の部員たちは、着替えも終えて帰ってしまっていたし、ＰＫ戦に負けた樹生は、悔しくて仕方ないと言った様子で、さっさと着替えると先輩を差し置いて部室を出て行ってしまったのだ。
二人だからとはいえ、これといった話もなく、由太は無言のままに着替えを終えようとしていた。
興仁を待つべきか、どうするか。
悩んでいると、興仁の方から声をかけてきた。
「俺さ、これでも部員のこといろいろ見てるわけよ。こう背中を見ながらさ。
そうすると、いろんな事がわかるわけ。
知朗、今日は腹こわしてるなー、とか、
右京の奴、機嫌悪いなー、とかさ。
それで、遠まわしに言うのが苦手だからさ、そのまんまで言うと」
シャツのボタンを留めながら、興仁はさらりと言った。
「おまえ、萌子が好きだろ」
思わず由太は手を止め、興仁を見つめた。
「高津―」
だが興仁はそんな由太を気に留めることもなく、話し続けている。
「安心しろ。俺はこのこと誰にも言ってないし、誰も気づいてない。もちろん俺が誰かに言うつもりもない。
ただ、もしお前が誰にも気づかれたくないと思ってるっつんならさ、一言言う。
あいつと距離を置くな」
その言葉に、由太は視線を所在なく動かした。
気持ちを気づかれていただけじゃなく、だから距離を置こうとしていたことまでばれてるなんて。
「今はあいつ自身もその理由に気づいてないけど、お前に避けられてることはわかってる。
他の部員もそれに気付き始めたら、ばれるのは時間の問題だぞ」
はっきり言われてしまうと、由太としても隠しようがなかった。黙り込む由太を肯定としたのか、興仁は話を続ける。
「それが嫌ならさ…いっそ、告白して、玉砕しちまえよ」
由太が目を見開いて興仁を睨みつける。
その表情を見て、興仁も顔を歪ませると、細く息を吐きながら答えた。
「なあんてな。
お前の性格じゃ、萌子を悩ませるようなこと、できないだろうし、
そんなことするくらいなら自分で苦労背負い込むだろうけどさ」
自分の気持ちに気づいた時から、由太は決めていた。
朔哉という恋人がいる萌子を苦しめるわけにはいかない。
だから、この気持ちは、自分の中だけにしまっておこうと。
しかし、否応なしに萌子との距離が近づくたびに、気持ちは強くなり、大きく揺れた。
そこから少しでも楽になろうとして、萌子と距離を置くようになった。
…だけど、今の俺には、それすら許されない。
そういうことだ。
「決めるのは、お前だし。
傷つくのも、苦労するのも、全部お前だから、俺はそれしか言わない。
俺は、お前みたいに、他人の責任まで全部しょいこめるような人間じゃないから」
興仁はそう言い残すと、お先にと言って部室を出て行った。
ドアを閉めたところで、興仁はそのドアにもたれかかりながら、大きくため息をついた。
「あ〜、言っちまった」
余計なこと、言わなきゃよかったのかも。
由太の奴、また俺のこと苦手になりそうだもんな。
だが興仁はそう思ったところで、
「ま。いっか」
と呟いた。
「だって、わかっちゃったんだから。仕方ねぇよなぁ」
由太が時折送る萌子への視線。
見えない気遣い。
不器用なその思いは誰にも気づかれることなく、むしろ理香などは由太が萌子のことを嫌っているとすら思っている。
「俺ってば、超能力あるのかも」
そう呟いたところで、興仁はふと思う。
あの時も、ちゃんと見てればよかったんだ。
そうしたら、森と中野のことだって、ちゃんと気づいてられたのに。
「って言っても、もう遅いよな」
ふっと息を吐くと、興仁は体を起こしてはっとしたように再び呟いた。
「だけど、あれは…気のせい、だよな」
気のせい、気のせいと興仁は呟きながら、校門へと向かった。
アルジャーノンに寄って行くという篤志たちの誘いを断り、湊はひとり海沿いの道を歩いていた。
吹いてくる風が、心地いい。
目を閉じて、その風を胸に吸い込もうとしたところで、湊は声をかけられた。
「湊君っ」
振り返ると、道路を挟んだ向かい側に、美都が立っていた。
美都はきょろきょろと左右を見ると、道路を突っ切って、湊のところまで走ってきた。
「どうした？椎名」
怖がりの美都が、横断歩道を渡らずやってきたことに驚きながらも、湊はそう尋ねる。
美都は膝に手をついて、肩で息を吸いながら、少しして顔をあげた。
「あっ、あの、ね。考えてたの」
向こうの道路に和美の影も、萌子の姿もない。
ってことは、椎名一人？
そう考える湊の前で、美都は折っていた腰をまっすぐにすると、あたし、と言った。
「あたし、人見知りでしょう？それに…男子と話すのも、結構苦手で、なのにサッカー部のマネージャーなんかやっちゃって。
もう一年半以上やってるから、いい加減慣れてよって思うのに、まだ苦手で…。
理香や萌子みたいにてきぱき仕事も、できなくて。
だからね、湊君がいてくれるとすっごく助かるの。
湊君優しいし、困ってるとすぐ助けてくれるし、それにいつまでも甘えてちゃいけないとは思ってるんだけど、でも、すごく助かるの。
助かってるの」
突然の美都の話に、湊は戸惑い、瞬きも忘れて、ただじっと美都を見入った。
だがその視線は、美都にとっては別の意味にとれたらしい。
「あの…つまり、何が言いたいかって言うと―」
必死にそう言う美都を見て、思わず湊の顔から笑みがこぼれた。
「ありがとう。椎名」
「え」
何が？といった表情の美都に、湊はゆっくりと首を振る。
「今の言葉で、十分」
「湊君？」
急に美都を置いて、道路を渡ろうとした湊を、美都は思わず呼び止めた。
すると湊は、ごめんと言ってから、
「寄るところあったの、思い出したんだ」
と学校に向かって、走り出した。
部活の後は、理香と美都と予定があるといったのは、本当だった。
だが、用事があると言って美都が先に部室を出て、同じように理香も篤志たちと一緒に帰るとかで、結局萌子は一人になっていた。
篤志には、一緒に来るよう誘われたのだが、気がかりなことがあって、すぐに部室を出れなかったのだ。
それは、由太のことだった。
由太も由太なりに、キャプテンとしての重圧に苦しんでいたのだと、萌子は思っていた。
助けたいと思っても、由太は萌子を寄せ付けず、萌子もどこか一歩引いて由太を見守ることしかできずにいた。
…でもやっぱり。
それじゃいけないんだ。
隣にはまだ由太と興仁がいるはずだと、萌子は心に気合いを入れ、一旦外に出ようとドアを開けたところで、目の前に立つ影に気づいた。
「由太」
着替え終わった由太は、顔を合わせづらいのか、視線を落したままで呟くように言う。
「遅いし…送ってく」
思えば由太にそう言われるのは初めてだった。
「ありがとう」
萌子はそう答えると、ゆっくりと校門に向かって歩き始めた。
萌子を気遣ってか、歩く速さはゆっくりしているものの、それでも由太は萌子の前を無言のままで歩いている。
その背中を見ながら、萌子はどう話を切り出そうか悩んでいると、由太の方から先に言った。
「いろいろ、すまなかった。
お前に対しても、理香が言ってたようにひどかったと思う」
「もういいよ、由太。
大変だったと思うもの。
ただでさえ新チームになって大変なのに、副キャプテンは今までの相手じゃなくて予想外の相手で、監督も部活以外のことで忙しくなって。
だけどね、由太。
そういう時は、他の人に頼っていいんだよ。
ううん、頼ってほしい。
私は、そう思うから」
女の萌子から、そう言われることに由太のプライドが傷つくかとも思ったが、萌子は自分の本心のままに言った。
だが由太はなかなか返事を返さない。
やっぱり気に障って、無視してるのかな。
そう思った時に、
「サンキュ」
と、小さな声が風に乗って、萌子に届いた。
自然と萌子の顔がほころぶ。
弾んだ声で、萌子は続けた。
「いいチームになるわ、今年も。
興仁が言ってたの。
去年は去年。
今年は今年。
またいいチームになる。
目指してるとこは、思ってることは皆同じなんだからって」
「そう、だな」
由太がそう答えたところで、萌子は路地の向こうから歩いてくる人影に気づいて声を上げた。
「あ、お母さん！
ごめんね、由太。私、行く」
手には大きなスーパーの袋を持っている。
約束通り、肉じゃがを作ってくれるようだ。
母親に大きく手を振る萌子を見て、由太は小さく頷いて答えた。
「わかった。それじゃ」
静まり返った体育教官室で、湊は石橋を前に、口を開いた。
「考えたんです。
監督に言われたこと。
確かに最近の自分は、怠惰なところが、ありました。
なんて言うか、言われるがままに、動くと言うか。
水に流されるようにしていた、というか。
でも、これからは、ちゃんと自分の中で噛み砕いてから、動こうと思うんです。
だけど―」
「だけど？」
石橋が湊の言葉を繰り返した。
湊はそれに笑顔を見せると、はい、と答えてから続けて言った。
「皆の仲介役は、きっとこれからも続けます。
それが、俺の役割だと思うから」
それが石橋の問いに対する湊の答えだった。
結局は、変わってないじゃないかと言われるかもしれないと思った。
だがそれが湊の出した答えだし、湊自身は変わってないとは思っていない。
役割的に見てしまえば、同じかもしれないけれど、
湊の気持ちは確実に変わっているのだ。
考えようによっては、反抗的と思われるかもしれないが、それでも自分はそう決めたんだと、湊は石橋を見つめ返す。
すると、固かった石橋の表情が、ふっと和らいだ。
「そう言ってくれると、問題児だらけの部の顧問としては、非常に助かる」
その答えに、湊は石橋の意図をくみ取った。
敢えて考えさせること。
当然だと思っていたことを、もう一度見直すこと。
そうして流されることなく、自分の気持ちを見つけること。
つまりはそういうことだったのだ。
湊は大きく息を吐くと、にこっと笑って答えた。
「大丈夫ですよ、きっと。
高津も頑張ってくれてるし。
今日も色々あったけど、高津がうまくまとめてくれました。
監督が、高津を副キャプテンに選んだ理由も、わかりました」
「そうか」
石橋の声はどこか満足そうだ。
「また明日から、よろしくお願いします」
湊は深く一礼をした。
「行ってきます」
元気よくそう言って、朝練に向かおうと玄関を出た萌子は、塀にもたれかかっている朔哉に気づいた。
そういえば、と萌子は振り返る。
昨日、一緒に帰ろうと言われたが約束があるからと断り、それじゃ夜に家に寄ると言われて、家族で食事だからと断り、その時見えた成を慌てて追いかけて行ってしまった。
そんな萌子の態度に、朔哉が怒っていてもおかしくはない。
見たところ、怒ってはいないようだが、朔哉は意外と表情には出ないタイプだ。
昨日久々に家族三人でご飯を食べたことで、浮足立っていた萌子は、緩んでいた表情を引き締めると、朔哉を見つめて、その前に歩いて行った。
目の前に立つと、小さく朔哉が息を吐いたのがわかった。
「避けてない？」
はっきりとそう言われて、萌子は慌てて首を振る。
「そんなことないっ。
絶対に、ないっ」
だが朔哉はそんな萌子の言葉を信じないのか、話を続けた。
「もしかして、この前、俺が言ったことが原因？」
「え？」
思わず朔哉の目をまっすぐに見つめると、
「椎名から聞いたから」
と返事が返ってきた。
美都の口の軽さを憎みつつも、萌子は言葉を選びながら話す。
「…あの、私。急だったから、びっくりして―」
「俺は、そういうつもりで言ったんじゃない。
単純においしかったから、そう思っただけ」
朔哉が淡々とそう言った。
つまりは、プロポーズじゃなかったってこと？
いやだ、勘違いしちゃった。
顔を赤らめて俯く萌子は、だが同時に喪失感と安堵感に似たものを感じていた。
プロポーズじゃないとはっきり言われたことに対してのショックと、だがそうして朔哉との未来を決断することから逃れられたという安堵。
相反する気持ちは、確かに萌子の中にあった。
萌子がそんな自分に戸惑っていると、でも、と朔哉が言葉を続けた。
「でも、いつかはそうなりたいと思ってる」
どきりと心臓が跳ねる。
朔哉は萌子の手も同時に握っていた。
「今すぐじゃない未来に。萌子は、考えたことないかもしれないけど、でも、少しずつでいいから、考えてみてくれないか」
その手の熱さが、朔哉の真剣な気持ちを萌子に伝えてくる。
萌子は表情を引き締めて、答えた。
「…わかった」