Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
冬燈3
昼休み、お弁当を食べ終えると、萌子はそそくさと教室を出て行こうとした。
それに気づいた理香が、思わず呼び止める。
「萌子？どこ行くの？」
萌子は足を止めたものの、少し苦笑いをして理香に答える。
「ちょっと部室に行ってくる。この前当番の一年生がサボってたから、念のため確認に」
「そこまでしなくてもいいんじゃないの？」
ブリックを飲もうとして開けた口をそのままに、理香は呆れたようにそう言った。萌子は気まずそうに、うんと小さく答えてから、でもねと答える。
「由太、チェックしてるみたいなのよ。
このところ、一年生の一部がルーズになってるのは、確かに私も感じてることだし。
だから、由太、昨日怒ったんだと思うの」
だが理香は由太の怒った原因よりも、由太の行動の方が目についてしまったようだ。
「ひゃー、細かい男だね。由太チャンも」
「そんなに信用してないのかな、高岡君。皆のこと」
ぽつりと呟く美都に、理香はバカにしたように言う。
「由太チャンが信用してるのは、自分だけよ。昔っからね」
このままだと話が長くなりそうだと、萌子は話を切るように二人に笑顔を向けた。
「じゃ、行ってくる」
廊下に出たところで、萌子はひとつ小さなため息をついた。
どうやら理香の由太に対する怒りは、思った以上に深いらしい。
理香も意外と頑固だしなあ。
そうじゃなくても、新チームになって、問題が勃発してるっていうのに。
もう一度小さく息を吐き、気合を入れて顔を上げたところで、萌子は向こうの方で朔哉が誰かと立ち話をしているのが見えた。
「さく―」
だが名前を呼ぼうとしたところで、萌子ははっと気づく。
『プロポーズだって思う』
『待ってるよ、きっと。福山先輩』
美都の言葉を思い出し、慌てて萌子は身を翻し、朔哉から逃げるように廊下の反対側に駆け出して行った。
「それじゃ、あたし。アッチのとこ行ってくるから」
萌子が教室を出ると、理香もそう言ってさっさと教室を出て行った。
残された美都がのんびりとお弁当を食べていると、女の子の軽いざわめきと同時に、朔哉が教室に顔を出した。
そして、美都を見つけると、そっと教室に入ってきて話しかけてきた。
「椎名。萌子は？」
「萌子…、あれ？さっき部室に行くとかで出たんですけど…会いませんでした？」
朔哉の教室の場所からすると、ついさっき出て行った萌子とは廊下ですれ違っているはずだが、朔哉はいいやと答える。
「小池にならすれ違ったけど」
朔哉はそうかと答えて、ふぅと息を吐く。
萌子とは実は一昨日家に行って以来、顔を会わせていなかった。
昨日も実は家に行こうとしたのが、電話をすると萌子に、忙しいし料理も準備できてないから、と断られたのだ。
料理は口実で、本当はただ萌子に会いたかっただけなのだが、萌子はごめんと一言謝ると、さっさと電話を切ってしまった。
二年生から漏れ聞こえてくる話では、やはり由太の独裁的な行動が、周りの不評を買っているらしい。
萌子はそれで忙しいのかもしれない、と朔哉は一人納得していた。
もちろん相談されれば乗るつもりではあるが、それまでは新チームの力に任せようと、萌子にもこの件で自分の方から話を聞こうとは朔哉は思っていなかった。
黙っていると、美都が心配そうに自分のことを見ていることに、朔哉は気づいて、慌てて笑顔を作った。
「どうも昨日からタイミングが悪いみたいだな。
なかなか会えない。
悪いが椎名、これ萌子に渡してもらえるか？読みたがっていたから」
「はい…」
朔哉が差し出した本を、美都は素直に受け取る。
それじゃ、と教室を出て行こうとした時、美都が珍しく朔哉を呼び止めた。
「あのっ、福山先輩」
立ち止まり振り返ると、美都は真剣な表情で朔哉をじっと見つめながら、小声で言った。
「もしかして、萌子。まだ返事してないんですか？」
部室に明かりがついていると思ってドアを開けた萌子は、そこにいる部員を見て、すこしがっかりして名前を呼んだ。
「興仁？」
モップを持った興仁が、くるりと振り返る。
「お、萌子か」
「どうしたの？」
部室には興仁一人しかいない。
「萌子こそ」
笑顔で答える興仁に、萌子は少し苛立ちながら答える。
「興仁、当番じゃないでしょう？当番の一年生は？」
「ああ。あいつらは、グランドでボール蹴ってる」
「興仁に掃除押し付けて？」
険しくなった萌子の表情を見て、興仁は大きくため息をつくと、モップを壁に立てかけて、椅子に座って答えた。
「そうじゃないって。俺が引き受けたんだ。
あいつら、最近縮こまってしかサッカーできてないからさ、遊んで来いって言ったの。俺が。
でも掃除もやっとかねぇと、由太が怒るだろ？」
その言葉に、思わず萌子が興仁をじっと見つめると、
「あ、お前今。そんなとこまで知ってたの？って顔しただろ？
バカにすんな。
俺だって、副キャプテンとして、いろいろ部員のこと、見てるんだぜ」
と興仁が答えた。
興仁が試合中、誰よりもきちっと皆の動きと試合の流れをわかっていると言ったのは、自分ではないか。
「ごめん興仁」
「だったら掃除、手伝ってくれよ。流石に一人じゃ辛い」
「うん」
興仁と同じく、モップで部室の床を拭きながら、萌子はひとり言のように呟いた。
「いいチームになれるかな。
去年みたいな」
去年はいろいろな意味で恵まれていたと思う。
チームメイトも、
対戦相手も。
だが、二度の全国大会での優勝は、単なる運だけではないことは萌子もわかっていることだった。
すると、おまえさぁ、と情けない興仁の声が部室に響いた。
「そう言う風に言うなよ。
去年は去年。
今年は今年。
またいいチームになるさ。
目指してるとこは、思ってることは皆同じなんだから」
みんな、同じ。
由太も、興仁も、他の部員たちも。
「そう、ね」
萌子はそう呟いてから、再びモップを握りしめた。
練習後のざわつく部室の中で、成は隣で着替え終えたケンにひっそりと話しかける。
「なあ、ケン」
しかしその声は、喧噪のなかでケンには届かないらしく、一向に振り返る気配はない。
仕方なく成は声をあげて、ケンの背中を小突いた。
「なあなあ、ケンってば」
「ったぁく、なんだよ」
どうやらその前からケンは成には気づいていたらしかった。何だよと思いつつも、成は気持ちをもち直して、ケンの耳にひそひそと話しかけた。
「なんか萌子の様子、おかしくないか？」
「おかしい？」
「溜め息の数も多い気がするし、なんとなく元気がない」
真剣な成とは対照的に、ケンは髪の毛を整えながらあっけらかんと答えた。
「へんなもんでも食べたんだろ、どうせ」
「そういうことじゃなくてさ」
成を執拗いと思ったのか、ケンはあのなぁとため息交じりに答えた。
「だいたい、そういうのは、本人に聞くのが一番だろ？」
「え？」
それができないからお前に聞いてるんだろう、と言い返そうとした成の前で、ケンはいきなり手を挙げると、
「萌子」
と言った。
「あのな萌子ってどうしてそうな―」
「なぁに？」
いやな予感がして成が振り返ると、そこには制服に着替えた萌子が立っていた。
どうして萌子が？
と思う成の背後から、
「成が聞きたいことがあるって」
というケンの声が聞こえてきた。
「何？聞きたいことって」
「いや…その」
萌子がそう尋ねると、成は口ごもった。
部室にはまだ部員がいるからと、なんとなく二人は水呑み場にやってきていた。
ほどよく木の陰になっているこの場所は周囲からは見えにくいし、部活の終わった時間だとあまり通る人間もいない。
そういえば、成に相談するのもいいのかもしれない。
由太と興仁のこと。
サッカー部のこと。
それと、できれば、朔哉さんのプロポーズのこと。
昨日も今日のお昼も、なんとか会わずに済んだけど、これからずっとそうやっていくわけにはいかないのだから。
でも…。
何となく、成に恋愛の相談をするのは躊躇われて、萌子は自分から切り出すことができずにいた。
そんな萌子の前より先に、成が思い切ったように口を開いた。
「最近、萌子元気ないなって思って」
一瞬どきりとした。
自分の考えを読まれたのかと思った。
「そんなこと…あるかな？」
そう言って笑顔を作ってはみたけれど、それはまるで壊れ物の仮面のようにバラバラと崩れ落ちていく。
少しして、成が尋ねた。
「もしかして、おばさんのこと？仕事、まだ忙しいとか？」
お母さんの仕事…。
そう言われて、萌子ははっと気づいた。
最後の試合の数週間前にも、同じように成に自分の気持ちを言い当てられたことがあった。
あの時、成はアドバイスをくれていたのだ。
あれから一カ月近く経っているというのに、自分はそれを実行できずにいる。
「ごめん。…まだ、話してないの」
素直にそう答えると、意外にも次の言葉もすらすらと出てきた。
「怖くて。
お母さんに、がっかりされるのが怖いの。
そんな我儘いう子だったんだって、失望されるのが怖い」
吐き出すように言いきると、二人の間に沈黙が流れた。
そこまで言うべきじゃなかったのかもしれない。
そう萌子が後悔したところで、ぽつりと成が呟いた。
「そうかな」
「え？」
思わず顔をあげると、だって、と成は話を続けた。
「ぶつかるのを恐れてたら、いい人間関係なんか作れない。
萌子はそうやって今までサッカー部でやってきてたじゃないか」
入部を認めてもらった時のこと。
笠間のこと。
右京のこと。
知朗のこと。
確かに成の言うとおりだった。
でもあれは、彩の真似ごとをしただけで―。
そう言おうとする萌子の心に、成の言葉がふわりと包み込む。
『俺は目の前で今まで見てきた萌子を信じることにする』
萌子は言いかけた言葉を、思わず飲み込む。
成は大きく一度頷いた。
「大丈夫。おばさんもおじさんも、ちゃんと萌子のこと受け止めてくれるよ、正直に話せば」
「そう…かな」
「そうだよ。
初めの一歩は、誰でも勇気がいるけど、大事なのはその幅じゃなくて、踏み出すってことだと思うから」
萌子の視線の先で、成は少し照れたように笑った。
その笑顔を見ていると、萌子の気持ちは少し落ち着いた。
大事なのは、踏み出すこと、か。
話してみようか、まずはお母さんから。
それから、由太とも。
ありがとう、と萌子が言おうとしたところで、ふいに成が声を上げた。
「あ、朔哉さん」
その声に、思わず萌子は水呑み場の後ろに隠れる。
少しして、枝をかき分けて朔哉の声がした。
「早坂。萌子、見なかったか」
「え？あれ？」
突然萌子が見えなくなって、成もびっくりしているのだろう。
でも、お願い。
一緒にいたこと、朔哉さんには言わないで。
まだ、返事ができないから。
まだ、朔哉さんの目を見て話せないから。
祈るように萌子がそう思っていると、朔哉が挙動不審になっている成に尋ねた。
「…どうかしたか？」
お願い。
両手を固く握りしめ萌子がそう思っていると、成が小さなため息をついてから答えた。
「いいえ。練習は終わったんで、その監督ところじゃないですか？きっと」
「サンキュ」
朔哉が歩いて行く足音が遠ざかる。
膝を抱えるようにしてしゃがみこんだ萌子が、ふうと息を吐いていると、上から水呑み場に身を乗り出した成の声がする。
「喧嘩？違うよな、まさか」
萌子は慌てて立ち上がると、
「うん」
と答えて、さっきまで自分が立っていた場所へと戻る。
それでも黙っていると、成が不審そうに自分を見つめていることに気づいた。
だが、萌子が何も言わずにいると、諦めたのか、話は終わったと歩き出そうとする。
思わず萌子は引き留めた。
「ねぇ、成。プロポーズってしたことある？」
「へ？」
慌てて成が振り返り、その顔が赤いことに気づいた萌子は、失敗したと思った。
やっぱり、言うんじゃなかった。
「ご、ごめんっ、今の聞かなかったことにして」
逆に萌子の方が立ち去るように歩き出すと、今度は成が萌子を引き留めた。
「された？プロポーズ」
そこまで言って、違うなんて言えない。
諦めて萌子は無言で頷いた。すると、背中越しに成の妙に明るい声が響いてきた。
「やっぱり、すごいな。朔哉先輩」
「え？」
思わず萌子は振り返る。すると成は、本当に感心したようにして話を続ける。
「それだけ自信があるってことだろ？自分に。
萌子のこと、守っていく自信が。
俺だったら、自信ないからさ。まだ―」
「やめて」
気づいたら萌子はそう言っていた。
「成に、そういうこと言って欲しくない」
「…え？」
戸惑った成の表情を見て、萌子はまた自分が言ってはいけないことを口にしたことに気づいた。
「…ごめん、何でもないから」
今度は走り出そうとした萌子を、成の緊張感のある声が引き留める。
「萌子―」
「成には成の魅力がある。
だからなんでも朔哉さんと比べて、自分を下に見ないで」
思わず出た萌子の言葉に、しばらく成は答えなかった。
秋風にしては涼しい風が、二人の周りの木々を揺らす。
その音は、漣の音にも似ていた。
「…わかった」
少しして、成がそう答える。
「それじゃ」
萌子はそれだけ言うと、その場を走り去った。