Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏海4
「というわけで、私だけになっちゃいました」
「…小池、端折すぎ」
入院三日目になって、理香が見舞いにやってきた。持ってきた花渡しながら唐突にそう言った理香に、朔哉は苦笑しながら答える。理香はえへへと笑うと、少し悲しそうな表情になって言った。
「本当は皆で来る予定だったんです」
理香の言う皆とは美都と篤志、ケン、由太、そして萌子である。
ところがまず、言い出した篤志とケンと昨日大喧嘩をしてたことから、ケンが行かないと言って、さっさと先に帰ってしまったのだという。
「大喧嘩？」
理香は大きく頷いた。
「厳己チャンから聞いたから、あまり詳しくはわからないんだけど。昨日、寮で二人が喧嘩したらしくて」
まずは、昨晩の小池家に遡る。
夜、突然店のドアがドンドンと叩かれ、翌日の仕込みをしていた理香の父親が店のドアを開けてみると、そこには大きなスポーツバッグを抱えた篤志がいた。そして、理香の父親がどうしたんだと口を開く前に、篤志は突然土下座をして、叫んだのだ。
「すみませんっ。店の手伝いは何でもしますから、しばらくここに置いてくださいっ」
そこに理香が店の二階の部屋からやってきて、篤志が家出をしたことがわかった。家出の理由を言わない篤志に、父親が家に帰れというのではないかと思っていた理香だが、父親は部活以外の時間は、店を手伝うことを条件に、篤志の居候を認めたのだった。
「小池的には願ったり叶ったりなんじゃないか」
「ひっどぉ。朔哉先輩。いくらあたしでも、そこまでじゃないですよ、もう」
ぷうと頬を膨らませた理香に、朔哉は微笑みながらごめんと謝る。
実際に、同じ家に篤志がいるのは理香にとってはとても嬉しいのだが、篤志が家にいる時間は、店の手伝いをしているために、思ったように話ができない。しかも、篤志の居候は部員はもちろん、誰にも内緒ということで、一緒に通学することもできない。
何だか、いつもよりもよそよそしいくらい。
一通り理香がそう愚痴ったあとで、朔哉は微笑みながら、それで、と続けた。
「喧嘩の原因は？」
理香は首を振って答える。
「ケンケン、最近怒りっぽいから。どうも中学の時の同級生が、インターハイでベスト４に入った扶洋のレギュラー選手らしくて。嫉妬してるみたい」
朔哉は夏休みに一度も実家に帰らなかったというケンの、最後に見た姿を思い出した。
そういえば、どこか思いつめた表情で、新聞のスポーツ欄を見ていたっけ。
「で、篤志は？」
「うちの店の手伝いです」
理香は少しだけ不満そうな表情を浮かべて、話を続ける。
「それで、四人で行こうとしてたら、由太チャンが妹から連絡があったとかで、家に帰らなきゃいけなくなって」
「で？」
「萌子と美都は…」
そこで理香は大きく溜息をついた。
「どうして、うまく行かないんだろう」
練習中は、昨日のことはなかったかのように、萌子も美都も普通にマネージャーとしての仕事をこなしていた。ただ、理香からすれば、萌子が美都に気を使ってることには気づいていた。
そして、練習が終わり、これから朔哉の見舞いに行くという時になって、ふいに萌子が言ったのだ。
「美都。どうして、三上さんのこと、認めてくれないの？」
椅子から立ち上がっていた理香は思わず足を止めた。美都はちょうど自分のロッカーを閉めたところだった。
「萌子は誤解してる。あたしは、別に三上さんって人のことを認めてないんじゃなくて、萌子のその気持ちがわからないと思ってるだけだよ」
「あたしの、気持ち？」
戸惑ったように萌子が答え、美都は小さく頷いた。
「どうして、そういうこと聞くの？」
「それは」
だがその先を萌子が言う前に、美都が続けて言う。
「あたしが、和美くんを好きだって話したとき、萌子も理香も、応援してくれた。でも、理香が和美くんのことあまりよく思ってないのもあたし知ってたし、ケンくんとかには陰でやめた方がいいって言われたの、知ってる。
でも、諦められなかった。本当に好きだったから。
萌子は、もしも、あたしが、三上さんなんてよくない。やめた方がいいって言ったら、どうする？」
次にするなら、皆が祝福してくれるような恋を。
だから、三上さんだった。
でも、そうじゃないんだったら？
思わず言葉を無くした萌子に、美都は小さな声だが、はっきりと言った。
「それは、恋じゃないと思う」
心が、真っ白になった感覚だった。
何も、浮かんでこなかったし、何も思わなかった。
そんなことはない、とも言えなかった自分がいて、萌子は呆然と立ち尽くしていた。その姿を見て、美都はそっと萌子に優しく話しかける。
「萌子、本当は別な人が気になってるんじゃないの？」
はっとしたように萌子は顔を上げる。そこには慈愛に満ちた優しいいつもの美都の顔があった。
「どうして、素直になれないの？自分の好きな人に嘘つくなんて、萌子らしくない。それに―」
「美都にはわからないよっ」
ミーティングルーム中に、萌子の声が響いた。
それは悲痛な叫びにも聞こえた。
言われた美都も、言葉をなくして、静まり返っている中で、しばらくして小さく萌子の沈んだ声がした。
「ごめん…」
そして萌子は、自分の荷物を掴むと、そのまま静かにミーティングルームを出ていった。
あの時のミーティングルームのように重苦しい雰囲気に包まれたなかで、理香が独り言のように話した。
「あたしは…。あたしは、萌子が本当に三上さんを好きかどうか、って別にいいんです」
その言葉に、朔哉は驚いて顔を上げる。理香は苦しそうな表情をしていた。
「本当のことを言うと、そうじゃないかもしれないって思うけど、やっぱり…別の人が好きなんじゃないかって思うんだけど、別にいいんです。萌子がそう思って、それで萌子が幸せだったら」
萌子が、幸せだったら。
何も言葉を返せずにいると、理香が困ったように朔哉を見つめて言った。
「間違ってます？あたし」
「ケンは何にする？」
部活が終わったその帰り道、さっさと学校を後にしたケンは、自分を追いかけてきた厳己に荒井屋に誘われた。行くはずであった朔哉の見舞いを断り、予定のないケンは、厳己について荒井屋に入る。
アイスを取り出しながらそう聞いてきた厳己に、ケンは、ああと気の抜けた返事をする。
朔哉の見舞いに行かないことは、気が引けたが、それでも篤志とはまだ顔を会わせたくなかった。
「何でもいい」
「じゃ、適当に選ぶよ？」
厳己はそう言って、楽しそうにアイスを物色している。
ふいにドアが開いて、セーラー服の女子高生が入ってきた。
「暑かったぁ」
「あー、涼しいっ」
そのちょっとばかり甘ったるい声に、思わずケンは顔を上げた。
だが、ジュースを買いにきたその女子高生の顔は亮子とは、全然違った。
単に、肩につくボブと、セーラー服、そして少し甘ったるい声が亮子と似ていただけだった。
そりゃそうだ。
亮子がこんなところにいるわけない。
それに、最後にあいつに会ってから、もう何ヶ月もたつわけだし。
髪型だって変わったかもしれない。
もしかしたら、太ったかもしれない。
亮子は甘いものが好きで、特にアイスに目がなかったから。
夏になると頬がふっくらしてくるんだよな。あいつはすっげぇ、気にしてたけど。
キャッキャッとお喋りをしながら飲み物を手に取る彼女たちを、ケンが横目で見てると、ふいに厳己の純粋な声が響いた。
「ケン？これでい？」
厳己が出したのは、亮子が一番好きだった、アイスモナカだった。
そうして互いに買ったアイスを食べながら歩いている時、厳己から篤志が理香の家に居候してると言われ、思わずケンは食べていたアイスを落としそうになった。。
「だから、内緒だよ。変な噂たっても、アッチも理香も困るだろうし。それに、あくまでもこれは家出だから」
慌てたように厳己が言う。
居候先が、彼女の家だなんて。
「…あいつ、俺に会いたくなかったんじゃなくて、単純に小池の家に行きたかったんじゃないのか？」
ふと呟いた言葉に、厳己はそれは違うみたいだよ、と反論した。
「おじさんと、部活以外の時間は、店の手伝いをするって約束したらしくてさ、結局すっごい忙しいんだって」
ふーんと答えて、ふと思った疑問をケンは厳己に尋ねた。
「そういや、なんであいつってば家出したんだっけ？」
厳己は呆れることもなく、素直に説明をする。
「朝起きたら、洗濯物全然できあがってなかったんだって。アッチが着るはずだったジャージとかも。今、おばさんお店が忙しいらしくてさ、ここんとこ、寮に も来ないだろ？家のほうの家事も、全然やってないらしいんだよ。それで、アッチが怒ったら、環さんが逆に叱り返したって話だよ」
それで家出するほどか？と思いながら、ケンは答える。
「ふーん」
モナカが残り二片となったところで、急に厳己が声を出した。
「あ」
「んぁ？」
一口で食べようとしていたケンは、口を開けたままで、厳己を見返す。
「ケン、それ一口だけくれない？」
本当のところを言えば、ケンは別にアイスを食べたくて買ったわけではなかった。
「いいぜ」
快く答え、半分に割ろうとしたところで、ふいに１年前の記憶がよみがえった。
『あ』
『なんだよ、亮子』
『ね、ケンちゃん。それ、一口だけ頂戴？』
『ってか、お前。今チョコモナカ１個食べたじゃん』
『ダメ？』
『…しゃーねーな』
『だから、ケンちゃん好き』
『お前な。俺はお前の餌付け係かっ』
『ね、ケンちゃん。扶洋のお祭、来年も来ようね』
立ち止まったケンを、厳己が心配そうに見つめる。
「ケン？」
ケンは持っていた最中を、袋ごと厳己に押しつけると、今歩いてきた方向に走っていった。
「悪い、俺、用事思い出した」
確か荒井屋に、公衆電話があったはずだというケンの記憶は、正しかった。
暑い中を、猛ダッシュしてきたせいで、ケンの体は汗だくだった。慌ててテレホンカードを探していると、さっき店の中にいたセーラー服の女子高生が、ケンの危機迫る風貌に驚いて、いそいそと駅の中に入っていた。
生徒手帳に挟んであったテレホンカードを見つけると、ケンは公衆電話に押しこんだ。
電話番号はもう暗記していた。
だが、かける直前で、ケンは手を止める。
『どうして？』
涙で光る瞳。
だが、その涙をケンは拭うことはできなかった。
そうさせたのは、俺だから。
かいた汗が額から首筋へと流れ落ちる。
ガチャンと、受話器を下ろし、ケンは小さく溜息をついた。
「俺だって、会いてぇよ」
そして小さく呟くと、ケンは地面に座りこんだ。