Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏海8
「そっか。朔哉くんは凪浜高だったんだ。だから、海、見たかったんだね」
「まぁ…。うん」
偶然というのはおそろしいと思いながら、朔哉はそう答える。
自分が出会ったのが、三上さんの彼女だったなんて。
おそらく、笠間は知っていることなのだろうが、萌子はどうなのだろうか。
一瞬そう思った朔哉は、自分の考えをすぐに否定した。
萌チャンが知っていたら、あんなにはっきりと三上さんが好きだなんて言うわけがない。
でも、いるとわかったら、彼女はどうするんだろうか。
そうしてまた、傷ついていくんだろうか。
考え込む朔哉に、亜衣が明るく言う。
「退院する前に、待ち人、来てくれてよかったね」
「え？」
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど。話、聞いちゃった。それで、きっと朔哉くんが待っていたのは、あの子…沢木さんだったのかなって思って」
当たっているだけに、朔哉は何も答えられずに戸惑いながら俯いた。
本人には伝わらないのに、どうしてこう他人には伝わってしまうんだろうか。
だが、次の瞬間、朔哉は気づいて顔を上げた。
「…あの、彼女。別に悪気は」
何も知らなくても、自分の恋人のことを好きだと聞かされて、気分がいいはずがない。そう思った朔哉に、亜衣は、小さく頷いて答えた。
「わかってる。そういう気持ちは、わたしにもわかる。でも」
亜衣はそう言って、もう一方のベンチに視線を向ける。そこには立ち上がろうとしている良次を、引きとめる三上がいた。亜衣が、小さな声で呟く。
「良次くん、なんか誤解しちゃったかもしれないな」
どういうことか、と萌子が笠間に尋ねる前に、先に笠間が話出してくれた。
きっかけは、笠間の怪我だった。
「俺が入院してるときに、彼女と知り合って、その時見舞いに来てくれていた三上が彼女を好きになった。彼女は白血病の治療で入院してたんだ。
一時は退院したんだけど、再発して、再入院。今は、治療の為の放射線で、彼女の髪はほとんど抜け落ちている。ドナーも見つからなくて、すでに癌は全身に転移してるそうだ」
重苦しい空気の中で、ようやく萌子は口を開いた。
「知ってるんですか？三上さんは」
「もちろん。三上の家族も知ってるし、彼女の家族も、本人も知ってる。
期間限定の恋なんだって、茶化して三上がいう時があるけど、その通りなんだ」
ゆっくりと萌子は顔を上げた。朔哉と話している亜衣は、だが幸せそうに微笑んでいる。その笑顔を見ているのが、萌子は何だか辛く思えて、思わず俯いた。
笠間は、それでも淡々と語り続けている。
「もちろん、はじめからそう思って恋をしたわけじゃない。でも、気づいたら、恋をしていた。そう三上が言ってたことがある。白血病は不治の病じゃないし、付き合い始めてから、全身転移のこともわかったんだ。それから彼女の余命のことも。
でも、そのことがわかった時、彼女は三上に別れてほしいと言ったんだ」
「どうして？別れようと？」
病気のこと、あと一年ということ。
淡々と語る亜衣に対して、朔哉の表情は強張ったままだった。
だが、そう聞き返した朔哉に、亜衣は最高の笑顔を見せる。
「だって。三上君のこと好きだから。好きな人を一人にはしておけないでしょう？
でも、わたしは長くは生きられないし、だからって三上君も一緒に、なんてことは、私が一番望んでいない。だからね、別れた方がいいと思ったの。お互いに。その時、三上君はあと一年なんてこと知らなかったし。だから、別れようって言ったの」
あくまでも亜衣の声は明るい。朔哉は余計に切なくなり、小さな声で尋ねた。
「…別れたんですか？」
亜衣は小さく首を振った。
「考えさせてほしいって言われて、それから一週間くらい、連絡来なかった」
「答えが出せないままの三上に、彼女の両親は、むしろ彼女のために傍にいてやってほしいと頼んできたんだ。
悩んでたよ、その時の三上。自分も傍にいたい。でも、自信がないと言っていた。最後まで、笑って彼女を見送る自信がないって。多分、あの時は…本気で別れようとしてた」
笠間はそう言って、空を仰ぐ。
「何かしてやりたいんだけど、悩んでる二人に俺は何もできなくて、そんな時、良次が言ったんだ。
兄貴はどうしたいんだ。
その時、三上は純粋に、彼女と一緒にいたいんだと言った。
それが、答えだった。
そう気づいてからは、彼女が逃げようとしても、三上はずっと一緒にいたいと言い続けた。限られた時間しかないのなら、その時間、精一杯彼女と一緒にいたいし、わかりあいたい。嘘とか、そういうことをついている時間すら、僕らにはない。そう言ってね」
「だから、わたしも言ったの。
お互いに、お互いの存在が辛くなったら、別れましょうって。それまでは、ずっと一緒にいようって」
そこで亜衣は大きく深呼吸をした。
だが朔哉は、体も強張ったままに、言葉をなくしていた。
亜衣は淡々と、簡単な言葉で話してはいるが、その事の重さは朔哉にもわかる。
太刀打ちなど、できるはずない。
固い絆で、結ばれてる二人を。
萌チャンの、偽りの気持ちでは。
その時、ふいに亜衣が立ちあがった。
「あ、良次くんっ―」
その視線の先では、ついに三上を振り払った良次が、萌子の前に立ち塞がっていた。
俯いたの視界に、大きな黒い影が現れて、萌子が顔を上げると、自分を睨み続ける良次がいた。
「沢木って言ったよな」
「は、い…」
思わず言葉をつまらせた萌子に、良次はいきなり低い声で脅すように言った。
「ふざけるなよ」
「おい、良次。やめろって」
追ってきた三上が、慌てて萌子から良次を引き離すように腕をとった。良次はそれを振り払いはしなかったが、ただじっと萌子を睨んだままで言った。
「兄貴と、亜衣の仲に割って入るようなことしてみろ。俺がただじゃすませねぇ」
「良次っ、やめろっ」
「良次君っ」
亜衣が慌てて駆けつけて、そのか細い腕で良次を抑えた。
「彼女は何も知らないのよ。何も」
「知らないことで全てが許されると思うなっ」
「俺が話すから、良次。落ちつけ」
腕を捉える三上を振り払いそうな勢いの良次に、笠間が立ちあがって、呟くように言った。
「話したよ、全部。俺が今、話したから」
屋上に現れた三上は、萌子に悪かったとまず謝った。
「すまない。弟が。悪気があってのことじゃないんだ」
「わかってます」
陽が暮れてきたからと、中庭から病室に入ることになって、萌子に屋上で待っててくれるよう言ったのは、三上だった。強い風が時折吹き抜けるこの屋上は、眼下に広がる木々のざわめきが波のようにも聞こえ、萌子にどこか海辺を連想させた。
「ただ。君が、ぼくを好きだとか聞いたらしくて、誤解して」
誤解、とそう言った三上に、萌子は小さな声で答える。
「…誤解じゃ、ないです。あたし…」
その先を言えなかったのは、亜衣とのことを知ってしまったこともある。
だが実際は、三上が萌子の言葉を待つことなく、話始めたせいでもあった。
「でも君の目は、僕を見ていない」
言い当てられた萌子が顔を上げると、三上は萌子をじっとみつめていた。
「サッカー部員の悩みごとを話していた時の君は、まっすぐに僕の目を見つめていた。ゆるぎない強い視線だった。
でも今の君は、僕の目すら見れない」
「それは…」
答えられない萌子の気持ちを、三上が代弁して言った。
「怖いから？」
言い当てられて、萌子はまたも黙り込む。
「どうして怖いと思う？
君が、自分に嘘をついていて、それを見抜かれるのが怖いからじゃないかな」
「そんなことありません、わたしは―」
顔を上げたが、やはり三上の目はまっすぐ見ることができなかった。俯く萌子に、三上は微笑んで言う。
「目を閉じてごらん」
萌子は素直に目を閉じる。
「波の音、思い出して」
木の葉の揺れる音が、そのまま波音になって萌子の心に響く。
すべてを洗い流すような音だった。
自分を覆っているもの全てを押し流し、本当の気持ちだけが残されるような感覚。
でも、不思議と怖くはなかった。
隣に、誰かがいるように思えたから。
誰？
そう思った萌子の気持ちに答えるように、三上が言う。
「それで頭に浮かんだ人が、今、君が一番必要としてる人だよ」
はっとして目を開けると、三上は優しく微笑んでいた。
「さぁ、目を閉じて」
萌子は小刻みに首を振る。そして必死に言っていた。
「あたしは、好きです。三上さんのこと」
そう口にしなければ、何かが変わってしまいそうで、萌子は怖かった。焦るように口走った萌子に、三上はゆったりと微笑みかけた。
「君のことは、いい後輩だと思ってる。少しくらい、頑固だけどね。かわいい後輩だ」
萌子はそれでも小刻みに首を振った。
違う、と言いたかった。
だが、三上は、そんな萌子を見て、悲しそうな表情になる。
「今の僕にとっては、亜衣が何より大事なんだ」
わかっていたことではあった。
だが、本人から言われてみると、その言葉は思った以上に強く、萌子は俯いた。
暮れかけた夕焼けの赤が、それでも視界を掠め、眩しかった。
ごめん、という小さな三上の声がやけに遠く感じた。萌子がそれでも小さく首を左右に振ると、三上のやわらかな声が、聞こえてきた。
「人生には、どうしようもならないこともあれば、思いもよらない嬉しい出来事もある。だから僕は、すべてを受け入れることにしたんだ。受け入れて、そして僕が思ったことに正直に、思ったように実行する。そうすれば、意外に人生も悪くないなと思えたんだ。
君に何があったのかは、僕からは聞かない。すごく楽しかったこともあったろうし、すごく悲しいこともあったと思う。そして君のことを、褒める人もいれば、貶す人間もいたと思う。
でも、君が正しかったか、それとも間違っていたのか。それを判断するのはまず君自身なんだよ。
君は、少しばかり自分を責めすぎる。
だからね。
もう少し、楽になってごらん。
君は一人じゃないし、
君は悪くない。
いつか、すべてがうまく行くときが来るから。
その時、胸を張っていれるように、せめて自分に正直に生きてほしい。
それが、君の告白に対する僕の答えだよ」
一人になって、しばらくしたところで、屋上のドアが開く音がした。それから、ゆっくりとした足音が萌子に近づき、そして、隣に来たところで止まった。萌子に向って吹いていた風も、そこに朔哉が立ったおかげで、いくらか和らいでいた。
「どうか、した？」
手すりにもたれている萌子に、そう朔哉は話しかける。陽はほとんど落ちていた。萌子は一番星を見上げて答える。
「ふられちゃいました」
そうしていないと、涙が零れてしまいそうだった。
「好きだって言ったら、嘘だって。…そんなこと、ないのに」
確かに、三上と亜衣の関係からすれば、自分の想いなど、薄っぺらいものかもしれなかった。それでも、と萌子は思う。
それでも、好きだと思ったのに。
遠い目をしている萌子を見つめながら、朔哉は小さく溜息を付いて答える。
「好きという気持ちは、人によって、感じ方が違うから」
「感じ方？」
「そう。
その人に触れていたいというのも、恋だし、
その人と一緒にいたいというのも、恋だ。
その人に、自分を理解してほしいと言うのも恋だし、
その人がいるだけで、元気が出てくるというのも、恋だ。
でも、そう感じるのは、決して恋だけじゃない。友人にだってそう思うこともあるだろうし、尊敬する人だってそうだろ？」
萌子は小さく頷いて、そのまま視線を、今度は朔哉に移す。
「難しい、ですね。
…先輩は？」
「え？」
突然、そう言われて、朔哉は戸惑った。萌子は、まっすぐに朔哉だけを見つめていた。
「福山先輩は、どんなときに、それが恋だと思いますか？」
触れてみたい、とも思った。
一緒にいたい、とも思った。
何よりも、理解してほしい。そう思っていた。
だが、この数日間、離れていて思ったことは、ただひとつであった。
「その人に、会いたいと思った時。かな」
凪浜に戻ってきたところで、改札の外に見覚えのある二人を、萌子は見つけた。
「あれ？理香。…美都も」
気づいた笠間は、それじゃ、と萌子に手を振って寮に戻っていく。萌子に気付いた二人も急いで駆け寄ってきた。
「ヤナギさんから聞いたの。三上さんのこと。その…。彼女のことも」
そう言った理香の方が、まるでふられたみたいで、萌子は微笑んで答える。
「うん。会ってきたよ。素敵な人だった」
そして、美都とも目を合わせる。美都も、いつもの優しい笑みを浮かべていて、安心した萌子は大きく吸った息を吐き出しながら、言った。
「ふられちゃった、あたし」
途端に、萌子の両手を理香がぎゅっと握り締めた。
「大丈夫っ。萌子には、絶対絶対、素敵な彼ができるから。ねっ、美都」
「うん」
二人の友情に感謝して、萌子は微笑み返す。
「ありがと」
ふふふと美都とも笑いあったところで、理香が突然声を上げる。
「よぉしっ、これからアルジャーノンに行って、おいしいケーキでもご馳走になろうっ」
「あれ？理香。篤志はいいの？」
「いいのいいの、あんなの。だって、あたしに一言も言わずに、勝手に家に戻っちゃったんだからっ。
和美くんも、美都の誘いを断って、今日はゲームセンターで遊んでるみたいたし、ね、美都」
「うん」
「今日は男子のことなんか忘れてっ、食べまくるんだからっ、ねっ」
練習後、右京は田村に呼び出されていた。その真ん中の席に、田村は座っていた。
広いミーティングルームには、ただ二人だけしかおらず、右京は仕方なく、田村に指示された真正面の席ではなく、そのひとつ隣に座る。
そんな右京に溜息をひとつこぼし、田村は口を開いた。
「明日には正式に発表するが、君には次の合宿にも参加してもらう。もちろん遠征にもだ」
驚いたように右京は顔を上げる。
今日の乱闘で、メンバーからは外されたものだと思っていた。
田村は、それを見越したかのように、表情は険しいまま話を続ける。
「舟越とのことはわかってる。舟越が試合中に何を言ったのかは知らないが、手を上げるのはよくない。だが、そのペナルティーを含めても、私のチームに君は必要なんだ」
訴えかけるように言われ、右京はそっと視線を逸らす。だが、田村はそんな右京を追い掛けるように続けた。
「どうして、手を上げた？無関心とも思えるクールさが、冷静さが、君の持ち味だったはずだ」
だが、右京は答えない。田村は、また小さく溜息をつく。
「…このまま凪浜にいても、君の為にならない。
はっきり、言おう。無駄な三年間を過ごすだけだ。
いったい、どうすれば、君は私の言うことに耳を傾けてくれる？」
ぴくり、と右京の肩が動いたが、それでも視線を決して田村に向けようとはしない。
「藤原さんは、この話を快く引き受けてくれた。君が海外のチームで勉強するというのであれば、できるかぎりのことはすると。援助なら、できるかぎり私がするから、君が金銭的なことを心配することもない。藤原さん夫婦に、遠慮することもないんだ」
一瞬だけ、右京が田村の顔を見つめた。
だが、本当にそれは一瞬だけで、話がそれだけだと感じた右京はすぐに席を立つ。
「何だったら、僕のところに養子に来てもいい。そのくらい、私は本気なんだよ」
そう言った田村の声は、だが虚しく広いミーティングルームに響くだけだった。そうして、ドアの閉まる音が、田村の三回目の溜息をかき消していった。
萌子は裸足のまま、早朝の砂浜に立っていた。
寄せてはかえす波が、萌子の足をくすぐりながら、流れていく。
心地よい、波の音であった。
何もかも、忘れさせてくれるような音だった。
太陽が、海を照らし、まぶしさで萌子は目を閉じる。
潮風に包まれるようにして、萌子は波にあわせるように体を揺らす。
だが、次の瞬間、ふいに隣に、誰かがいるように思えてその動きを止めた。
誰？
萌子が目を開けて、振り返ると、そこには久しぶりに見る成がいた。
「「あ」」
二人の声が合わさる。
そして、二人は同時に口を開いた。
「おかえり」
「おはよう」
おかえり、と言ったのは萌子で、おはよう、と言ったのは成だ。
二人は慌てて、もう一度口を開く。
「おはよう」
「ただいま」
今度は、おはよう、と言ったのが萌子で、ただいま、と言ったのが成だった。
くすくすと笑う萌子につられて、成も微笑む。小麦色の肌と、白い歯とのコントラストに、思わず萌子は言う。
「焼けたね」
「ずっと走りまくってたから」
「そう」
一週間。
ずっと長かったように思えたが、こうして萌子と顔をあわせると、あっという間だったようにも思えた。萌子が、さらに綺麗になっているように思えて、思わず成は聞く。
「なにかあった？」
「うん、成は？」
「俺も」
話したいことは沢山あった。
合宿のこと、友達になった平太のこと、舟越のこと、そして、右京の母親のこと。
だが、それよりも、成は萌子のことを知りたいと思った。
「何があった？」
萌子は海からあがって、成の横にやってくる。成がタオルを差し出すと、ありがとうと足を拭いた。今までは、海に浸かると気持ちよかったのに、この頃はずっと浸かっているとひんやりと寒くなってくる。それは、秋の訪れを感じさせた。
「ケンは、今実家に帰ってる。多分、今日あたりは亮子ちゃんとデートしてるんじゃないかな」
「そか」
「それから、家出してた篤志は無事に家に帰ったし。怪我した福山さんも、退院して、今日から練習に参加するし」
靴下を履きながらそう言った萌子の隣に腰を下ろし、成は尋ねる。
「萌子は？」
「え？」
「萌子は、何があった？」
微笑みかける成の瞳は、相変わらず優しそうで、萌子は安心して思わず答えていた。
「失恋、したの」
「え？」
言葉をなくした成に、萌子は無言で微笑みかける。
だからこそ、成は余計混乱してしまう。
失恋した、なのに笑顔？
というか、萌子って、好きなヤツ、いたのか…。
ああ、そっか。
「…だから…」
ふられたんだ、と一瞬成は落ちこんだ。だが、そんな成に、平太の力強い声が語りかけてくる。
『だってさ、好きだって思うから、仕方ねぇじゃん』
…だよな。
靴下を履き終わった萌子は、立ちあがり、スカートについた砂を払いながら成に話しかける。
「練習、そろそろ始まるね」
「ああ、いこっか」
慌てて成も立ちあがる。
「うん」
そして二人は、ゆっくりと階段を登りはじめた。
「まぁ…。うん」
偶然というのはおそろしいと思いながら、朔哉はそう答える。
自分が出会ったのが、三上さんの彼女だったなんて。
おそらく、笠間は知っていることなのだろうが、萌子はどうなのだろうか。
一瞬そう思った朔哉は、自分の考えをすぐに否定した。
萌チャンが知っていたら、あんなにはっきりと三上さんが好きだなんて言うわけがない。
でも、いるとわかったら、彼女はどうするんだろうか。
そうしてまた、傷ついていくんだろうか。
考え込む朔哉に、亜衣が明るく言う。
「退院する前に、待ち人、来てくれてよかったね」
「え？」
「ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど。話、聞いちゃった。それで、きっと朔哉くんが待っていたのは、あの子…沢木さんだったのかなって思って」
当たっているだけに、朔哉は何も答えられずに戸惑いながら俯いた。
本人には伝わらないのに、どうしてこう他人には伝わってしまうんだろうか。
だが、次の瞬間、朔哉は気づいて顔を上げた。
「…あの、彼女。別に悪気は」
何も知らなくても、自分の恋人のことを好きだと聞かされて、気分がいいはずがない。そう思った朔哉に、亜衣は、小さく頷いて答えた。
「わかってる。そういう気持ちは、わたしにもわかる。でも」
亜衣はそう言って、もう一方のベンチに視線を向ける。そこには立ち上がろうとしている良次を、引きとめる三上がいた。亜衣が、小さな声で呟く。
「良次くん、なんか誤解しちゃったかもしれないな」
どういうことか、と萌子が笠間に尋ねる前に、先に笠間が話出してくれた。
きっかけは、笠間の怪我だった。
「俺が入院してるときに、彼女と知り合って、その時見舞いに来てくれていた三上が彼女を好きになった。彼女は白血病の治療で入院してたんだ。
一時は退院したんだけど、再発して、再入院。今は、治療の為の放射線で、彼女の髪はほとんど抜け落ちている。ドナーも見つからなくて、すでに癌は全身に転移してるそうだ」
重苦しい空気の中で、ようやく萌子は口を開いた。
「知ってるんですか？三上さんは」
「もちろん。三上の家族も知ってるし、彼女の家族も、本人も知ってる。
期間限定の恋なんだって、茶化して三上がいう時があるけど、その通りなんだ」
ゆっくりと萌子は顔を上げた。朔哉と話している亜衣は、だが幸せそうに微笑んでいる。その笑顔を見ているのが、萌子は何だか辛く思えて、思わず俯いた。
笠間は、それでも淡々と語り続けている。
「もちろん、はじめからそう思って恋をしたわけじゃない。でも、気づいたら、恋をしていた。そう三上が言ってたことがある。白血病は不治の病じゃないし、付き合い始めてから、全身転移のこともわかったんだ。それから彼女の余命のことも。
でも、そのことがわかった時、彼女は三上に別れてほしいと言ったんだ」
「どうして？別れようと？」
病気のこと、あと一年ということ。
淡々と語る亜衣に対して、朔哉の表情は強張ったままだった。
だが、そう聞き返した朔哉に、亜衣は最高の笑顔を見せる。
「だって。三上君のこと好きだから。好きな人を一人にはしておけないでしょう？
でも、わたしは長くは生きられないし、だからって三上君も一緒に、なんてことは、私が一番望んでいない。だからね、別れた方がいいと思ったの。お互いに。その時、三上君はあと一年なんてこと知らなかったし。だから、別れようって言ったの」
あくまでも亜衣の声は明るい。朔哉は余計に切なくなり、小さな声で尋ねた。
「…別れたんですか？」
亜衣は小さく首を振った。
「考えさせてほしいって言われて、それから一週間くらい、連絡来なかった」
「答えが出せないままの三上に、彼女の両親は、むしろ彼女のために傍にいてやってほしいと頼んできたんだ。
悩んでたよ、その時の三上。自分も傍にいたい。でも、自信がないと言っていた。最後まで、笑って彼女を見送る自信がないって。多分、あの時は…本気で別れようとしてた」
笠間はそう言って、空を仰ぐ。
「何かしてやりたいんだけど、悩んでる二人に俺は何もできなくて、そんな時、良次が言ったんだ。
兄貴はどうしたいんだ。
その時、三上は純粋に、彼女と一緒にいたいんだと言った。
それが、答えだった。
そう気づいてからは、彼女が逃げようとしても、三上はずっと一緒にいたいと言い続けた。限られた時間しかないのなら、その時間、精一杯彼女と一緒にいたいし、わかりあいたい。嘘とか、そういうことをついている時間すら、僕らにはない。そう言ってね」
「だから、わたしも言ったの。
お互いに、お互いの存在が辛くなったら、別れましょうって。それまでは、ずっと一緒にいようって」
そこで亜衣は大きく深呼吸をした。
だが朔哉は、体も強張ったままに、言葉をなくしていた。
亜衣は淡々と、簡単な言葉で話してはいるが、その事の重さは朔哉にもわかる。
太刀打ちなど、できるはずない。
固い絆で、結ばれてる二人を。
萌チャンの、偽りの気持ちでは。
その時、ふいに亜衣が立ちあがった。
「あ、良次くんっ―」
その視線の先では、ついに三上を振り払った良次が、萌子の前に立ち塞がっていた。
俯いたの視界に、大きな黒い影が現れて、萌子が顔を上げると、自分を睨み続ける良次がいた。
「沢木って言ったよな」
「は、い…」
思わず言葉をつまらせた萌子に、良次はいきなり低い声で脅すように言った。
「ふざけるなよ」
「おい、良次。やめろって」
追ってきた三上が、慌てて萌子から良次を引き離すように腕をとった。良次はそれを振り払いはしなかったが、ただじっと萌子を睨んだままで言った。
「兄貴と、亜衣の仲に割って入るようなことしてみろ。俺がただじゃすませねぇ」
「良次っ、やめろっ」
「良次君っ」
亜衣が慌てて駆けつけて、そのか細い腕で良次を抑えた。
「彼女は何も知らないのよ。何も」
「知らないことで全てが許されると思うなっ」
「俺が話すから、良次。落ちつけ」
腕を捉える三上を振り払いそうな勢いの良次に、笠間が立ちあがって、呟くように言った。
「話したよ、全部。俺が今、話したから」
屋上に現れた三上は、萌子に悪かったとまず謝った。
「すまない。弟が。悪気があってのことじゃないんだ」
「わかってます」
陽が暮れてきたからと、中庭から病室に入ることになって、萌子に屋上で待っててくれるよう言ったのは、三上だった。強い風が時折吹き抜けるこの屋上は、眼下に広がる木々のざわめきが波のようにも聞こえ、萌子にどこか海辺を連想させた。
「ただ。君が、ぼくを好きだとか聞いたらしくて、誤解して」
誤解、とそう言った三上に、萌子は小さな声で答える。
「…誤解じゃ、ないです。あたし…」
その先を言えなかったのは、亜衣とのことを知ってしまったこともある。
だが実際は、三上が萌子の言葉を待つことなく、話始めたせいでもあった。
「でも君の目は、僕を見ていない」
言い当てられた萌子が顔を上げると、三上は萌子をじっとみつめていた。
「サッカー部員の悩みごとを話していた時の君は、まっすぐに僕の目を見つめていた。ゆるぎない強い視線だった。
でも今の君は、僕の目すら見れない」
「それは…」
答えられない萌子の気持ちを、三上が代弁して言った。
「怖いから？」
言い当てられて、萌子はまたも黙り込む。
「どうして怖いと思う？
君が、自分に嘘をついていて、それを見抜かれるのが怖いからじゃないかな」
「そんなことありません、わたしは―」
顔を上げたが、やはり三上の目はまっすぐ見ることができなかった。俯く萌子に、三上は微笑んで言う。
「目を閉じてごらん」
萌子は素直に目を閉じる。
「波の音、思い出して」
木の葉の揺れる音が、そのまま波音になって萌子の心に響く。
すべてを洗い流すような音だった。
自分を覆っているもの全てを押し流し、本当の気持ちだけが残されるような感覚。
でも、不思議と怖くはなかった。
隣に、誰かがいるように思えたから。
誰？
そう思った萌子の気持ちに答えるように、三上が言う。
「それで頭に浮かんだ人が、今、君が一番必要としてる人だよ」
はっとして目を開けると、三上は優しく微笑んでいた。
「さぁ、目を閉じて」
萌子は小刻みに首を振る。そして必死に言っていた。
「あたしは、好きです。三上さんのこと」
そう口にしなければ、何かが変わってしまいそうで、萌子は怖かった。焦るように口走った萌子に、三上はゆったりと微笑みかけた。
「君のことは、いい後輩だと思ってる。少しくらい、頑固だけどね。かわいい後輩だ」
萌子はそれでも小刻みに首を振った。
違う、と言いたかった。
だが、三上は、そんな萌子を見て、悲しそうな表情になる。
「今の僕にとっては、亜衣が何より大事なんだ」
わかっていたことではあった。
だが、本人から言われてみると、その言葉は思った以上に強く、萌子は俯いた。
暮れかけた夕焼けの赤が、それでも視界を掠め、眩しかった。
ごめん、という小さな三上の声がやけに遠く感じた。萌子がそれでも小さく首を左右に振ると、三上のやわらかな声が、聞こえてきた。
「人生には、どうしようもならないこともあれば、思いもよらない嬉しい出来事もある。だから僕は、すべてを受け入れることにしたんだ。受け入れて、そして僕が思ったことに正直に、思ったように実行する。そうすれば、意外に人生も悪くないなと思えたんだ。
君に何があったのかは、僕からは聞かない。すごく楽しかったこともあったろうし、すごく悲しいこともあったと思う。そして君のことを、褒める人もいれば、貶す人間もいたと思う。
でも、君が正しかったか、それとも間違っていたのか。それを判断するのはまず君自身なんだよ。
君は、少しばかり自分を責めすぎる。
だからね。
もう少し、楽になってごらん。
君は一人じゃないし、
君は悪くない。
いつか、すべてがうまく行くときが来るから。
その時、胸を張っていれるように、せめて自分に正直に生きてほしい。
それが、君の告白に対する僕の答えだよ」
一人になって、しばらくしたところで、屋上のドアが開く音がした。それから、ゆっくりとした足音が萌子に近づき、そして、隣に来たところで止まった。萌子に向って吹いていた風も、そこに朔哉が立ったおかげで、いくらか和らいでいた。
「どうか、した？」
手すりにもたれている萌子に、そう朔哉は話しかける。陽はほとんど落ちていた。萌子は一番星を見上げて答える。
「ふられちゃいました」
そうしていないと、涙が零れてしまいそうだった。
「好きだって言ったら、嘘だって。…そんなこと、ないのに」
確かに、三上と亜衣の関係からすれば、自分の想いなど、薄っぺらいものかもしれなかった。それでも、と萌子は思う。
それでも、好きだと思ったのに。
遠い目をしている萌子を見つめながら、朔哉は小さく溜息を付いて答える。
「好きという気持ちは、人によって、感じ方が違うから」
「感じ方？」
「そう。
その人に触れていたいというのも、恋だし、
その人と一緒にいたいというのも、恋だ。
その人に、自分を理解してほしいと言うのも恋だし、
その人がいるだけで、元気が出てくるというのも、恋だ。
でも、そう感じるのは、決して恋だけじゃない。友人にだってそう思うこともあるだろうし、尊敬する人だってそうだろ？」
萌子は小さく頷いて、そのまま視線を、今度は朔哉に移す。
「難しい、ですね。
…先輩は？」
「え？」
突然、そう言われて、朔哉は戸惑った。萌子は、まっすぐに朔哉だけを見つめていた。
「福山先輩は、どんなときに、それが恋だと思いますか？」
触れてみたい、とも思った。
一緒にいたい、とも思った。
何よりも、理解してほしい。そう思っていた。
だが、この数日間、離れていて思ったことは、ただひとつであった。
「その人に、会いたいと思った時。かな」
凪浜に戻ってきたところで、改札の外に見覚えのある二人を、萌子は見つけた。
「あれ？理香。…美都も」
気づいた笠間は、それじゃ、と萌子に手を振って寮に戻っていく。萌子に気付いた二人も急いで駆け寄ってきた。
「ヤナギさんから聞いたの。三上さんのこと。その…。彼女のことも」
そう言った理香の方が、まるでふられたみたいで、萌子は微笑んで答える。
「うん。会ってきたよ。素敵な人だった」
そして、美都とも目を合わせる。美都も、いつもの優しい笑みを浮かべていて、安心した萌子は大きく吸った息を吐き出しながら、言った。
「ふられちゃった、あたし」
途端に、萌子の両手を理香がぎゅっと握り締めた。
「大丈夫っ。萌子には、絶対絶対、素敵な彼ができるから。ねっ、美都」
「うん」
二人の友情に感謝して、萌子は微笑み返す。
「ありがと」
ふふふと美都とも笑いあったところで、理香が突然声を上げる。
「よぉしっ、これからアルジャーノンに行って、おいしいケーキでもご馳走になろうっ」
「あれ？理香。篤志はいいの？」
「いいのいいの、あんなの。だって、あたしに一言も言わずに、勝手に家に戻っちゃったんだからっ。
和美くんも、美都の誘いを断って、今日はゲームセンターで遊んでるみたいたし、ね、美都」
「うん」
「今日は男子のことなんか忘れてっ、食べまくるんだからっ、ねっ」
練習後、右京は田村に呼び出されていた。その真ん中の席に、田村は座っていた。
広いミーティングルームには、ただ二人だけしかおらず、右京は仕方なく、田村に指示された真正面の席ではなく、そのひとつ隣に座る。
そんな右京に溜息をひとつこぼし、田村は口を開いた。
「明日には正式に発表するが、君には次の合宿にも参加してもらう。もちろん遠征にもだ」
驚いたように右京は顔を上げる。
今日の乱闘で、メンバーからは外されたものだと思っていた。
田村は、それを見越したかのように、表情は険しいまま話を続ける。
「舟越とのことはわかってる。舟越が試合中に何を言ったのかは知らないが、手を上げるのはよくない。だが、そのペナルティーを含めても、私のチームに君は必要なんだ」
訴えかけるように言われ、右京はそっと視線を逸らす。だが、田村はそんな右京を追い掛けるように続けた。
「どうして、手を上げた？無関心とも思えるクールさが、冷静さが、君の持ち味だったはずだ」
だが、右京は答えない。田村は、また小さく溜息をつく。
「…このまま凪浜にいても、君の為にならない。
はっきり、言おう。無駄な三年間を過ごすだけだ。
いったい、どうすれば、君は私の言うことに耳を傾けてくれる？」
ぴくり、と右京の肩が動いたが、それでも視線を決して田村に向けようとはしない。
「藤原さんは、この話を快く引き受けてくれた。君が海外のチームで勉強するというのであれば、できるかぎりのことはすると。援助なら、できるかぎり私がするから、君が金銭的なことを心配することもない。藤原さん夫婦に、遠慮することもないんだ」
一瞬だけ、右京が田村の顔を見つめた。
だが、本当にそれは一瞬だけで、話がそれだけだと感じた右京はすぐに席を立つ。
「何だったら、僕のところに養子に来てもいい。そのくらい、私は本気なんだよ」
そう言った田村の声は、だが虚しく広いミーティングルームに響くだけだった。そうして、ドアの閉まる音が、田村の三回目の溜息をかき消していった。
萌子は裸足のまま、早朝の砂浜に立っていた。
寄せてはかえす波が、萌子の足をくすぐりながら、流れていく。
心地よい、波の音であった。
何もかも、忘れさせてくれるような音だった。
太陽が、海を照らし、まぶしさで萌子は目を閉じる。
潮風に包まれるようにして、萌子は波にあわせるように体を揺らす。
だが、次の瞬間、ふいに隣に、誰かがいるように思えてその動きを止めた。
誰？
萌子が目を開けて、振り返ると、そこには久しぶりに見る成がいた。
「「あ」」
二人の声が合わさる。
そして、二人は同時に口を開いた。
「おかえり」
「おはよう」
おかえり、と言ったのは萌子で、おはよう、と言ったのは成だ。
二人は慌てて、もう一度口を開く。
「おはよう」
「ただいま」
今度は、おはよう、と言ったのが萌子で、ただいま、と言ったのが成だった。
くすくすと笑う萌子につられて、成も微笑む。小麦色の肌と、白い歯とのコントラストに、思わず萌子は言う。
「焼けたね」
「ずっと走りまくってたから」
「そう」
一週間。
ずっと長かったように思えたが、こうして萌子と顔をあわせると、あっという間だったようにも思えた。萌子が、さらに綺麗になっているように思えて、思わず成は聞く。
「なにかあった？」
「うん、成は？」
「俺も」
話したいことは沢山あった。
合宿のこと、友達になった平太のこと、舟越のこと、そして、右京の母親のこと。
だが、それよりも、成は萌子のことを知りたいと思った。
「何があった？」
萌子は海からあがって、成の横にやってくる。成がタオルを差し出すと、ありがとうと足を拭いた。今までは、海に浸かると気持ちよかったのに、この頃はずっと浸かっているとひんやりと寒くなってくる。それは、秋の訪れを感じさせた。
「ケンは、今実家に帰ってる。多分、今日あたりは亮子ちゃんとデートしてるんじゃないかな」
「そか」
「それから、家出してた篤志は無事に家に帰ったし。怪我した福山さんも、退院して、今日から練習に参加するし」
靴下を履きながらそう言った萌子の隣に腰を下ろし、成は尋ねる。
「萌子は？」
「え？」
「萌子は、何があった？」
微笑みかける成の瞳は、相変わらず優しそうで、萌子は安心して思わず答えていた。
「失恋、したの」
「え？」
言葉をなくした成に、萌子は無言で微笑みかける。
だからこそ、成は余計混乱してしまう。
失恋した、なのに笑顔？
というか、萌子って、好きなヤツ、いたのか…。
ああ、そっか。
「…だから…」
ふられたんだ、と一瞬成は落ちこんだ。だが、そんな成に、平太の力強い声が語りかけてくる。
『だってさ、好きだって思うから、仕方ねぇじゃん』
…だよな。
靴下を履き終わった萌子は、立ちあがり、スカートについた砂を払いながら成に話しかける。
「練習、そろそろ始まるね」
「ああ、いこっか」
慌てて成も立ちあがる。
「うん」
そして二人は、ゆっくりと階段を登りはじめた。