Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初嵐7
「さーくーやっ」
ふいに肩を叩かれて朔哉が振り返ると、頬に思い切り指がささっている。じろりと見上げると、司がにやりとほくそ笑んでいた。その隣で、俊平が心配そうに朔哉を見つめている。
「大丈夫か？さっきから心ここにあらず、って感じだけど」
「心配するなって」
文化祭もあと三十分ほどで終わり、それから後夜祭の準備が始まる。
朔哉たちが演奏するのは、その後夜祭の一番最後、大取りだ。
だがそのわりに、練習ではイマイチの仕上がりに、俊平は心配していた。
「あ。ちょっと寄っていい？」
気づいたら、一年七組の前であった。落語は大好評だったらしく、朔哉が先ほど来たときは、人が教室から溢れていたので、落ち着いたらこようと思っていたのだ。
「いらっしゃいませ」
さすがに文化祭の終わりらしく、客もまばらになっていた。生徒の何人かは、朔哉の姿を見とめて、興味ありげな視線を向ける。
「あんみつ下さい」
その言葉に、隣の司がうんざりした声を上げる。
「げ。お前ライブの前に甘味かよ」
「気合入れる為だ」
萌子に頼むまでもなく、朔哉自身あんみつは大好物で、必ずや食べようと決めていたのであった。ところが、浴衣姿のた女子生徒は、困った表情を浮かべた。
「すみません、あんみつはもう完売してしまって」
「あら？」
司が首をすくめる。
二日続けて食べれないとは。
「朔哉、昨日沢木に頼んでなかったっけ？」
俊平はそう言ったが、朔哉より先に司が言い返した。
「その沢木がいねぇんだから、しょうがねぇじゃん」
…その前に、萌チャンにお願いはしてないんだけど。
だがそう拗ねてもあんみつが出てくるわけもなく、萌子が帰ってくるわけでもない。
萌子が右京と一緒に富士山の麓に向かったという話を、朔哉は篤志から聞いていた。
とりあえず、行く先と同行者がわかったんだから、後は待つしかない。
朔哉はそう腹を括っていたのだ。
諦めて踵を返し、教室から出て行こうとしたところで、朔哉はふいに呼び止められた。
「あ、あの、福山先輩」
振り返ると、先ほどの女子生徒の手には、あんみつが乗っていた。
「何だ、あるじゃん」
俊平がそういうと、いいえと首を振って、その女子生徒は答えた。
「沢木さんが、一人分残しておいてって昨日言ってたんです。
今のお話聞くと、もしかして、福山先輩の分だったのかな、と思って」
朔哉は一瞬だけ躊躇したが、それでも素直に受け取る。
「ありがとう」
「ライブ、頑張ってください」
浴衣には不釣合いの上履きには、『井口』という名前が書かれてあった。
何もかも、色あせた世界。
夢も希望も、何もなかった。
そこに見えたのが、あの凪浜のユニホーム、目の覚めるような青だった。
そして、選手たちから溢れ出る、闘志、自信、希望。
その中にいれば、凪浜に行けば、夢が叶うんじゃないかという気持ちにさせる何か。
忘れてしまったものを、なくしてしまったものを、取り戻せるんじゃないかと思わせる何か。
やっぱり、似てる。
私と、右京は。
萌子は、そっと顔を右京に向けて、話し出す。
「私も、そうだったの。右京と同じ。
この足の傷―」
「いい」
話し出そうとしたところで、右京はそう言って、萌子の言葉を遮る。
「え？」
戸惑う萌子だが、自分に向けられた右京の視線は、決して前のような突き放す冷たさではなく、包むような温かさに溢れていた。
「わかるから」
右京は少ない言葉を、大切に繋いだ。
「話さなくても、同士だってこと」
そして、右京は初めて萌子に笑顔を見せた。
「ありがとう、萌子」
それは、決して人形のような整えられた美しさはなかったかもしれない。
だが、見ているものを温かい気持ちにさせる笑顔であった。
校庭には、突如大きなステージが出来上がっていて、それを取り囲むようにして後夜祭が始められていた。
「結局、萌子たち戻ってこなかったね」
ポツリとそう美都が呟いた。
「今日の練習も、休むのかな」
駆け落ちでも、誘拐でもないことはわかったものの、二日続けて練習を無断欠席するとなれば、石橋に事情を説明しなければならないかもしれない。
試合前だってのに。
篤志が頭を抱えていると、あっと理香が叫び、続いて大きく怒鳴り声を上げた。
「萌子っ」
理香の指差す方向には、確かに萌子と、そして右京が並んで歩いてきていた。理香はそのまま全速力で駆け出すと、びっくりしている萌子の両腕を掴んで更に叫ぶ。
「もうっ、どこに行ってたのよ！心配したんだからっ」
「あ、ごめ―」
だが、きちんと謝る前に、美都や篤志たちが駆け寄ってきて、それぞれの言葉を萌子と右京に浴びせる。
「大丈夫？萌子。どこも怪我してないよね」
「ふざけんなよっ、文化祭の当番さぼりやがって」
「つーか、朝練の後片付け、やりのこしたままだろ？」
「ヤナギさんが、またカンカンに怒って大変だったんだぜ」
戸惑いながらも、萌子はそっと頭を下げた。
「…ごめんなさい」
それに合わせるようにして、右京も頭を下げる。
その様子を見て、周囲は一気に静まり返る。そんな中で、知朗が右京に尋ねた。
「それで、会えたのかよ。母親には」
右京は萌子と一瞬視線を合わせると、力強く頷いた。途端に拍手が起こる。
「よかったぁ」
右京はそこで、もう一度頭を下げた。
「迷惑かけて、すまなかった」
すると、知朗がそんな右京の肩をぽんと軽く叩く。
「いいってことよ。お互い持ちつ、持たれつ、だからな」
「ってか、知朗のトラブルは、俺は御免だけどな」
「なんだとぉ？」
にらみ合いを始めた知朗とケンに、思わず右京も顔を上げ、くすりと笑う。思い出したように理香が手を叩いた。
「あ、そうだ。井口さんにも言わなきゃ。萌子のこと心配してたよ」
「え？」
「あと、松浦も」
篤志がそう言って、にっこりと微笑む。萌子も右京も、その状況が掴めずに、戸惑う中で、理香と篤志が二人に言ってくると駆け出して行く。
ほんの半日いなかっただけで、こっちも色々あったみたい。
目の前のステージでは、ライブが始められていたものの、萌子はその騒ぎの中に、一緒に入っていく気がせずに、くるりと後ろを向いたところで、後ろに立っていた成とまともに視線がぶつかった。
お互い、驚いた表情をしていたものの、先に成がその顔を緩めて、にっこりと微笑んだ。
「お帰り、萌子」
下がり気味の目じりが、更に下がり、僅かにあいた口からは、真っ白い歯がのぞいていた。
その笑顔を見ていて、萌子は思った。
戻ってきたんだ、ここに。
凪浜に。
帰ってきたんだ。
そこで萌子はようやく安心して、肩の力を抜いて微笑んだ。
「ただいま」
「まぁた、モテやがって、朔哉の野郎」
着替えをしながら、そう司は呟き、着るはずのウェアを、隣の朔哉に投げつけた。
「拗ねない拗ねない」
朔哉はそう答えて、司にそのウェアを投げ返す。
文化祭の最終日、とはいえ、サッカー部に休みはない。
なぜなら、来週の土曜日には、すでに選手権の県予選が始まるからだ。
文化祭を無事終えた朔哉たちは、すぐに予選モードに入らなければならない。
「まあ大取りを見事にやってのけたんだから、当然でしょ」
俊平がそう答えるものの、司は更に唇を尖らせて言う。
「つーか、お前までモテる必要ねーじゃん」
実際、ライブの最後を飾った朔哉たちには、校内だけじゃなく、他校生からも黄色い声援がいつも以上に飛んでいた。ただ一人、バンドに参加をしていない司だけが、ステージの下で、つまらなさそうに上の様子を眺めていたのだ。
「拗ねるな、拗ねるな」
笑いながらそういう俊平の声に被るようにして、大きな溜息と共に、田島の声が聞こえてくる。
「いいよな」
「何？田島まで拗ねてるわけ？」
「いいよな、藤原」
思わず俊平と、司、そして朔哉までががくっと肩を落とした。司が呆れたように田島に言う。
「お前も失踪してみれば？あいつのことだから、心配して着いてきてくれるぜ」
「そうかなぁ」
だがそれを朔哉が止めた。
「それは、言いすぎだろう、俊平。萌チャンは萌チャンなりに考えて―」
「いや、そもそもさ。
そういう奴なんだよ、沢木は。
誰に対しても、平等に優しくて、誰に対しても必死。
たとえ彼氏がいても、他の男の為に、彼氏を犠牲にもする。
そういう奴、なんだよ」
珍しく語調を強めて話す俊平に、朔哉はもとより、司や田島までもが思わず息を飲んでいた。
固まってしまった空気を元に戻すように、俊平はさりげなく付け加える。
「…俺だったら、耐えられねぇな」
そして俊平は黙々と着替え始める。
「なぁに言っちゃってんの？俊平ってば」
司が能天気にそう言ったものの、俊平はそんな司を無視して着替え続ける。
「何だよ、なぁ？朔哉」
だが、朔哉はうまく返事ができずにいた。
練習前、石橋から呼び出しを受けた右京は、はじめにはっきりと言われた。
「藤原。お前は、今週の試合には出さない」
むしろ当然だと思っていた右京が、小さくはいと答えると、石橋の大きな溜息が、こぼれた。
さらに叱られるのかと思った右京だが、石橋は大きな声ではっきりと付け加えた。
「ベンチから、見てろ。
トップの動き、中央での選手の動き、それぞれの選手のクセ。
どこにどうボールを入れたら、それぞれの選手が動きやすいのか。
それを頭に叩き込んで、来週の試合に生かせ」
てっきりスタメンを外されるものだと思っていた右京は、思わず顔を上げる。
石橋は、いつもと同じ表情で、いつもと同じように、力強く言うだけだった。
「奇蹟は、無からは生まれない。信じるだけでは、起きないんだ。
神の仕業でもない、ただの偶然でもない。
奇蹟とは、他の誰もない、選手が起こすものだからだ。
お前が、起こすものなんだ、藤原」
奇蹟は、自分で起こすもの。
右京はぐっと手を握り締めて、力強くはいと返事をした。
グランドに現れた朔哉は、いつも通りにベンチに佇む萌子の姿を見つけ、思わず声をかけた。
「萌チャン」
振り向く萌子は、いつもと変わらぬ笑顔を朔哉に見せる。
「おつかれさまです。練習、始まりますよ」
「ありがとう、あんみつ。おいしかった」
「え？」
萌子の驚いた表情に、嘘がないと気づいた朔哉は、急に不安になる。
「…もしかして、俺のじゃなかった？」
俺以外の誰かの為のものだったとか？
だが、萌子は思い出したようにああっと大きな声を上げて、大きく首を振った。
「いいえ、福山さん用です。ごめんなさい、一瞬何のことだかわからなくて」
そう言われて、朔哉は安心する。
そして、そっと右ポケットに手を入れると、ガサガサと音を立てた。
「あの、さ―」
だが、それを萌子に渡す前に、知朗が萌子の前に立ちふさがった。
「萌子っ。怪我した、ココ。絆創膏貼ってくれ」
知朗が指を刺しているのは、顎の下の辺りだ。
「ええ？何でこんなとこ怪我するの？」
「プロレスごっこ」
「全くもう。来週試合なんだからね」
「わーってらいっ」
そういいながらも、萌子は絆創膏を取り出して、知朗の擦り傷に貼ってやる。ありがとう、と知朗がいう前に、今度は理香が飛び込んできた。
「いたいた萌子っ。ヤギさんが激怒してるよっ、すぐ呼んで来いだってさ」
「ええ？」
柳田の名前を聞いた萌子の表情が、僅かに歪む。どうせろくなことではないと、経験上わかっているようだ。思わず朔哉が笑いそうになったところで、ぬっと柳田が萌子たちのところにやってきた。
「おい小池っ、ヤギじゃなくて、ヤナギダだ、俺の名前は。いい加減覚えろ」
「はぁーい、気をつけまーす」
「…ちっとも反省してないようだな、小池」
仕方なく、というように萌子が柳田と理香の間に入る。
「まあまあいいじゃないですか、ヤナギ先輩、それより、何ですか？あ、井口さん」
グランドの脇を、クラス委員の井口真紀をはじめとしたクラスメートが通りかかり、グランドの萌子に手を振る。それに答えるように、萌子も大きく手を振った。
「…お前は俺の話、聞いてるのか」
「はいっ、これから聞きます」
「だいたいお前という奴は…」
そうして萌子が予想していた通り、いつものお小言が始まった。
それを見ていた朔哉は、ふいに俊平が言った言葉を思い出していた。
『誰に対しても平等に優しくて、誰に対しても、必死。
たとえ彼氏がいても、他の男の為に、彼氏を犠牲にもする。
そういう奴、なんだよ』
確かに、そうだ。
萌チャンは、皆に優しくて、皆のことを考えている。
ただ、それだけのこと。
たった一人にだけ、優しいわけじゃない。
朔哉はポケットの中に、文化祭で見つけたかわいい梟の置物を隠した。