Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
春光6
「畜生っ」
そう言って、地面を蹴り上げる樹生の背中に、
「ごめん、新田君…」
と允彦が項垂れた様子で謝る。だが樹生はそれに答えることなく、更に頭を下げる允彦に、伊東がため息混じりに答えた。
「まあ、当然の結果だよ。俺たちはまだ一年なんだし」
悔しい気持ちを、そうだよな、と納得しようとする一年生の中で、あっけらかんと望が言う。
「けど、藤原先輩は、この時期にはもうレギュラーと一緒に練習してたらしいよ」
小さなため息が、伊東から零れる。
「…あの人は、特別だから」
そうしてまた、各々が手にしたトンボに寄りかかって、グランドにため息が積もる。
結局、石橋の登場によって、レギュラー対一年の紅白戦は終了した。
残り時間、五分。
試合終了を告げるホイッスルがならなかったので勝敗が決まったわけではなかったが、十対０の点差からしても、明らかにレギュラーチームの勝利だった。
試合の中断と同時に練習も終了ということになり、そのままの流れで、一年生はグランド整備をすることになった。
だが、久しぶりの試合に興奮しているのか、トンボを手にしたものの、誰一人としてついさっきまで走り回っていたグランドの荒れた土を均そうとはしなかった。
「よく頑張ったよ。みんな」
ふいに柔らかな声がして、慌てて伊東が姿勢を正す。
「沢木先輩っ」
「お疲れ様ですっっ」
「お疲れっすっ」
大合唱の中で、萌子は微笑みながらその表情をぐるりと見回す。
「疲れたのはみんなの方でしょう？」
くすくすと萌子が笑うと、望が嬉しそうに言う。
「あの、でも。
楽しかったです。すっごく」
そう、と萌子は微笑みながら答えた。
ふいに伊東が尋ねる。
「あの、大丈夫ですか？福山先輩は」
「いま、男同士の話し合いしてるみたいだけど。心配しなくても大丈夫よ」
萌子はそうやって再び微笑んだが、本当のところは不安だった。
グランドに怒鳴りながら現れた石橋は、そのまま朔哉を掴まえると、どこかに連れて行ってしまった。監督も、キャプテンもいなくなり、結局副キャプテンという立場の俊平が練習の終わりを告げ、部員たちも、そしてギャラリーもようやく動き出すことができた。
責任は自分が取ると朔哉が言って、紅白戦が始まったものの、伊東たちとしても、気が気ではなかった。
だが萌子に大丈夫と言われたことでいくらか安心したのか、一年の中には微笑む余裕を見せる者もいた。その無垢な笑顔に、萌子は思わず言う。
「去年の今頃だったかな。
私もね、皆と同じ気持ちだったのよ。
一年生はボールを蹴りたがってるのに、練習じゃ一切触らせない。
どうしてなのか、わからなかった。
だから、監督に聞いたの。どうしてボールを使った練習はしないんですかって」
そう話しながら、萌子はふっと思い出し微笑んだ。
『凪高のモットーは、サッカーを楽しむことですよね。だったらボールに触れてもいいんじゃないですか？』
一年の、しかもまだ正式に入部すらしていないマネージャーの卵の萌子に、柳田は黙っているよう怒鳴りつけた。
けれど、石橋は淡々と答えたのだ。
『確かにうちのモットーはサッカーを楽しむことだ。しかし―』
「しかし、今の一年には、ボールに対する飢えを知ってもらいたい。ボールに対する執着心だ。それはいずれ試合で役に立つ。
そう、監督は答えたの。
実際、そうだったんじゃないのかな。今日の紅白戦。
皆、必死でボールを追いかけてた」
一年経った今、石橋の言葉をもっと深く実感できる自分に、萌子は微笑む。
何度も頷く望に、目を見開いて納得した允彦。
だが、樹生は項垂れたままだった。
萌子はそんな樹生を視界の隅に捕らえながら、伊東に尋ねる。
「いいチームね。メンバー選んだのは、伊東君？」
「いえ、樹生です」
やっぱり、とどこかで思いながら萌子は自分に背を向けている樹生に言った。
「それにカウンター狙いの作戦、よかったわ。いい目してるのね、樹生君」
「けど、負けは負けだ」
「樹生君？」
聞き取れないほどの小さな声で樹生は答えると、萌子の声を無視してくるりと向き直ったものの、顔もあげないままに頭を下げた。
「…失礼します」
そうして手にしていたトンボを隣にいた望に手渡すと、樹生はずんずんとグランドの外に向って歩いていく。
「え？」
唖然としたのは萌子だけではなく、望たち他の一年もぽかんとしてその背中を見つめた。
単にグランド整備はしないということなのだろうか。
だが、それにしては、樹生の背中がいやに切ない。
まさか、と思う萌子に、その時声がかかった。
「あれ？萌子。樹生は？」
振り返ると、着替えを終えた成が、シャツのボタンも締め切れてないままにそう尋ねた。
その焦った様子と、久しぶりに名前を呼ばれたことに、萌子は戸惑いながら、樹生の消えた方向を指して答える。
「今さっき、失礼しますって歩いて行っちゃったんだけど…」
萌子が言葉を言い終わるかどうかというところで、
「わかったっ」
と成は叫ぶと、その方向に向って走り出す。胸騒ぎがして思わず萌子は叫んだ。
「どうしたの？成っ」
成は走りながらも、萌子の方に振り返って、大きく手を振った。
「大丈夫」
だから、何が？
樹生君のこと？
不安そうな萌子の目に、力強い成の笑顔が映り、萌子はそれ以上のことは聞けずに、ただグランドに立ち尽くしていた。
体育教官室には、朔哉と石橋以外は、誰もいなかった。
「すみませんでした」
そう謝ると、椅子に座った石橋はため息で答える。
「派手にやりすぎるな。
…まあ、お前のことだから、何か考えがあってやったんだろうが」
石橋はそう言って言葉を切る。
その先にある言葉は、発せられることなく、石橋は小さく答えた。
「早坂か」
あながちそれは間違いではなかった。
けれど、それだけじゃない。
顔を上げた朔哉の心を見透かしたように、石橋は続ける。
「それから試合を前にしてのチームの士気。一年の鬱憤。そんなあたりだろう」
全てお見通しって、ことか。
朔哉はあげた頭を再び下げた。
「…出過ぎたことをして、すみませんでした。
責任は、取ります」
次の試合の出場停止、あるいは練習量の増加。
どちらも当然で、受けるしかないと朔哉は思っていた。
そんな朔哉を見て、石橋はふぅと息をついた。
「まあ、いい。お前にそういう不安を覚えさせた俺の責任でもある」
驚いた朔哉が顔を上げると、石橋は浮かない表情のまま、朔哉に目を向けず、何かを考え込んでいるようだった。
「…監督？何かあったんですか？」
何かあったのかもしれない。しかも、あまりよくないこと。
朔哉はそんな直感からそう尋ねたが、石橋は小さく首を振るだけだった。
「いや。
…朔哉。この県予選が終わったら、フォーメーションを変更しようと思う」
話が変わり、思わず朔哉は姿勢を正した。
フォーメーションの変更は、時としてメンバーの変更を意味する。
誰かが入るということは、誰かが追い出されるということだ。
ゾーンディフェンスを組み込んだ今のチームも、朔哉は悪くないとは思っていたが、石橋が変えたいと思うのであれば、それに従うべきであったし、朔哉はキャプテンとして、新体制をまとめていく覚悟を決めようとしていた。
「大槻をＦＷに戻して、藤原をＭＦに下げる。
ゲームメイクは、藤原にやってもらう」
思わず朔哉は息を呑む。
もともと司は、FWの選手だった。派手で、目立ちたがりやな司にとって、FWは似合うポジションではあったし、今も攻撃的なMFではあった。
だから、それはそんなに驚くべきことではなった。
ただ、今のチームでゲームメイクをしていたのは、自分だった。
朔哉は思わず、あ、と小さな声をあげそうになる。
自分は何を？
押し出されるのが自分かもしれないという不安を、朔哉が覚えたところで、石橋は安心させるように言った。
「お前には、キャプテンというチーム全体をまとめる役目がある。
試合運びまで考えることもない」
そんなことはない、とこみ上げる気持ちを押さえ込んで、朔哉は答える。
「わかり、ました」
更衣室は二年生に占領されていた。
三年はすでに着替えを終えており、一年はまだグランド整備をしていた。
どこか消化不良の気分の悪さを感じるその中に萌子が入ると、着替え終わった篤志がちょうど口を開いたところだった。
「しっかし試合中まで、成さん成さんって。成も愛されてるよな」
「あいつってば、ホモなんじゃねぇの？」
ケンが答える。あいつとは、もちろん樹生のことだ。
気まずさとタイミングから樹生に話しかけられなかった成だが、やはり気になるようで慌てて着替えると、樹生たち一年のいるグランドへと走って行った姿に、思わず篤志が口を開いたのだ。
「違うよ」
からかいモードの二人に、湊が冷静に声をかけた。
「そういうんじゃなくて、樹生にとって、成は恩人で、目標だから」
「恩人？」
「目標？」
うん、と湊は頷いて、答えた。
成が樹生にとって中学の先輩と言うことは、湊も同じなのだ。
「樹生は、初めサッカー部じゃなくて、テニス部だったんだよ。
まあ運動神経はいいし、自信はそれなりにあったんだろうけど、どこも同じで上下関係が厳しくてさ。一年の頃はボール拾いばかりやらされて、それに反抗して、三年に苛められてたんだ。
それを、まあ、簡単に言えば成が助けた」
偶然、その場に居合わせたのが成だっただけといえばそうで、成としてはそれほどのことをしたという気ではいない。だが、そんな成だからこそ、樹生は成を慕うようになったのだ。
そう、まるで忠犬ハチ公のように。
「それで、成を慕った樹生はサッカー部に入ったんだ。
成さん、成さん、って何かあってもなくても、成の背中追いかけて。成と一緒に世界一のストライカーになるんだとかいったっけ。
凪高に決めたのも、成がいたからだって言ってたし、実際そうだと思う。
その成が突然、ディフェンダーに転向して、樹生も目標失って戸惑ってるんだ、きっと。だから、今回のこと。ちょっとだけ許してやってほしい、できれば、だけど」
頼むと目じりを下げて微笑む湊に、つられるように何人かが頷く。その中で、思い出したように篤志が言った。
「…アイツ、今？」
不安げな篤志につられるように厳巳も思わずごくりと唾を飲み込む。緊迫した中で萌子が答えた。
「成なら、さっき。樹生君を追いかけて行ったけど…」
けれど、そう。
その後のことまでは萌子も知らない。
追いかけたほうがよかったのかもしれないと少し後悔する萌子に、湊は余裕の笑みすら浮かべて答えた。
「大丈夫。成は、樹生の扱いは慣れてるし、きっと二人して元気に戻ってくる」
その頼れる笑顔に、篤志たちもほっと一安心する。
和らいだ空気の中で、由太がぽつりと呟いた。
「サッカー歴三年弱か。
そのわりにセンス、いいな」
早くからサッカーを始めれば、巧いということではないが、実際にレギュラーの選手たちの多くは、小学校からサッカーを始めている者ばかりだった。
「あれで意外と頑張り屋だから」
湊の言葉を受けて、和美が隣で着替えている知朗に声をかける。
「うかうかしてらんねーぞ、知朗」
「その言葉、てめぇに返してやる」
「何だとぉ？」
胸倉をつかみ合う二人に、思わず萌子は叫んだ。
「もう知朗も和美もっ、喧嘩しないのっ」