Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏海3
「笠間」
練習が始まろうとしているグランドで、その声に思わず振りかえったのは、笠間だけではなかった。その隣にいた萌子が振りかえると、やはり三上が私服姿で右手を上げ、微笑んでいた。
「あれ？三上。どうした、夏休みなのに」
「まあ進路相談ってところかな」
そういう三上の、左手には確かに参考書と一緒に大学案内の資料も見える。その一部に、医大という文字が見え、萌子が気になっていると、三上がにっこりと微笑みかけてきた。
「こんにちは」
裏のないその笑顔を向けられ、萌子はどきっとして戸惑い、小さく答える。
「…こんにちは」
その瞬間、三上と視線を交すのがこわいと萌子は感じて慌てて視線を伏せた。決して三上自身がこわいと思うのではないが、萌子は三上をまっすぐ見つめることができなくなかった。
どうして？
だが、そんな萌子に気にする様子もなく、三上は、すぐに笠間と話しはじめる。
「お前も頑張ってるよな」
「まあね。後悔、したくないから」
「そうだよな、お互いに」
それじゃあな、とグランドを出ていこうとした三上に、思わず萌子は声をかけた。
「あの―」
「沢木っ」
だがそれを止めるように、グランドの中から毎日のように響く柳田の怒鳴り声がした。
三上は立ち止まり、萌子を見つめたが、萌子は何もいわなかった。というよりも、言葉が出てこなかったのだ。
言いたいことがあったわけではない。
ただ、呼びとめてしまっていた。
どうして？
それが、こわいと感じたことへの答えを知りたかったのだと萌子が気づいた時、その固まった空気を和らげるように笠間が言った。
「柳田が呼んでる」
だが、それでも萌子は動けなかった。
「行った方がいいよ」
呪縛を解くような優しい声で三上が言い、ようやく萌子も素直に答える。
「…はい」
そしてくるりを踵を返し、駆け出した萌子を見て、笠間はその先にいてこちらの方を睨むように見ている柳田に微笑みかけて、呟いた。
「嫉妬、かな」
「え？」
何も知らない三上が聞き返す。だが、笠間は独り言のように答えただけだった。
「違うか、娘は嫁にやれないってところかな」
やってきた司と俊平は、一通り病室を見まわしてから朔哉に言った。
「結構元気そうじゃん」
「まあな」
「看護婦かわいい？」
「まあな」
外は底抜けに明るい。窓からはまばゆばかりの陽射しがふりそそいでくるものの、朔哉は病室で横になっていた。
大事をとってということだが、膝にきつく巻かれた包帯は、朔哉の自由を半分奪っていた。代わりにということで渡された松葉杖に、さっそく司はラクガキを始めている。
「どうだよ、部活」
気にかかっていたことを尋ねると、俊平はいつもの調子で答えた。
「まあまあだな。割と淡々と練習してるってかんじ。まだ藤原と早坂も帰ってきてないし」
「お、そういやおもしれー話があった」
司の言葉に朔哉が反応する。
「おもしろい？」
「あの、沢木が―」
司がにやけた顔でそう言ったところで、突然カーテンが開き、若い看護婦が顔をのぞかせる。
「福山くん…。あら、お友達？」
俊平も司も、それぞれに得意の笑顔を向ける。看護婦の頬が一瞬赤くなったのを朔哉が見たところで、声のトーンが少し高くなった看護婦が、少し恥らいながら視線を朔哉ではない方向に向けて言う。
「先生が、呼んでるんだけど。
あ、でも、せっかくお友達きてるんだから、後にしてもらうわね」
なるほど、司か。
朔哉が起き上がるより先に、司は腰掛けていたベッドから立ちあがると、それじゃなと言い残してさっさとカーテンの外に出ていき、それから朔哉の病室に戻ることはなかった。
合宿二日目の練習は、昨日より格段レベルの上がった練習だった。
「早坂、もっと走れっ」
監督である田村にそう言われて成は走るが、それは田村に言わせると、『まだまだ』らしい。練習後に田村に呼び出された成は、そう言われて反論したくなった。だが、田村は成が口を挟む前に続けていった。
「限界を知るというのも、大切なことだ。ただがむしゃらにボールを追いかけているだけじゃ、試合には勝てない。常に自分の限界まで計算して動くことが大事なんだ」
「でも―」
「凪浜高校のサッカースタイルは、私は個人的には好きだ。選手の個性に合わせてそれぞれがプレーする。だが、あのスタイルは、それをとりまとめる選手に非常に左右される。それに、個性を見出せない選手は育たない。それでは、常勝することはできないんだ、早坂」
言葉をなくした成に、田村は肩をぽんと叩いて優しく話しかける。
「監督が変われば、チームも変わる。サッカーも変わる。そのことを、よく理解してほしい。私は君のサッカーセンスをかっているし、君には、私のやりかたに応えることができる選手だと思っている」
田村はそう言って立ちあがった。
成には、田村のやり方というのがわかっていた。
一言で言えば、機能的なやり方である。攻めと、守りと、その役割分担をはっきりと決めて選手が動く。昔のくせで、つい成が攻めあがり、シュートを決めても、田村はそれをよしとしない。
成が小さく溜息をついていると、田村が閉めたはずのドアの隙間から、他の選手の声が聞こえてきた。
「そんなにいいサッカーしてるか？凪浜高校って」
「全然へぼいチームじゃんなぁ」
声の感じからすると、それはあの舟越と、もうひとり舟越と同じヴィクトリアの選手のように思えた。
成に聞こえる話しているのか、二人は話続ける。
「インターハイも、初戦で負け。でもって、関東大会もベスト４で、全日本ユースに出場すらできないチームだぜ」
「選手権の優勝も、卒業生の力だけじゃねぇの？それか、ただの運―」
自然と体が動いていた。
乱暴にドアを開けると、そこにはやはり舟越とヴィクトリアの選手、そして成と同じように二人を睨みつける右京がいた。
「何だよ」
舟越がそう言って右京を睨み返している。
「ほんとのことだろうが」
すっと右京の右手が、舟越の胸倉の伸びた。
「ふじわ―」
止めようとした成の声をかき消すように、廊下に田村の声が響き渡る。
「どうかしたか？」
ヴィクトリアの選手だけが慌てて背筋を伸ばしたが、右京は伸ばした手を戻すこともせず、ただじっと舟越と睨みあっていた。ただひとり、騒ぎになることを恐れてか、ヴィクトリアの選手が、緊張した声で答えた。
「いいえ、なんでもありませんっ」
田村は不審そうにこちらを眺めていたが、廊下から姿を消した。途端に、舟越が口を開く。
「何だ、藤原。文句あんのかよ」
だが右京がその手を再び伸ばして、舟越の胸倉を今度こそつかむ前に、成がその腕を掴んで言った。
「行こう、右京」
一瞬、右京の腕が成を拒否しようとしたが、成が一歩踏み出すと、右京は黙ってそれに従った。
「ふぅ」
大きく深呼吸をして空を見上げる。
そこには、小さくだが星がいくつか見えていた。
大きく伸びをして、朔哉は屋上に寝転がる。昼間の陽射しの熱がまだ残っているコンクリートの床からは、今にも太陽の匂いが漂ってきそうだった。
けれど、ここに、海はない。
時折、ひどく重たく思えたあの潮風が、今の朔哉には無性に恋しかった。
「あ」
小さな声がして、朔哉が起きあがると、青いハンカチが朔哉の体に絡まるように舞い降りてきた。声を上げたのは、入り口に立っている小柄な女の子だった。
朔哉はそのハンカチを拾って立ちあがると、松葉杖を使わずに左足をひきずって、彼女に差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
にこりと微笑んだ女の子は、朔哉と同じ歳くらいだった。人形のようなつぶらな瞳が印象的でもあったが、それより朔哉が気になったのは、彼女がかぶっている帽子だった。
手編みにも思える麻のニット帽は、夏の夜にはひどくそぐわなかった。
「亜衣ちゃん？」
薄く開いたドアから、彼女を探す声がして、亜衣と呼ばれた少女は、再び朔哉に微笑みかけると、くるりときびすを返してドアの中に入って行く。その駆けていく背中に、どうしてか朔哉は別の後姿を重ねた。
『沢木、どうかしたのか？』
司の思わせぶりな話が気になり、俊平に何度も聞こうとしたが、珠里が現れたり、花が届けられたりして、その度にタイミングを逃していた。ようやく聞けることができたのは、俊平が帰るといって自分に背中を向けた瞬間だった。
「どうかって？」
俊平は、一瞬間をおいてから振りかえった。鋭い視線に、朔哉はわざとらしく笑みを浮かべる。
「さっき、司が言ってただろう？面白いことって？」
「別に大したことじゃない」
睨む風でもなく、俊平は朔哉をじっと見つめて、あっさりとそう答える。
俊平はいつもそうだった。朔哉が萌子のことを尋ねるときは、必ずそういう風に朔哉を見つめた。お前は何をしたいんだ、と半ば責めるような視線で。
「そりゃそうかもしれないけど」
「だったら、いいじゃん」
だが、朔哉は気になって仕方なかった。そのせいか、司がいなくなってからは何を話したのかほとんど覚えていない。
不満さが顔に出ていたのか、最後に俊平は会話を終わらせるように言った。
「お前には関係ない話だよ」
最後の見舞客だった俊平が出て行って、病室は静まり返った。
そういえば、今日も来なかったな。
ふいにそう思った朔哉は、似てもいない女の子の後姿に萌子を重ね合わせた自分が、思っていた以上に、萌子の訪問を待ち望んでいたということに気づいて、更に大きな溜息をついたのだった。
ランニングから戻ってきたケンが、自分の部屋に戻ると、ルームメイトの厳己と、昨日から転がり込んできた篤志と、隣の部屋の知朗が大富豪をしているところだった。三人は熱中しているらしく、ただいまとケンが言っても、顔を上げたのは厳己だけだった。
「おかえり、ケン」
「うっす」
知朗はそう言っただけで、トランプから顔を上げようともしない。
こんなヤツが、準レギュラーだなんて。
そう思いながらもケンが汗に濡れたシャツを脱ぎ、ベッドに投げ、新しいシャツに着替えていると、篤志がトランプから顔を上げて言った。
「何やってたんだよ、ケン。もうとっくに練習なんて終わってるのにさ」
「…何だっていいだろ」
ケンが面倒くさそうにそう答えると、床に座っていた篤志が立ちあがった。
「お前さ、最近すっげー気が立ってないか？」
何かが、ケンの琴線に触れた瞬間だった。
ケンは突然篤志に怒鳴った。
「うるせんだよ、アッチ。
くだらねぇ、家出なんかしてないでさ、さっさと家に帰れよ」
呆気に取られたのは、篤志たちだった。
だが、篤志もここぞとばかりに言い返す。
「くだらなくなんかないっ。俺にとっては重要なことなんだ」
「たかがケンかしたくらいで、家出してんじゃねぇよ」
「ケンこそ、実家に戻れよ。意地張ってないでさ。うちにだってお前の家から帰ってこいって電話来たんだぜ」
それはケンも知っていた。
だが、ケンは決して出ようとはしなかった。
母親に言われる言葉は決まっていたから。
そしてそれは、今一番ケンが聞きたくない言葉だった。
諭すように、篤志は少し荒げた声を落ちつかせて言った。
「仕方ねぇじゃん。今年の扶洋は運がよくて、俺たちには運がなかった。
でもそれは、次の選手権で頑張ればいいことだろ？」
頑張れば。
そんなこと、わかりきっている。
第一俺は、赤坂よりも頑張ってる。
なのに、あいつは扶洋でレギュラー選手で、俺は凪高で、ベンチ入りすらできないただの部員だ。
「お前に俺の気持ちなんか、わかってたまるかよっ」
ケンはそう叫ぶと、ついさっき入ってきたばかりのドアを思いきり開けて部屋を出ていった。
「なんだよ、ケンのヤツ」
篤志が困ったようにそう呟くと、トランプから知朗が顔をのぞかせて言った。
「っていうか、アッチ。家出してたのか？」
呆れたのは、篤志だけじゃなく、厳己もだった。
ケンは、そのまま寮を出た。
だが、凪浜に来てから四ヶ月あまりが経っていたものの、こういう時に行く場所など、ケンにはわからなかった。そもそも、ケンはこの四ヶ月のほとんどを、 寮と学校とグランドで過ごしていた。それは、そのままこの四ヶ月にケンがサッカーだけに打ちこんできたという証拠とも言えた。
結局、行く当てのないケンが辿りついたのは、海辺でしかなかった。
夏の暑い盛りを過ぎた凪浜の海にいるのは、過ぎ行く夏を惜しんで、花火を楽しむ人たちだけだった。
その騒ぎ声を耳にしながら、ケンはまっすぐ海を見つめていた。
小学校でも、中学でも、いつも俺の方が先にレギュラーになっていた。
中学の県選抜でも、俺はレギュラーで、あいつはサブだった。
いつだって、俺の方が巧かった。
その赤坂が、レギュラーになれる扶洋。
そして、扶洋は今回のインターでベスト４になった。
レギュラーはおろか、サブにすらなれない俺のいる凪浜は、初戦敗退。
…間違い、だったのかもしれない。
俺が、凪浜を選んだこと。
俺が、扶洋を選ばなかったこと。
赤坂を、亮子を、他にもたくさんの先輩や、チームメイト、先生を裏切るようにして、凪浜にやってきたこと。
それは、前にケンの母親の言葉通りだった。
『お前、やっぱり扶洋にしておいた方がよかったんじゃないの？』
それを否定できない自分がいることに、ケンは気づいていた。
だから、実家には戻れなかった。
それが、正しいということを、ケンは知りたくなかった。
事実であっても、後悔をしても、ケンはもう扶洋には戻れないのだから。
「あれ？藤原は？」
お風呂から部屋に戻ってきた成の顔を見るなり、平太はそう言った。
「部屋じゃなかったんだ」
そう思っていた成が答えると、ああと平太は言ってベッドに寝転がった。床には、他にもニ、三人選手が集まって大富豪をしていた。
「またいないのか。あいつってば、一体何やってんだろうな」
「それにしても不思議なヤツだよな、藤原って」
選手のひとりがそう答える。
不思議なもので、たったの二日間の間にも、自然といくつかのグループができていた。
ひとつは、舟越を中心としたクラブチームのメンバーで、彼らはどこか斜に構えた空気を持って他の選手を牽制するようによく睨んでいた。
もうひとつは、有名高校の選手たちで、彼らはクラブチームのように牽制することはなかったが、必ずしも無名な選手に平等に接するわけではなかった。
そういう意味で、平太や成、そしてここに集まっている選手は、どこに所属するわけでもなく、ただマイペースにサッカーをしていた。
「サッカーすっげぇうまいのに、別にそれを鼻にかけてる感じもないし、でもすっげぇ無口で、壁つくっててさ。藤原って学校でもいつも、あんなんなわけ？」
平太から話をふられた成は、いつもの右京を思い出して答える。
「まぁ、そう、かな」
「いいんじゃないの？クールでさ。あいつみたいにかっこよくて、サッカーうまけりゃ、すっげもてんだろうなぁ」
別の選手がそう呟く。実際、練習を見に来た女の子に囲まれていた右京を見た平太が言う。
「でも、別に気にしてない感じだよなぁ」
自分の見たことのある限りの右京を思い出しながら、成も平太の言う通りだと思う。
「好きな女がいるんじゃないの？実はすごい一途とか」
「あるいは女に興味がないとか？」
「あ、俺、でもあいつなら考える」
そして一団はゲラゲラと笑いあった。不思議なもので、舟越たちは右京を敵視しているものの、その他の選手たちは、右京のサッカーセンスを認め、むしろ受け入れようとしていた。
門限を過ぎて、ケンが寮に戻ってくると、部屋には厳己しかいなく、篤志の大きな鞄も姿を消していた。
「あれ？…篤志は？」
「別のところに行ったよ」
「別？」
うん、と頷いて、厳己が答える。
「ここにいても、家出の意味がないって」
「そ」
確かに、自宅は隣にあって、寮母として母親が毎日夕食を運んでくるところに、家出の意味はない。事情の知らない知朗が家出したと思わないはずだ。
「それに、ケンと顔会わしたくないって」
「そ」
ケンにしかわからないことがあるように、篤志にしかわからないことがある。
篤志の家出も、きっとケンにとっての帰郷と同じ意味だったんだろう。
疲れてベッドに寝転んだケンに、それにね、と厳己が話しかけた。
「ケンも自分と顔会わせたくないだろうけど、ケンには逃げる場所が、ここ以外ないからって」
自分がひどく子供に思えて、ケンはおやすみというと、そのまま寝返りをうち、厳己に背を向けた。