Maybe Blue 第二部 凪より愛をこめて
春光1
まだ春というには早い、冷たい海からの風が、サラサラと朔哉の髪を揺らしていた。濃紺のダッフルコートの下の制服とも、今日でお別れだった。おそらく式が終われば、ボタンも、校章もないだろう。
いつものこの場所に立つのも、おそらく今日が最後だ。
感傷に浸らぬようにと、大きく息を吸い込んで、朔哉はそっと胸に手をあてると、ポケットから一通の封筒を取り出す。
薄いブルーの封筒。
宛名は、萌子へ、と書かれている。
空にかざすと、光が中に入れた便箋の文字を浮き立たせた。
一瞬、破り捨てようかという思いに駆られ、朔哉は封筒を持つ手に力を入れる。
簡単だ。
左右の手を、違う方向に引けば。
簡単に、捨てられる。
その瞬間、この一年の想いが朔哉の中を駆け抜けていき、朔哉はそっと左手を下す。
ふと、後ろから声がした。
「おい、朔哉っ」
俊平だ。立ち上がり、振り返ると、半ば呆れたような表情の俊平が、朔哉を見つけて声をあげる。
「式、始まるぞっ」
「ああ」
柵を乗り越えようとしたところで、ふいに俊平が、写真を取るように手でフレームをつくる。
「なんだよ」
「いやぁ、写真でも撮っときゃ、高く売れそうだなと思ってさ」
黄金に輝く海原を、まるで後光のように背に置く朔哉に、俊平は冗談だよと笑いかけた。ふいに俊平が、朔哉の持っている封筒に気づいて、顔をにやつかせた。
「何だよ、ラブレターかよ」
「ああ」
朔哉は素直にそう答える。
「まったく、お前ってヤツは」
俊平は、朔哉宛のラブレターだと勘違いしたようだが、自分の答えは間違っていないと朔哉は否定もせずにいた。
少し先を歩く俊平の後姿を見ながら、朔哉はその背中に話しかけた。
「俺さ、お前に話したいことあったんだ」
「何？」
俊平が足を止め、振り返る。
この話したら、こいつはどう思うんだろう。
賛成？それとも反対？
一段と強い風が海から吹き込んできて、朔哉の髪が、頬をくすぐる。
何かを隠すということは、まるで見えない闇を背負っているように、重く、辛い。だが、誰かにそれを話せば、その荷は話した分だけ軽くなる。
けれど、朔哉には、この闇の先にある光を感じることが出きていた。
そう、サッカーも、勉強も、人生も。
耐え忍び、辛い努力の先には、明るい未来があるのだから。
俺は、信じている。
この一年を、
自分を、
そして、萌子を。
ふいに、その想いが、凪浜の想い出と共に過る。
信じてるから。
※
高校における重要なイベントのひとつが、クラス替えだと理香は思っている。
「だって、二年のクラスだよ？三年なんて、結局皆受験勉強で忙しくて、学校どころじゃないもん。だから、修学旅行だって二年で行くじゃない。
この一年は、めいいっぱい思い出作りするんだから、その為に最高のクラスメートじゃないとつまらない思い出しかなくなっちゃうんだよ」
理香はそう言って、口を尖らせる。
昨日も同じようにそう言って、監督に始業式の朝練を無くすよう直談判までしたのだ。
「だって、重要でしょう？クラス替え。練習してる場合じゃないのよ」
だが、朝練は行われ、それでもいつもより少し早くに終わることができた。
ミーティングルームで、慌てて着替えながら理香はそう言って、鏡を見ながら髪の毛を整えている。そんな理香を見つめながら、萌子はくすりと笑う。
「理香にとっては、誰と一緒か、じゃなくて、篤志と一緒か、が問題なんでしょう。
それに、そんなに慌てなくても、もう結果は出てるんだから。ねぇ、美都」
そう言って理香の反対側で着替える美都を見ると、美都も着替えをもう終え、まるで祈るように両手を組んで目を瞑っている。
「…どうか、和美くんと、一緒になれますように」
ぽかんと口を開けてしまった萌子に、理香がふふんと言った。
「ほらね。
恋する女の子は必死なのよ。
萌子と朔哉さんみたいに、クラス替えも関係なくて、ラブラブな二人にはどうでもいいことかもしれないけど」
「もう理香！」
伸びてきた萌子の手から逃れると、理香は鞄を取って二人に言う。
「ほら行くよ、美都っ、萌子もっ」
美都は小さく頷くと、軽くガッツポーズをして鞄を手に取る。残されたのは萌子だけだ。
「待ってってば。理香」
何とかブレザーのボタンをとめたところで、理香が勢い良くドアをあけると、ドアの前には驚いた表情の朔哉が突っ立っている。
「朔哉さん…」
微かに顔を赤らめた朔哉が萌子に向かって手を上げると、その脇を理香が朔哉に何かを手渡しつつ、美都と一緒にすり抜けていった。
「お先に失礼しまぁーすっ」
まったく、と萌子は小さなため息をつくと、朔哉が手に残された部室の鍵を、萌子に振って見せた。
冬が終わりを告げ、春が来ても、朔哉は毎朝、萌子を迎えにやってきた。
マネージャーは通常よりも早く学校に来なければならない。加えて、萌子の家は、通学路の途中にあるわけではないので、朔哉にとっては負担になると思い、萌子は一度断ったことがある。
「もう、大丈夫だから。朝、迎えにこなくても」
「俺が一緒にいたいと思うんだからいいんだよ。
二人だけでいられる時間も、そうあるわけじゃないし」
実際、同じ部活とはいえ、二人きりになれる時間というのは、結局のところ学校と家の間だけだった。その他は、授業だったり、練習だったりと、忙しい。そして、サッカー部にあった週に一度の休みの日も、部員たちの意志で練習が行われることになっていた。
その練習量に比例してか、凪高は関東大会の為の県予選も、常に２点以上得点をし、かつ相手チームは０点に押えるという試合をし、順調に勝ち続けていた。
戦術を変えたのが功を奏しているのか、去年とは何かが違うことを、萌子自身ベンチで感じていた。
部室のドアにも鍵をかけ、それを体育教官室に戻すと、萌子は朔哉と一緒に、クラス発表が貼られている昇降口に向かった。
「何か騒がしかったけど」
「理香がね」
そう言って萌子はため息をつくと、朔哉が笑って答えた。
「クラス替え、楽しみみたいだな」
「篤志と一緒にいたいだけよ」
萌子はそうしてかれこれ十年以上の付き合いになるという理香と篤志のことを思った。
おそらく、一緒にいる時間だけでいえば、篤志にとっては姉の環よりも理香の方が長いのではないだろうか。
昇降口付近に来ると、沢山の人だかりが出来ていて、その中で、歓声も上がれば、残念そうな表情で校舎に入っていく生徒もいる。
「でも私は。あまり関係ないかも、クラス替え」
萌子がそう言って隣の朔哉を見つめると、朔哉は掲示板を見つめながら小首を傾げる。
「俺はそうでもないかな。せめて南棟の離れ小島は避けたいし、できれば」
「できれば？」
「できるだけ、近くがいいかと」
「近く？」
「そう。萌子の近く」
ゆっくりと、朔哉が萌子の方に向き直った時、二人の前方から大きな声があがった。
「いたーっ、萌子っ」
理香は興奮して、萌子の手を掴むと、歓声をあげて跳ね回っている。
「理香、どうしたの？」
「一緒のクラスよ、あたしたちっ、美都と三人で、一組っ」
「ほんと？」
萌子の問いに、遅れてやってきた美都も、大きく頷いた。
「やったねっ」
抱き合う三人を横で見ていた朔哉にも、後ろから声がかかる。
「朔哉クン」
振り返れば司が立っていた。
「司、何だよその言い方」
すると逃げ腰の朔哉の手を掴まえて、司がわざとらしく甲高い声をあげる。
「一緒のクラスよ、アタシタチッ、俊平と三人でっ、四組っ」
「気持ち悪いから、やめろよ。司」
「やっぱり？」
ようやく司の手が離れた朔哉は、あたりを見回して、
「で、その俊平は？」
と尋ねた。性格からして、こういうことに几帳面なのはどう考えても俊平だ。
「男前な彼女のとこ。なんかさ、うちのクラスしけた女ばっか」
「そんなことないだろ」
「クソ一途な誰かさんにはクラス替えなんて関係ないことかもしんねぇけどな」
嫌味ったらしく司はそういうと、少し前で理香たちとまだ喜んでいる萌子を一瞥してそういう。思わず朔哉も言い返す。
「凪高の女子全員、知り尽くしてるお前にだって、関係ないだろ」
だが司はそんな朔哉を無視して呟いた。
「あーあ、どっかにいい女、いねぇかなぁ」
本人の宣告通り、この春休みの遠征先でも、司は俊平と一緒にナンパをしていたようだ。
「司」
「んあ？」
「お前もいい加減、落ち着けよ」
すると司が目を据えて、朔哉を睨みつける。
「コイツ、世界で一番幸せだって顔しやがって」
ハハハッと朔哉が笑っていると、萌子が理香たちと一緒に戻ってきて言った。
「朔哉さん。それじゃ、後で」
「ああ」
「おい沢木。俺には何も無しかよ」
「凪高の女の子も、まだまだ素敵な子たくさんいますよ」
「何だよ、聞いてたのかよ」
舌打ちする司を無視して、理香が朔哉に向って力説する。
「安心してください。萌子に変な虫がつかないようにちゃんと監視してますからね」