Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏海6
夏休みも、残すところあと十日となっていた。
自分のシュートが、大きくゴールポストを外れていくのを見て、ケンは小さく溜息をつく。
「何やってんだっ、名取っ。集中しろっ、集中！」
柳田がそう叫ぶ。ケンは返事することもなく、無言でグランドの隅に転がっていったボールを取りに行く。
思うようにボールが蹴れない。
それは柳田の言うように、集中力なのか、それとも体調が悪いのか、それとも…。
実力？
そう思って、ボールを見つけたところで、ふいに背後からケンに声がかかった。
「名取」
「はい」
振りかえらなくてもわかる石橋の声に、ケンは思わず背筋を伸ばして振り返った。
注意されるんだろうか。
だが、それを避けたいよりも、受け入れたいという気持ちの方が強いことに、ケンは石橋の顔を見た瞬間に感じ、そんな自分に半ば呆れた。
だが、石橋は、ケンにとって予想外の言葉を口にした。
「お前、明日、練習休め」
「え？」
表情も、声色も、むしろ穏やかで優しい。
戸惑うケンに、石橋は滅多に見せない笑顔を見せる。
「実家で親の顔でも拝んでこい」
だが、俯いたケンに、その笑顔は必要なかった。
「…大丈夫です」
「お前がよくても、ご両親が心配してるだろう」
悔しさで、ケンは拳を握り締めた。わなわなと腕が震えていた。だが、その震えに気づくことなく、石橋はケンの肩をポンポンと叩き、優しい言葉をかける。
「部活のことは気にするな」
石橋も、このところのケンの様子が気になっていない訳ではなかった。
聞けば、夏休みも実家に帰らずに、練習に明け暮れていたという。もちろん、練習をすることを石橋は咎める気はない。だが、ケンの様子からすれば、ただ体を酷使しているだけに思えて、ならばいっそ休養をする方が大事だと思ったのだ。そして、そのきっかけを与えたかった。ただ、それだけだった。
だが、ケンは俯いたまま、その肩を震わせて、抑えた声で答えた。
「…もういらないってことですか？」
「え？」
石橋が何を言っているんだと聞く前に、そしてケンは顔を上げ、石橋の手を振り払って叫んだ。
「俺のことなんか、どうでもいいってことですか？」
そして、唖然としている石橋の脇をすりぬけて、ケンはグランドを出ていく。
「おい、名取―」
自分をひき止める石橋の声が聞こえたが、ケンにとって、それは雑音でしかなくなっていた。
それでも、やはり、ケンの逃げ場は海しかなかった。
堤防に仰向けになり、太陽の陽を全身に浴びる。
やっちまった。
ついに、監督にまで言っちまった。
もう、どこにもいられなくなった。
実家にも、
凪浜にも。
どうしたもんか。
ケンは、両腕を顔の前でクロスさせて、小さな溜息をついた。
どのくらい、そうしていただろうか。
ふいに、ケンのお腹に、どすんと物が投げられた。
「ってっ」
思わず視界を遮っていた両腕を外し、目を開けると、眩しい太陽が目に付いた。
「忘れもん」
聞き覚えのある声がして、ケンはそれが知朗であることに気づいた。
隣にどさっと座る気配がして、ケンもゆっくりと起き上がる。
顔を見合わせた途端、だが知朗はケンよりも不機嫌そうに言った。
「お前さ、ありがとうくらい言えないわけ？」
お腹に置かれたのは、ケンの荷物だった。練習は終わったのか、知朗はすでに制服姿だった。
「アリガトウゴザイマスッ」
心のこもっていない感謝の気持ちを口にするが、知朗は気にすることなく、海を見ながらさらりと言った。
「監督、気にしてたぜ」
今更気にされても、迷惑だ。
そう言いたくもなったが、準レギュラーである知朗にそう言うことは、なんだか自分の負けを認めるようで、ケンは思わず独り言のようにつぶやいた。
「…お前には、わからない」
すると、知朗はあっけらかんと答える。
「何言ってんのお前。そんなの当たり前じゃん。
俺はお前じゃないんだし」
あまりに平然として答えられて、ケンは戸惑った。
それは、そう。だけど…。
でも認めるのは、嫌だった。
「だったら、お前は俺のことわかるっていうのかよ」
にらみ合う二人の間に、やわらかな声が聞こえてきた。
「わからないから、教えてほしいの。話してほしいのよ、ケン」
「萌子…」
そして、にっこりと微笑む萌子の隣から、厳己がひょっこりと顔を出し、ケンにポカリスエットを差し出した。
「喉、渇いたんじゃないかと思ってさ」
「イズ…」
「俺の住んでたとこはさ、サッカーやってる奴なら、皆が目指すってくらい扶洋が有名で。実際県下では無敵ってくらい強くてさ。
もちろん俺も、サッカーするなら絶対に扶洋だって思ってたし、実際に先輩にも、扶洋の監督にも誘われてたんだ。仲間だった赤坂とも、俺たちが扶洋で選手権初優勝するんだって宣言してた。
けど、中学で全国のベストエイトになった時に、石橋監督が俺のとこにやってきてさ、いったんだよ。
『凪浜に来い』ってさ。
はじめは何冗談いってんのって思った。凪浜なんて知らなかったし、そもそも俺は扶洋しか見えてなかったし。その通りに返事したらさ、『次の選手権、楽しみにしてろ』って言ってそれから半年近く、全然連絡なかったんだ。で、選手権。推薦で扶洋に行けることになってたから、俺は赤坂たちと扶洋の試合を見に 行ったんだ。そしたら偶然、その前の試合が凪浜の試合でさ。
覚えてるよ。青い旗が観客席で揺れてさ、波みたいになってて。
あとはもう、夢中になって応援してて、気づけば試合が終わってた。
すぐに扶洋の試合が始まってたけど、俺はずっと凪浜の試合が忘れられなかった。
その理由を知りたくて、俺は凪浜に来たんだ」
凪浜高校に行こうと思う。
扶洋に願書を出す一週間前に、そう亮子に告げた時の記憶は、今でも鮮明だ。
「どうして？」
はじめは、そう小さく呟いた。それから、もう一度、今度は訴えかけるように亮子はケンに言った。
「どうして、ケンちゃん。どうして、扶洋に行かないの？
あたしも受けるし、皆行くのに。どうして？」
亮子は涙目で、そして小さく呟いた。
「どうして、凪浜なんかに」
確かに、亮子の言うことは正しかった。
サッカーをしたいなら、扶洋で充分すぎるはずだった。
だけど。
ケンは俯いた顔を上げ、言う。
「ごめん、亮子。でも、俺。もう扶洋じゃサッカーできない」
はっきりと断言したケンに、亮子は声を張り上げた。
深々と、細雪の降る夜だった。亮子の吐く息の白さが、電灯の下でも感じられた。
それほどに寒い夜だった。
「どうして？扶洋だって充分強いじゃない、有名な伝統校よ。
しかも、ケンちゃんは、扶洋から推薦状までもらったんじゃない」
だれもが、反対した。
『凪浜なんて、たかが一度選手権に優勝したくらいだろ？それよりも、伝統のある扶洋のほうが何倍もいい。お前だって、ずっと扶洋に入るんだって言ってたじゃないか』
中学のサッカー部の監督に初め話したとき、まずは鼻で笑われた。だが、ケンが真剣だと気づくと、声色が明らかに変わってそう言った。
それでも、ケンは自分の気持ちを抑えることができなかった。
これから、自分が選ぶ道が、どれだけの人を裏切るのかも。
『俺たちを裏切るってことだぞ、ケン』
赤坂の言った言葉は正しい。
実際、ケンの中学からの先輩で、扶洋に通うサッカー部員には、ふざけるな、と怒鳴られた。
中学時代は、よくつるんだ先輩だった。
でも、ケンの気持ちは既に決まっていたのだ。
「わかってる。でも、扶洋に魅力を感じないんだ」
ポロポロと、亮子の瞳から、涙が零れはじめていた。
でも―。
「凪浜のサッカーが忘れられないんだ」
涙を、自分の手で、ぬぐってやりたかった。
抱き寄せて、その涙を止めてやりたかった。
「ごめん、亮子」
でも、目の前の亮子の涙の原因は、ケンだった。
自分の我侭が、原因だった。
だから、慰めてやる立場じゃないことくらい、ケンにもわかっていた。
慰めてやれるんだったら、自分が凪浜に行かなければいいのだから。
「ごめん。
俺、絶対に毎日電話する。手紙も書く。
だから、亮子。ごめんな」
毎日続けていた電話を、しなくなったのは、いつからだったろうか。
思えば、俺の我侭ばかり、あいつに押し付けてきてた。
亮子。
浮かぶ笑顔を忘れるように大きく頭を振ると、ケンは海を眺めて、呟いた。
「いわれたんだ、菊地さんに。お前には大事な物がたりないって」
ケンが憧れた凪浜高校の、優勝したチームのまさに象徴でもあった菊地に言われたその一言。
『大事な物？』
『そう、大事なこと』
『何、ですか？』
『それに自分で気づかないと、上には行けないぞ』
上、つまりレギュラーになれないと言われて、ケンは必死に考えていた。
経験、実力、スタミナ、瞬発力、判断力…。
「ずっとずっと考えてた。でも…わからなかった」
うなだれて、黙り込むケンに、知朗があんさぁと話しかける。
「お前、どうしてここでサッカーやってるわけ？」
「だから、それがわからないから―」
「忘れられねぇからだって、さっき自分で言ってたじゃん」
「…」
唖然とするケンや、萌子をおいて、知朗は更に尋ねる。
「じゃあ、どうして忘れられねぇか、だろ？」
戸惑いながらもケンが答えを見つける前に、知朗が声を張り上げて言った。
「好きだから、だろ？好きだから、惹かれる。好きだから、忘れられない。
好きって気持ちに、きっかけはあっても、理由はねんだよ」
「俺はサッカーも好きだし、萌子も好きだ。好きだから追いかける。どうして、好きなのか。わからねぇよ。わからねぇけど、好きだ。あえて言うならって理由あげても、それは後からつけたいいわけと一緒」
つまりそれは、頭を使って導き出した答えと同じ。
そうやって出した答えと、同じ条件の相手がいても、好きになるとは限らない。
つまりは、そういうことなのだ。
そう理解した萌子は、下唇を噛み締めて海を見ているケンに、言う。
「それにね。大西先輩がね、言ってた。妙なプライドのために、好きなこと諦めちゃいけない。
ケンは、赤坂くんに負けたくないからって、本当のこと、サッカーが好きだってこと忘れちゃいけないんだよ。凪浜のサッカーが好きだってこと、忘れちゃいけないんだよ」
心地よい海風が、波音と共に、四人の髪を揺らしていた。
最後の練習試合だった。
あ、と成が小さく声を上げた時は、もう遅かった。
グランドに倒れこんだ右京を無視して、競り合っていた敵チームの舟越が大きく前線にボールを蹴り出した。だが、そのボールはオフサイドを取られて、試合 が中断された。心配で駆け寄ってきたチームメイトを無視して、右京は起き上がると、そのまままっすぐに舟越の肩を掴んだ。
「んだよ」
ユニホームを掴んだまま、睨みつける右京に、舟越が言い返す。
「てめぇが勝手にこけたんだろうが」
そして、成が駆け寄る前に、周りの制止も止めずに、右京はそのまま舟越を殴りつけた。
「おい、やめろ、藤原っ」
監督の田村や、コーチが慌ててグランドに走っていく。だが、舟越も、同じように右京を殴り返した。
「舟越っ」
二人は取り押さえられたものの、成がようやく駆けつけた時には、右京は口を切ったのか、真っ白なユニホームで、その口を拭いながらも、まだ舟越を睨みつけていた。
結局、練習試合は中断となり、右京は足を検査するために、田村に付き添われて、近くの病院に行くことになった。
更衣室で、コーチからそう教えられた舟越は、コーチが出ていった途端に、吐き捨てるように言った。
「あんな野郎のこと、相手しないほうがいいぜ」
「おい、舟越。そんないい方ねぇだろ」
平太がそう言う。だが、続く人間がいないのは、実際に先に手を出したのが右京だからだった。どんなに故意にファールを受けても、逆上して相手を殴るというのは、選手としてやってはいけないことだからだ。
静まり返った中で、舟越の得意げな声が響く。
「お前は知らないからいえるんだ。あいつの母親、失踪したんだぜ」
「え？」
その場にいた全員が、同じ反応をした。ますます、得意になった舟越が、声を張り上げて言う。
「クラブに入りたての頃は、いつも母親が一緒に来てたのに、ある時からあいつ一人でくるようになったんだ。
それがどうやら愛人の男と駆け落ちしたらしいって、他のヤツが言ってたんだ」
はっと気づいたように、成は思ったことを口にした。
「舟越、そのこと、試合中に言ったんじゃ―」
にやり、と右京に殴られた右頬にえくぼを作り、舟越は笑みを見せた。
それで、充分だった。
成が何かを言う前に、そうして舟越はいつも一緒にいるメンバーと一緒に更衣室を後にした。
気まずいムードの中で、空気を変えようと平太が大声で言う。
「ってか、そんなこと関係ないよな。藤原に。だろ？」
もちろんだ、と成が答える前に、更衣室の片隅で、一人淡々と着替えをしていた選手が答えた。
「まあな。ようするに、馬鹿なんだよ、舟越」
五十嵐というその選手は、成の記憶によれば、楢崎高校の選手だったはずだ。
とりつくしまもないような言い方に、流石の平太も呆れて言う。
「馬鹿って、お前―」
「馬鹿としか言いようがねぇだろ。
ユース代表の選考合宿の最終日の練習試合中に、乱闘になりかけて、試合中断になるなんてさ。藤原を落としたかったんだろうけど、自分も一緒にオチりゃ、世話ないぜ」
五十嵐の言っていることは、まさしくその通りであった。
今回の合宿に参加している選手は、三十名ほどで、これが次の合宿には二十名ほどに減らされると言う話であった。
五十嵐は、そのまま自分の荷物を片付けると、立ちあがって続けた。
「それに、藤原の母親が駆け落ちしてようが、それこそ、藤原が不倫してようが、藤原が妾腹だろうが、俺には関係ない。俺はただ、サッカーでメシ食ってくためにここに来てるだけだ。そのためには、世界に向ってのいいアピールになる大会で、注目されるためにベストメンバーで臨みたいし、その結果、嫌いな人間が メンバーになって、一緒にボール蹴ることになっても、関係ないね」
そう言って、五十嵐は、更衣室のドアを閉めて出ていった。
その強い考えに戸惑っている成に、隣で平太が話しかけた。
「ドライ、だな。俺は、無理。ああいう考え方」
「うん」
一人、更衣室を立ち去る五十嵐の背中に、成はどこか右京と同じものを感じずにはいられなかった。
俺も、無理。
サッカーするからには、楽しみたいし。
できるなら、メンバーとも仲良くやっていきたいし。
ふいに凪浜の皆の顔が思い起こされた。
湊に、アッチ、ケンに、イズ、知朗、由太、小池。
それに…。萌子。
そっと耳に手を当てると、今にもあの波の音が聞こえてくる気がした。
…早く、帰りたいな。凪浜に。
沈む夕焼けを四人で眺めていたところで、急にケンが立ちあがった。
「…やば」
「どうしたの？」
萌子がそう聞くと、ケンは真剣な表情で答える。
「すっげぇ、会いたくなった。亮子に」
ハハハッと笑って知朗が言う。
「だったら、行けよ」
でも明日も練習がある、とケンが思った時に、ふいに背後から別の声がした。
「明日、休めって言われたろ」
顔を上げた途端、投げつけられたヘルメットと受けとって、ケンが顔をあげると、そこにはにやりと微笑む一馬が立っていた。
「一馬…」
その後ろには、バイクが見える。
ケンは慌てて鞄を掴むと、駆け出しながら叫んだ。
「恩に着るっ、知朗っ、萌子、イズッ」
そして、一馬より早くバイクへと向う。その姿に、一馬が苦笑しているのが遠くからでもわかった。
「いいね、ああいうケン」
「え？」
ふいにそう言った萌子に厳己が聞き返すと、ケンに負けないくらいの笑顔で萌子が言った。
「生き生きしてる。いいよ、すごく会いたい人に、会いに行けるって」
厳己がその意味を尋ねようとした時、それを遮ってまた別の声が聞こえてきた。
「沢木」
「笠間さん？」
片手を上げて、笠間が萌子たちのところまでやってくる。
「これから予定ある？」
練習はもう終わっている。敢えて言うならば、夏休みの宿題があるくらいだった。
いいえ、と萌子が答えると、笠間はにっこりと笑いかけた。