Maybe Blue 第一部 海の鼓動
秋想3
「萌子」
ふいにそう声をかけられて、萌子は慌てて手元の蛇口を締める。バケツからは、水が溢れ出していて、その中で雑巾がゆらゆらと泳いでいた。
「どうかした？」
バケツの水を捨てて、雑巾を絞っていると、心配そうに理香に顔をのぞきこまれた。
「え？」
「何か、ぼんやーりしてるし」
おまけにいうと、溜息もついてるし、
返事も生返事だし。
そう思ったが理香はあえて言わずにおく。
昨日の試合の内容が内容だっただけにか、サッカー部に漂う雰囲気は、決して気持ちのいいものではない。
焦りを感じて空回りしている部員もいれば、悲観視してやる気を見せない部員もいる。
理香のように、勝ったもん勝ちと考える人間は、どちらかと言えば少ない方だ。
萌子は悲観視してるから、元気ないの？
理香はそう思って、じっとその横顔を見つめるが、萌子はその視線に気づかないのか、ひたすら雑巾を絞り続けている。
「昨日の事故？やっぱり怖かった？」
試合途中の事故には、観客席にいた理香たちも驚かされたものの、成の素早い行動でもって、大きな事故にならずに済んだと安心していたが、理香にはわからない何かが萌子にはあったのかもしれない。
理香はそう感じて聞いてみたものの、萌子は俯きながらも笑顔で答えるだけであった。
「ううん、なんでもないよ」
「でも―」
元気ないよ。
そう言おうとしたところで、グランドから相変わらずの怒鳴り声が響く。
「こらっ小池っ。さぼるなっ」
ヤギさんは、焦ってるタイプだ。
焦ってる、そんな自分が不甲斐なくて、イライラしてる。
理香はそう思いながら、小さく舌打ちをすると、それじゃ行くね、と萌子に告げた。
いつもなら、試合の翌日の練習は軽くなるのだが、誰もがこのままでは選手権に出場できないかもしれないという危機感からか、何時にもまして厳しい練習となっていた。
だが、実際の選手たちの表情にもプレーにも、焦りと疲れしか見えず、石橋は佐藤コーチに今やっているセットプレーの練習が終わったら、練習そのものを終わりにするよう告げると、グランドを出て行った。
焦っているのは、選手だけではないのだ。
手首を捻挫しただけとはいえ、結局、成は通常の練習には参加できずに、グランドの片隅で一人ドリブルをしていた。
ボールを追いかけたその先に、一人ひそやかにグランドを去っていく石橋に気づき、その背中を見つめていると、後ろから理香に声をかけられた。
「何、ぼーっとしてるの？成くん」
「え？」
「そんなに練習したくないなら、頼みたいことがあるんだけどなぁ」
「あ？あぁ」
石橋の背中が、少しばかり力をなくしていたような気がしたとは言えず、成はとりあえず去り行く石橋の数メートル隣で、目に付いたものを説明した。
「ほら、中等部の子が練習見てるなって思ってさ」
金網に手を伸ばして、中を見つめている三人の女生徒は、確かに中等部の制服だった。
そういえば、昨日の事故の旗も、中等部の子が作ってきたものだったという話を、成は昨日篤志から聞いた。
成が指差した隣で、その方向を見て理香は突然大声を張り上げる。
「亜紀ちゃん」
理香そのままフェンス脇の亜紀に向かって大きく手を振る。
「後輩？」
「由太の彼女。亜紀ちゃんっていうの。
由太チャンは、あれでもきちーんと彼女作ってんだからね」
最後のほうは、だから成も頑張れと言わんばかりの勢いで言われて、成は思わず俯いた。そうとは知らない理香は、そのままフェンス越しに、
「由太なら、あと少ししたら練習が終わって、グランドからあがると思うよ」
と亜紀に答える。
だが亜紀は、小さく首を振った。
「いえ、今日は高岡さんじゃなくて、萌子さんに用事があって」
「萌子？」
一瞬だけ理香の視線がグランドを追いかけたが、すぐに成のところで止まる。
ってことは、つまり。
「あ。俺。呼んでくるよ」
成はそう答えると、萌子がいるはずの部室に向かって、走り出した。
セットプレーの練習は、実際の試合を想定して、行われていた。
ペナルティーエリアの外からフリーキックが与えられたという設定で、壁として人を立たせ、紅白のランニングを着た選手たちが、右京が蹴るボールを今か今かと待ち望んでいる。
朔哉もそうして競り合いながら、そのボールを待っていた。
壁を避けるようにして、右京がゴール前にボールを出し、太田が囮となって、敵をひきつけて、その裏を朔哉がつく、という作戦だ。
「俺、思うんだけどさ」
ふいにグランドの外で、中の練習を見ている一年生の声が、朔哉の耳に届いてきた。
「あのくらいの距離だったらさ、藤原なら自力で入れそうじゃねぇか？」
「確かになぁ。なんか藤原ってば、やっぱすげーから、何かやらかしてくれそうだもんな」
その瞬間、朔哉の目の前をボールがすり抜けていき、途端に柳田の怒鳴り声がグランド中に響いた。
「朔哉っ」
ふぅという小さな溜息が、コートの外からも聞こえてくる。
柳田の焦りは、自分への苛立ちを越え、ついに他の選手たちへと波及していた。
「何ぼーっとしてるんだっ。
試合はまだ今週末もあるんだぞっ。
お前が、しっかりしなくてどうするんだっ。気合入れろ、気合っ」
隣で、まあまあというようについには小山が宥め始める。
そもそも、柳田にあまり朔哉は怒鳴られたこともないためか、他の選手までもが集中力も切れ、疲れ果てた表情で、二人を見つめていた。
「お前の気持ちはわかるけどさ、昨日も試合だったわけだし、皆も疲れてるんだよ」
グランドの外では、コーチの佐藤が同じくグランドを囲むようにしていた一年生たちに、片づけをするようにすでに命じ始めていた。
だが、そんな雰囲気を察知してか、柳田は更に声を張り上げる。
「疲れてるから練習を軽くやってもいいだと？
そんな気持ちだから、昨日のような試合になるんだっ。
決勝の相手の諏訪高は、インターハイの雪辱を果たす為に、おそらくうちを研究してくるだろう。インターハイじゃない。選手権での神奈川の代表は、一校だけなんだっ。
次に負ければ、俺たちに選手権はな―」
「柳田さん」
話の途中で呼びかけられた柳田は、怒りの形相のままに、呼んだ朔哉の方を振り返った。
「何だっ？」
「俺、今日はもう上がっていいですか？」
「へ？」
あまりにも淡々と言われたせいか、柳田が答えられずにいると、
「すみません」
と一礼をし、朔哉はすっとグランドの外に向かって歩き出す。
「おいっ、朔哉っ」
笠間も、そんな朔哉を止めようとはしたが、朔哉は全てを無視して、グランドを出て行った。
思ったとおり、萌子は部室にいた。
成は、少しばかり高鳴る胸を押さえて、ドアをノックする。
「萌子」
段ボールの荷物を机の上に並べて整理をしているのか、萌子は名前を呼ばれると、顔を上げ、
「どうしたの？」
と言った。
「由太の彼女が、来てるよ」
「亜紀ちゃんひとり？」
僅かだが、萌子の表情が曇ったように思えたが、成にはそのわけがわからずに、首を傾げて答える。
「いや、他にも人中等部の女の子が来てた」
すると、成の方を向いていた萌子が、くるりと背を向けた。
「今、手が離せないって伝えてくれる？」
そうして、今出していた荷物を、今度は段ボールに詰め込み始める。
「いいよ。こっちは俺がやるし」
見たところ、難しい作業をしているようにも思えない。
成は気軽に答えたつもりだった。だが、萌子は頑なだった。
「成は怪我人じゃないの。いいの、私がやるから」
そうして段ボールを持つと、隣のミーティングルームへと逃げるように移動する。
やっぱり、何かがおかしい。
成はそう確信して、萌子を追いかけて、ミーティングルームへと入った。一度閉まったドアが開いた為か、萌子は驚いた表情で成を見つめた。
成はまだ力の入りきらない左手を握りしめて言う。
「あのさ、この怪我。
別に萌子のせいじゃないから。
俺が、へまして怪我しただけ。
もっと気づくの早かったら、捻挫しないで、萌子のこと助けられただろうし」
それは成がずっと思っていたことだった。
もしこの怪我を、自分のせいだなんて思っていて、それで反省してるんであれば、それは違うから。
姫を、萌子を守るのは、いつだって、王子の、自分の役目なのだから。
そう思う成の前で、萌子は首を横に振る。
「そんなことないよ。だってあの時成が助けてくれなかったら、わたし―」
「けど、萌子が元気がないのは、そういうことなんだろう？」
萌子が黙り込み、成は声を荒げてしまったことを反省した。
ごめん、と言おうとしたところで、萌子がぽつりと言う。
「…あの旗」
「え？」
「落ちてきた旗、作ったの中等部の子たちなんだって。
亜紀ちゃんの、友達の」
その大きな旗は、成もよく覚えていた。
個人選手の名前が書かれてあるような、いわゆるアイドル的扱いの小さな横断幕があったりするなかで、その旗は、『凪浜高校サッカー部、目指せ選手権連覇』とまっとうなことが書かれてあったこともあるし、文字の大きさがまちまちだったりして手作りだというのが、手に取るようにわかったということもある。
亜紀の友達、と聞いた成は、隣に立っていた三人の女子生徒のことを思い出す。
「ああ」
萌子は小さな溜息と共に、答える。
「彼女たち、病院で成のこと待ってるとき、わざわざ来てくれたの」
診察を受けている成を廊下で待っていた萌子に声をかけたのは、亜紀だった。
「ごめんなさい」
亜紀がそう謝ると、隣にいた二人も深く頭を下げた。彼女たちは初めから今にも泣き出しそうな顔をしていた。
自分たちの不注意から事故が起きたことを反省した彼女たちは、試合が終わったサッカー部を待ち伏せして、萌子たちに謝ろうとしていたものの、逆に病院に行ったことを聞かされて、萌子と知り合いでもある亜紀を連れて、慌てて追いかけてきたのだという。
不安そうな二人に、萌子は優しく微笑みかけた。
「大丈夫だから。わたしも怪我してないし、彼は怪我してしまったけど、手首を捻ったくらいで大怪我じゃない。そんなに心配することないわ」
「でも」
彼女の視線の先には、僅かにすりむいたせいで赤くなった萌子の手があった。
萌子は安心させるように、ゆっくりと微笑んだ。
「本当に大丈夫。このくらい、選手だったら一試合終わったら、できる傷だし、痛くもないわ。それよりも、わざわざ応援に来てくれたことの方が嬉しいもの。ありがとう」
萌子も、落ちてきた旗には見覚えがあったのだ。
応援席で、一際輝いていた旗だったのだから。
萌子の笑顔を見て安心したのか、二人の顔もようやく緩み、笑顔になると、二人は興奮したかのように廊下に響くほどの大きな声で、勢いよく頭を下げた。
「こちらこそっ、ありがとうございますっ」
「こんな風になっちゃったけど、すごくお話できて嬉しいです」
「水絵も来ればよかったのに」
「ミズエ？」
首をかしげる萌子に、亜紀が説明をする。
「もう一人、いるんです。あの旗を作った子が」
そう、と頷く萌子に、彼女たちは矢継ぎ早に話しかける。
「今日は、風邪で休んでるんですけど、きっと今日のこと聞いたらびっくりすると思う」
「絶対、いいなぁって言って、あたしたちのこと恨むよね」
「あの、あたしたちっ。憧れてるんです、沢木さんのこと」
「え？」
話の展開がわからず、突然出てきた自分の話に、萌子は初めついていけなかった。
だが、目の前の二人は、そんな萌子にはお構いなしに話を進めていく。
「いつも元気で、優しくて、気がよく利いて、美人だし、でもそれを鼻にかけてないし。
あたしたち、沢木さんみたいになりたいって思ってるんです」
「頑張ってください。応援してますっ」
その後、差し出された手につられるようにして、萌子も手を出すと、力強く握り返され、二人は亜紀と共に、病院を去っていった。
残された萌子は、その場の空気に呑まれるのが怖くなり、成を待つことをやめて自然と中庭に足を向けていた。
「で、萌子に何用？」
理香は亜紀たちを前に、そう尋ねる。亜紀は、隣を気にしながら答える。
「彼女達が謝りたいそうなんです。
昨日の事故の旗は、彼女たちが作ったものだから」
隣の三人は、首をすくめるようにして、すみませんと小さく謝った。
理香はそんな姿を見て、明るい声を上げる。
「大丈夫よ。
別に萌子、怒ってなんかないし」
「でも…」
それでもまた眉をひそめて、浮かない顔の中学生たちに、理香はきっぱりと言う。
「あたしが萌子なら、きっとこう思う。
謝る気持ちを、応援する気持ちに変えて、今週末また応援に来てねって」
にっこりと微笑むと、中学生たちの表情もいくらか和らいだ。それで理香もやっと安心できた。
「萌子にはあたしから話しておくから」
「はい」
「すみませんでした」
三人はそれぞれに理香に頭を下げる。
理香も自分が先輩らしく振舞えたことで納得したが、ふいにその三人と一緒に帰ろうとしている亜紀に気づいて声をかける。
「あれ？亜紀ちゃん。いいの？」
由太と話さなくても？
そう言った理香に、亜紀は微笑んで頷いた。
「はい。今は選手権のことで頭がいっぱいみたいだから」
「まったく、由太チャンもいい彼女を持ったわよねぇ」
ちょっと大人ぶりすぎた理香の言葉に、亜紀がくすくすと笑ったところで、二人の脇をひとつの影が、風のように通り抜けた。
「あ、朔哉先輩？」
ジャージの名前からしても、後姿からしても、それはやっぱり朔哉の姿で、思わずさっきの中学生からも小さな悲鳴が起きる。
だが、練習は途中で、しかもいつでも誰にでも無視することのない朔哉が、自分を無視したことに、理香は驚いて更に声を上げる。
「朔哉先輩っ？」
だが、追いかけようとしたところで、ふいに肩を掴まれた。
「小池っ。放っておけ」
俊平だった。振り向けば、グランド中の視線が、今通り過ぎた朔哉の背中に集まっている。だが、朔哉はそれでも振り返ることなくグランドから出て行く。
「え？でも、細谷先輩。練習途中なんじゃ…」
「いいからっ」
無理やりにそういわれ、理香は仕方なく、グランドへと戻ることにした。
夕焼けが萌子の顔を赤く染めていた。伏目がちなまつげが、その頬に濃い影を作っていた。
「私は―。私は、いつも元気なわけじゃない。
優しいわけじゃない。
気が利くわけじゃない。
美人でもない。
私は…」
一気にそう言った萌子は、そこで一呼吸すると、囁くようにぽつりと言った。
「私だって、なりたかったの」
成は、思わず息をのみ、それから乾いた喉に、声を詰まらせながら答えた。
「…誰、に？」
遠くで、ホイッスルの音や、誰かの怒鳴り声が聞こえていた。バタン、と部室のドアが閉まる音も聞こえたが、成はすべてを無視して、ただ萌子の話だけに意識を集中していた。
そうして、萌子は口を再び開いた。
「…中学校で、転校した時、すごく優しくしてくれる子がいたの。
いつも元気で、優しくて、気がよく利いて。
吹奏楽部で、目をきらきらさせて、いつも誰かを心から応援してた。
私はただ―」
萌子はそこで、いったん深い吐息をついて、そして押し殺した声で言った。
「彼女に、なりたかった」
それは、初めて萌子が口にした言葉だった。
本人にも、
その恋人であり、萌子と両想いであった枡田にも、
ついには言うことができなかった気持ち。
だって。
萌子は心の中で思う。
彩に憧れていたから、枡田くんのこと好きになったのかもしれない。
でも、そんなこと、彩にも、枡田くんにも言えなかった。
二人の仲を壊したのは、他ならぬそんな幼稚な気持ちから、枡田を好きになった自分のせいだからだ。
目標があって、きらきらしている彩に、とても憧れていた。
彩になりたい。
いつだってそう思ってた。
目標がなくなっていた私にとって、彩こそが目標だったのかもしれなかった。
でも結局、傷つけることしかできなくて。
そうして私は、別の目標を、夢を見つけたのだ。
凪浜高校という、憧れを。
萌子はそのまま声を押し殺して話し続けた。
「いつも思ってた。
凪浜に来てから。
マネージャーになってから。
彼女だったら、どうしてたんだろう。
どう答えてたんだろう。
何をしてたんだろうって。
私は、彼女になったつもりで、マネージャーをしていたの。
あの子達が見てるのは、だから私じゃない。
あの子達が憧れてるのは、私じゃないの」
自分の目の前で、背中を震わせている萌子を、ただじっと成は見つめていた。
例えば、抱きしめて、そんなことないよ、というのは、簡単なことかもしれなかった。
だが成にそんなことができるはずもなく、また仮にそうしたところで、萌子は救われないという気が、成にはしていた。
成も、萌子の過去に何があったか、きちんと聞いたわけではない。
だが、小さい頃の夢が、怪我で挫折をしたことや、両親の仲があまりよくなかった話は少しだけ聞いたことがある。
それに、今話していた友達のことも、辛そうに話すということは、今連絡を取り合うような関係じゃないことが、何となくだが成にも感じ取れていた。
そういう過去のある萌子に、そんなことない、大丈夫だなんて言葉、かけられるわけない。
成は、ぐっと右手に力を入れる。
「俺。この前言われたんだ。横田さんに。
目の前にあるものだけ、信じろって」
僅かだが、萌子の肩の震えが止まったように見えた。
「だから、俺は目の前で今まで見てきた萌子を信じることにする」
力強く成がそういうと、ゆっくりと、萌子が振り返る。
その表情は、確かにいつもとは違って、とても不安そうで、今にも折れてしまいそうだったけれど、それでも確かに萌子だと、成は感じて、語気を強めた。
「目の前の萌子は、元気で、優しくて、よく気が利いて。
時々無理もしてたけど、でも一生懸命だった。それは、誰よりも俺が見てたから」
いつだって、見てたから。
それだけは、自信を持って言えるから。
夕焼けをバックにした萌子の表情は、成にはっきりとは見えなかったけれど、その口からは、小さいながらも、凛とした言葉が聞こえてきた。
「ありがとう」
成は精一杯の笑顔を見せる。
何となく、萌子も笑ってくれているような気がした。
「練習、そろそろ終わるだろう。戻らないと」
成がそう答えると、いつもの萌子の声が聞こえてきた。
「うん」