Maybe Blue 第一部 海の鼓動
初嵐3
はしゃぐ生徒たちの声を、どこか遠くで聞こえながら、とりあえず集まった一年七組の生徒は床に落ちた食材の掃除を終えた。静まり返った教室のドアは、誰も入ってこないようにとすべて硬く閉ざしており、ただ重い空気だけが取り残されていた。
笹川という他校生がぶつかった『三昧亭』の看板は、笹川と一緒に勢いよく倒れ、真ん中に大きな穴を開けた。それだけであればよかったものの、看板は、 舞台の上手と、調理場を客席から隠す役目でもあった為に、看板が倒れると同時に、裏に置かれていた蜜豆や、白玉が床に散らばった。幸い生徒にも客にも被害はなかったが、そのまま落語も喫茶もできるわけがなく、追い払うように客に引き取ってもらうと、教室のドアが重々しく閉められたのだった。
誰かが深く溜息をついたのがきっかけのように、青い法被を着た中山という男子生徒が言った。
「お前のせいだよ、藤原」
教室の片隅に佇むようにして、海を眺めていた右京にクラス中の視線が集まった。
「お前のせいで、終わっちまったよ、三昧亭」
ゆっくりだが、右京が中山に視線を合わせる。その瞳の鋭さに、思わず中山は視線を逸らした。
「ちょっと中山君。そんな言い方はないんじゃないの？」
不穏な空気を感じ、クラス委員の井口真紀がそう言うと、中山はふんっ、と意気込んで言い返す。
「俺見たんだよ。お前が、あの他校生を突き飛ばしたところ」
再びクラス中の視線が右京に集まる。それは、右京に答えを求める視線でもあった。
だが、右京はそっと俯くだけで、誰の視線に答えることもしない。
萌子は、それでも右京が何かを言おうとしているようにも思えて、口を開こうとしたところ、別のクラスメートも同じく口を開いた。
「…俺も、見た」
すると、数人の生徒も、俺もと声を上げる。萌子が右京を見つめると、右京はただ俯いているだけだった。そんな右京の態度を、傲慢だと感じたのか、中山は声を荒げて叫んだ。
「お前が、壊したんだよ。看板だけじゃない、落語も、この店も。
知らねぇだろ？俺や、松浦が、これを作るのに夏休みから計画してたってこと。
お前が、女子にキャーキャー叫ばれてボール蹴ってる間に、俺たちは一生懸命この看板を、この店を一生懸命作ってたんだ。
二学期に入ってからだって、そうだ。
放課後になれば、部活のあるやつは休んでまで文化祭の準備してたのに、お前は一度も手伝わなかったし」
たまりかねたように真紀が言う。
「仕方ないよ。だって、サッカー部は試合が近いからって―」
驚いたのは、萌子だけでなく、右京もそうで、二人に突然視線を向けられた真紀が、思わず口を押さえたが、中山がそれを認めるようにきっぱりと言った。
「そりゃ、担任もそう言った、けどさ」
担任にも、誰が言ったのかわからないが、萌子はそのとき何も知らずに、平然と放課後を部活に費やしていた自分を恥じた。そして俯いた萌子と同じく、右京もそっと視線を伏せた。
そんな右京の様子を見て、中山は勝ち誇ったように言う。
「藤原は、サッカーする為だけにここに来たんだろ？
だったらいいよ、文化祭の手伝いしなくても。一生、グランドでボール蹴ってろよ。
お前にとって、試合が大事なように、俺たちにとっては、この文化祭が大事だったんだから。
それをお前が壊す権利なんか、どこにもなかったのに」
再び教室が静まり返る。萌子も、何も言えずにいると、その重い空気を一掃するように、真紀が明るい声を出す。
「もういいじゃない、看板くらい。ね、中山君も、松浦君も。
とにかく今日は、お店を片付けて、それで明日も頑張ろうよ」
それから真紀は、クラス委員の立場からか、てきぱきとクラスメートたちに掃除を命じた。何となく、動かされるようにしてだが、生徒たちが箒を持ち出した時、それまで黙り込んでいた松浦が、突然自分の鞄を掴み、誰ともなしに、呟くように言った。
「俺、帰る」
「え？」
驚いたクラスメートたちが思わず動きを止めると、松浦は、無表情のままで続けた。
「どうせ、今日の材料だって、さっき倒れてだめになったんだろ？
店も閉店だし、いても意味がねぇよ」
ガラガラとドアを開け、松浦は教室を出て行った。
たこ焼き屋は三時を過ぎ、小腹の空いた客を相手に混雑していた。
その中で、美都は慣れない接客を続けていた。
「いらっしゃいませ」
小声でそうはいうものの、笑顔のぎこちなさは隠せない。気づけば客が十人ほど並んでいる。
本来ならば、萌子と右京が一緒の当番でやってくるはずなのだが、どうしてか二人ともやってこなかった。
萌子がいたら、こっちは萌子に任せて、あたしが中で作っていられるのにな。
だが萌子はいなく、また他に接客をしてくれそうな部員はいなかった。
仕方ない。とにかく、早くやらなきゃ。
そう思う美都の心とは逆に、手つきは焦るばかりで、思うように進まない。
「ありがとうございました」
なんとかそう言って手渡したところで、たこやきのパックが、するり落ち、たこ焼きはボタッと地面にこぼれた。
「あ、うっそぉ」
客の女子中学生が声を上げる。
「あ、すみません」
美都が慌てて謝ったが、中学生たちは、とても不満そうな表情を浮かべる。
「今のって、あたしたちのせいじゃないよね」
「うん」
「え。でも」
たしかにたこ焼きのパックは、中学生の手に渡ったはずだ。だが、彼女たちはおしゃべりに夢中だったせいか、きちんと受け取れていなかったのだ。
「お姉さんが、落としたんでしょ？」
「え？」
突然そう言い返されて、美都は驚く。
けど、あたしはちゃんと渡したのに。
「ねえ、ちょっとまだなの？こっちのたこ焼き」
困っていると、次の客から声がかかった。
「あ。すぐに」
条件反射のようにそう答えたものの、目の前には自分を睨みつけるような中学生たちがいる。
どうしよ。
立ち往生している美都の後ろから、そのとき優しい声がした。
「ごめんね、これ、新しいのだから。
それから、お待ちいただいている方も、すみません。いくつですか？」
振り返ると、当番ではないはずの湊が笑顔で立っている。そして、持ってきた二つのたこ焼きを、それぞれの客に渡していた。客は、それをすんなり受け取り、店を出て行く。
それからは、湊が手伝ってくれたことで、大勢並んでいた客をさばくことができた。
「ありがとう」
ひと段落着いたところで美都がそういうと、湊はいつものようににっこりと笑って答える。
「お礼を言われるようなことでもないよ。当然のことだし」
「でも」
湊の自由時間をこうして手伝いに使わせてしまったことに、美都が謝ろうとしていると、湊はそんな美都の気持ちを察知してか、美都の言葉を遮って言う。
「俺はいつも椎名に感謝してるから、お互い様」
予想外の出来事に、サッカー部の当番の時間に遅れた萌子は、教室のほうが一段落すると一目散にグランドに向かっていた。
だが、途中の昇降口のところで、どこか見覚えのある高校生を見つけると、足を一旦止めて、その人に向かって声をかけた。
「もしかして、笹川くん、ですか？」
呼ばれた高校生は、いぶかしそうに萌子を見つめていたが、萌子の浴衣を見て、
「もしかして、あの甘味処の？」
と驚いた表情を見せた。
「はい。あの、大丈夫でしたか？」
看板が壊れたように、笹川も腰を強く打ったはずだ。気遣う萌子に、笹川は少し恥ずかしそうに答えた。
「ええ。大丈夫ですから」
そのままそそくさと帰ろうとした笹川を、だが萌子は引きとめた。
「あの…。右京とは、友達なんですか？」
恥ずかしそうにしていた笹川の表情が変わる。
「君は？」
「サッカー部のマネージャーの沢木です」
はっきりそう答えると、笹川は、
「サッカー部の。そう」
と答えて、吟味するように萌子を見つめると、なるほどね、と一言付け加えた。
焼却炉脇には、一枚の大きな板が置かれていた。その一面には鮮やかな彩の浮世絵のような人物と、達筆な『落語喫茶』という言葉が添えられていた。だが、その真ん中には大きな亀裂があり、『三昧亭』の文字は、読み取ることもできないような状態だった。
その看板を目の前に、右京は立ち尽くしていた。
「あ、おーいっ、右京っ」
ふいに上から声がして顔をあげると、階段の踊り場の窓から、知朗が顔を出していた。
「お前、屋台の当番じゃなかった？」
言われて右京は、あっと小さな声を上げそうになったが、遠くの知朗からはそんな右京の表情は見えなかった。
「さっさと行けよっ。それから、今日の練習は、第二グランド集合だってさ」
知朗がそういい終わったところで、後ろから篤志が声をかけてきた。
「知朗、体育館行こうぜ。厳巳たちの舞台が始まっちまうぞ」
「厳巳たちの舞台って、マジックショー？行く行く！」
ちらりと振り返ると、それでもまだ焼却炉を目の前に立っている右京が見える。
早く行けよ、と声をかけようとしたところで、再び篤志が言う。
「もう始まるぞっ、知朗」
一瞬だけ悩んだ知朗だが、すぐさま篤志の後を追って、階段を駆け下り始めた。
「はー、疲れた」
萌子と右京は結局時間に来なかったものの、次の当番の部員がやってきて、ようやく美都は接客から解放された。
「おなかすいたなぁ。甘いもの、あるかな」
小さく呟くと、同じく当番を終えた湊がさりげなく言った。
「テニス部のドーナツとか食べる？すぐそこだから、買ってくるよ」
「あ、ごめん。湊君。あたしちょっと予定が、あるの」
頬を少し赤らめた美都を見て、湊は相手が和美であることに気づく。
「いいえ。そういうことなら早く言ってくれって。それじゃな」
「うん。練習でね」
美都はそういうと、そそくさと人ごみに消えていった。
その後姿を見て、湊は小さな溜息をつくと、ふいに後ろから声がした。
「湊ってばいいヤツ過ぎるよな」
振り返れば、わざとらしく溜息をつくケンと、その隣でケンのわき腹をつつく成がいた。
「だって、彼氏がいる女に、いつまでたっても優しいんだもん」
「いいだろ、別に」
成がそう答えるが、ケンはそんな成の頭を小突き返すと、湊に言う。
「横で見てたらバレバレだぜ。気づかない方がおかしい。気づかない女も女だけど、彼氏も彼氏だよな。まあ、和美の場合は、そういうのもアリだけど、もし、あれで椎名は本当は気づいてて、なのに湊を利用してるとしたら、すっげぇ悪女だけどな」
美都のことをそう言ったケンに、湊はさり気なく言い返す。
「椎名はそんなヤツじゃないよ。それに、和美ともうまくやってるみたいだし」
笑顔さえ浮かべて、湊はそういう。呆気に取られたケンは、しばし口元を歪ませると、
「湊もさ、早く新しい彼女探せよな」
と湊から視線を逸らせて言った。湊は、そんなケンを見て、そっと微笑むだけだった。
落ち着いて話せるところを探して、萌子は笹川と海の目の前の駐車場に来ていた。
そのへりに座り、笹川はゆっくりと、昔話を始めた。
「藤原とは、同じ時期にクラブチームに入って、母親同士が仲良かったこともあったから、お互いに結構仲良くしてたんだ。
あいつ、小さい頃からサッカーめちゃめちゃうまくてさ。それから、信じられないかもしれないけど、昔はよく話してたし、笑ってたんだ。
それが、変わったのが、小学校四年のとき。
もともと、藤原の母親は、いつも藤原のこと送り迎えに来てたんだけど、あるとき迎えに来なかった時があってさ。連絡も何もなくて、その日は藤原一人で 帰ったんだけど、次の日から一週間くらい練習を休んだときがあったんだ。電話かけても、なんでもないとしか言わなくてさ。やっと練習に来た時には、無口で 笑わないヤツに変わってたんだ。
理由聞いても、答えないしさ。一人で練習きて、終わるとさっさと一人で帰る。話しかけても、ろくに返事もしない。その後、あいつの母親が、どうも家を出 て行ったらしいって噂が流れたこともあって、そのうちみんな、話しかけなくなっていって、藤原はいつも一人でいるようになったんだ」
噂、というところで、萌子は思わず尋ねる。
「その噂って、愛人と出て行ったっていう話？」
笹川は、萌子の問いかけに、小さく頷いた。
「やっぱり、聞いたんだ。それ、舟越だろ？あいつ、昔から藤原のこと敵視してたんだ。
実際は、わからないよ。でも、母親が、藤原と父親を置いて、家を出て行ったのは本当」
そう、と萌子は溜息とも取れる返事をする。
だが、笹川の話はまだ終わらなかった。
「その後、父親は事故で亡くなって、藤原は、父親の妹の家庭に預けられたんだけど、あまりうまくいってなかったみたい。あいつの同じ中学のヤツからそういう話、聞いたことあるし。だから」
そこで、笹川は少し俯いた。
「だから、急に凪浜に行くって言い出したんだと思う。
そうすれば、寮に入るってのを理由に家を出て行けるから」
ふいに萌子の脳裏に、教室で一人海を眺めている右京が過ぎった。
教室にいても、部活にいても、右京だけは、そこにいるのに、周りに溶け込んでいなかった。だが目立たないというより、むしろ目立つ存在なのだが、決して 溶け込もうとしない。他のクラスメートたちからすれば、自分たちを拒否されている感じにとられても仕方ないような態度にも思えた。だがそれは、もしかした ら、自分がいる場所を探しているんじゃないかと、ふいに萌子は思った。
探してるくせに、求められても、それを信じようとしない。
萌子は、いつも自分の殻に閉じこもっている右京に、ほんの少し近づけたような気がした。
海風が、萌子の髪を揺らして、隣の笹川が溜息をつくのがわかった。
ふいに萌子はずっと考えていたことを口にした。
「どうして、笹川君は、今日右京のところに？」
すると笹川は、気まずそうな表情を作り、海に向かって説明をした。
「実はさ、一週間くらい前に、変な記者がクラブにやってきて、藤原のこと嗅ぎまわってたんだ。俺、何の気なしに話しちゃってさ。母親のこととか、家のこと。それを謝りに来たんだ。けど、あいつにとっては、俺そのものが迷惑だったみたいだな。まるっきり無視されたもん」
笹川は倒れたときに怪我をした左手首を見つめる。萌子はクラスメートたちが右京が笹川を押したと言っていたことを思い出し、頭を下げた。
「ごめんなさい。右京が押したって」
「誰が言った？」
僅かだが、笹川の表情が険しくなる。萌子は疑問に思いながら、そのままに答える。
「クラスメートが言ってたけど―」
「藤原は？」
「…何も言わなかったわ」
どうして？と尋ねる前に、笹川はくすっと笑うと優しく呟いた。
「相変わらずだな」
その一言で、萌子は全てを理解した。
「…違うのね」
小さく笹川は頷く。そして、萌子のほうへと向き直った。
「藤原の名誉の為に言っておくと、話しかけた俺を無視しようとしたから、むっとして俺があいつの肩を掴んだんだ。それで、あいつが振り払ったんだけど、俺が油断してたからさ、軽く腕があたって、それでバランス崩して、倒れちまったんだ。
そういうところも、本当に変わらないよな」
笹川はそう言って、再び海に顔を向けた。
何も言わないことで、右京は嘘をつくことなく、自分にだけ罪をかぶせたのだ。
「本当は、俺。…藤原に会いたかったんだ。あいつがボール蹴ってるところ、生で見たかった。
ずっと憧れてたからさ、藤原に。いつかは追い越してやろうってやってきてたのに、急にいなくなるんだもん。目標を失って、俺のサッカーもがた落ち」
え？と聞き返す萌子に、笹川は再びくすくすと笑った。
「なんてのは、冗談。けど、今、スランプでさ。
何でかな、それで、あいつに会いたくなったんだ。無性に。
スランプなんてないような顔して、飄々と器用にボールを蹴るあいつに」
凪高祭の初日が終わるまで、あと三十分を切っていた。それが終われば、サッカー部は来週に迫った試合に向けての練習が待っている。
それまでの空き時間だった。成はケンと一緒になんとなく、校内をぶらぶらと歩いたところで、通りかかった教室の前でふと足を止めた。
「あれ？」
一年七組。つまりは萌子のクラスだ。
昼の時間には人がごった返していたというその教室のドアは閉められており、また入り口にかけられていた暖簾も、外されてあった。
「休憩ってこと？」
「けど、あと三十分で今日は終わりだぜ」
ケンはそう言ってドアを開けようとしたが、鍵がかかっているのか開かなかった。
「どういうことだ？」
駅と、学校との別れ道となったところで、笹川は軽く手を上げた。
「それじゃ、藤原のこと頼みます。彼女なんでしょ、沢木さん」
「え？いいえ、違うわ」
唐突に言われて、萌子は大きく首を左右に振る。それに驚いたのは、むしろ笹川の方だった。
「そう？けど、舟越が言ってたぜ。藤原はもう、マネージャーをたらしこんでるって。たらしこんだとは思わないけど、それって沢木さんのことだろ？それに、藤原のこと、よくわかってるみたいだったし」
「舟越君が誤解してるのよ」
萌子は数回だけ会った右京のクラブチーム時代の仲間の顔を思い出した。
「誤解。そう」
笹川は納得したのか、そう呟いてから、背中越しに広がる海を惜しむように振り返って眺めた。
「それにしても、いいところだね、凪浜って。舟越の家もこの近くらしいけど、田舎だし、潮風が辛いってよく言ってる。
でも、俺は好きだな。藤原が、どうしてここに来たのかが、少しだけわかった気がする」
そういって、大きく伸びをすると、笹川は再度、萌子に向かって、頭を下げた。
「俺がいうことじゃないんだろうけど、それでもやっぱり。藤原のこと、よろしくお願いします。
あれでいて、昔は、本当に母さんっ子で、あいつがサッカー始めたのも、父親との仲がうまくいってなかった母親が喜ぶからってくらい、優しいところあるし。本当は、強いヤツじゃないと思うから」
そして頭を上げると、それじゃと一言いい、笹川は颯爽と駅に向かっていった。
本当は、強いヤツじゃないと思うから。
看板のことで詰られた右京の、少し哀しそうな表情と重なって、その言葉は、萌子の心に深く刻まれた。
そんな萌子の脇を、凪高から出てきた学生が通り抜けていく。彼らが手にしていたたこ焼きを見て、はっと気づいた萌子は、慌ててグランドの方へと、慣れない浴衣姿で走り始めた。
「ごめんなさいっ」
萌子がサッカー部のたこ焼き屋に着いたときには、朔哉が売り子となって客にたこやきを渡しているところであった。当番は萌子なのだが、いろいろあって、すっかりそのことを忘れていた。
「いいって。大丈夫だから」
朔哉はそう言って、にっこりと笑うものの、萌子は必死に謝る。
「明日は、もっともっと働きます」
凪高祭の一日目は、もう終了する時間であった。奥のほうでは片づけすら始められている。慌てて萌子もその手伝いに加わろうとするが、朔哉がそれを止めに入った。
「いいって。それよりさ、萌ちゃんところのあんみつ、ほしいな。三時くらいに行ってみたら、閉まってるみたいだったからさ。早いんだな、閉店時間」
一瞬だけ、片づけをしていた萌子の手が止まる。
「あ、はい。ちょっと」
曖昧に答えたが、朔哉は何か感づいたようだった。
「何かあった？」
間をあけて、萌子は首を左右に振った。
「いえ。材料が、なくなっちゃって」
「そうか、すごいな。完売か」
その朔哉の答えに、思わず萌子も返す言葉をなくしていた。
「じゃ、明日でも、行くよ」
だが萌子には、明日も店をやっている自信はなかった。
「あの、もしかしたら、一人分くらいのあんみつは、あるかもしれないです」
朔哉が甘党であることを思い出し、そう言う萌子だったが、朔哉はそっと微笑みながらそれを断った。
「明日、行くからさ」