Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初嵐4
いつもより、部員が疲れているように思うのは、やはり文化祭のせいだろうか。
そう思いながら、笠間はグランドを見渡す。
放課後の練習は、まだどことなく学校中にお祭りムードの漂う中で、第二グランドで始まっていた。
実際、部員の数も今日は数人休んでいる。
今日くらいは大目に見よう。
石橋はそう公言していたものの、それでも週末の試合を気にしてか、実際休む部員は思ったよりも少なかった。
笠間は再度、時計を見て、それから何とはなしに坂の下に見える校舎を眺めた。
「やっぱり来ないか、藤原」
笠間の気持ちがグランドに向かっていないことに気づいた小山がそう話しかけてきた。
「今日の店の当番も来なかったらしいな」
練習前に、現れない右京のことを尋ねた篤志からも、同じことを笠間は聞いていた。
笠間は、そのときに右京が無断で練習に来ていないことを知った篤志が、少しばかり表情を曇らせて話したときのことを思い出す。
篤志ですらこの様子なら、一年はもっと反発してるだろうな。
そこに、怒りで顔を真っ赤にした柳田が声を荒げて言う。
「まったくっ、一週間後は試合なんだぞっ！」
目の前を走っていた篤志が、その怒鳴り声に驚いて、思わず足を止めるほど、大きな声だった。慌てたように、小山が苦笑いを浮かべる。
「まあまあ、柳田。沢木も文化祭の方で来れないって話だし、同じクラスの藤原も忙しいんだろう」
萌子からは、クラスの手伝いがあるということで、今日の練習に参加できないという連絡を、すでに小山は本人から受けていた。他にも、手品の練習があるとかで、厳巳からは欠席の連絡を受けている。
だが柳田は、ふんっ、と大きく腕組みをして、言い放った。
「だからと言って、無断で休んでいいとは言っとらん」
ただ一人だけ、右京からの連絡はないままだった。石橋は、受け持ちクラスの生徒が怪我をしたとかで、急遽練習には出られなくなったものの、笠間たちが右京のことを隠せるものでもない。
柳田は口を、真一文字に結んで、声を抑えて言った。
「この頃は調子もよくないし、このままだと、スタメン落ちするぞ。藤原も」
探していた布地が見つかりほっとしたのか、クラス委員の井口真紀は、店を出たところで小さな溜息をついて、隣の萌子に言った。
「ありがとう、沢木さん」
「ううん、私も七組の生徒なんだから、当然よ」
松浦たちが一生懸命に作った看板は、結局修正すらできないほどに破れていた為、焼却炉に捨てることになった。ところが実際に看板がなくなると、舞台裏と 調理場が客席から丸見えになってしまった為、真紀はそこを布で隠すことを提案した。誰が買いにいくか、という話になって、萌子はすぐに手を上げ、二人は ホームルーム後、こうして布を買いに来たのだった。
落語の雰囲気にあうような柄、ということで、いくつかの店を回り、やっと見つけることができた布は、これから真紀が、軽く縫製することになっていた。
「食べ物の方は大丈夫なの？」
萌子が尋ねると、真紀は力強く頷く。
「もともと、明日の分は追加で頼む予定だったから。今日もすごく売れ行きよかったのよ」
そういえば、と萌子は思い出して、真紀にお願いがあるんだけど、と言う。
「明日、一人分都合つけておいてほしいの。あんみつ。いいかな？」
「そんなのお安い御用よ」
にっこりと微笑む真紀につられるようにして、萌子も微笑む。だが、真紀はそんな萌子を見て、ふいに表情を曇らせた。
「でも、よかったの？部活」
「大丈夫。監督も、事情があれば今日は休んでいいって言ってたし、それに休んだからってすぐに辞めさせられることもないし」
「なら、いいんだけど」
どことなく真紀がすまなそうにしているので、萌子も思わずこう言う。
「確かに練習は厳しいけど、そんなに怖い部でもないのよ、サッカー部」
学校の中では、石橋が怖い体育教官として通っているせいか、どうもサッカー部まで、怖いイメージがあるようだった。
「ごめんね」
ふとそう言った真紀に、萌子は、え？と聞き返す。
「あんなこと、いうつもりじゃなかったのに」
担任が、生徒にサッカー部のことを優遇する発言をしていたことを、真紀があの場で話してしまったことだということに、萌子はすぐ気づいた。
「いいよ。それに、知らない私のほうが、井口さんとか、松浦君に甘えてたわけだし」
松浦の名前が出たせいか、真紀はもう一度溜息をついた。
「明日来るかな、松浦君。それに、藤原君も。
私、クラス委員だからなのか、よくクラスメートのこと見てるんだけど。藤原君って、こういう揉め事が一番嫌いな気がするから。しかも、間違いでも自分のせいだと言われたら、来ないんじゃないかと思って」
間違いでも、と言ってくれたことに、萌子は嬉しくなる。
見てる人は、見てくれているんだから。
「来るよ、右京は。きっと」
萌子がそう力強く言うと、真紀も微笑みかけてきた。
「沢木さんがそういうと、安心できる」
「そう？」
「彼の、一番近いところにいるかなって思うから」
たしかに真紀は、クラスメートたちを観察しているようだった。
そうね、と言ってから、萌子は右京の顔を思い出しながら言った。
「同士、だからかな」
「同士？」
萌子は小さく頷く。
「何となくだけど、昔の自分を見てるように思うの。だから、右京の思ってることが、わかるのかもしれない」
そして、おそらく今の右京は、一人どこかで心を痛めているに違いないとも、萌子は思った。
ガサガサと物音がして、知朗はまだ眠い目を擦りながら時計を掴むと、午前五時だった。いつも六時過ぎに起きる知朗には、まだ寝ていたい時間だ。
そのまま再び目を閉じようとした知朗の視界に、制服を着込んだ右京の後姿が映る。
「右京？」
声をかけると、ゆっくりと右京が知朗のほうを振り返った。
そう言えば、昨日立ちすくんでる右京を見てから、ずっと顔をあわせてねぇや。
知朗はそう思いながら、体を起こす。
「お前、昨日何時に帰ってきたんだよ？」
右京はあの後、店の当番にも、練習にも来なかった。しかも、寮の門限の十時にも帰ってこなかった。寮母である篤志の母親が玄関の鍵を閉めたのを、まだ帰ってこない右京のためにこっそり外したのは、他ならぬ知朗である。
「練習、無断で休んだとかで、ヤギさんカンカンだったんだからな」
俯きがちな右京は、だが一言も言わなかった。
「今日朝練は？」
知朗が、ぽつりとそう尋ねたが、それでも右京は何も答えなかった。
「右京？」
昨日のことで、部員たちが、レギュラーである右京を非難していたのを、知朗は知っている。しかも、柳田がレギュラーになれないと言っていた話まで、誰かが言っていたのも聞いた。
もちろん知朗は、右京のサッカーセンスも認めていたし、本人が少なくとも傲慢な性格でないことも知っていた。だからこそ、こういうことで、まるで右京の 全てを否定されるように思われるのが、心外だったし、理由があるなら、それをきちんと右京から聞いて、うるさいやつらに伝えたかった。
だが右京は、くるりと知朗に背中を向けると、小さく一言、
「行ってきます」
と言い残し、部屋を出て行った。
「おはよう」
翌日、一人遅れて第二グランドにやってきた萌子は、理香と美都にそう声をかけてから、頭を下げた。
「昨日はごめんね」
全然、と答える理香の隣で、美都が心配そうな表情で、
「クラスのほうは大丈夫？」
と尋ねた。二人には詳しく説明をしてはいなかったものの、早い時間の店終いはすでに噂になっているようだった。
「うん。何とかなる」
笑顔で萌子がそう答えると、そっかと二人は安心したように同じく笑顔を見せた。
いつもは第一グランドでの朝練であったが、文化祭で使われるために、昨日と同じく校舎から少し離れた第二グランドでの練習だった。しかし、それ以外はいつもと変わりなく、グランドを走る部員たちも、皆一同にボールを蹴りだしているところで、突然大きな声がグランドに響いた。
「おい、ふざけるなよ。
まずはダッシュ５０本だろ？藤原。それとも何か？ユース代表に選ばれたから、練習は必要ないってか？」
グランドの片隅では、ボールを蹴りに行こうとした右京に、二年の田島が怒鳴っている。
だが、不思議なことに、誰一人としてそんな右京を庇おうとはしていない。
「おい、何やってるんだ」
遅れて、笠間が二人の間に入る。
怒りで鼻息の荒い田島とは対照に、右京はいつものように涼しい表情でそこに立ち尽くしていた。
「藤原が遅刻してきたから、ペナルティを言っただけです」
まるで自分のほうが叱られたことが、心外だというように田島はそう言った。
それにしても、ダッシュ５０本は、多すぎるように思うけど。
心配そうに萌子が眺めていると、笠間はぽんと田島の肩を叩いて言った。
「そういうことは、俺が言うから。お前は、練習に戻れ」
納得がいかないというような表情を浮かべながら、田島は仕方なく頷くと、グランドの中に入っていく。萌子がホッとしていると、隣で理香が呟いた。
「またか」
「また？」
萌子がそう反芻すると、理香はこくりと頷いた。
「右京君、昨日の当番も、練習も無断欠席してるのよ。それでね、田島先輩が怒って、右京君に絡んでるわけ」
「無断？」
すると、理香も驚いた表情を浮かべる。
「萌子も知らなかったの？あたしは、てっきり萌子は知ってるものだと思ってた」
「知らないわ。でも、どうして？」
「わからないけど、昨日の門限も破ってまで出歩いてたみたいなんだよね。今朝も、知朗君の話だと、相当前に寮は出たんだって。でも練習には遅刻でしょ？
皆も不審がってるの。右京君のこと」
どうしてかと考える前に、萌子は呼ばれて振り返った。
「沢木さんっ」
「井口さん。どうしたの？」
フェンスを掴んだ手を握り締めたまま、真紀は息を切らせて叫ぶように言った。
「練習中にごめんなさいっ、でも、ちょっと来てくれる？」
振り返ると、理香も美都も、了承済み、という表情を浮かべている。
「ごめんね」
萌子はそう答えると、真紀について、校舎に向かって走っていった。
笠間は、あっさりと右京に言っただけだった。
「浜ランしてこい。そこでダッシュ５０本と、腕立て伏せと腹筋と腿上げ、各百回だ」
だが、そこについていく素振も見せないということは、右京の自主性に任せるということだろう。
右京は、すみませんでした、と謝ると、浜辺に向かって走っていこうとしたところで、ふいに笠間に言われる。
「練習を休むからには、それなりの理由があるんだろうが、きちんと誰かに言うように。でないと、怠慢だと思われても仕方ないぞ」
足を止めた右京に、笠間は続けて言う。
「今のお前に必要なのは、練習と気持ちだ。スランプは誰にだってあるが、それを乗り越えられるのは、練習でしかないし、練習を続けるには、自分を奮い立たせる強い気持ちが必要だ。予選にしても、そんなに全国は甘いもんじゃない」
右京が何も答えないでいると、笠間はそれが終わったら、朝練を切り上げて、文化祭の出し物であるたこ焼き屋の準備を手伝うようにと言った。
浜ランは、サッカー部でも最も過酷といわれるトレーニングである。
砂浜は、足を取られる為に、地上で走る何倍もの筋力が必要になるのだ。そういった意味で、笠間の課した練習は、地味だが決して軽いものではなかった。
すでに四十回ダッシュを終えた右京も、自分の息が上がっていることを感じていた。
膝に手をつき、深く呼吸をする。滴る汗が、砂浜に水玉模様を作っていた。
あと、十回。
そう思って右京が顔を上げたところで、上のほうから聞き覚えのない声がした。
「大スターが何をしてるんだ」
見上げると、道路から砂浜へと続いている階段の途中に、にやりと笑う男がいた。
「どうも」
数日前に会ったその記者の顔を、右京は思い出し、避けるようにダッシュを始めようとした。慌てたのは大内で、転がるように階段を下りてくる。
「待ってくれ」
だが、右京は無視して黙々とストレッチをするだけだった。
「また、無視か？」
耐え切れないといったように大内が言ったが、右京はそれに即答する。
「取材なら、断る」
そして、遠く一点を見つめ、走りだそうとした右京の前に、大内は立ちふさがった。
「まあ、待てって。今回は取材じゃない。
君に、いい情報をと思ったんだ」
ほんの僅かだが、右京の表情が変わったことに、気づいた大内は、にやりと心の中で笑うと、ズボンのポケットから、メモを取り出し、徐に言う。
「藤原里美さんについての情報だ」
はっと右京が大内の方を見つめる。それは、初めて右京が大内を見止めた瞬間だった。
いい目をしてる。
大内はそう思いながら、メモを右京に差し出した。
「もっとも、今は奥野里美だがな」
真紀について教室にやってきた萌子は、思わず息を呑んだ。
「これ…」
朝早い教室には、まだ誰もいなかったが、差し込む日差しに照らされるようにして、教室のど真ん中には、昨日壊れたはずのものがあった。
「看板。直ってるの。少し、不恰好なところもあるけど、全然わからないでしょ。
朝きたら、置いてあって。
いったい誰が…。沢木さん？」
真紀は、いきなり踵を返した萌子を、呼び止めたが、萌子は足を止めることなく、
「ごめん、井口さんっ。すぐに戻るからっ」
とだけ言って、教室を出て行ってしまった。
それは、直感でしかなかった。
けれど、萌子は確信していた。
なぜなら、自分もそうすることを一度は考えたから。
看板は、今度の文化祭の『三昧亭』の、いわばシンボルだった。
それを、直接でないにしても、自分が壊してしまったんだとしたら―。
自分だったら、右京だったら、何とかして直すだろうと萌子は思った。
だから、練習も休んだ。
だから、朝練も遅刻した。
決して器用ではない右京なら、どれほど時間がかかったことだろう。
第二グランドに戻ると、探している右京は見当たらずに、美都が気づいて声をかけてきた。
「あれ？萌子―」
「ねえ、右京は？」
息を切らせながら萌子がそう尋ねると、美都は首をかしげ、思い出すように答えた。
「藤原君？たしか、笠間さんに浜ラン言われて、海岸の方に行ってるけど。
あ、萌子―」
「ごめんっ、美都。後でねっ」
萌子はそう答えると、今来た道をまた戻り始めた。
海風は、いつもより荒く、萌子の頬にあたる。
弾む息を落ち着かせることもなく、海沿いの道路を渡ろうとしたところで、砂浜へと続く階段から、見覚えのある記者・大内が上ってきて、萌子に気づくとにやりと笑った。
『また、くるよ、藤原君』
グランドに突然現れたときの大内の言葉を思い出し、嫌な予感がした萌子は赤信号を無視して、道路を渡る。走っていた車が、慌てたようにクラクションを鳴らしたが、萌子は気にすることなく、大内の脇をすり抜けて、階段を駆け下りていった。
「右京っ」
思わず叫んだものの、右京はただそこに立ち尽していた。吹き荒れる風に、汗で湿った髪を躍らせながら、ただ右京は立っていた。
「…どうしたの？」
何となく、いつもと様子が違うことに気づいた萌子がそう話しかけると、ぴくりと右京の肩が動いた。だが、海を見つめたその顔は、決して萌子の方を振り向こうとはしていない。
一歩近づいたところで、何かを握っていたような右京の手から、一枚のメモ紙が風に吹かれ、萌子の足元に舞い降りた。拾い上げ、萌子はそこにかかれてあった名前を読み上げる。
「奥野、里美？誰？」
右京の表情からは、何も読み取れなかった。
それは、何も考えていないからではなく、何も考えたくないという拒絶の表情であった。
萌子ははっと思い出す。
笹川のところに、右京のことを聞きに来たという、記者。
それは、大内に違いなかった。
そして笹川は、母親のこと、家族のことをその記者に話してしまったと謝りに来たのだ。
「もしかして、お母さん？」
再び、右京の肩がぴくりとだけ動いた。
それだけで、萌子には十分な答えであった。
突風のような強い海風が、再び二人に吹き付けた。萌子はその中で、しっかりと右京の手を取る。
「…行こう、右京」
何かを握っていたような右京の手に、すっぽりと萌子の手が絡みつく。
メモには、名前を一緒に住所らしいものが書いてあった。
萌子は、もう一度力強く繰り返した。
「行こう」