Maybe Blue 第一部 海の鼓動
秋想1
全国高校サッカー選手権大会の神奈川県予選は、一次予選から決勝まで、トーナメント方式である。
つまり、一度でも負ければ、そこで終了。三年生は当然のことながら、引退を言い渡される。
この予選において、インターハイに出場した凪浜高校は、同じく出場した清海大付属と同じく、シード校として、決勝トーナメントからの出場になる。だが、インターハイにおける神奈川県代表は二枠あるが、この選手権の代表枠は、ひとつしかない。
当然のことながら、インターハイ県予選で二位に甘んじた清海大付属としては、当面のライバルは凪浜高校となる。
おそらく本気でうちを倒すつもりなんだろう。
朔哉はそう思いながら、グランドからスタンド席の一角を見つめた。
そこには、黒と青のラインの入った清海大付属のサッカー部員が偵察でもするかのようにグランドを見下ろしている。おそらく、朔哉の同級生の武原もいるはずだ。
神奈川県には、ここ数年で四強と呼ばれるようになった高校がある。
凪浜、箕輪、諏訪、そして清海大付属。
インターハイでは前回の選手権で優勝した凪浜か、諏訪かと言われていたものの、組み合わせでもって、凪浜は準決勝で諏訪を倒し、もう一つの代表には清海大付属が選ばれる結果となった。
当時はディフェンスの甘さを指摘されていた清海大だったが、秋に入り、強化が進んだという話もある。もともと清海大は、県の得点王・武原がいる。
トーナメントの組み合わせの結果、順調に勝ち上がっていったとして凪浜と清海大が戦うのは、決勝戦となるはずだ。
朔哉はインターハイ予選の時に交わした武原との握手と、笑顔の奥に隠した表情を思い出す。
こちらこそ、臨むところだ。
ぐっと手を握り締めたところで、試合開始のホイッスルが鳴った。
主審の笛が鳴って、試合が一時中断される。
ボールがエンドラインを越えて、凪浜のコーナーキックとなっていた。
キッカーは右京。
うまくいけば、追加点のチャンスだ。
試合は３対０で、凪浜が優勢だった。
後半の３０分を過ぎ、試合結果はほとんど決まったも同然だった。
だが萌子は、余裕などまるでないように、思わず手を握り締めて、ボールを見つめていた。
頑張れ。
無言の声援は、だが落胆の溜息に変わる。
右京のボールは、うまく朔哉の頭に当たったものの、ゴールポストにぶつかって、再びエンドラインを割った。
「何かさぁ、増えたよねぇ」
ふいに萌子の隣で理香が呟くように言った。
「何が？」
すると理香はぐるりと後ろを振り返って、耳元で小さくだが、強く言った。
「応援よ、応援。しかも女子っ」
試合会場には、小さくだが数段のスタンド席があり、ベンチの後ろでは、確かに女子生徒たちが黄色い声援を上げている。凪浜の生徒も多いようだが、見知らぬ制服の女生徒たちもいた。
「そうだね」
県大会の決勝トーナメントではあるものの、まだ２回戦目である。シード校の凪浜にとっては、初戦ではあるものの、インターハイ予選でもこんなに大勢の人が応援に来てはいなかった。
「やっぱりインターハイの効果が大きかったのかなぁ」
再び理香がぽつりと呟く。
かもね、と萌子が流すように答える隣で、理香は大きく頷いている。
「だって雑誌にも取り上げられちゃったもんね。特に、右京君」
加えて言えば、ユース代表となったことも大きい。
風に揺れている横断幕の中には、凪浜を応援するものではなくて、右京の名前が書かれたプラカードのようなものも見えた。
母親の一件があってから、右京はどことなく萌子や一部の部員たちと打ち解けたような気がしていたが、あくまでもそれは一部の人間だけで、応援をしてくれる人たちに対する態度は、相変わらずであった。
だが、
「それがなおさらいいんだって」
というのが理香の意見であり、事実ファンは減ることなく、むしろ増えているのだった。
インターハイでは、スタメンであることにいくらか戸惑いを見せていた選手たちも、今では右京がいて当然というように、パスを回している。
「小池っ、コールドスプレー貸せっ」
ふいに柳田の声がして、萌子は思わずはっとした。
ついさっきまでグランドを走っていた柳田は、わずかに足を引きずりながらベンチへと歩いてきていた。
「あっ、はいっ」
呼ばれた理香が、慌ててコールドスプレーを取り出す。どうやら柳田は、相手選手と競り合ったときに、軽く足首を捻ったらしい。
「大丈夫ですか？」
「ああ、サンキュ」
柳田はそう答えると、萌子にコールドスプレーをつき返し、その萌子の後ろに立っている理香を怒鳴りつけた。
「そんなことより小池っっ！まったく、緊張感って言葉がお前にはないのかっ。ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、お前の声がグランドにまで聞こえてきてたぞっ」
慌てたように理香は、萌子の背中に隠れる。
「すみませんっ、ヤギさん」
「だから何度言えばわかるんだっ。俺はヤギじゃなくてっ―」
だが、更に声を荒げた柳田の肩を、ぽんと笠間が叩く。
「ほら柳田。お小言はいいから」
「あ？…ああ」
笠間のさす方向には、同じように怒り顔の石橋が、腕組みをして仁王立ちしている。
慌ててグランドに向かう柳田を見ながら、笠間が大きく溜息をつく。
「まったく、治療しにグランド出たのに、ろくな治療もしないで…」
それでもグランドの中で、柳田は足の痛みをまったく感じさせない走りを見せている。
「気合、入ってますね。ヤナギさん」
萌子がそう呟くと、笠間の表情もわずかだが和らいだ。
「ああ。最後の選手権だからな」
そういわれて、初めて萌子は、来年には笠間たちがいないということを意識した。
萌子にとって最初の選手権は、笠間たちには最後の選手権なのだと。
「そう、ですね」
一度負ければ、笠間たちの引退も決まる。
今の一・二年生だけで、やっていかなければならないのだ。
言い知れない不安のようなものを、そうして萌子は感じた。
「ニュース、ニュース！箕輪が負けたんだって」
そのニュースは、準々決勝の翌朝に、満面の笑顔と一緒に理香が部室に持ち込んできた。
「え？箕輪が？」
「相手って無名のところだろ？」
四強の一角である箕輪高校は、相模西高校と準々決勝を戦っていた。同時刻に別の会場での試合に勝っていた凪浜は、この試合の勝者と次の準決勝を戦うことになっており、下馬評通り箕輪が相手だと思い込んでいたのだ。
「それが２対０だって」
「へぇ」
もともと箕輪は鉄壁ともいえるディフェンスを誇っていたが、得点率が低いのが欠点だった。
その箕輪から二点ももぎとるとは。
考え込む朔哉の隣で、理香は無邪気に喜んでいる。
「となれば、決勝はもう見えたも同然！あとは、諏訪に勝てば、選手権に出場よ！」
清海大といわずに諏訪といった理香に、朔哉は思わず聞き返した。
「清海大は？」
「あれ？朔哉先輩聞いてないの？清海大は昨日の準々決勝、負けたんですよ」
え、と小さく声を上げて、朔哉は思わず傍にいた俊平に視線を向けた。俊平は、淡々と答える。
「１対１で、PKやって、川城に負けたんだと」
川城という高校も、朔哉はあまり聞いたことがなかった。
「…そう、か」
スタンドに来ていた清海大のジャージと武原のことが、朔哉の脳裏を過ぎった。だが、そんな朔哉を無視して、一年生たちは楽しそうに会話を続ける。
「大波乱だな」
わくわくしているように、ケンが言う。同じように、笑みを浮かべて知朗が答えた。
「世代交代ってやつかもしれないぜ」
「そうだな」
神奈川県の四強のうち、二校がベストエイト止まりということは、確かにそうも言えなくない。だが、それは同時に凪浜にも同じことがいえるのでは、と朔哉は感じ取っていた。
始まるのは世代交代じゃなく、下剋上の戦国時代かもしれない。
だが、そんな朔哉に反して、はしゃいだ雰囲気の中、理香が一際声高に言う。
「ま、何はともあれ、これで凪高の選手権出場が固くなったってことよねっ」
笑顔を見せる篤志たちを尻目に、鋭く反対したのは、由太だった。
「逆だ、理香」
「え？」
逆といわれ、理香も思わずその笑顔を強張らせる。皆の視線が集まる中、由太は冷静に答えた。
「どこが出場しても、おかしくないってことだ」
一気に部室が静まり返る中で、朔哉は、だからこそ、と口を開いた。
「気を引き締めていくぞ」
そして理香は、由太の予想が実際に正しかったことを、その一週間後に痛感していた。
珍しく強い風が吹き荒れる中、凪浜と相模西との準決勝が行われていた。
前半を０対０で折り返し、そのまま後半を３０分過ぎたところで、凪浜はこの予選で初得点を許してしまったのだ。
騒がしかった凪浜の観客席も、ベンチも、その一瞬、すべての音をなくしたかのように鎮まりかえった。
「え。嘘。どうして？」
理香がそう呟くのも無理はない。
強風に苦戦していたものの、押していたのは凪浜だったし、そのゴールが決まるほんの数十秒前には、凪浜はフリーキックという得点のチャンスを迎えていたのだ。
朔哉のフリーキックは、壁に当たると、ゴールキーパーに止められた。
凪浜がそうして落胆している間に、キーパーが大きくボールを蹴りだした。慌てたのは凪浜のディフェンスだった。
最後のラインである横田は、センターサークル付近におり、ボールが風に煽られて想像していた以上に飛び、同時に横田の脇から、相模西のフォワードの選手が駆け抜けていった。
スタートの遅れは、そのまま相手選手と横田との距離に変わり、相手選手はボールに追いつくと、そのままキーパーである山本と一対一になり、タイミングを外して蹴りだされたボールはちょうど山本の両足の下を潜り抜け、ゴールに吸い込まれていったのだ。
グランドの中で、喜びながら抱き合う相手選手を見ながら、萌子も思わず手にしていたタオルを落としていた。
点を取られた。
時間は、あと１０分ほどである。
少なくとも、あと２点は取らないとこの試合に勝つことはできない。
だが、前半含めて７０分間、押しに押しても取れなかった凪浜高校が、わずか１０分の間に２点取ることは、萌子にとっては難しく思えていた。
『最後の選手権だからな』
笠間の言葉が、萌子の中で深く響いた。
もちろん成も、由太の言った言葉を、忘れたわけではなかったものの、その失点は予想していないことだった。
「え。嘘。どうして？」
理香の声が成にも聞こえていたが、それは成の心の声とまったく同じであった。
だが、相手のカウンター攻撃は、見事なまでに成功していた。
横田さん。
数週間前の練習試合で、初スタメンとなった成の肩を力強く叩いて、勇気付けてくれた横田の余裕は、そこにはない。
柳田のように、明らかに悔しがり、苛立ってはいないものの、その顔色は、少しだけ青冷めているように成は思えた。
ユースの代表選考の合宿から戻ってきた成は、少しばかり自信をつけ、この秋からはベンチ入りできるようになっていた。
そして、数週間前には、全国的にも有名な帝王高校との練習試合に、ついにスタメンとして出ることになったのだ。
「…え？」
名前を呼ばれたとき、素直に成はそう答えていた。
それがあまりにも素の驚きであったために、石橋が笑って、
「初スタメンだぞ、早坂」
と言ったほどだ。
「練習試合だから、そんなに肩に力をいれなくてもいいぞ、早坂」
試合前、ユニホームを着た成に、笠間がそういってくれたものの、成は緊張し切っていた。
確かに練習試合ではあるけれど、相手はあの帝王なのだ。インターハイでベスト４の帝王なのだ。
しかもストライカーには、そのインターハイで得点王に輝いた伊波がいる。
その伊波を抑えるなんて…。
そんな時、誰かの手が自分の肩に置かれ、成が慌てて振り返ると、そこには笑顔の横田がいた。
「そんなに緊張するな、早坂。相手に見抜かれるぞ」
「けど、横田さん。帝王の伊波ですよ、相手。
インターハイで得点王になった、あの伊波ですよ」
全国屈指のストライカーであることはもちろん、ともすれば全国で一番のストライカーでもあるのだ。
だが興奮している成を、横田はくすりと笑ってこう答える。
「けど、それはインターハイでのことだろう？」
「けど」
すると横田は、にやりと笑うと、まじめな顔になって答えた。
「いいからお前は、目の前のことだけ見て、目の前にあることだけ信じろ。
周りの言うことは、気にするな。
伊波だって、インターハイと同じコンディションできてるわけじゃない。
それにお前だって、凪浜の立派な選手なんだ。まずは自分を信じろ」
力強いその視線は、まるで魔法をかけるかのように成の弾んでいた鼓動を落ち着かせたのだった。
だが、そういってくれた横田の顔に、その余裕が最早見られない。
横田さん。
成がそう心の中で呟いた時だった。足元にタオルが強風に煽られてまとわりついてきた。
誰のだろう？
顔を上げると、左の方に呆然とした表情の萌子がいる。
「萌子、タオル―」
成はタオルと拾って、萌子に渡そうとした時、後ろのほうから小さな悲鳴が聞こえた。振り返ると、観客席から大きな旗が風に煽られ、下のグランドに落ちてきており、その真下には、呆然とした萌子が立っていたのだ。
「危ないっ」
成は思わず叫び、萌子に向かって必死に手を伸ばした。