Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
朔風4
清海大付属との準決勝の会場に着くと、行きのバスの中で流れていた緊張感が一層増した気がした。第一試合である川城と相模西の試合はすでに始まっており、選手たちはその様子をスタンドで食い入るように見つめていた。この試合の勝者が、次の決勝の相手になるかもしれないのだ。
相模西は凪浜と共にインターハイに出場したチームだったが、この試合では川城の方が押していた。その証拠に、前半を１対０で折り返した。
ハーフタイムに入り、萌子は試合の準備に入るために、観客席を出ていこうとした。その途中、試合を観戦していた見知らぬ高校生の声が聞こえた。
「おい、見に来てるぜ。凪高の連中」
「次の試合相手は、興味がないってか？」
「余裕だな。さすが二連覇してる奴らは違うね」
その声は少し揶揄しているようにさえ聞こえた。一瞬、そんなことはないと言い返そうと思った萌子だったが、そうする心の余裕も、時間もなかった。
余裕なんて、ない。
あるわけがない。
主力選手を二人失い、選手たちにはプレッシャーしかもはや残っていなかった。
プレッシャーの重圧に押しつぶされそうになる時は、もちろん今までにもあった。だがそんな時には、プレッシャーなど感じてもいないようなマイペースな右京や、司の毒舌が、チームを和やかにしていたのだ。
だが、その二人がいない。
代わりにチームを和ませなければならない立場の朔哉も俊平も、今日は口が重く、気軽に話しかけられるような雰囲気ではなかった。
どうしたらいいのか。
自分には何ができるのか。
マネージャーとして。
思わず唇をかみしめていると、後ろから声がした。
「沢木」
両手に選手のタオルや飲み物を抱えたまま、萌子は慌てて振り返った。
そこには、試合前だというのにどこか浮かない表情の石橋がいた。
「ちょっと、いいか」
もうすぐ試合が始まる。
選手もそうだが、石橋にとっても、萌子にとっても、この時間は貴重で精神的にも肉体的にも余裕はない。
だが、石橋の声には、有無を言わさぬ強さがあった。
連れてこられたのは、選手とともに乗り込んできたマイクロバスだった。
石橋は運転席に座る。
萌子は悩んだ挙句、隣の助手席に座った。石橋からは、僅かに煙草の匂いがした。
かつては吸っていたこともあったらしいが、子供が生まれてからは止めたと聞いたはずだと思いつつ、萌子は石橋の話を待った。
長い沈黙の後、石橋は深いため息をつく。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「嘘をついたからと言って責めはしない。お前たちがそうしたということは、それなりの理由があったからだろう」
何のことだかわからずに、萌子は黙って石橋の横顔を見つめた。石橋は腕組みをして、じっと目を閉じたまま話続けた。
「もう一度聞く。先週の土曜日、何があった？」
そう言って、石橋はじっと萌子を見つめ直す。思わず、萌子は口元を引き締めてごくりと唾を飲み込んだ。目の前の試合に集中するためにか、それとも解決したと考えたのか、学校はあの事件のことはそれ以上追及することはなかった。だから誰もがあの朔哉の証言を信じたのだと萌子は思っていたのだ。だが、石橋は違った。
「…あれは」
一瞬、本当のことを伝えようかとも思った。
だが、朔哉の言葉を思い出し、萌子はそれを飲み込むと、顔を正面のフロントガラスに向けて、
「朔哉さんがお話したとおりです」
と冷静を装って答えた。
沈黙が続いた後、隣で大きく息を吐く音が聞こえた。予感がして、萌子は急いでドアに手をかけると早口で石橋に告げた。
「お話がそれだけなら、失礼します。試合前で、やらなきゃいけない仕事がたくさんあるんで―」
「お前はそれでいいと思うのか？」
鋭く、石橋の声が響く。
それでいいと思うのか？
正しいと思うのか。
正面からそう言われ、萌子は戸惑った。石橋の問いかけは、萌子自身がずっと考えていたことだ。
朔哉さんの言うとおりだとしても、だけど、嘘はやっぱりつくべきじゃないと思う。
たとえ誰かを傷つけないためだとしても、
たとえ守るべきものがあったとしても。
揺れた萌子の心を、石橋は更に揺さぶった。
「そうやって、朔哉一人が必要以上に辛い思いを抱えてしまっているとは思わないのか」
その言葉に、思わず萌子は振り返る。驚いた表情の萌子を見て、石橋は頭をかきながら、視線を横へとずらす。
「大槻のことも、藤原のことも、全部自分に責任があるような顔して、あいつは自分一人で凪浜を全国に連れて行こうとしている。
だが、全国はそれほど簡単じゃないし、朔哉もそれほど強い人間というわけじゃない。もちろん、朔哉は優秀なサッカー選手で、キャプテンだ。だけど、周囲があいつを持ち上げすぎている。そして責任感の強い朔哉は、それに応えなければと思いすぎている。
これ以上、無理させるわけにはいかない。
ずっと傍にいたお前ならわかるだろう？沢木。あいつは、どんなに優秀でもただの一人の高校生だ。そうは思わんか？」
萌子の見つめる前で、石橋はじっと正面のフロントガラスを見つめて話し続ける。
「俺はこの三年間、あいつを見てきた。いわれのないことで、上級生に苛められていたことも知っている。ラッキーボーイと言われて、苦しんでいたことも知っている。人知れず練習をしていることも、常に周りに気を配ってることも。
だが、今回のことは荷が重すぎる。このままじゃその責任感があいつを潰しかねない」
だから、と言葉を切って、石橋は萌子を見つめると、静かな声で言った。
「だから、本当にあったことを話せ。その責任は、俺が取る」
責任を取る。
それは、石橋が学校側に謝るということなのか、それとも凪浜が出場を取りやめるということなのか、萌子にはわからなかった。ただ萌子にわかったのは、石橋はやはり信頼できる人だということだった。
誰よりも、朔哉のことを見て、心配している。
萌子は、石橋のようには朔哉を見てはいなかった。
右京や司のことで、心を痛めていることはわかっている。だが、それを自分の責任だとして、追い込んでいるとまでは、思っていなかったのだ。
萌子の前で、朔哉はいつだって完璧で、強くて、正しくて…。
そう思ったところで、萌子ははっと気づく。だがかつて、それが偽りの姿だと悩んで告白していたのは朔哉ではなかっただろうか。それに負けないようにと頑張っている朔哉を、萌子は応援したいと思ったのではなかっただろうか。
萌子は顔をあげ、石橋の顔を見つめ直した。石橋もそれに答えるように更に表情を険しくする。心を決め、萌子が口を開きかけたその時、窓ガラスが叩かれ、萌子は慌てて後ろを振り返った。そこには成が立っていた。萌子が窓を開けると、成はそこから石橋に向って言った。
「本当のことは、福山さんが話した通りです。監督」
「早坂…」
いつにない強い口調でそう言った成は、そのままじっと石橋を睨むようにして見つめていた。石橋も次の言葉を探して黙ったまま成を見つめていたが、
「わかった」
と小さく答えると、萌子に試合の準備をするようにと車から降りるよう促した。車を降り、試合会場に向って歩いて行く石橋の背中を萌子が見つめていると、隣に立っていた成が突然引き留めた。
「監督」
「何だ」
振り返ったその表情からは、先ほどまでの思いつめたような表情は消え去っていた。それでも眉間に皺をよせ、決して和やかな雰囲気ではない石橋に、成はたじろぐことなく言いきる。
「確かに福山さんは一人の高校生ですけど、でも俺はあの人は監督が思っている以上に強い人だと思います。それに、全国には皆で行くんです。皆で、先頭きってる福山さんについて行くんです」
その言葉に石橋は複雑な表情を浮かべながら答えた。
「そう、か。
そうだな」
石橋はそう言い残すと、ひとあし先に試合会場へと消えていった。その後ろ姿が淋しそうに見えて、黙って見つめる萌子に成が話しかけた。
「飲み物買いに行った時に見えたんだ。萌子と監督が歩いてくのが。監督、まだ納得してくれてないんだな」
困ったという表情の成に、萌子は尋ねた。
「…ねぇ成。成はどう思う？朔哉さん、やっぱり無理…してるって思う？」
すると成は大きく首を振る。
「あの人は、そんなに弱い人じゃないよ。萌子の方がわかってるだろ？そのくらい」
確かに朔哉が完璧だと言っていたのは自分だ。それにしても萌子の気づかぬところで、成は朔哉に全幅の信頼を寄せたようだ。成は時計を見ると、気づいたように言った。
「早く戻ろう。もうそろそろ試合が終わる」
かけ足で萌子たちが観客席に戻ろうとすると、逆に朔哉が降りてくるのが見えた。
「朔哉さん。試合は？もう終わったの？」
予定どおりに進んでいるのであれば、あと五分くらい残り時間があるはずだった。朔哉は険しい表情のまま、淡々と答える。
「まだだ。でも、もう試合は決まったよ。
川城が二点追加した。決勝の相手は、川城だ」
そのまま朔哉は、萌子たちに話しかけることもなく、一人でそのまま観客席を出ていった。
朔哉の言った通り、決勝に駒を進めたのは川城だった。凪浜は、あまり川城とあたったことがない。川城は、勢いのある攻撃が特徴的なチームだ。波に乗れば今日のように大量得点を奪う。
だとすれば、自分達はどうしたらいい？
朔哉がそう考えていたところで、試合前の練習時間が終わりを告げる。
次のことじゃない。
今の試合に集中しなければ。
そう思いながらグランドを引き上げていると、ふいに話しかけられた。
「どうだよ、新チームの調子は？」
顔をあげると、清海大の武原が、にやりと朔哉に笑顔を向けていた。新チームと言われるほど、メンバーは変わったわけではない。
朔哉も笑顔で武原に答える。
「たった二人抜けただけだ。うちは層も厚いし。それより、そっちはどうだ？」
武原の不調は、朔哉も知るところだった。何せこの決勝トーナメントに入ってからというもの、武原は一つもゴールを決めていない。ストライカーとしてはレギュラー落ちしても仕方のない結果だ。だがそれでも常にレギュラーとして君臨するところが、今の清海大の実力なのだ。
「そろそろ点を取らないとまずいな、と思ってる」
鼻の頭を指でこすりながら、武原がそう答える。ライバルとはいえ、武原のこの素直さが、朔哉は好きだった。自然と笑みをこぼすと、武原も微笑みながら呟いた。
「これが最後だな。高校で、お前と戦うのも」
「ああ」
今までもそうだったように、この先は負ければそこで終わり。そして今年が高校生活最後の年になる朔哉や武原にとっては、そのまますぐ引退ということになる。
だが、まだ終われない。
朔哉はそう思うと、強く拳を握り締めた。
そろそろ、と言いながらも、武原の調子は変わらないようだった。結果、試合の展開は０対０。後半の残り時間は十分を切っていた。お互いが決め手に欠くような試合内容だ。樹生も実力をあげてきていたとはいえ、小さなミスがいくつかあり、それが余計に知朗や和美を苛立たせていた。それでも、朔哉のスルーパスを樹生は相手ディフェンダーの裏をかくようにして受け取った。
キーパーとは一対一だ。
だが樹生が放ったシュートは、少しタイミングが遅れ、それなりのスピードはあったけれども、相手ゴールキーパーに弾かれてボールはゴールラインを割る。観客席からは大きなため息が漏れた。
コーナーには和美が立った。練習では、この場合和美はファーサイドに少し長い高めのボールをあげ、そこに走り込んできた由太がヘディングでボールを押し込んでいた。
知朗もそうなのだが、樹生もまだ成長途中で身長が高いとはいえない。由太もヘディングが得意というわけではないが、そうも言っていられない事態だ。
…司がいれば。
一瞬思ったことを、朔哉は慌てて否定した。
たらればの話をしている余裕はないんだ。
俺は今、自分ができる精一杯のことをしなければならない。
そう、司がいないんだったら、俺がその代わりをするしかないんだ。
和美がボールを蹴った。が、僅かにコントロールを失ったボールは、由太の待つファーサイドまで届かずに、ゴールの正面へと放物線を描いて落ちる。そこにいるのは、樹生だ。おそらくはこれは数少ないチャンスだ。
決められるのか？
樹生は、調子が悪いのか、何度も決定的チャンスを外している。
決められるのか？
その瞬間、朔哉の体が動いていた。相手ディフェンダーと競り合う樹生と重なるようにして、朔哉も飛び上がった。驚いた表情の樹生を押しのけるように、朔哉は落ちてきたボールをヘディングする。相手ディフェンダーもゴールキーパーも、気にかけていたのは樹生で、そういう意味では駆け込んできた朔哉はノーマークだった。
確かな感触があった。必死で伸ばしたゴールキーパーの手を掠めるようにして、ボールはゴールへと吸い込まれていく。
決まった。
朔哉は手を伸ばして、ガッツポーズを作りながら、グランドへと着地した。だがその耳に周囲の歓声が聞こえる前に、朔哉の右足に激痛が走った。
「っ」
慌ててカバーに入っていた相手ディフェンダーの着地の足が、朔哉の右足首の上に落ちたのだ。お互いがもつれ合うようにしてグランドに倒れ込む。
「朔哉っ」
俊平が自分の名前を叫ぶ声を聞きながら、朔哉は足を押さえたままグランドに寝転がった。