Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
冬燈2
萌子が着替えを終えてため息をついたところで、お疲れ様の声と同時に美都がミーティングルームに入ってきた。
理香は、篤志とデートだとかで、早々に帰ってしまっている。
萌子の視線の先で、美都はマイペースに帰り支度を始めていた。
美都と和美は、つきあってもうそれなりに経つ。
付き合いだす前はどうなることかとハラハラさせられたものの、ここ最近は逆に安定していて、二人の絆は一段と強くなっているように思えていた。
…美都って、きっと将来はお嫁さんになりたいってタイプだよね。
和美も、あれで意外と繊細なところあるし、まじめだし。
悩んだ挙句、萌子は美都に相談してみることにした。
「ね、美都」
振り返った美都に、萌子は慎重に質問した。
「美都って、和美とつきあって長いよね」
「長いって言っても…一年半くらい、かな」
少し照れてほほ笑む美都を見ていると、萌子も思わずつられて微笑んでしまったものの、ふと本来の目的を思い出して、表情を引き締めると、改めて聞き直した。
「将来の約束とか、したりする？」
「将来の約束？」
萌子は言葉を詰まらせながら、大きな目でじっと自分を見つめる美都に答えた。
「つまり、その…。
プロ―」
言い切る前に、美都はその大きな目をさらに見開いたかと思うと、突然声をあげた。
「まさかっ萌子…、福山先輩からプロポ―」
壁一枚隔てたところでは、まだ部員たちが着替えている最中だ。
大きな声を上げれば、隣にも聞こえてしまうかもしれない。
萌子は大慌てで、美都の口を押さえた。
由太が部室を開けると、それに気づいた一年生たちが一斉に口を閉ざした。
それから、慌てて口々に「お疲れ様です」と言い始めた。
由太はそのどれにも答えることなく、小さく頷くと、まっすぐ自分のロッカーに向かった。
一年生の視線が、それでも自分を追いかけているのがわかる。
その視線は、由太の様子を恐れながらも伺っているようでもあり、
無言の由太を、批判して睨みつけているようでもあった。
それでもいい。
チームが強くなるのであれば。
チームが一つにまとまるのであれば。
着替えはすでに終えていたものの、鞄を置きっぱなしで体育教官室にいたために、由太は戻ってきていた。ロッカーを開け、目的の鞄に手を伸ばしたところ で、鏡に様子を伺っている望たちの姿が映っていた。どうやら彼らはすでに着替えを終えたものの、上級生たちがまだ帰らずにいることで、部室を出られないで いるらしい。
今までであれば、明るく「お先に失礼します」と声をかけて帰っていた一年生も、今日ばかりはそれもできないと思ったようだ。
今日の練習後が終わり、一年生たちのグランド整備も終わったところで、偶然由太はグランド整備の器具が、まるで投げ捨てられているように用具室に戻され ていることに気づいた。もちろん由太は部室に戻ると、当番だった望や樹生たち一年生を部室の前に一列に正座させて、叱りつけた。部室の前は、当然他の部の 生徒たちも通りかかる。おまけにどこの部も、練習が終わっている時間だったから、彼らは大勢の前で叱りつけられたのだ。数人は、恥ずかしさの余り顔を赤ら め、項垂れるほどだった。しかし、由太の言っていることは正論で、おまけにキャプテンであるために誰も何も言い返せない。最後には一年生たちの「すみませ んでした」の嵐になったものの、由太はそれを無視するようにして体育教官室へ行ってしまったのだ。
こんな状況で、由太より先に帰れないというのが、一年生たちの判断なのだ。
由太としては、先ほどのこととこの状況とは関係ないのだが、そうやって甘い顔をすれば、つけあがるのが人間だからと、何も言わずに無表情で黙り込んでいた。
そわそわしている状況から見て、望たちはこの後何か約束があるのかもしれない。
しかし何も言わずに、由太の様子だけを伺っている。
そうやって、許されることを待ってるというのだろうか。
この甘えが、自分にどう影響するか、一度じっくり考えてみろ。
だんまりを決め込んだ由太の目には、痺れを切らした樹生が望にささやいているのが見えた。
「なあ、もういいじゃん。行けよ。間に合わなくなるだろ？」
「でも―」
そう答えながらも由太の様子を伺っている望が、捨てられた子犬のようにも見え、思わず「いいから帰れ」と言いたくなる。その気持ちを、由太が押し込めたところで、能天気な声が張りつめた部室の緊張感を解いた。
「なんだ？デートか？青山」
突然話に加わってきた興仁に望は戸惑いつつも、答えた。
「えっ、いいえ…そういうんじゃないんですけど―」
しかしそう答えた望の声を遮って叫んだのは、樹生だった。
「いや、そうですっ」
「ミッキー！いいえ、違います！」
首を振る望の口を押さえながら、樹生はひっそりと囁いた。
「いんだよ。こういう時は、そういうことにしておくんだって。そうしたら先に帰してくれるからさ」
しかしその声は、ちゃんと興仁にも聞こえていたらしい。
「それは時と場合によるぞ、新田。特に、彼女のいない俺としては、正直悔しい。っていうか、腹立たしい」
頬を膨らませた興仁を見て、望が慌てて謝った。
「すっ、すみませんっ。そういうんじゃないんですけど、ばあちゃんが入院しちゃって、今日手術したから、面会に行こうと思ってて―」
「だったらさっさと、いけよ」
あっさりと興仁が笑顔で言う。
望は興仁と、その奥で黙り込んでいる由太の横顔とを交互に見つめた。
「いえあのでも」
だが興仁は、由太にも聞こえるほどの大きな声で望にこう返す。
「今日の練習は終わったんだから。あとはお前の自由時間だろ？
それにばあちゃんも、お前のこと待ってるんじゃねぇの？」
にっこり笑う興仁の奥で、由太がちらりと望を見てから、顔を背けた。
望にはそれが、勝手にしろと言っているように思え、思わず笑顔になって声を張り上げた。
「はいっ、ありがとうございますっ。
お疲れ様でしたっ。
お先に失礼しますっ」
慌てて部室を出ていく望の後姿を見て、樹生も他の一年生たちと一緒に、清々しい笑顔を浮かべる興仁に言った。
「んじゃ、俺らも失礼します。
もう自由時間なもんで」
お疲れ様でしたー、と声と足音が行きかう中で、興仁は由太の隣に行くと、声をかけた。
「由太」
すでに着替え終えていた由太は、鞄を手にして、もう帰るところのようだ。
「な、時間ある？俺、お前とさ―」
しかし由太は、興仁と視線を交えることなく言い放った。
「悪いが俺も帰る。自由時間だ」
そのまま誰にもお疲れさまと言わずに由太は部室を出ていく。
ドアが閉まったところで、ため息とともにケンが口を開いた。
「あいつ変ったよな。キャプテンになって。
気にするなよ、興仁」
励ますように言ったケンだったが、当の興仁はあっけらかんとして答えた。
「気にしてなんかないよ。でも、どうして由太ってば、ああやって独りよがりなんだろう」
昨日の話と、環の友人の話をしたところで、萌子は美都の返事を待った。
はっきりと言われたわけじゃないし、
環の友人の話も、ある意味一例と言ってしまえばそれまでだ。
「どう、思う？」
「そう思う。プロポーズだって思う」
はっきりそう言った美都の言葉に、萌子は小さく息を吐く。
「なのかな…やっぱり」
美都は大真面目な表情で大きく頷くと、答えを続けた。
「福山先輩、まじめだもの。特に萌子に関しては」
それは萌子も否定はできない。
でも、と口ごもると、美都が意外だと言うように言った。
「嬉しくないの？萌子」
まさかそんなことないはずだ、という裏の言葉に、萌子も激しく首を左右に振った。
「そういうんじゃなくて、びっくりしたっていうか。
もちろん、真剣に考えてくれてることはすごく嬉しい。
でも」
でも、何だろう。
気持ちが、嬉しいとか、夢みたいとか、そういうところまでまだたどり着いていないのだ。
そう、例えばキャンディを口に入れた時に、思った味と違って驚いている状況。
まだそのキャンディがおいしいのか、おいしくないのか、そういうところまで考えることができない。
だけど、それを目の前で羨ましそうにうっとりとした表情を浮かべている美都に、どう言ったらいいのかわからず、萌子はありきたりな言葉を口にする。
「でも、まだお互い高校生よ」
しかし美都は、頑なに首を振る。
「結婚できるのは、男子は十八歳、女子は十六歳から。今の二人なら十分結婚できるよ」
「でも―」
そう口を開こうとした萌子の肩を、美都はぽんと叩いて、まるで自分のことのようにしみじみと答えた。
「福山先輩が高校卒業したら、ばらばらになっちゃうわけでしょう？
しかも、お互い部活で忙しかったら、中々会うこともできないかもしれないじゃない。
そうしたら萌子にも心配掛けてしまうかもしれない。
だったら、って思ったんじゃないの？」
「でも―」
しかし美都はその萌子の言葉を遮って、ため息交じりに答えた。
「いいなあ。萌子は順調で。
ほんと、羨ましい」
「…そんなことないよ」
萌子は和美と付き合ってどのくらいかと聞いただけで、照れながらも微笑んだ美都の笑顔を思い出しながら答えた。
しかし、その声は美都には届かなかったようだ。
「あるよ。和美君がシャイで意地っ張りなこともわかってるし、そういうところも私好きだけど。
でも、時々思うもの。
もう少し、思ってることを口にしてくれて、
もう少し、優しくしてくれたらなって」
美都はそう言いながら、いつも見つめている和美の背中を思い出した。
並んで手をつないで歩くことが、恥ずかしがり屋の和美にとって、拷問にも等しいことは、美都にもわかっている。
でもそれでも、自分が話しかけなくても、振り返ってほしい。
勝手に自分のペースで、どんどん先に進まないでほしい。
そう思うことは、そう願うことは、贅沢なのかな。
立ち止まりたい私の気持ちに、気付いてほしいって思うことは、我儘なのかな。
ふとそう考えたところで、美都は目の前でため息をついている萌子に気づいた。
いけない、今は萌子の話なんだった。
かつての自分がそうだったように、萌子も自分の幸せな状況に気づいていないようだ。
自分の気持ちが相手に届くこと、
相手がそれに応えてくれること。
手を差し出すと、捕まえてくれる手があること。
そんな小さな出来事が、実はとても幸せだったと美都が気づいたのは、ごく最近のことだ。
それが当たり前だと思っていた時は、そんなこと思わなかったのに。
きっと萌子もそうなんだろう。
もし私が和美君からプロポーズされたら、すぐに萌子にも理香にも知らせるというのに、
それでもまだ好きって気持ちがあふれ出て、それこそ海に向かって叫んでしまうに違いないのに、
目の前の萌子は、冷静でいるというか、落ち着きはらっている。
でも、萌子っていつもそうだ。
私の時も、理香のことにしても、人のことには一生懸命なくせして、自分のことについては、他人みたいにというか、一歩下がったところで見てるというか。
福山先輩も、逆に不安になったりしないのかな。
私は…最近、ちょっと不安になる。
美都は自分の暗い気持ちを振り払うように笑顔を浮かべると、
「萌子はもちろんOKだよね？」
と尋ねた。しかし萌子の方は、きょとんとした表情を浮かべるだけだ。
「OKって？」
「だから、プロポーズの返事」
当然でしょう？という美都に、萌子はひっそりと尋ねた。
「それって、やっぱり返事返さないといけないの？」
「待ってるよ、きっと。福山先輩」
美都は深いため息をついて、そう答えた。
部室を出て寮に向かう途中、ケンが真っ先に口を開いた。
「俺さ、やっぱ湊が副キャプテンやるべきだと思うけどなあ」
「そうだね」
そう厳己も同調する。成も、頷こうとしたが、思いがけず湊が重い表情で答えた。
「そんなことないよ」
今までずっと学年副代表としてやってきた湊だったが、別にそれを自慢する様子はなかった。
だから、今回も副キャプテンが興仁だと発表された時も、湊は落胆せずにそれを受け止めていたと思っていた。
でも、違ったのか？
成の真剣な視線の先で、湊はそれでもいつものように微笑んでいる。
「けど、あの気むずかし屋の由太の相手ができるのは、湊だけだって」
「由太って好き嫌い激しいからね」
話を続けるケンと厳己に、湊は穏やかにだけど、と言葉を返す。
「だけど、人の上に立つってことはさ、その好き嫌いをなくさなきゃいけないわけだろう？」
「そうだけど？」
「俺が由太と一緒にまとめ役やってたらさ、きっと由太の嫌いな相手ばかり相手にすることになるよ。
それって、俺にとっても、由太にとってもいいこととは思えないだろう？」
諭すように言う湊に、ケンも頷きそうになってから、慌てて言い返した。
「まあ…でも、外野からするとさ、今日みたいなことって心臓に悪いわけよ」
確かに今日の由太はやりすぎだったところもあった。
叱るなら、せめて他の部の人間がいないところでやればよかったのだ。
だが、叱ったことは間違ってないし、むしろ正論だったし、
もし成が由太の立場だったとして、きちんと叱りつけられたのかは、正直自信がない。
できれば、皆とは仲良くやっていきたいし、
できれば、後輩にもいい先輩だと思われていたい。
でもそう言った気持ちが、甘えを生んでしまうことは、成にもわかっていた。
そうだから、由太のやってることは、やっぱり正しい。
そう思うと、結局何も言えなかった。
その結果、部室は由太が現れただけで、張りつめた空気に覆われたのだ。そして、部室の空気はそのまま重苦しいものになってしまった。
「だから、そこは俺たちも我慢しろってことじゃないのかな。
そうやって、皆で成長しろって、監督は言いたいんじゃないかと思う」
湊の言葉に、ケンは半ばあきれたような声を出した。
「湊ってばほんといい奴だよなぁ」
しかし湊も言葉通りに受け取ることはなく、小さく首を振って答えた。
「そんなことないよ。そうやって、事勿れ主義なのは、俺の短所」
自嘲気味な言葉が湊の口から出てきたことに、成は少しばかり驚いていた。
湊…、やっぱり何かあった？
しかし厳己もケンも、それに気づくことなく話を続けている。
「そんなことないよ」
「何言ってんだよ、事勿れ主義、万歳だぜ」
だが湊はそれに答えることなく、明るく言った。
「とにかくさ、見守ってやろうよ。由太と興仁のこと」