Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
冬燈1
「新田っ。休むなっ、走りきれっ。
ケンっ、最後まで気を抜くなっ」
グランドに怒鳴り声が響く中、選手たちが白い息を吐きながら、練習を続けている。
その中央で声を張り上げているのは、新キャプテンとなった由太だ。
今日は石橋が不在のため、由太がコーチの佐藤と共に指示を出していた。
ギロリと睨みつけるような視線と、小さな舌打ちが聞こえたような気がしたが、由太はそれを無視してまた別の方向に視線を馳せる。
そこには、足を止めて、腰に手を当て立ち止っている和美が見えた。
声を張り上げようとしたところで、ふいに肩を叩かれて、声をかけられる。
「なあ、由太。疲れない？」
緊張感のない声の主は、興仁だ。
ニコニコと笑っている興仁は、どうしてか副キャプテンに選ばれた。
つまり、この新しいチームは、由太と興仁でまとめていかなければならないのだ。
ずっと学年の副代表は湊がやっていたから、てっきり副キャプテンも湊だと思っていた。
意外と人見知りをする由太にとって、湊ならばやりやすいと思っていた安心感は、見事に壊された。
興仁は人当たりも良く、いい奴だとはわかっているものの、チームをまとめる自分の補佐をしてくれる存在かといえば、少し違う気がしていた。
現に今も、張り切って声を張り上げている自分のモチベーションを一気に下げるようなことを口にする。
由太はそんな興仁を振り払うように背を向けながら答えた。
「練習中だ。疲れるとか、疲れないとかは関係な―」
「じゃなくて、そんなに怒鳴り散らしてさ」
何を言っているんだ。
思わず立ち止まると、背後から興仁の気の抜けたような声が響いた。
「もっと楽しくやろうぜ。
楽しく」
由太は、改めて興仁のことを思い返した。
いわゆる推薦組でも、寮生でもない興仁は、二年の夏を迎えるまで、グランドではあまりぱっとしなかったように思う。
だが今年の夏から、興仁は突然サブのゴールキーパーにその反射神経の良さを買われて、昇格した。
実際、そのことは、由太も認めている。
だが、それだけで副キャプテンになれるわけではない。
練習を楽しくやろうなんて、言語道断だ。
「凪浜は、今、神奈川県で二番目の高校だ。
一番じゃない。
選手権に出るためには、一番にならないといけない。
そのためには、もっと練習を積まないと駄目だ。
今まで以上に練習をしないと、これから川城に勝つことはできない。
川城に勝てなければ全国には行けない」
優勝候補の凪浜を下して選手権出場を決めたことで、川城の評判は上々だった。
実際、いいチームであったし、問題なければ選手権でもそれなりに勝ち進めるだろうと思っている。
だが由太にとって、川城を敵視するのはそれだけではない。
今の川城の中心は二年生の二人、つまり自分たちの同級生なのだ。
おそらく新しいチームも、そう問題なく早めに仕上げてくるに違いない。しかも、全国大会を経験して、実力をさらにつける。
間違いなく、凪浜の最大のライバルとなるのだ。
由太がきっぱりと言うと、気分を害したように興仁が答えた。
「わかってるよ、そのくらい俺にも。
言いたいのはそういうことじゃなくてさ、キツくて辛い練習だからこそ、もっと楽しくできないかなって思うんだ。
今までもそんな雰囲気だったじゃん。だから―」
「だから、最後の最後で負けたんだ」
苦々しい声で由太が興仁の声を遮った。
「誰かに頼っているようじゃ、勝てない」
そう思っていたわけでは決していなかった。
しかし、朔哉がグランドに現れた時、それほど朔哉を崇拝しているわけでもなかった由太は、思ってしまったのだ。
これで、勝てる、と。
そこに気持ちの緩みがあった。
苦しい場面では、思わず神に頼むようにして朔哉にボールを回した。
そしてそう思ったのは、自分だけではなかった。
結果、同点に持ち込めたのは、朔哉の力によるところが多い。
だからこそ、負けてしまったのだ。
凪浜は。
だから、由太は思っていた。
誰かに頼っているようじゃ、勝てるわけない、と。
「でもさ―」
そんなことはないと言いたそうな興仁に、由太は話を終わらせるべく言い放った。
「お前はゴールの方で自分の練習でもしてろ。それこそ楽しく」
視界の端で、さすがの興仁のこめかみがぴくりと動くのがわかった。
しかし由太は、それでも構わないと思っていた。
そう、こいつが副キャプテンだとしても、頼っているようじゃ、チームは勝てない。
背後で興仁が追いかけてくる気配がしたと思ったところで、由太の目の前に萌子が現れた。そして、
「興仁っ」
と後ろの興仁を呼ぶ。んぁ？と興仁が相変わらずの抜けた声で返事を返すと、萌子はグランドの外を指さした。
「コーチが呼んでる」
「わかった」
由太と萌子の脇をすり抜けるように駆け出していく興仁の背中を見つめていると、目の前に立っているままの萌子がじっと自分を見つめてから口を開いた。
「由太」
鼓動が少し弾むのがわかる。
これだから、最近由太は萌子を避けるようにしていた。
キャプテンとマネージャーという存在は、思った以上に一緒にいる時間が多く、しかも二人きりでいることも少なくない。
そんな時間をなるべく減らそうとしている由太の努力に、しかし萌子の方は全く気付いていないようだ。
「練習中だ。私語は慎め」
素気なく言って自らも練習に戻ろうとすると、萌子は追いかけてきた。
「私語じゃないわ、由太。大事なことよ。
興仁にあんな言い方して。
副キャプテンじゃない。
由太はキャプテン。二人でチームを引っ張っていくわけだから、もっと仲良くやってもらわないと」
「仲良くやる必要はないだろう」
走りながら由太の目の前に回り込んだ萌子の表情が、険しくなる。
言った言葉は本心ではあったが、話したくない気持ちが、更に口調を強めていたようだ。
「話が終わったら、自分の仕事に戻れ」
そう言い残して、萌子の脇をすり抜けようとした由太を、それでも萌子は振り返って声をかけてきた。
「あるわよ。
チームメートじゃない。
ぎくしゃくしてたら、いいチームワークなんか生れっこないわ」
萌子の言葉が由太の胸に刺さる。
もっと話し合えれば、
本音で言い返せれば、
そうすればこんなに自分を追い詰めるようなことにはならないのかもしれない。
一瞬だけ、そう思った。
だけど、そうやって萌子を頼ってしまえば、ますます萌子に対する想いが強くなるし、萌子に傍にいてほしいと思ってしまう。
そんな風になりたくなかった。
それに何より、一度決めてしまったことを、翻すことは由太には出来なかった。
「和気あいあいとやってれば、いいチームができるわけじゃない。
なれあいになるだけだ」
グランドでの言い争いは、やはり他の部員たちにも気になっていたようだった。
「さすがに今度ばかりは、監督のミスジャッジだと思うな」
口火を切ったのは理香だ。
練習も終え、着替えも終えた萌子たちは、部室でおしゃべりをしていた。
少し前までならば、萌子は朔哉と一緒に帰るからと早くに部室を出ていくか、
或いは理香たちが先に帰っていたけれど、朔哉が引退してからは、たいてい萌子は理香たちと一緒に帰っていた。
「…私も」
遠慮がちだが美都もそう答えた。
思わず萌子がため息をつくと、美都の賛同を得た理香が、勢い込んで話し始めた。
「まあ由太チャンがキャプテンやるのはさ、周知の事実みたいなものがあったけど、まさか副キャプテンをかっつんがやるなんてさ。
てっきり今まで副代表やってた湊君あたりがやるんじゃないかと思ってたのに」
「私は日比野君かと思ってた」
美都が答える。
確かに篤志と由太は仲はいいけれど、と萌子が頬杖をついて目の前に座っている理香と美都の顔を見ていると、理香が小さく首を振ってこたえた。
「アッチはＣチームだから無理だよ」
「でも、溝口先輩はレギュラーじゃなかったじゃない」
溝口は笠間や柳田の同級生だ。
「溝口先輩は副部長。あの時の副キャプテンはヤナギさんでしょ？
それに溝口先輩はＢチームだったでしょ？Ｃじゃないもの」
言い切った理香に、美都はそうかなぁと小さくつぶやいている。
収拾をつけるように萌子が答えた。
「関係ないわよ、どのチームかなんて」
肝心なのは、人の心を集められるかどうかだと思う萌子はそう答えたが、理香は椅子から立ち上がると大きく反論した。
「あるにきまってるでしょ？萌子。
人をまとめる立場なのに、サッカーが下手っぴなんじゃ、巧い選手は意見聞くわけないじゃない」
言い切った理香に、萌子はなだめるように名前を呼んだ。
「理香」
心配そうな美都の視線もあって、理香は椅子に座り直して謝った。
「ごめん…。でも、そういうことだよ。
やっぱり、Ｃチームって、そういう扱いだもん」
マネージャーはＡ・Ｂ・Ｃそれぞれのチームに一人ずつ割り振られている。
所謂レギュラー選手であるＡチームの担当は萌子に、ＢチームとＣチームは、それぞれ美都と理香だ。
そういえば、最初に担当を笠間が決めてから、一度も変更していないな、と萌子は思った。
理香は何か思うところがあるのかもしれない。
項垂れたままでまだ話を続いている。
「確かにかっつんはレギュラーだけど、人の上に立つようなタイプじゃないじゃない。
むしろおちゃらけて、下に回っちゃうタイプでしょ？
そういうバカやっちゃう人に、ついていこうなんて人いるのかな」
「言いすぎよ、理香。
興仁は、確かにちゃらんぽらんな時もあるけど、でも試合中は誰よりもきちっと皆の動きと試合の流れをわかってるわ」
そして、最後尾から前のディフェンダーたちに指示を送っている。
よく通る興仁の声は、ベンチにいる萌子にもよく届いていた。
その時、ノックがされたかと思うと、ドアが開いて由太が顔を出した。
「由太チャン」
理香の呼びかけを無視して、由太は萌子にメモ用紙を一枚渡す。
「これ。チェックして、買い足しておいてくれ」
そして萌子の返事を待つことなく、由太は部室を出て行った。
「由太チャン！」
最後に理香がもう一度名前を呼んだものの、由太は振り返ることなく、ドアは閉められた。
「何あの態度。いつもああなの？」
再び理香が声を張り上げる。萌子はでも、と答えた。
「でもテーピングやコールドスプレーのチェックは本当ならこっちの仕事なのに、由太がやってくれてるのよ。
あとは買っておけばいいだけだし」
「でも結構な大荷物になる時もあるじゃない。由太チャンついてきてくれる？」
「それはキャプテンの仕事じゃないし」
「信じらんない！由太チャンってばどこまで横暴なわけ？
あたしたちは、ただのパシリじゃないのよっ！」
そう言って怒鳴る理香の隣で、美都も気まずそうな表情で答えた。
「高岡君、新しいチームになってから、前よりもっと話しかけづらくなったよね」
どうやらマネージャー二人の反感も、由太はかってしまっているようだ。
萌子は心の中でため息をつくと、由太から渡された紙を手帳に挟みながら答えた。
「大変なのよ、由太も。
皆のモチベーション下げないように頑張ろうとして」
しかし理香の怒りはそんなことでは収まらなかったようだ。
「萌子ってば優しすぎだよ。
だって朔哉さんの時はこんなことなかったでしょう？
こんなんじゃますますチームの雰囲気が悪くなるし。
決めたっ、今度こういうことあったら、あたしが由太チャンに言う！」
「理香の気持ちもわからなくもないけど。
でも、私も本心でいえば、興仁じゃなくて湊の方が適任だったと思う。
少なくとも、由太のパートナーとしては」
食事を出しながら萌子は食卓に座ると、目の前でご飯を食べている朔哉にそう言った。
理香たちの前でそういえば、由太が悪者になってしまうから言えなかったけれど、萌子の本心はそうだ。
完璧主義者の由太と、部員たちの乖離を上手に埋めてくれるのに、湊は適任だ。
だからずっと学年副代表もやってきたのだと思うし、由太も湊のことを信頼していたように思う。
だが、興仁では、由太から歩み寄ることはまずないし、そもそも由太の信頼を得るのに時間がかかりそうだ。
萌子の話を聞きながら、ご飯を食べていた朔哉は、うーんと答えた。
朔哉は引退してから、基本的には部活動に参加しなくなった。とはいえ、大学に入学するまでの約四か月、何もしなければ体が訛るということで、練習には週に三回ほど参加している。
だが、練習の中心に入ることはなく、また朝練も参加しないし、居残り練習もないので、萌子と一緒に登下校をすることは週に一度あるかどうかくらいだ。
そのため、萌子の両親の帰りが遅いことも心配した朔哉は、夜のロードワークの帰りに、こうして沢木家に立ち寄って、軽い食事をしてから寮に戻るのが、ここ数週間の通例になっていた。もちろん萌子の親は公認で、母親などは朔哉のために夕食をひとり分多く作っておいてある。
「そうかな。俺はやっぱり石橋監督はさすがだって思ったけど。
高岡の持ってないものを、高津は持ってるからな」
「由太の持ってないもの？」
萌子の声に、朔哉は大きく頷いた。
「公平な目、気の抜き方、いい加減さ」
でも、と萌子は思わず聞き返す。
「公平な目って、由太の方が冷静だし、頑ななくらい公平だと思うけど。それに、気の抜き方やいい加減って必要？」
少し疑うような萌子をくすりと笑い、朔哉は大きく頷いた。
「必要だよ。それがないと、下がつらい。
それに、高岡は確かに公平だけど、それはあいつの価値観の上での公平さだ。
高津はそういう垣根がないところで公平だし、どんな奴でもあきらめたりしない。
そういう意味では、高岡の方が脆いんじゃないか」
朔哉の言葉に萌子が黙り込んだところで、突然朔哉が声を上げた。
「美味い！」
「え」
「この肉じゃが。いつものおばさんのと違うみたいだけど」
そう言って朔哉はもう一度肉じゃがを口にする。
萌子は笑みをこぼすと、あのねと口を開いた。
「それ私が作ったの。よかった。ちなみにね、そっちのひじきの煮物もそうなの」
そういうと、さっそく朔哉はひじきを口にして、大きく頷く。
「うん、美味い。こうやって、毎日萌子の手料理を食べられたら幸せだな」
朔哉の笑顔に、萌子もつられたように笑顔になって答えた。
「じゃ、明日も何か作るね」
由太がベッドで寝転がっていると、好実が電話だと言って部屋に入ってきた。
相手が誰だと聞いてみても、好実は何も言わずに受話器を由太に渡して、さっさと部屋を出て行った。
その態度にむっとしながら受話器に耳をあてたところで、電話からは理香のどなり声が聞こえてきた。
「ちょっと由太チャン！ひどいんじゃないの？今日のあの態度」
思い当たる態度は山のようにある。
だが、自分に非があると由太は思っていなかった。
上に行こうとする人間にとって、試練は付き物だ。
今までにも由太はそうして、憎まれ役になることが多かった。
だが結果、チームの力は以前よりも良くなってきているのだ。
俺は間違ってない。
その自信とともに、由太は聞き返す。
「何がだ」
「萌子に対してよ。
パシリみたいなことさせてっ。
あたしたちマネージャーはねっ、単なるパシリじゃないのよっ。
マネージャーなんだからねっ。
それからね、Ｃチームだって、立派な部員なんだからねっ。
もっと大切に―」
キャンキャン吠える子犬のような理香の話を聞きながら、由太は理香が何を言っているのか理解した。
本当は、萌子のことでも、マネージャーの仕事のことでもない。
単に、Ａチームの練習試合のため、グランドで練習をしていたＣチームの連中を外にランニングに行かせたことに、理香は腹を立てているのだ。
だが由太からすると、Ｃチームの連中は、努力が足りないから一番下のチームに入れられており、そういう連中には、上にあがりたいという欲も足りないという結論になる。
Ａチームを贔屓にすることは、そういうＣチームのメンバーの向上心を煽る意味でもあるのだ。
だが、それを理香に説明したところで、Ｃチームが変わるわけではないと、由太は理香の言葉を遮った。
「用がそれだけなら、切るぞ」
「ちょっと、由太チャ―」
慌てた声が聞こえたけれど、由太は無情にも電話を切った。
「もしもし？萌子ちゃん？」
電話が鳴って出ると、相手は篤志の姉・環であった。
「環さん」
「朔哉、そっちにいる？」
「さっき出たところです」
にこやかに食事を終えた朔哉は、消化しないとと言って、先ほど沢木家を出たばかりだった。
正直に答えると、がっかりした環の声が返ってきた。
「そうなの？残念。買い物頼もうと思ってたのに」
「追いかけましょうか？」
「ああ大丈夫。そんなに大事なことじゃないから。
ところで、元気？萌子ちゃん」
「はい。環さんは？」
環と最後に顔をあわせたのは、県大会の決勝で負けた日の残念会でだった。
あれからもう一か月経っている。
「実はちょっとへこんでるんだよね。一番の親友が、結婚することになっちゃって」
環はそう話し出すと、その親友の結婚話について語り始めた。
二人の馴れ初め、初めて迎えた危機、それを乗り越えてのプロポーズ…。
「だけどさー、笑えるじゃないの。プロポーズに気づかないなんて。あの子らしいっちゃ、あの子らしいけど」
「どんなプロポーズだったんですか？」
思わず萌子がそう聞くと、環は得意げに答えた。
「彼女の手料理食べてる時に、君の手料理を毎日食べたい、ですって。
彼女は小料理屋をやってるわけだから、じゃあお店に毎日来てよって普通に答えたんだってさ」
バカよねぇ、と笑う環の声には、嬉しそうに弾んでいた。
「へぇ…。…ぁ」
つられたように電話越しに笑顔になった萌子だったが、ふと気づき、声を上げた。
「どうかした？萌子ちゃん」
君の料理を毎日食べたい、って。
さっき、同じようなことを朔哉さんが言っていたような、気がする。
だけど、でも…。
早すぎるし。
…まさか、ね。
「いいえ。…なんでも、ないです」
ケンっ、最後まで気を抜くなっ」
グランドに怒鳴り声が響く中、選手たちが白い息を吐きながら、練習を続けている。
その中央で声を張り上げているのは、新キャプテンとなった由太だ。
今日は石橋が不在のため、由太がコーチの佐藤と共に指示を出していた。
ギロリと睨みつけるような視線と、小さな舌打ちが聞こえたような気がしたが、由太はそれを無視してまた別の方向に視線を馳せる。
そこには、足を止めて、腰に手を当て立ち止っている和美が見えた。
声を張り上げようとしたところで、ふいに肩を叩かれて、声をかけられる。
「なあ、由太。疲れない？」
緊張感のない声の主は、興仁だ。
ニコニコと笑っている興仁は、どうしてか副キャプテンに選ばれた。
つまり、この新しいチームは、由太と興仁でまとめていかなければならないのだ。
ずっと学年の副代表は湊がやっていたから、てっきり副キャプテンも湊だと思っていた。
意外と人見知りをする由太にとって、湊ならばやりやすいと思っていた安心感は、見事に壊された。
興仁は人当たりも良く、いい奴だとはわかっているものの、チームをまとめる自分の補佐をしてくれる存在かといえば、少し違う気がしていた。
現に今も、張り切って声を張り上げている自分のモチベーションを一気に下げるようなことを口にする。
由太はそんな興仁を振り払うように背を向けながら答えた。
「練習中だ。疲れるとか、疲れないとかは関係な―」
「じゃなくて、そんなに怒鳴り散らしてさ」
何を言っているんだ。
思わず立ち止まると、背後から興仁の気の抜けたような声が響いた。
「もっと楽しくやろうぜ。
楽しく」
由太は、改めて興仁のことを思い返した。
いわゆる推薦組でも、寮生でもない興仁は、二年の夏を迎えるまで、グランドではあまりぱっとしなかったように思う。
だが今年の夏から、興仁は突然サブのゴールキーパーにその反射神経の良さを買われて、昇格した。
実際、そのことは、由太も認めている。
だが、それだけで副キャプテンになれるわけではない。
練習を楽しくやろうなんて、言語道断だ。
「凪浜は、今、神奈川県で二番目の高校だ。
一番じゃない。
選手権に出るためには、一番にならないといけない。
そのためには、もっと練習を積まないと駄目だ。
今まで以上に練習をしないと、これから川城に勝つことはできない。
川城に勝てなければ全国には行けない」
優勝候補の凪浜を下して選手権出場を決めたことで、川城の評判は上々だった。
実際、いいチームであったし、問題なければ選手権でもそれなりに勝ち進めるだろうと思っている。
だが由太にとって、川城を敵視するのはそれだけではない。
今の川城の中心は二年生の二人、つまり自分たちの同級生なのだ。
おそらく新しいチームも、そう問題なく早めに仕上げてくるに違いない。しかも、全国大会を経験して、実力をさらにつける。
間違いなく、凪浜の最大のライバルとなるのだ。
由太がきっぱりと言うと、気分を害したように興仁が答えた。
「わかってるよ、そのくらい俺にも。
言いたいのはそういうことじゃなくてさ、キツくて辛い練習だからこそ、もっと楽しくできないかなって思うんだ。
今までもそんな雰囲気だったじゃん。だから―」
「だから、最後の最後で負けたんだ」
苦々しい声で由太が興仁の声を遮った。
「誰かに頼っているようじゃ、勝てない」
そう思っていたわけでは決していなかった。
しかし、朔哉がグランドに現れた時、それほど朔哉を崇拝しているわけでもなかった由太は、思ってしまったのだ。
これで、勝てる、と。
そこに気持ちの緩みがあった。
苦しい場面では、思わず神に頼むようにして朔哉にボールを回した。
そしてそう思ったのは、自分だけではなかった。
結果、同点に持ち込めたのは、朔哉の力によるところが多い。
だからこそ、負けてしまったのだ。
凪浜は。
だから、由太は思っていた。
誰かに頼っているようじゃ、勝てるわけない、と。
「でもさ―」
そんなことはないと言いたそうな興仁に、由太は話を終わらせるべく言い放った。
「お前はゴールの方で自分の練習でもしてろ。それこそ楽しく」
視界の端で、さすがの興仁のこめかみがぴくりと動くのがわかった。
しかし由太は、それでも構わないと思っていた。
そう、こいつが副キャプテンだとしても、頼っているようじゃ、チームは勝てない。
背後で興仁が追いかけてくる気配がしたと思ったところで、由太の目の前に萌子が現れた。そして、
「興仁っ」
と後ろの興仁を呼ぶ。んぁ？と興仁が相変わらずの抜けた声で返事を返すと、萌子はグランドの外を指さした。
「コーチが呼んでる」
「わかった」
由太と萌子の脇をすり抜けるように駆け出していく興仁の背中を見つめていると、目の前に立っているままの萌子がじっと自分を見つめてから口を開いた。
「由太」
鼓動が少し弾むのがわかる。
これだから、最近由太は萌子を避けるようにしていた。
キャプテンとマネージャーという存在は、思った以上に一緒にいる時間が多く、しかも二人きりでいることも少なくない。
そんな時間をなるべく減らそうとしている由太の努力に、しかし萌子の方は全く気付いていないようだ。
「練習中だ。私語は慎め」
素気なく言って自らも練習に戻ろうとすると、萌子は追いかけてきた。
「私語じゃないわ、由太。大事なことよ。
興仁にあんな言い方して。
副キャプテンじゃない。
由太はキャプテン。二人でチームを引っ張っていくわけだから、もっと仲良くやってもらわないと」
「仲良くやる必要はないだろう」
走りながら由太の目の前に回り込んだ萌子の表情が、険しくなる。
言った言葉は本心ではあったが、話したくない気持ちが、更に口調を強めていたようだ。
「話が終わったら、自分の仕事に戻れ」
そう言い残して、萌子の脇をすり抜けようとした由太を、それでも萌子は振り返って声をかけてきた。
「あるわよ。
チームメートじゃない。
ぎくしゃくしてたら、いいチームワークなんか生れっこないわ」
萌子の言葉が由太の胸に刺さる。
もっと話し合えれば、
本音で言い返せれば、
そうすればこんなに自分を追い詰めるようなことにはならないのかもしれない。
一瞬だけ、そう思った。
だけど、そうやって萌子を頼ってしまえば、ますます萌子に対する想いが強くなるし、萌子に傍にいてほしいと思ってしまう。
そんな風になりたくなかった。
それに何より、一度決めてしまったことを、翻すことは由太には出来なかった。
「和気あいあいとやってれば、いいチームができるわけじゃない。
なれあいになるだけだ」
グランドでの言い争いは、やはり他の部員たちにも気になっていたようだった。
「さすがに今度ばかりは、監督のミスジャッジだと思うな」
口火を切ったのは理香だ。
練習も終え、着替えも終えた萌子たちは、部室でおしゃべりをしていた。
少し前までならば、萌子は朔哉と一緒に帰るからと早くに部室を出ていくか、
或いは理香たちが先に帰っていたけれど、朔哉が引退してからは、たいてい萌子は理香たちと一緒に帰っていた。
「…私も」
遠慮がちだが美都もそう答えた。
思わず萌子がため息をつくと、美都の賛同を得た理香が、勢い込んで話し始めた。
「まあ由太チャンがキャプテンやるのはさ、周知の事実みたいなものがあったけど、まさか副キャプテンをかっつんがやるなんてさ。
てっきり今まで副代表やってた湊君あたりがやるんじゃないかと思ってたのに」
「私は日比野君かと思ってた」
美都が答える。
確かに篤志と由太は仲はいいけれど、と萌子が頬杖をついて目の前に座っている理香と美都の顔を見ていると、理香が小さく首を振ってこたえた。
「アッチはＣチームだから無理だよ」
「でも、溝口先輩はレギュラーじゃなかったじゃない」
溝口は笠間や柳田の同級生だ。
「溝口先輩は副部長。あの時の副キャプテンはヤナギさんでしょ？
それに溝口先輩はＢチームだったでしょ？Ｃじゃないもの」
言い切った理香に、美都はそうかなぁと小さくつぶやいている。
収拾をつけるように萌子が答えた。
「関係ないわよ、どのチームかなんて」
肝心なのは、人の心を集められるかどうかだと思う萌子はそう答えたが、理香は椅子から立ち上がると大きく反論した。
「あるにきまってるでしょ？萌子。
人をまとめる立場なのに、サッカーが下手っぴなんじゃ、巧い選手は意見聞くわけないじゃない」
言い切った理香に、萌子はなだめるように名前を呼んだ。
「理香」
心配そうな美都の視線もあって、理香は椅子に座り直して謝った。
「ごめん…。でも、そういうことだよ。
やっぱり、Ｃチームって、そういう扱いだもん」
マネージャーはＡ・Ｂ・Ｃそれぞれのチームに一人ずつ割り振られている。
所謂レギュラー選手であるＡチームの担当は萌子に、ＢチームとＣチームは、それぞれ美都と理香だ。
そういえば、最初に担当を笠間が決めてから、一度も変更していないな、と萌子は思った。
理香は何か思うところがあるのかもしれない。
項垂れたままでまだ話を続いている。
「確かにかっつんはレギュラーだけど、人の上に立つようなタイプじゃないじゃない。
むしろおちゃらけて、下に回っちゃうタイプでしょ？
そういうバカやっちゃう人に、ついていこうなんて人いるのかな」
「言いすぎよ、理香。
興仁は、確かにちゃらんぽらんな時もあるけど、でも試合中は誰よりもきちっと皆の動きと試合の流れをわかってるわ」
そして、最後尾から前のディフェンダーたちに指示を送っている。
よく通る興仁の声は、ベンチにいる萌子にもよく届いていた。
その時、ノックがされたかと思うと、ドアが開いて由太が顔を出した。
「由太チャン」
理香の呼びかけを無視して、由太は萌子にメモ用紙を一枚渡す。
「これ。チェックして、買い足しておいてくれ」
そして萌子の返事を待つことなく、由太は部室を出て行った。
「由太チャン！」
最後に理香がもう一度名前を呼んだものの、由太は振り返ることなく、ドアは閉められた。
「何あの態度。いつもああなの？」
再び理香が声を張り上げる。萌子はでも、と答えた。
「でもテーピングやコールドスプレーのチェックは本当ならこっちの仕事なのに、由太がやってくれてるのよ。
あとは買っておけばいいだけだし」
「でも結構な大荷物になる時もあるじゃない。由太チャンついてきてくれる？」
「それはキャプテンの仕事じゃないし」
「信じらんない！由太チャンってばどこまで横暴なわけ？
あたしたちは、ただのパシリじゃないのよっ！」
そう言って怒鳴る理香の隣で、美都も気まずそうな表情で答えた。
「高岡君、新しいチームになってから、前よりもっと話しかけづらくなったよね」
どうやらマネージャー二人の反感も、由太はかってしまっているようだ。
萌子は心の中でため息をつくと、由太から渡された紙を手帳に挟みながら答えた。
「大変なのよ、由太も。
皆のモチベーション下げないように頑張ろうとして」
しかし理香の怒りはそんなことでは収まらなかったようだ。
「萌子ってば優しすぎだよ。
だって朔哉さんの時はこんなことなかったでしょう？
こんなんじゃますますチームの雰囲気が悪くなるし。
決めたっ、今度こういうことあったら、あたしが由太チャンに言う！」
「理香の気持ちもわからなくもないけど。
でも、私も本心でいえば、興仁じゃなくて湊の方が適任だったと思う。
少なくとも、由太のパートナーとしては」
食事を出しながら萌子は食卓に座ると、目の前でご飯を食べている朔哉にそう言った。
理香たちの前でそういえば、由太が悪者になってしまうから言えなかったけれど、萌子の本心はそうだ。
完璧主義者の由太と、部員たちの乖離を上手に埋めてくれるのに、湊は適任だ。
だからずっと学年副代表もやってきたのだと思うし、由太も湊のことを信頼していたように思う。
だが、興仁では、由太から歩み寄ることはまずないし、そもそも由太の信頼を得るのに時間がかかりそうだ。
萌子の話を聞きながら、ご飯を食べていた朔哉は、うーんと答えた。
朔哉は引退してから、基本的には部活動に参加しなくなった。とはいえ、大学に入学するまでの約四か月、何もしなければ体が訛るということで、練習には週に三回ほど参加している。
だが、練習の中心に入ることはなく、また朝練も参加しないし、居残り練習もないので、萌子と一緒に登下校をすることは週に一度あるかどうかくらいだ。
そのため、萌子の両親の帰りが遅いことも心配した朔哉は、夜のロードワークの帰りに、こうして沢木家に立ち寄って、軽い食事をしてから寮に戻るのが、ここ数週間の通例になっていた。もちろん萌子の親は公認で、母親などは朔哉のために夕食をひとり分多く作っておいてある。
「そうかな。俺はやっぱり石橋監督はさすがだって思ったけど。
高岡の持ってないものを、高津は持ってるからな」
「由太の持ってないもの？」
萌子の声に、朔哉は大きく頷いた。
「公平な目、気の抜き方、いい加減さ」
でも、と萌子は思わず聞き返す。
「公平な目って、由太の方が冷静だし、頑ななくらい公平だと思うけど。それに、気の抜き方やいい加減って必要？」
少し疑うような萌子をくすりと笑い、朔哉は大きく頷いた。
「必要だよ。それがないと、下がつらい。
それに、高岡は確かに公平だけど、それはあいつの価値観の上での公平さだ。
高津はそういう垣根がないところで公平だし、どんな奴でもあきらめたりしない。
そういう意味では、高岡の方が脆いんじゃないか」
朔哉の言葉に萌子が黙り込んだところで、突然朔哉が声を上げた。
「美味い！」
「え」
「この肉じゃが。いつものおばさんのと違うみたいだけど」
そう言って朔哉はもう一度肉じゃがを口にする。
萌子は笑みをこぼすと、あのねと口を開いた。
「それ私が作ったの。よかった。ちなみにね、そっちのひじきの煮物もそうなの」
そういうと、さっそく朔哉はひじきを口にして、大きく頷く。
「うん、美味い。こうやって、毎日萌子の手料理を食べられたら幸せだな」
朔哉の笑顔に、萌子もつられたように笑顔になって答えた。
「じゃ、明日も何か作るね」
由太がベッドで寝転がっていると、好実が電話だと言って部屋に入ってきた。
相手が誰だと聞いてみても、好実は何も言わずに受話器を由太に渡して、さっさと部屋を出て行った。
その態度にむっとしながら受話器に耳をあてたところで、電話からは理香のどなり声が聞こえてきた。
「ちょっと由太チャン！ひどいんじゃないの？今日のあの態度」
思い当たる態度は山のようにある。
だが、自分に非があると由太は思っていなかった。
上に行こうとする人間にとって、試練は付き物だ。
今までにも由太はそうして、憎まれ役になることが多かった。
だが結果、チームの力は以前よりも良くなってきているのだ。
俺は間違ってない。
その自信とともに、由太は聞き返す。
「何がだ」
「萌子に対してよ。
パシリみたいなことさせてっ。
あたしたちマネージャーはねっ、単なるパシリじゃないのよっ。
マネージャーなんだからねっ。
それからね、Ｃチームだって、立派な部員なんだからねっ。
もっと大切に―」
キャンキャン吠える子犬のような理香の話を聞きながら、由太は理香が何を言っているのか理解した。
本当は、萌子のことでも、マネージャーの仕事のことでもない。
単に、Ａチームの練習試合のため、グランドで練習をしていたＣチームの連中を外にランニングに行かせたことに、理香は腹を立てているのだ。
だが由太からすると、Ｃチームの連中は、努力が足りないから一番下のチームに入れられており、そういう連中には、上にあがりたいという欲も足りないという結論になる。
Ａチームを贔屓にすることは、そういうＣチームのメンバーの向上心を煽る意味でもあるのだ。
だが、それを理香に説明したところで、Ｃチームが変わるわけではないと、由太は理香の言葉を遮った。
「用がそれだけなら、切るぞ」
「ちょっと、由太チャ―」
慌てた声が聞こえたけれど、由太は無情にも電話を切った。
「もしもし？萌子ちゃん？」
電話が鳴って出ると、相手は篤志の姉・環であった。
「環さん」
「朔哉、そっちにいる？」
「さっき出たところです」
にこやかに食事を終えた朔哉は、消化しないとと言って、先ほど沢木家を出たばかりだった。
正直に答えると、がっかりした環の声が返ってきた。
「そうなの？残念。買い物頼もうと思ってたのに」
「追いかけましょうか？」
「ああ大丈夫。そんなに大事なことじゃないから。
ところで、元気？萌子ちゃん」
「はい。環さんは？」
環と最後に顔をあわせたのは、県大会の決勝で負けた日の残念会でだった。
あれからもう一か月経っている。
「実はちょっとへこんでるんだよね。一番の親友が、結婚することになっちゃって」
環はそう話し出すと、その親友の結婚話について語り始めた。
二人の馴れ初め、初めて迎えた危機、それを乗り越えてのプロポーズ…。
「だけどさー、笑えるじゃないの。プロポーズに気づかないなんて。あの子らしいっちゃ、あの子らしいけど」
「どんなプロポーズだったんですか？」
思わず萌子がそう聞くと、環は得意げに答えた。
「彼女の手料理食べてる時に、君の手料理を毎日食べたい、ですって。
彼女は小料理屋をやってるわけだから、じゃあお店に毎日来てよって普通に答えたんだってさ」
バカよねぇ、と笑う環の声には、嬉しそうに弾んでいた。
「へぇ…。…ぁ」
つられたように電話越しに笑顔になった萌子だったが、ふと気づき、声を上げた。
「どうかした？萌子ちゃん」
君の料理を毎日食べたい、って。
さっき、同じようなことを朔哉さんが言っていたような、気がする。
だけど、でも…。
早すぎるし。
…まさか、ね。
「いいえ。…なんでも、ないです」