Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
朔風2
全治三週間の捻挫。
それが、朔哉に下された診断結果だった。
診察室のベッドに腰掛けながら、程度がひどくなかったことに、安堵のため息をついた朔哉に、だが石橋はこう告げた。
「来週の決勝戦は、お前をスタメンから外す」
勢いよく顔を上げた朔哉に、隣にいた萌子も驚いた。
「どうしてですかっ？」
朔哉は納得がいかないというように石橋に言い返す。朔哉が身を呈して手にした一点が決勝点となり、凪浜は清海大付属に勝利することができた。それなのに、と息を荒げる朔哉に、石橋は深いため息の後で、
「全力を出し切れない選手を、出すわけにはいかない」
と答えた。
確かにそれは正しい判断だ。だけど、と朔哉はそれでも石橋に言い返した。
「テーピングをすれば、なんとかなりますっ。
全国まであと一つなんです、監督。
来週の試合に勝てば、全国にいける。
そうすれば、藤原だってチームに戻って―」
「駄目だ」
納得がいかないとベッドから立ち上がろうとする朔哉に、様子を窺っていた医者が口を挟む。
「石橋監督の言う通りだよ」
「…先生」
その医者は、凪高のかかりつけといってもいい医者だった。朔哉も何度か通ったことがある。医者は朔哉に向き直ると、真剣な表情で話を続けた。
「捻挫と言っても無理をすれば、もっとひどい怪我にもなりかねないし、もしかしたら君がサッカーを続けられないことにもなりかねない。
来週の試合は出場禁止だ」
朔哉が黙り込むと、石橋は深くため息をつき、朔哉に言った。
「皆には、俺の方から話す。お前は、寮に戻れ。沢木、朔哉を送っていってくれ」
「はい」
そのまま石橋は病室を出て行った。残された萌子は、足を引きずりながら歩く朔哉と一緒にタクシーに乗り込んだ。運転手に寮の住所を告げたところで、朔哉がそれを言い直すように萌子の家の住所を伝えた。
「どうして？朔哉さん。私も寮で一緒に降りる」
慌てて萌子がそう言ったが、朔哉はゆっくりと首を振る。
「そうしたら、俺が萌子を送らなきゃいけなくなる」
「でも―」
「寮には一人で戻れる。別に重病人ってわけじゃないんだ」
「でも」
「それに、少しばかり考え事したいんだ。一人で」
静かにそう言った朔哉の横顔を見て、萌子は頷いた。
「わかった」
走りだした車中は、物静かだった。朔哉を励ましたいとは思うものの、萌子は何も言えなかった。ならばサッカーに関係のない話でもして、場を和ませようと思うものの、一点を見つめたままの朔哉の横顔を見てしまうと、何も言えなくなるのだ。
『そうやって、朔哉一人が必要以上に辛い思いを抱えてしまっているとは思わないのか』
石橋に言われた言葉が胸に痛い。怪我の原因となった決勝点の取り方が、まさにそれを表わしているようだったのだ。
結果、凪浜は決勝に駒を進めた。けれど、朔哉は怪我をして出場できない。
『考え事したいんだ。一人で』
その隣に、自分はいることはできないのだろうか。そうして、朔哉の負担を少しでも軽くしてあげることはできないのだろうか。
朔哉さん。
萌子がその名を呼ぼうとした時、朔哉の口が開いた。
「萌子」
「はい」
「俺のことは、藤原には話さないでくれ」
「え」
突然の話に、萌子は言葉を無くす。朔哉はそれでも萌子を見ずに話を続けた。
「あいつには自分の怪我の治療にだけ専念させたい」
このところ、萌子は右京のお見舞いには行くことができずにいた。試合の為に練習が忙しくなったということもあるが、あの事件があったということもある。許可をもらえれば右京は外出できるらしいのだが、自分が出場できるわけでもないからと、右京はそれを拒んでいた。だから本当であれば、今日の試合の後に萌子は朔哉と一緒に見舞うはずだったのだ。
「でも―」
「司のことも言わないでくれ」
さりげなく言ったその言葉に、萌子は目を見開いた。
「この前話したって―」
司を見舞った後、朔哉は一人で右京の所に向かったのだ。司の話を自分一人がしたいから、と。
「頼む」
短くそう言ってまた黙り込んだ朔哉に、萌子は何も言えずに、
「わかった」
とだけ答えた。
選手権出場校を決める県大会決勝の日、朝晴れていた空は、試合時間が近づくにつれ、だんだんと雲の厚みを増していった。病室の窓から空模様を眺めていた右京は、静かにテレビをつけた。
「高校サッカー選手権大会、神奈川県予選決勝です」
ローカルテレビでは、試合を生放送で流している。付き添いがいれば外出もできたのだが、誰かの手を煩わせたくないことと、誰かにずっと見張られるのが嫌で、右京は試合の様子をこうして病室から観戦することに決めていた。試合は始まって十分ほど経過しており、解説者の声と共に画面には、グランドの映像が映し出されていた。
いつもとの違いに、右京はすぐに気付いた。
「苦しい立ち上がりになりました、凪浜高校。これはやはりゲームメーカーの藤原がいないだけではなく、先週の準決勝で負傷したキャプテン福山もベンチ入りとなったことが影響しているのでしょうか」
それだけではない。
司がいない。
右京はその答えを求めるように画面に食い入る。だが映し出されたのは、開始早々コーナーキックを蹴った川城のボールを、成が何とかクリアしている様子だった。
「なお、福山の怪我の状態ですが、ベンチ入りしてはいるものの、この試合での出場は無理かと思われます。彼のプレーが見られるのは、凪浜高校がこの試合に勝って、全国に出場するまでおあずけということになるでしょう。さて一方の川城高校、またも凪浜陣地に攻め込んでいます…」
準決勝に勝ったという連絡は、萌子から電話で受けていた。病院に顔を出すと言っていたが、試合後の反省会が長引いたとかで行けなくなったと聞いた時、右京はそのままに信じていたのだが、それがそもそも違っていたのだと気づく。
そういえば、少し様子がおかしくて、何かあったのかと尋ねたが、萌子は決勝戦を前に緊張しているのだとしか言わなかった。
…いや、言えなかったのだ。
言えば、自分の手術がそこまでチームを追い込んだと右京が責任感を感じるからだ。
しばしそのプレーを見ていた右京だが、気づいたようにロッカーにかけてあったパーカーを羽織ると、松葉杖を手にして病室を出ていった。
ここから競技場までは、一時間ほど。前半には間に合わなくても、後半には間に合う。
「あれ？藤原君？」
病院を出ようとしたところで、よくやってくる看護婦に声をかけられたが、右京はそれを無視すると、やってきたタクシーに飛び乗った。
ベンチに座る萌子は、苛立つ自分を抑えようと必死だった。立ち上がりから川城のペースである状況は、二十分を過ぎた今でも変わらない。放ったシュートの数も倍ほど違う。
皆いつになく緊張してる。
いつものようにいかなくて、苛立っている。
朔哉の代わりにゲームメークをしているのは和美だ。和美のポジションは、確かにミッドフィルダーだが、本来はあくまで攻撃的ミッドフィルダーであり、ゲームメーカーではない。
ああっ、またパスがつながらないっ。
苛立つ和美は、ついに川城の選手の足を引っかけてしまう。
途端に主審が笛を鳴らした。
もうばかっ。どうして冷静になれないのよっ。
主審はイエローカードを和美に突きつけた。グランドの土を蹴りあげる和美を見て、萌子はますます不安になった。そしてその不安が的中するように、ケンが川城のフォワードと競り合いになった結果、負傷したのだ。
石橋の判断は早く、ケンを交代させた。
一年の松本充彦だ。
ところが充彦は、実際の試合経験もあまりなかった為か、ファーストタッチでこともあろうか、クリアミスをしてしまった。
緊張で、ガチガチだわ、松本君。
それに、皆もいつもより息の上がり方が違う。
萌子は大きくため息をついた。
ふと、隣の朔哉を見ると、朔哉はただじっと、試合の行方を見ていた。決して他の選手のように、檄を飛ばしたり、立ち上がったり、がっくりと肩を落としたりしていない。
違う。
朔哉さんが見てるのは、試合だけじゃない。
何を見てるの？
何を考えてるの？
その張りつめた空気の漂う横顔に、萌子は不安を覚えていた。出場できないことを知っているはずなのに、ジャージの下にユニホームを着込んだことも、わからなかった。
自分も試合に出ている気分を味わうため？
それとも？
その時また会場がざわめいた。
川城のフォワードがパスカットから凪浜陣内に攻め込み、気づけば成と一対一になっていたのだ。成の後ろには、ゴールキーパーの宇野しかいない。
成っ。
思わず心の中でそう叫ぶ萌子の前で、成は相手選手からボールをカットすると、軽々とクリアしていった。
助かった…。
一瞬安心する萌子だったが、またすぐに不安に襲われた。
とにかく。
とにかく、前半を何とかこのままで終えてくれたら。
しかし、萌子の願いも虚しく、その数分後に、凪浜のゴールネットが揺れる。
川城の先制点だ。
そして、流れは川城のままに、前半が終わった。
ハーフタイムとなり、萌子は選手たちにタオルや飲み物を配りながら、いつものように声をかけていこうとした。だが、皆の雰囲気がいつもと完全に違っていた。ピンと張りつめたその空気の中では、気軽に話しかけても、無視されるか、人によっては怒鳴り返されるのが目に見えていた。
「はい、松本君」
それでも目の前にぼうっと通りかかった充彦には、激励の意味も込めて笑顔でタオルを渡した。だが、返ってきたのはぎこちない笑顔だった。
「落ち着いて。リラックスよ、松本君」
そう言ってはみたが、充彦の強張った表情が緩む様子はなかった。
「こいつは、また…」
帝都スポーツの大内がそう呟いたところで、手にしていた煙草の灰がぽろっとズボンに落ちた。火傷をしないようにと慌ててそれを払いながら、冷静な頭で考えようとする。
インターハイとそれに続く全日本ユースで優勝した凪浜が苦戦しているのには、それなりの理由がある。
第一に、インターハイや全日本ユースで優勝したからといって、選手権に出られる保証はどこにもない。
第二に、川城は小粒ながらも、今川、塚本という優秀な選手を擁し、凪浜のサッカーを研究してこの試合に臨んできている。
第三に、凪浜の主要メンバーの不在だ。
全国屈指と言われたゲームメーカーの藤原右京、鋭い嗅覚をもつフォワードとして活躍していた大槻司、そして何より、皆をまとめあげていたキャプテンの福山朔哉。膝の手術のために出場を諦めた藤原はわかっていたにしても、事故で負傷した大槻と、試合で決勝点を決めつつも怪我をした福山は想定外だったに違いない。そして何より、このメンバーの不在が、他の選手にも影響して、チーム全体に勢いがない。
でも、だからと言って、凪浜はこのまま敗退していくようなチームだろうか。
大内はそう思った。
インターハイでの優勝は、正直なところ運の良さもあったが、それ以降の活躍は、実力と認めてもいいものだった。現にどのサッカー誌でも、凪浜を選手権優勝候補のひとつに挙げている。
この試合、まだまだ動くぞ。
空を見上げると、厚い雲がグランドを覆っていた。
後半に入ると、ますます雲は厚くなり、いつ雨が降ってもおかしくない天候となった。
そして、開始五分。
問題が起こった。
充彦のクリアミスが、運悪く山城のストライカーに渡り、そのままシュートをうたれた凪浜は、更に点差を広げられのだ。
「松本っ、お前しっかりやれよっ」
和美が充彦にそうつっかかっていったのだ。
それを見ていた萌子は思わず立ち上がった。
何考えてるのよ、和美っ。
だがグランドの中には入ることができない。じれったく思う萌子の前で、成が二人の間に入った。
「落ち着けよ、和美。ミスは誰にだってあることだろ？それに、俺たちが戦うべき相手は、川城なんだ」
「だって二点取られたんだそっ」
「まだ二点だ。それも終わり。もうこれ以上の得点は絶対にさせない」
その言葉に、和美は口を閉ざす。
「…全国、行こう。今度こそ、国立に行こう」
力強い成の言葉に、和美はぐっと唇を噛みしめると、成に背を向けていった。
「三点、取ればいいんだな」
そう聞いて、成は笑う。
「頼んだ、和美」
自分のポジションに戻る和美を見ながら、成は充彦に話しかけた。
「松本」
「すみません、早坂さん。俺…」
項垂れる充彦に、成は笑顔を向ける。
「ミスはいくらでもある。大事なことは、同じミスは二度と繰り返さないこと。落ち着いていけ。俺もフォローするよう頑張るから」
それは成自身が先輩である横田に一年の時に言われた言葉だった。横田には、他にもいろんなことを教わった。横田もそれをかつての先輩たちから教わったと話していた。横田は口に出しては言わなかったが、それをまた後輩たちに伝えていくのが、自分の役割だと成は思っていた。
そしてその言葉は、一年の時の成と同じように、充彦の緊張感をほぐした。サブメンバーとはいえ、充彦の成長力は目覚ましいものがある。新しく取り入れたゾーンディフェンスもうまく作用し始め、川城の攻撃陣は、一歩もペナルティエリアに立ち入ることができなくなった。
流れは、徐々に凪浜に傾き始めていた。
だが、時間は刻一刻と過ぎていく。
スコアボードは、０対２のままだ。
川城はよほど凪浜を研究しつくしているのか、凪浜は中々シュートを打つまでに至らない。
そうして、後半の二十分が過ぎようとしていた。突然、朔哉が立ち上がったのだ。
「朔哉さん？」
萌子が話しかけたが、朔哉からの返事はない。朔哉は一度スタンドの方を振り仰ぐと、そのまま控室へと歩き始めた。
「ねぇ？朔哉さん？」
慌てて萌子も朔哉の見ていた方向に目を向ける。そこには、私服で目深に帽子をかぶりながら試合を見守っている司の姿があった。司も萌子に気づくと、さりげなく顔を逸らし、帽子を更に深く被った。
大槻さん…。
朔哉は、というとすでに建物の中に入っていた。萌子はすぐにスコアブックを隣に座っていたサブメンバーの湊に手渡し、その後を急いで追いかけた。控室に入ると、朔哉はすでにジャージを脱いでユニホーム姿になっていた。そして萌子に気づくと、手に持っていたテーピングを萌子に投げて淡々と言った。
「テーピング巻いてくれ。きつく」
その時、萌子はようやく朔哉がユニホームを脱がなかった意味を理解した。
「朔哉さん…。そんな、無理よ。だって今日は出ちゃいけないってお医者さんが―」
しかし、萌子の言葉を遮って、朔哉が唐突に叫んだ。
「いいから巻けっ」
命令的で、抑圧的な朔哉の声を、萌子は初めて聞いた。
「…できない。できないよ。だって、そんな無茶したら、サッカー続けられなくなるかもしれないって言われたじゃない。なのに―」
「じゃあ、このまま負けろというのか？」
「まだ決まったわけじゃないわ」
思わず萌子は言い返す。だが、朔哉は頑なだった。
「確かにそうだ。だけど萌子だってわかってるはずだ。早坂のおかげで、ディフェンスは落ち着いた。松本ももう大丈夫だ。だがそれじゃ、二点のビハインドは覆せない。流れを決定的に変える必要があるんだっ。それは、俺以外にはできないことなんだっ」
確かに今まではそうだった。いつも、危ないところでは、朔哉が流れを変えていた。それでも萌子はテーピングをまくことはできなかった。
黙り込んだままの萌子に、朔哉は諦めたように言う。
「わかった。俺が自分でやるからいい」
そして萌子の手からテーピングを奪う。そんな朔哉を萌子は宥めるように言った。
「ちょっと待って。お願いだから、落ち着いて考えて。将来のこともよ。今だけじゃないんだよ、朔哉さん。この先選手権で優勝することとか、将来、日本代表に入るとか、ワールドカップに出るとか、海外でプレーするとか。
今プレーするってことは、それを全部なくしちゃうかもしれないことなんだよ」
だがそういう萌子を、朔哉は睨み返した。
「今年しかないんだっ。今年で俺の凪は終わるんだ。来年はない。なのに、最後でただ負けるのを黙って見守ってろっていうのか？
それじゃ意味がないんだっ。
藤原が手術したことも、司が退部したことも、全部意味が無くなってしまうんだっ」
萌子は身を潜めるようにして試合を見守っていた司のことを思い出した。本来であれば、司は青いユニホームを着て、このグランドで走り回っているはずだったのだ。でも、皆の為にそれを諦めた。朔哉は今まで抱えていた苦しさを吐き出すように話し続けた。
「俺は…、親友でもあったあいつが、司が責任とって退部していくのを、結局黙って見ることしかできなかった。引きとめられなかったし、あいつを庇ってもやれなかった。
ただ、あいつに国立に行って、優勝するって約束することしかできなかった」
俺がもっとしっかりしていたら、
俺がもっと目を配ってたら、
朔哉は幾度なくそうやって自分を責めた。
「藤原だってそうだ。手術をすれば、全国には間に合うけど、予選には出られない。
かといって手術しなければ、予選に出ても、全国ではおそらく毎日痛みに耐え、注射を打たなきゃならない状態になる。
あいつは、手術をしないで全国に行こうとしてたんだ。だけどあいつの将来のことも考えて、俺が言った。俺が全国に連れて行くから、お前はゆっくり療養してろ、その代り全国では期待してるって」
石橋以外の人間は、右京が手術を延期して、県大会にも出場することを心の底で願っていたし、右京もそのつもりだった。それを説得させたのは、朔哉なのだ。
「俺は何が何でも全国に行かなきゃならない。その為なら、俺はボロボロになっても構わない。怪我なんか気にしてる場合じゃない。俺のせいなんだ。俺が責任とってやるしかないんだっ」
そこには、確かにキャプテンマークをつけた福山朔哉がいた。萌子はその力強い横顔を黙って見つめていたが、ついに口を開いた。
「…足出して、朔哉さん。テーピング、巻くわ」