Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
春光3
「それじゃ、失礼しまーす」
篤志は明るくそう答えて、立ち尽くしている右京の背中を廊下に押し出し、保健室のドアを閉めた。
そうして、無防備な笑顔に戻ると、それを右京に向けた。
「やっぱり近くで見ても綺麗だなぁ。
これじゃ、ますます保健室のベッド争奪戦はすごいことになるよ。
授業サボりたい生徒に、紗依先生のファン、それに本当に具合が悪い生徒。
そんなわけだから、右京。
勝手にサボるの、禁止」
言われた右京は、小さくため息をつき、教室に向って歩き出す。待ってくれよ、とその背中を追いかけながら、篤志はふとこの状況を考えた。
どこか怪我して、保健室にいくよりも、保健室で寝てる右京を引き取りに、保健室に行くというのも、手かもしれない。
「やっぱり今の無し。
だけど、今までみたいにいかないと思うからさ、紗依先生がいいって言わないとなぁ」
作戦失敗かも。
小さくため息をついた篤志に、右京がほんの僅かに振り返って尋ねる。
「…さえ、先生？」
「そう。
右京は始業式サボったから知らないんだろうけど、貫田先生、転任したんだ。で、代わりにやってきたのが、今の田波紗依先生。
美人だよな、ほんっと」
だが、右京からの反応はない。ちらりと横目で右京を見ると、相変わらずの涼しげな人形のような顔がそこにあるだけだった。
「まあ、右京には興味ないか」
小さくそう呟く。が、それにも右京は反応することない。
サッカー部に入部して、約一年が経つ。けれど、右京の私生活は、相変わらず篤志には見えなかった。
見上げる横顔には、確かに他校の女子生徒が騒ぐのもわかる。けれど、本人は至って無反応。そんなところがクールだと、余計に騒がれるのを見て、ケンは嫉妬するようだが、篤志からすれば、右京は朔哉とは別の意味での憧れを抱かせる存在だった。
こうありたい、理想像である朔哉のような憧れとは、別の。
廊下の外に見えるグランドを見ていた右京が、ふいに口を開く。
「…日比野は、どうして？」
「俺？俺ね、保健委員だから。
授業中、具合が悪くなったら俺に言って。紗依先生のところまで、付き添うからさ」
グランドの端でランニングを始めたジャージ姿の男子生徒たちを見て、理香が呟いた。
「また、沢山集まってきたね」
新入生たちが、それぞれ希望の部活を選ぶ仮入部以前の見学期間だというのに、サッカー部には毎日五十人近くの希望者がやってきていた。
「選手権の影響で、もっと減るかと思ったけど」
確かに、優勝した年からすれば、希望者は半分に減っている。が、他の部活に比べれば、その数は圧倒的に多かった。
「マネージャー希望も沢山いるんだね」
美都はそう言って、グランドの隅に固まっている女子生徒たちに視線を投げる。他にも、グランドのセンターライン付近に立つ女子生徒もいて、それぞれが熱心にグランドの中を見つめていた。萌子は一年前のことを思い出しながら言う。
「マネージャーは、今年はとらないって監督言ってたわ」
それを聞くと、どこか安心したように理香が答える。
「まあそうだよね。なんてったって、あたしたちいるもん」
「ほんと、よかったぁ」
気の抜けた美都の声に、思わず萌子と理香が見返すと、美都は顔を赤らめて答えた。
「だって、かわいい一年生の子がマネージャーになったりしたら…不安じゃない？」
首をかしげる萌子の隣で、
「…たしかに、そう、かも」
と理香が頷いた。
何故か俯いて黙り込んだ二人に、萌子は明るく言った。
「二人とも、おしゃべりばかりじゃなくて、手も動かして」
はーい、と明るい声が返ってきて、萌子は安心すると、練習を見つめている女子生徒のところに、マネージャー不採用の話に行くべく、歩き出した。
シュート練習を終え、列に戻ろうとした由太を、一年生の新田樹生が捕まえる。
「高岡先輩。ランニング終わりました」
入部が決まるまでの一年生の管理は、二年代表の由太に任されていた。
由太は、足元に転がってきたボールを蹴り返しながら、淡々と答える。
「次は、ダッシュ。五十本」
途端に樹生の顔がしかめっ面になる。
「えー、また筋トレですか？
オレたち、四月になってから、全然ボールに触ってないんすけど」
樹生はスポーツ推薦でもあり、寮生でもあった為に、春休みの練習には、そのまま部員と変わらぬ練習をこなしていたのだ。
それがここ十日間あまり、全くと言っていいほどボールを使う練習がないことに、苛立ちを覚えていた。
それでも由太は冷静に淡々と答える。
「これも練習のひとつだ。
ダッシュが終わったら、腹筋と背筋各百回」
そういうと、グランドの中から由太はふいに名前を呼ばれた。どうやら、自分の順になっているらしい。走り出そうとした由太を、樹生は大声で引き止めた。
「あのっ。
オレたち、サッカー部に入ったんですけど。陸上部じゃなくて」
挑戦的な瞳に、周囲の部員が、またか、という視線を投げる。
春休みの練習からなので、かれこれ二週間近く共に練習をこなすようになって、樹生はすでに問題児の扱いになっていた。
原因は、この挑発的な態度だ。
樹生を一瞥し、由太もさらりと言い返す。
「正式には仮入部すらしてないがな」
部員以下といわれた気がした樹生は、鋭く由太を睨みつけると、舌打ちをして、踵を返し、やってきた方向とは別の方向に歩き出した。
「樹生？どうしたの？」
それにいち早く気づいた同じく一年の青山望が、樹生の名前を呼ぶ。だが、樹生はそれを無視して、グランドに向って大きく叫んだ。
「ったく、やってらんねぇよ」
樹生の問題児っぷりは、練習に参加した初日から発揮された。
その日は、校内での紅白戦で、樹生は見学をしていたのだが、試合開始の時になって、立ち上がるといきなり叫んだのだ。
「何で成さん、バックやってんの？」
戸惑ったのは成で、だが紅白戦はそのまま始められた。だがハーフタイムになると、水を飲む成の側に来て、再び言ったのだ。
「成さん、どうしたってゆうんですか。バックやるなんて」
興奮気味の樹生と異なり、成はいたって普通に答える。
「お前に言ってなかったっけ？俺、ディフェンダーにコンバートしたんだ。入ってわりとすぐに」
「じゃ、どうするんですか？オレに別の人と組めっつーんですか？三中のゴールデンコンビは？」
「…ごめんな、樹生」
小さく成がそう答えるが、樹生はそんな成の声を掻き消すように言う。
「駄目ですよ、成さんみたいな人は、フォワードやって、点取るべきですって。ディフェンダーなんてそんな地味なポジション、駄目だってば」
「地味か？そんなことないと思うけど」
「絶対フォワードの方がいいってば！でもって、オレと一緒にトップに立ちましょうよっ。
三中のゴールデンコンビ、復活しましょうっ」
だがその時、ハーフタイムの終了を告げる笛が鳴った。
成は立ち上がり、そっと樹生の肩を叩いた。
「ごめんな、樹生」
樹生は何か言いかけたが、駆け出した成の背中を見て、諦めたようにその場にどかっと座り込んだ。
紅白試合も後半に入り、ようやく大人しくなったかと思った樹生だったが、その後更に問題発言を繰り返したのだ。
グランドでは、赤組である知朗がシュートを打とうとして、白組のケンに阻まれていた。
「チェッ」
「ハッハッハ。オレの勝ち〜」
悔しそうな知朗に、ケンが偉そうに胸を張っていたとき、その声は突然グランドに響いた。
「違うんじゃね？」
二人が声のするほうに振り返ると、そこには樹生が腕組みをして立っていた。
「何ぃ？」
当然そう言って怒鳴ったのはケンだ。
だが、樹生は睨みつけるケンから、ふんっと顔を背けると、
「今のはパスするタイミングが悪かったから。
でもってシュートする方もボールの中心を捕らえてなかった。
オレと成さんだったら、今の絶対決めてる」
腹を立てたのは、ケンだけではなく、知朗にパスをした和美と、シュートをした知朗だ。
「おいっ、お前ふざけんなよっ」
そう言って和美が樹生の胸倉を掴みかけたところで、湊たちが間に入り、事なきを得たのだった。
目の前に人影が立ち、樹生が足を止め顔をあげる。
「どうした、新田」
朔哉が平然とした様子で立っていた。
樹生はジャージのポケットに手を突っ込むと、ぷいっと横を向いて答えた。
「オレは成さんとサッカーやるために、凪高に来たんだ。
なのに、成さんはディフェンダーだし、
オレは、ひたすら筋トレ。
オレより下手な先輩とか山のようにいるのに、こういうのっておかしくないすか」
視界の中に、慌てた様子で走ってくる同じく一年の伊東が見えた。伊東は、中等部上がりの所謂内部生だ。
中等部のときは、たまに練習試合もしてくれていたと愚痴をこぼした一人でもある。
凪高のサッカーは楽しい、なんて嘘だ。
樹生の中で何かが切れて、そのまま顔を上げて朔哉に向き直ると、心配そうな朔哉に樹生は吐き出すように言った。
「っつーか、こんなチームじゃ勝てないっしょ。
選手権なんて」
「樹生っ―」
伊東が樹生を掴み、何かを言おうとしたところで、目の前にいた朔哉が呟いた。
「試してみるか？」
「え？」
「レギュラーと、一年とで、紅白戦をしよう」
「えっ」
戸惑う樹生たちの前で、朔哉は笑みさえ浮かべて話を続ける。
「時間は…そうだな。十五分ハーフ。決着がつかなかったら、お前たちの勝ち。
勝った場合は、俺が監督に交渉して、お前たちがボールが蹴れるようにする」
朔哉と同じく樹生に話しかけようとしていた萌子は慌てた。
今、このグランドには部員しかいないにしても、勝手なことをすれば、何かお咎めを受けるかもしれない。
「朔哉さ―」
ちょっと待って、そういう前に、樹生が満面の笑みで答える。
「やってやろうじゃんっ」
紅白試合まで、もらった時間は十分しかなかった。
戸惑っている一年の群れの中に戻った樹生に、まずは伊東が激しく言った。
「新田っ、お前、なに福山さんに喧嘩売ってんだよ」
樹生はそんな伊東を無視して、値踏みするように一年の顔を見回した。
どいつも、こいつも。
顔、伏せるんじゃねぇよっ。
無視されたことに腹をたてたのか、伊東は再び新田の肩を掴み、自分の方に向かせて言った。
「わかってんのか？あの、福山朔哉先輩だぞ。
今なら謝れば許してくれるからさ、な。俺も一緒に謝ってやるから」
「何言ってんだよ、いい機会だぜ。オレたちの力を見せつけてやるのに。
時間ないし、メンバー決めようぜ。
ちょうどいいから伊東、お前キャプテンな」
「あのな、新田―」
樹生はニヤリと笑うと、肩に置かれた伊東の手を外し、望を指差した。
「あと、望っ、お前も。クラスメートのよしみで」
「え？僕？」
「それから、植松と岡本。スポーツ推薦のヤツは決まりだからな。
あと、中学が県大会でベスト十六以内だったヤツ、いる？」
だが、誰一人として、樹生と目を合わせる生徒はいなかった。
「なんだよ。オレらの代って、こんなにしょぼいわけ？」
樹生がそう呟くと、一人の生徒が立ち上がった。
「あの…オレ、大塚中だから、一応ベストエイトまでなら…」
中肉中背ってとこか。
樹生は値踏みをする。
大塚中なら、そこそこ強いし。
けど、こんなヤツいたっけ？
「おう、名前は？」
「松本。松本、允彦」
力なく微笑むと、八重歯が見えた。
「よしっ、まっつん。ポジションは？」
「一応ディフェンダーだけど、でも、あの―」
何かを言いかける松本の声を遮って、樹生は声をあげる。
「よしこれで、六人。あと五人っ」
グランドの隅で固まっている一年生を横目に、グランドの中央ではＡチームの選手が朔哉を囲むようにして集まっていた。
「紅白戦って、マジ？」
「監督もコーチもいないけど、勝手にやったらまずいんじゃねぇの？」
その中で、朔哉は声を張り上げて答える。
「責任は俺が取るから。
みんなだって、やりたいんだろう。紅白戦。
ここのところ、セットプレーばかりだったから」
それを聞いて、一部の選手の目がキラキラと輝く。
確かにこのところは、試合が近づいているというのに、戦術やセットプレーの練習はあるものの、試合形式の練習はなかった。
その証拠に、というように、ケンが胸の前で手を組み合わせて、鼻息荒く言う。
「あいつら生意気だし、ここでぎゃふんといわせてやらないとっ」
「去年のお前だって、新田と同じようなもんだったぞ」
俊平に言われ、思わずケンの頬が引きつる。
また何かが始まる前に、と朔哉は声をあげて、集まった選手に言う。
「レギュラーはこの前のスタメンのメンバー。１５分ハーフだから、入れ替えは基本的にしない」
チェッとケンが小さく舌打ちした。ケンは、この前の試合ではスタメンではなく、途中出場だったのだ。
端のほうで聞いていた司が、大きく伸びをする。
「じゃ、ここらで一発派手にかますとしますか」
だが、朔哉は小さく首を振った。
「そんなことはしなくていい、司。
俺たちは、いつも通りの凪高のサッカーをする。
それで十分だ」