Maybe Blue 第一部 海の鼓動
秋想2
朔哉は一人、観客席に祈るように両手を組みながら、口を真一文字にした顔を伏せていた。
部員はすでに帰り支度を済ませており、さっきも篤志が心配そうに朔哉の様子を見に来たのが、悪いけど、と断って、朔哉は一人試合会場に残った。
結果として、試合には勝った。
だが、内容的には、朔哉の納得のいくようなものでは決してない。
残り１０分で、カウンター攻撃による失点。
それからの数分間は、グランドの外で起きた事故の影響がないとは言えないものの、朔哉は完全に動揺していた。
焦りはそのまま、パスやシュートの正確性を欠き、それからの五分間はただ虚しく時間だけが過ぎて行った。朔哉のミスや、焦燥感は、そのままグランドを走る凪高の選手にも波紋のように広がっていき、あわや二点目の失点という場面もあった。
誰もが、動揺していたのだ。
こんなところで、県予選の準決勝で。
こんな相手に、全国はおろか、県下でも名前を聞くこともない、無名の相手に。
前回の選手権の覇者である凪浜高校が負ける？
凪浜というプライドがあればあるほど、駆ける足は絡まりそうになり、なかなかボールを追いかけられなかった。
下剋上の戦国時代。
我ながらそう思ったことを、後悔した。
まさか、現実のものとなろうとは。
一瞬、そう考えた朔哉は、慌てて首を振った。汗が水しぶきのように飛び散る。
何を弱気になってるんだ。
こんな状況なんて、今までだったあったはずだ。
がけっぷちの試合。
でも、それを勝ち抜いてきた。
そうして俺たちは、選手権で全国制覇を果たしたんじゃないか。
強く目をつぶると、朔哉の脳裏には、ちょうど選手権の３回戦目が過ぎった。
曇り空の中、同じようにスコアは０−０だった。
だが、凪浜は劣勢で、それこそいつ点が入ってもおかしくなかった。凌いで凌いで、そうして何とか０点に押さえている、そんな試合だった。
石橋に呼ばれ、朔哉は怪我をした選手に代わり、後半の残り十五分から出場した。
一点目は正直運がよかったと、今でも朔哉は思っている。途中で降り出した雨という天候を味方に、朔哉は相手のパスミスから一点をもぎ取ったのだ。
だが、それでも、劣勢の試合を優勢に変えることなどできずに、そのすぐ後に、凪高は一点を返され、同点になった。
残り時間四分。
ＰＫに持ち込めば、という考えは誰も持っていなかった。そう考えてしまえば、どこかに隙ができ、点を取られることは相手の勢いからも感じ取れていた。
だからあと一点。
そう思うものの、凪高はなかなかシュートにまで至らない。
それでも、朔哉が何とかシュートにまで持ち込んだものの、ゴールポストに跳ね返されて、ボールは相手キーパーの手の中に落ちる。
溜息が、スタンド中からこぼれていた。
朔哉もがっくり肩を落とし、振り返ると、そこに光一が立っていた。
「すみません…」
光一は、そう謝る朔哉の肩を、ぽんと一度だけ叩くと、
「謝ることはない」
とだけ答えた。
試合に今にも負けてしまいそうだというのに、光一は笑顔で、だからこそ朔哉は戸惑っていた。
「あの…」
口ごもる朔哉に、光一ははっきりと自信の伺える表情を見せる。
「ミスしてもいい。だけど、朔哉。
後ろには俺たちがいる。
だから、安心して、前に行け」
そうしてまた笑顔を見せると、光一は自分のポジションに戻っていく。
前に行け。
朔哉は、光一の言葉を繰り返すと、相手ゴールを見つめた。
残り三分。
凪高は変わらず押されていたが、それでも朔哉は光一を信じて前線に一人立っていた。
そして、実際に光一は、混戦の中から大きく朔哉にボールをパスしたのだ。
「朔哉っ、走れっ」
グランドに響く光一の声と共に、ボールが大きく蹴りだされる。朔哉はひたすらそのボールを取ると、ゴールに向けて走り出した。
不思議と緊張感がなかったのは、光一の言葉のおかげだったかもしれない。
そうして、朔哉は勝利を決めた二点目のゴールを決めたのだ。
ゆっくりと朔哉は目を開けた。
あの試合より、今の方が劣勢だ。
そして、何よりこのグランドの中に光一の姿は無い。
…駄目、かもしれない。
ふと朔哉はそう感じた。
「朔哉っ」
次の瞬間、小山の声がグランドを駆け抜けた。朔哉が振り返ると、まさに小山からのパスが自分の足元に向かってきていた。
だが、その一瞬の気持ちの遅れは、そのままトラップミスへと繋がる。受けたボールは、うまく朔哉の足元に留まることなく、朔哉の足に当たるとわずかにこぼれた。
あっ、と朔哉がそのボールをとりに行く前に、すっと相手選手がそのボールを奪って、朔哉の脇を振りぬけて行く。
負ける。
朔哉がそう思った瞬間だった。
あっ、という相手選手の小さな声と共に、今度は相手ゴールに向かって、朔哉の脇を風のように走り抜けていく選手がいた。
青のユニホームの、背番号は１１。
右京だ。
歓声が、再び起こる。
右京はそのまま一人で、相手ディフェンダーの間を器用に駆け抜けていった。
そして、いまだグランドに立ち尽くしている朔哉の前で、右京は二人のディフェンダーを交わすと、そのままシュートした。ボールは必死に手を伸ばしたキーパーの手をはじき、そのままゴールネットを揺らす。
歓声が一段と大きくなった。
１対１。
電光掲示板には、はっきりとそう映し出された。
凪浜高校は同点に追いついたのだ。
駆け寄ってくるチームメイトにも、愛想笑いすることすらなく、飄々と受け流しながら、右京はそうしてどこか呆然としている朔哉のところにやってきた。
そうして、朔哉の前で、指を四本立てる。
その意味がわからずに、朔哉はただ右京の指を見つめていると、ぽつりと掠れた声が言った。
「残り四分ある。あと一点は取れる」
朔哉の焦点が、ようやく指から右京の顔へと移る。
目の前の右京は、涼しそうな表情をしながらも、その目の奥には強い闘志を映していた。
「今年の選手権の三回戦、残り３分じゃなかったすか。二点目取ったの」
その右京の言葉に、朔哉は戸惑った。
弱気な自分を見透かされていたことに。
そして、そんな自分を奮い立たせようとしている右京に。
「…そう、だ」
だが、あの時はコウさんがいた。
朔哉はそう思ったが、口にはしなかった。
それがただの言い訳にしかならないことに気づいていたのだ。
「おいっ、朔哉っ、藤原っ。早く戻れっ」
柳田の声が響き、二人は振り返る。
凪高の選手は、すでにそれぞれのポジションにつき、試合の開始を今かと待ちわびていた。ロスタイムがあるとしても、逆転する時間が潤沢にあるわけではない。
二人は、それぞれもポジションにすぐにつき、試合は再開される。
そして右京の宣言の通り、残り２分というところで、朔哉は右京からの絶妙なパスを受け、シュートを決める。
２対１。
湧き上がる観衆の中で、凪浜高校は決勝へと駒を進めた。
「すみませーん」
気づくと、後ろのほうから清掃員が朔哉にそう呼びかけていた。
もう競技場を締める時間らしい。
立ち上がりながら、朔哉は世代交代、という言葉を思い出していた。
菊地から背番号１０を受け継いだ時には、どこかで菊地が今まで立たされていた立場をも、引き継がされた気がしていた。もちろん、キャプテンは小山であったし、自分はあくまでも二年だから、そのあたりの立場もよくわかっている。
だが、このグランドにおいて、年次は関係ない。だからこそ、気持ちの上で、チームを引っ張っていかなければならないと。
だが、今日の試合において、残り五分間を、気持ちの上で、チームを引っ張っていたのは、自分ではなく明らかに右京である。
もう、凪浜の菊地はいない。
だが、凪浜の藤原がいる。
福山朔哉ではなく、藤原右京が。
朔哉はそう思ったところで、無意識のうちに拳に力を強く入れていた。
病室を出ると、広く長い廊下に、いるはずの人間が立っておらず、成は妙な胸騒ぎを覚えた。
だが、通りかかった看護婦が、そんな成を見て、からかうように言った。
「君の彼女ね、学校に連絡するって電話かけに行ったわよ」
彼女じゃないと、否定しようかとも思ったが、にんまりと笑う看護婦とこれ以上話をすることよりも、萌子を探すことの方が、成にとっては大事なことだった。
「ありがとうございます」
そう答えると、とりあえず公衆電話を探して成は駆け出した。
包帯の巻かれた手首の痛みは、あまりない。もともとそんなに重症でもないのに、萌子が気にして試合後に病院に連れてきたのだ。
実際にも、手首ということもあり、練習を休むことにもならなそうだった。
よかった。
成はいろんな意味で、ほっと安心する。
試合にも勝てたし、萌子は怪我をせずにすんだ。
成はそう思って、左手の包帯に触れる。
それがまるで何かの勲章でもあるかのように。
「危ないっ」
試合途中、観客から落ちてきた旗に気づき、成は慌てて叫ぶと、その真下で放心状態の萌子に手を伸ばした。旗が萌子にぶつかる寸前のところで、成のその手は萌子の体を捕らえると、二人はそのまま横倒しになった。
カラン、カランと、旗の柄の部分が床にぶつかり、大きな音を立てた。同時に、客席からも大きな悲鳴が上げられた。
「…てぇ」
耳元で小さな成の声を聞いた萌子は、慌てて体を起こした。
横倒しになった時に、成が自分の下になってくれていた。
「大丈夫？成」
萌子がそういうと、成は肘をついて上半身を起こすと、ああ、とだけ答えた。
笠間が慌てたように駆け寄ってきて、
「大丈夫か？」
と聞いた。
「俺は大丈夫です。萌子は？」
「わたしも。成が助けてくれたから。それより、成。血が出てる」
萌子に言われて、肘を見ると、確かに血が滲んでいた。
「このくらい、なんでもないから」
成はそう答え、萌子に笑顔を見せながら、わずか一メートルほど先に転がる旗を見つめた。あのまま旗が、しかも柄の部分が萌子に直撃しなくてよかったと、成がほっと安心していると、笠間が安心した表情をぐっと引き締めて、萌子に指示した。
「今は試合中だから、悪いが治療は中で頼む。沢木、頼んだぞ」
二人は思い出したようにグランドに視線を向けた。
グランドの中では、選手の表情にも焦りが見え隠れしていた。
「わかりました」
萌子はそう答えると、成に向かって言った。
「とにかく、消毒しなきゃ」
いいって、と答えながら立ちあがろうと手首をついた成は、そこで小さく呻いた。
「どうしたの？」
ベンチの救急箱を持ってきた萌子が心配そうに尋ねる。そして、左手首をさする成を見て、無理やりにその手を奪った。
「…捻挫かも」
少しだが、腫れてきているようにも思えた。
「とにかく、中に入ろう」
控え室に戻りながら萌子がグランドを振り返った時、大歓声が沸き起こり、まさしく右京がゴールを決めているのが見えた。
病院の一階のロビーの公衆電話の前で、萌子はちょうど受話器を置いているところだった。
「萌子」
成が声をかけると、萌子は振り返ってわずかに笑顔を浮かべた。
「どうだった？診察」
成は軽く包帯に触れる。
「うん。手首の捻挫だから、二週間もおとなしくしてれば、大丈夫だって」
「全治三週間ってところかな」
「え？」
成がそう声を上げると、萌子はくすりと笑って、そっと答えた。
「きっと練習続けるんでしょう？そうしたらきっと、もう一週間伸びて、治るのに三週間」
「ひどいな」
「ふふふ。ごめん」
「でも、当たってる」
「でしょ？」
くすくすと笑う萌子だが、成にはあまり元気がないように思える。
「どうかした？萌子」
「え？」
結局試合には勝ったし、萌子は怪我をせずにすんだ。
元気がない理由は、どこにもないように成には思えたが、ふと思いついて、萌子に珍しく諭すように言う。
「もしかして、この怪我が自分のせいだとか思ってたら、それは違うから」
強く言うと、萌子は再びわずかに笑顔を向けた。
「ありがとう」
だがその笑顔は波が引いていくようにすっと消えた。
萌子？
成が再び尋ねる前に、萌子は帰ろうと言い、鞄を持った。