Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏海5
『やめた方がいいって言ったら、どうするの？』
美都の言葉を思い出し、砂浜へと続く階段に腰掛けて萌子は溜息をつく。
海に沈もうとしている夕焼けが萌子を真っ赤に染めていた。
『それは、恋じゃないと思う』
美都はそう言った。
それに、あたしは、答えられなかった。
それでも、あたしは三上さんが好きだと思う。
だが、それでも美都に質問に答えられない自分がいる。萌子はまるで堂々めぐりをしているように思えた。
やめよう。このこと、考えるのは。
確かに、和美のことが好きだと美都が認めた時、理香はあまり賛成していなかった。でも美都は、そんな理香のさりげない和美批判の言葉は聞いてなかった。
それなのに、美都。やめるって言ったこともあったな。
二ヶ月くらい前のことなのに、もう相当昔のようにも思える。
あの時は、いろんな誤解とかもあったんだけど、やめるなんて美都が言ったのは、本当に和美を好きだったからこそで、だから、あたしと理香は篤志と成の力も借りて、その恋を成就させようとした。
その時、波の音が、一層萌子の心に響いた。
風が止む。
夕凪。
世界がまるで止まってるみたい。
…成。
ふいに萌子は成のことを思い出した。
そういえば、ここ一週間くらい、成と顔を会わせてない。
正確に言えば、たった八日間。
なのに、もう何週間も会ってない気がする。
ユースの合宿って、いつまでだったかな。
その時、ざくっという砂を踏む音がして、思わず萌子は顔を上げた。
成？
だが、そこに立っていたのは、夕焼けを背にした見知らぬ男であった。
凄むような鋭い瞳に、金色の短髪。背丈はそんなに大きくないのかもしれないが、その迫力に萌子は圧倒させられていた。年は同じ位だろうか。その手の甲には、大きな傷跡が見えた。
一瞬だけ、二人は視線を交したが、それを遮ったのは、上から聞こえてきた高めのハスキーな声だった。
「良次？」
気づいたように、男は階段を上り始める。
「いるのか？良次？」
「ああ」
「行こう。あまり時間がないから」
思わず萌子は振りかえるが、階段下からは、男の背中が見えただけだった。
三上さん、なわけないよね。
声は三上そのものに思えたが、あの金髪の男と並ぶ三上の姿を萌子は想像できなかった。
『どうして素直になれないの？』
素直だよ、あたしは。
今だって、幻聴が聞こえるくらいに、
三上さんのことが好きなんだから。
三上泰年。
モエちゃんが好きになった男。
消灯時間をすぎた屋上で、朔哉は大きく空を見上げた。
広がる夜空には、思ったほどの星は見えない。
凪なら、もう少し見えるのに、と朔哉は思い、手すりに背をもたれた。
朔哉は直接三上と話したことはなかったが、笠間の親友であることは知っていた。
それに、あの笠間さんを、立ち直らせた人でもある。
一度、三上が練習中に現れたことがあった。笠間を探していた朔哉が、グランドの片隅にいた二人を見つけると、朔哉に気づいた三上が、そっとグランドを出ていった。
『誰ですか？今の』
はじめて見る三上の背中を指し、朔哉はそう尋ねた。すると笠間は少し微笑んで答えたのだ。
『俺の大事な友人。あいつがいなかったら、俺はここに戻ってこなかったと思う』
すでに笠間の怪我のことを知っていた朔哉は、うまい言葉が思い浮かずに、ふーんと言いながら、グランドを出ていく三上の後姿を眺めていた。
三上の弟が司の知人だったこともあって、そのことから昔、笠間が三上について話していたことを、自然と朔哉は思い出していた。
『神々しいってわけじゃないんだけどさ、むしろ存在感はそこまではないんだけど、包容力があるというか。気づいたら、近所のおばさんにまで、悩み相談されてるようなやつなんだ。
きっとあいつなら、助けてくれるって思うから』
朔哉は手すりに手を伸ばして、俯いて小さく溜息をついた。
その三上を好きだと言った萌子。
だが、本当はそうじゃないと思う、理香と美都。
そうか。
だからこそ、モエちゃんは。
選んだんだ。あの人を。
ギュッと目を閉じると、萌子の笑顔が鮮明に浮かぶ。
だが、その笑顔を、もう何日も朔哉は見ていない。
朔哉が顔を上げると、一人きりだった屋上に、別の声が響いた。
「大変じゃない？松葉杖でここにくるの」
振りかえると、昨日屋上に現れた小柄な女の子だった。近くで見ると、年は同じ位に思えた。
「まあ、でも。無理じゃないし」
彼女はゆっくりと朔哉の隣にやってきた。昨日と同じで、麻のニット帽をかぶっている。
名前は、亜衣。年は十八歳。
そう自己紹介された朔哉も、同じように答える。
名前は朔哉。年は十七歳。
そうして亜衣は、朔哉と同じように手すりを掴んだ。
「息抜き中だった？」
「いえ。海、見えるかなと思って」
「海？」
朔哉が頷くと、亜衣は少し困った表情を浮かべた。
「ここからはちょっと無理かしら。方向は、そっちだけど」
亜衣の細く小さな指が指す方向には、確かにビルや住宅しか見えなかった。
「海、好きなんですか？」
そう質問した亜衣に、朔哉は小さく頷いて答える。
「近くに、暮らしてるんで」
すると、何故か亜衣はくすりと笑った。そして、朔哉がその理由を聞こうと顔をのぞきこむと、
「彼女？」
と亜衣がいたずらな笑みを浮かべて言った。
朔哉が答えに困っていると、更に亜衣は言った。
「彼女がそこにいるんだ」
彼女ではないけれど。
すごく会いたい人なら。
だが朔哉は、いつものように爽やかな笑顔で答えるだけだった。
「彼女がいたら、きっと今ごろは病院抜け出して、デートしてるよ」
「また、いない。藤原」
「どこ行ったんだろうな」
シャワールームにやってきた成と平太だったが、そこにはやはり右京はいなかった。いつもと同じく、右京は練習が終わっても、一旦部屋に戻ってくると、またすぐ出ていった。以来、姿が見当たらないのだ。
「どうせどっかで遊んでるんだろ」
ちょうどシャワー室から出てきた舟越がすれ違いざまにそう言った。思わず平太が言い返す。
「舟越。どうしてお前ってばそういう言い方するんだよ」
「藤原がそういうヤツだからだ」
即答した舟越に、思わず平太が聞き返す。
「そういうヤツって？」
舟越は、面倒くさそうに答える。
「自分が一番だと思って、他のヤツを馬鹿にしてるってこと」
「そんなことないよ」
小声でだが、はっきりそう言った成を、舟越は鼻で笑うとこう言い返した。
「まったく、凪浜のヤツって馬鹿ばっかだな。あいつの女もそうだったし」
馬鹿ばかりと言われて、思わず拳を握り締めた成だが、舟越の最後の言葉にその手を止める。
「え？」
「遊ばれてるのか、付き合ってるのか知らねぇけどよ。裏切られるに決まってるのによ」
誰のことを言っているのかと考え込む成の肩を、舟越はポンと叩いて、偉そうに言った。
「もっと利口になれよ、早坂」
そしてにやりと笑い、他の仲間と一緒にシャワー室を出ていく。
右京の女って？
立ち尽くしている成の肩を、今度は平太が優しく叩いた。
「馬鹿っていうヤツが、馬鹿なんだよな、成」
「あ…？ああ」
そして平太は、さっさと服を脱ぎ、中に入って行った。
「あー、すっきりした」
そう大きく伸びをする平太と、シャワー室を出た成だが、むしろ成の心はすっきりしていなかった。
舟越が言ってたのは、多分萌子のことだろう。
成は今までの二人のことを思い起こす。
萌子は、右京のこと好きなんだろうか。
右京は、萌子のこと好きなんだろうか。
だったら、俺はどうする？
その答えは、すぐには出てこなかった。
ただ成の気持ちは、単純だった。
とにかく、今は。
会いたい、萌子に。
会いたいんだ。
成がそう思って、ふと顔を上げた時だった。思わず足を止めた成につられて、その視線を追った平太がグランドを見て、声を上げた。
「あ、藤原だ」
一人グランドを走る右京の横顔には、一筋の汗が流れている。
ランニング、してたんだ。
いつも、一人で。
練習終わってからも。
成はぐっと自分の手を握り締める。
それなのに、俺ってば…。
「おい？成？」
平太の声を無視して、成は右京のところへ走っていく。追いついたところで、成に気づいた右京は足を止めずに、ちらりと成を横目で見つめた。
「俺も、一緒にいい？」
並走しながら成がそういう。
「今さっき、シャワー浴びたばっかだぞ、成っ」
遠くでそう平太が叫んでいるのが聞こえたが、成は無視して右京の隣で走っていた。
少しして右京が答える。
「…ああ」
足並みを揃えて、二人がランニングをしていると、慌てたように平太が駆けてきた。
「待てよっ。俺も走るっ」
「はい」
その声を聞いて、条件反射のように朔哉は言っていた。
「あれ？」
間違えたかな、と思っていると、受話器の向こうでもしかして、というような声がした。
「朔哉？」
やっぱり環だ。
朔哉はばれないように小さく溜息をつきながら答える。
「どうも」
「どうしたの、電話かけてきて」
「環こそ」
環が寮にいることは、あまりない。理由は、たいがい寮にやってくるときは、母親である昌江に寮の仕事を頼まれたときだけだ、と以前聞いたことがあった。
「母さんが忙しいから、寮の雑用の手伝いしてんの」
思った通りの言葉が、不機嫌な声と一緒に返ってくる。
「まさか、手料理とか作って？」
「るわけないでしょ。ってか、何よ、その『まさか』って」
「…何でもないっす」
環の小さな溜息が、電話越しに伝わってきた。
「どうなの？足の具合は？」
「明後日には退院する」
「それはよかったわ。母さんにも皆にも言っておく」
それじゃ、と言って環が受話器を置きそうな気配を感じた朔哉は、思わず声を出した。
「…あ」
「何？」
不機嫌そうな環の声に、思わず朔哉は尋ねた。
「篤志は？」
何となく時間つなぎに聞いたのだが、どうやらそれが環の不機嫌の理由だったらしい。環のドスの聞いた声が聞こえてきた。
「家出してるわよ、文句ある？」
「…ないデス…」
篤志のヤツ、よく環とケンカしたな。
朔哉はそう思いながら答えた。
「それで、朔哉は何の用事なのよ？」
痛いところを付かれ、朔哉は顔をしかめる。
「…。その、皆元気かな、と」
本当は、皆じゃなくて。
たった一人の、しかも寮に来てるかどうかもわからないモエちゃんの声が聞きたかっただけ。
明後日には、絶対に会えるというのに、どうしてか、今日すごく会いたくなった。
だが、自分は病院を出れない。
だったら、せめて声だけでも。
だが、そんな朔哉の気持ちを、環に言えるはずもなかった。
沈黙の中で、環の不機嫌な溜息が、続いてヒステリックな怒鳴り声が、少し落ちこんだ朔哉に響く。
「選手権予選前にして、元気なくしてちゃ、応援してるこっちが困るわよっ。
あんたもくだらない電話なんかかけてこないで、さっさと練習に出たらっ」
翌日、午前中のみの練習が始まった。
陽射しは強いものの、だんだんと朝の風の冷たさを肌で感じるようになっていた。
そろそろ、夏も終わりだな。
空を見上げていた笠間の隣で、ふいに柳田が言った。
「喬」
「なに？」
いつもいる小山は、今はいない。ついさっきコーチからの呼び出しがかった。柳田が口を開いたのは、その小山の背中が完全に見えなくなってからだった。
それでも、柳田は回りに誰もいないのかを確認してから、笠間に小声で言った。
「沢木に、どうして言わないんだ」
「何を？」
柳田は一瞬笠間をにらみつけると、諦めたように顔を逸らした。
「三上のことに決まってるだろうが」
つい数日前、練習をさぼっていたことを怒鳴りつけた柳田に、司が厭味のように言った。
「ヤナギさん、俺よりも沢木のこと気にかけたほうがいいぜ」
「何だ」
「あいつ、好きな男いるってさ」
「へ？」
「おい、余計なこと言うなって」
隣で俊平が司をたしなめたが、柳田は気の抜けた返事をするだけだった。それを見てなのか、司は得意げになって答える。
「三上良次の兄貴だってさ」
「え？」
驚いたのは、柳田だけでない。隣にいた笠間と、その後ろで偶然仕事をしていた理香だった。
「だから俺が言ったっしょ？さっさといった方がいいってさ」
にやにやと笑いながら話す司に、柳田は低い声で答える。
「誰がそう言った？」
「沢木本人に決まってる―」
「大槻」
やや声が鋭くなり、司も口を閉ざした。
「口外するな。今の話は。わかったな、細谷、小池もだ」
「…はい」
不満げではあるが、司と俊平は頷く。ただ一人、理香だけが柳田に聞き返した。
「ヤナギさん、どうしてダメなんですか？」
「駄目だからだ」
それじゃ答えになっていないと拗ねる理香を無視するようにして、柳田はもう一度言う。
「絶対禁止だ」
その命令を、司と俊平は守った。
だから、部員は誰も知らない。
ただ理香は、萌子本人に尋ねた。
その場にいた美都だけが、唯一そのことを知った部員だった。
それほど、柳田の口調は厳しかったのだ。
だが、笠間は、柳田がどうしてあんな風に言ってまで、このことを隠したかったわからなかった。
「俺は、別にいいと思うけどな。沢木が、三上のこと好きでも」
「単に、逃げてるだけだろうが」
明るく答えた笠間とは対照的に、柳田の声も表情も険しい。黙り込んだ笠間に、それに、と柳田は続けて言う。
「傷は、浅いほうがいい」
しばしの沈黙があって、笠間が答える。
「お前が言ったら？柳田」
「馬鹿野郎。
俺が言うより、お前が言ったほうがいいだろう。彼女のことも知ってるんだろうし」
「…まあ、そう。だけど」
笠間がそう答えると同時に、小山が戻ってきて、話はそこで終わった。
小さくついた笠間の溜息は、そうして秋の気配のする風の中に、消えていった。