Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏海7
笠間について、萌子が連れていかれたのは、電車を乗り継ぎ、凪浜から一時間ほどかかる大病院だった。途中、花を買い、訪れた病室には、女の子に囲まれた朔哉がいた。
二人の存在に気づいた朔哉が、彼女たちに帰るよう促して、静まり返った病室に残されたのは、思ったわりに元気そうな朔哉と、そんな朔哉に笑顔を向ける笠間と、その間で戸惑う萌子の三人であった。
「明日退院だって？来るの遅くなって悪かった」
「いいえ」
明日にならないと会えないと思っていただけに、突然の萌子の訪問に戸惑いを隠しきれず、朔哉はそう短く答えた。
「とにかく問題なくてよかった」
「ご迷惑をおかけしました」
その時、看護婦が病室の前を通りかかり、笠間の声に気づいてか、カーテンから顔をのぞかせた。
「あれ？笠間くん？」
「ご無沙汰してます」
どうやら二人は面識があるらしく、きょとんとしている萌子の前で、そのまま会話を続ける。
「元気？どう、調子は？」
「ええ」
「せっかくだから、先生にも会ってきなさいよ」
そうですね、と答えると、笠間は萌子と朔哉を振り返り、こう言った。
「悪い、沢木。待っててくれ」
ありがとうございました、と客におつりを返し、一礼したところで、理香の父・勇造は腰を抑える。
「大丈夫？おじさん」
昨日から、勇造の腰の具合がよくないことと、熱を出していることを知っていた篤志が、思わず声をかける。勇造は、ははっと理香によく似た明るい笑い声を上げて答えた。
「まぁ、俺の場合、生活かかってるからな。母ちゃんや、理香の為にも働かないといけねぇ。
このくらいで、寝こんでられないさ」
ほんの二日間だけではあったが、仕事をすることの辛さを、篤志は感じはじめていた。仕込みなどに時間のかかるわりには、一品の料金はそれほどでもない。 だからこそ、客数によって、その日の売上が左右される。昼と夜とに客が集中するとはいえ、その間にもお店はいつでも客を受け入れる状態でなくてはならな い。
夕方のこの時間は、家の中では理香の母が小池家の家事をこなしていたために、小池軒には勇造と篤志だけであった。
痛む腰を、トントンと叩き、でもなぁ、篤志、と勇造は話す。
「本当に辛いときは、母ちゃんや、理香が手伝ってくれる」
実家がラーメン屋であることに、理香は誇りを持っていた。
うちのラーメンは日本一おいしいんだから。
だから、父兄参観日に勇造が来れなくても、それでクラスメートにからかわれても、理香は猛然と言い返していた。
母親が風邪を引いて寝込んだからと、ひとり友達と遊べなくても、それを拗ねることはなかった。
そんな理香が、すごくかっこよく思えたことを、篤志は思い出した。
「家族ってのは、そういうもんだろ」
勇造がそう言い、小さく溜息をつくと、再び洗い物を始める。篤志も手にしていた布巾でテーブルを拭いていると、二人きりの店内に、呟くような勇造の声が響いた。
「昌江ちゃんも真面目だからさ、何でも全力投球しちまうんだよな」
思わず手を止めて、篤志は視線だけ、勇造に向ける。勇造はそれに気づかぬように、手元を見ながら続ける。
「篤志は男だから、母親の昌江ちゃんのこと、支えてやんねぇといけないよな」
そして、ふいに顔を上げて、篤志の視線を受けとめると、にっこりと微笑んで言った。
「息子ってのは、そういうもんだろ」
夕陽が差し込み始めた病室で、持ってきた花束を花瓶に生けた萌子に、朔哉が言った。
「昔、笠間さんが入院してた病院なんだ、ここ」
「ああ、それで」
看護婦との会話の意味を理解した萌子は、ゆっくりと椅子に腰掛ける。
近所の接骨院でなく、設備のある病院に行ったほうがよいとなった時に、凪浜からは少し遠いけど、信頼できる病院だからと朔哉にここを紹介したのも、そんな笠間の勧めからだった。
でも何で、笠間さんはここに？
一人でお見舞いには行きづらかったから？
考え込む萌子に、朔哉が明るい声で話しかける。
「元気？」
「はい。あ、この前は、お見舞いに来れなくて、すみませんでした」
そう答え、萌子は一人部室を出て行った美都の背中を思い出す。
今日も、あまり会話をしなかったな。
「いや、いいよ。それより、…仲直り、した？」
萌子の表情が硬くなり、朔哉は慌てて言い加える。
「この前、小池がそんな話をしていて、そのごめ―」
「別に喧嘩したわけじゃありませんから。…ちょっと、誤解があるだけです」
朔哉の言葉を遮って、萌子がそう言った。
「誤解？」
思わず、そう言い返した朔哉を、萌子が不審そうに見つめ返す。
その瞳を見て、朔哉は誤魔化せないと感じた。
「ごめん、実は。いろいろ聞いた。というか、全部、聞いた」
くるりと自分に背を向けた萌子に、朔哉は慌てて言う。
「小池は悪くない。俺が、無理やり聞き出したことだし、小池は小池なりにすごく心配してる、俺も」
本当に、心配してる。
あの時のように、意地になって、自分の気持ちに嘘をついて、却って自分を傷つけてしまわないかと。合宿の時に見たような萌子の涙を、朔哉は二度と見たくない。そう思った。
朔哉は張り上げた声を、やわらげて話続けた。
「椎名は、白井さんとのこと、何も知らないから。だから余計に萌チャンのこと心配してるんだ。
きっと司あたりが、早坂のことでからかったんだろうけど、でも萌チャン。それで意固地になることはないから。それよりも―」
「意固地になんかなってないわ」
振り返り、そして萌子は朔哉を見据えて言った。
「だって、私は。好きなんです、三上さんのことっ」
その瞳は、自分の気持ちを意志で貫く決意をした瞳であった。
「朔哉、沢木、ごめん。遅くなって」
久しぶりの再会で、少々ナースステーションに長居をした笠間が、朔哉の病室に戻ってくると、病室に見覚えのある小さな背中があって、思わず笠間は声をかけた。
「亜衣ちゃん？」
びくっとして、かつての入院仲間が慌てたように振り返る。と、その横にいた金色の短髪で黒いＴシャツの男までが振り返った。
「あ…笠間くん？」
「良次まで」
亜衣の少しだけショックをうけたような表情と、いつも以上に怒っているような親友の弟の表情に、笠間はどうしたんだと歩み寄る。
その時、笠間の声を聞きつけた朔哉がベッドを囲むカーテンを開けて、思わず声を上げた。
「あ」
カーテンの中にいた萌子は、突然現れた三人の姿に、思わず握り締めていた両手から、いくらか力を抜く。その隣で、朔哉が言った。
「どうも」
朔哉の視線の先には、小柄で帽子を被った少女とも思える女性がぎこちない笑みを朔哉に向けていた。
「こんにちは」
会釈をするその女性の隣には、黒いＴシャツ姿で、鋭い眼光を放つ男が不釣合いに立っている。
「あ」
その男と目があった瞬間、思わず萌子は声をあげる。
昨日、海ですれ違った人だ。
――なんでここに？
――なんでここに、あいつがいるんだ？
そして朔哉も、亜衣の隣にいる男に向って、無言の問いかけをしていた。
なんで、三上良次がこの病院にいるんだ？
萌チャンが、好きだと言い放った三上泰年の弟が、どうして？。
良次は、萌子から視線を外し、朔哉の姿を見止めると、軽く手を上げた。朔哉も同じように手を上げる。
「「あれ？知り合い？」」
笠間と、亜衣の声が同じに重なる。
笠間は、亜衣と朔哉に対しての問いかけであり、
また亜衣は、朔哉と良次に対しての問いかけだった。
亜衣がまず、笠間の問いかけに答えた。
「この前、屋上で会ったの。良次君と朔哉くんは？」
聞かれた朔哉は、良次の顔を見ながら、亜衣に答える。
「きちんと顔を会わすのははじめてかな」
「大槻司って女ったらしの、唯一まともな友達だ」
「え？大槻先輩の？」
萌子がそう呟いて、朔哉は答えるように頷いた。
だが、それでも朔哉の中ではつながらない人間関係があった。
萌ちゃんは、三上良次と面識があるようだし。
三上良次は、亜衣さんと面識がある。
そして、亜衣さんは、笠間さんと面識がある。
いったいどうなってるんだ。
朔哉のその疑問に答えるかのように、病室には新たなハスキーな声が響く。
「笠間、珍しいな、見舞いにくるなんてっ―」
中にいた五人が一斉に振り返った。
戸惑ったのは、その視線を受けることになった三上であった。
「亜衣？良次まで…あれ？」
「三上さんの、弟？」
病室だと騒がしいからと、六人は中庭に場所を移した。とはいえ、亜衣は朔哉に、弟・良次は兄・泰年に話があったようで、それぞれがばらばらにベンチに腰掛けていた。
自然と笠間と座ることになった萌子に、まず笠間は三上良次が三上泰年の弟であることを説明した。言われて、萌子は前に三上が弟がいると言っていたことを思い出した。
『ちょっと自由奔放な弟に、親が過剰に心配してるから、兄として間に入るだけなんだ』
あれが良次のことだったのだとすると、萌子は納得できた。そして昨日海辺で聞いた三上の声も、幻聴ではなく本当の三上であったのだと気づいた。
「そう。けど、似てないだろう。雰囲気も、顔も」
萌子は無言で頷く。
兄の泰年は、こざっぱりとした真面目な好青年タイプであるのに対し、弟の良次は、金髪から想像するに、いわゆる不良少年タイプに思えた。
「でも、最高の兄弟だよ、あいつら。
中身はいいやつなんだけど、良次は昔から喧嘩っぱやいらしくて、いろいろ問題を起こしてたらしいんだ。でも三上だけが見捨てることなく、普通の弟として扱ってきた。それで、良次の方も、三上だけは信用してる」
「大槻先輩の友達って、さっき言ってましたよね」
「大槻と良次は、同じ中学なんだ。良次は、凪高の生徒じゃないけど、凪浜に住んでるし、たまに遊んでるって聞いたことがある。だから朔哉とも知り合いなんだろう」
なるほど、と萌子は呟いた。
わからなかった関係がこうしてパズルをはめていくように綺麗につながっていった。
そして最後のピースが、朔哉と話している少女であった。
この季節に不釣合いな帽子と、その奥からのぞくまっすぐな瞳が、萌子にとって印象的であった。ああ、といって笠間は説明を続ける。
「彼女は、中川亜衣ちゃん。俺が入院してた時の友人で、そして三上の彼女」
「…え」
さらりと言った笠間の言葉に、萌子は一瞬の間をあけてから、答えた。
「そう…ですか」
何の心構えもしていなかったからなのか、不思議と心が痛まなかった。それよりも、次の笠間の言葉の方が、心に深くつきささった。
「あと一年。それが二人に残された時間」
「へ？」
意味がわからずそう答えた萌子の視線の先で、はにかんだ笑みを見せながら、亜衣は微笑んでいる。小さく息を吐いて、笠間は繰り返して答える。
「あと一年っていわれてるんだ。彼女の人生」