Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏海1
重たくなった足を、砂浜に吸いこまれるようになりながらも、成は止めることなく走り続けていた。朝の浜辺は、まだ誰もやってきていない為に、静かで、そして涼しい。遠くの海ではサーファーたちがすでに漂いはじめていたが、それも数人だった。
夏の盆も過ぎた時期だ。そろそろ海にはクラゲが漂い始めていた。
目標にしていた階段に辿りつき、成は走りを緩めると流れ落ちてきた汗を拭った。
「ふぅー」
小さく呼吸を整える。出発まであと一時間はあった。準備もほぼ終えている。寮に戻り、シャワーを浴びようと決めながらも、成は階段に座りこみ、海と朝日を眺める。
またしばらく、この海ともお別れだ。
それは、凪浜にも同じことがいえ、萌子にも同じことが言えた。そのことが、少しばかり成の切ない気持ちを救っていた。
ユース代表候補の合宿の話をされたのは、インターハイの初戦を明日に控えた夜だった。右京と共に石橋に呼び出された成は、正直に驚いた。
「あの、本当に？ですか？」
凪浜から呼ばれたのは、右京と成の二人だけだった。
ジュニアユースだった右京は、当然だとしても、成はほとんど無名の新人だ。落ちついている右京の隣で、一人慌てる成に、石橋は微かに笑って、
「選考合宿だ」
と本当のことを伝えた。それでも自分が日の丸をつけるかもしれないことを思うと、成は大きく目を見開くことしかできなかった。
トントントン…と階段からボールが転がり落ちてきて、成の背中にぶつかって止まる。振り返ると、夏休み明けで、久々に顔を会わすケンがいた。
「おはよう、ケン」
「なに、お前？走ってたの？」
「ああ。ケンも？」
そう言われたケンは、慌てて額の汗をぬぐい、余裕のないぎこちない笑みを浮かべた。
ケンはインターハイの初戦で凪浜が負けてから、こういった笑顔でしか笑うことができなくなっていた。
「まあね。ユースの合宿って今日からじゃなかったのか？」
「この後、行くよ。藤原と一緒に」
そもそも夏休みを実家で過ごした成が、わざわざ凪浜に戻ってきたのは、右京と合流するためであった。右京は、高校に入ってはじめての五連休を自宅ではなく寮で過ごした。それはケンも同じだったはずだ。
どうして戻らなかったんだ？
そう成が聞く前に、ケンは成の背中を思いきり叩いて言った。
「ま、頑張って来いよ」
今年の夏、凪浜はシード校としてインターハイに出場した。だが初戦を静岡の強豪藤田東と戦い、一対ニで敗退してしまったのだ。
優勝はできなくても、せめてベストエイトくらいまで行くだろうという大方の予想を裏切っての敗退だった。かわりに選手たちにプレゼントされたのは、夏休みであった。
寮生の多くは、三ヶ月ぶりに実家に戻った。だが、ただ二人。右京とケンだけは、戻らずに寮にいた。
右京がどうして戻らなかったのか、ケンは知らない。そもそも寮に二人だけ残ったといっても、隣の家の篤志が寮にいつもいたし、右京はほとんど部屋からでてくることはなかったのだ。
ふと足音がして、ケンが振りかえると辺りをきょろきょろ見まわしている萌子がいた。
「おはよ、萌子。何だよ」
「うん」
そう答えながらも、萌子は何かを探している。ケンはふと萌子が持っている紙に気づいた。
「なんだそれ？凪浜サッカー部納涼会のお知らせ？」
「うん。環さんに今朝渡されて。インターハイも負けちゃったから、選手権の予選の前にパーティーしようって。皆に渡すようにって言われて、さっき篤志から成が海に行ったっていうから持ってきたんだけど」
「あいつなら、たった今、寮に戻った。すぐにユース代表の合宿だぜ」
「そ、っか」
少しだけ萌子の声が沈んだように思った。ケンは、足もとのボールを蹴りながら答える。
「四日間もすれば帰ってくるさ。それでもいいだろ」
「うん」
それでも、萌子の視線は探している。
ケンは小さく溜息をついた。
「お前さ？」
「うん？」
どうしてふった男の後なんか、一生懸命追いかけてきて、
いないっていってるのにそれでも探してるんだよ。
そう言いたくなった気持ちを、ケンは押しこめて言いなおす。
「いや、何でもない」
三年の約三分のニが引退をして、空いたロッカーがようやく一年生に支給されるようになり、部室はその準備で賑わっていた。
「やっとロッカー支給か」
「耐えた甲斐があったってもんだな」
憧れの選手のポスターをはったところで、篤志はついた埃を振り払うように手を叩く。
「アッチってば、色気ねぇなぁ」
ふいに隣の興仁がそう言う。篤志が反対に興仁のロッカーを覗くと、そこにはアイドル歌手のポスターがあった。
「お前よか、ましだろ？」
「…ってか、知朗何貼ってるんだ？」
もともとロッカーを支給されていた知朗だったが、その中には、
『目指せ！全国制覇！』
とお世辞にも上手いとは言えない字で書いてある紙が貼られていた。
「気合入れなおしてきた」
知朗はそれだけ言うと、その隣にまた新たな紙を貼る。
『明日は俺の風が吹く』
今度の字は、かなり達筆である。
「それって誰が書いたわけ？」
呆れて聞いてきた興仁に、知朗は自信満々に答える。
「こっちは父ちゃん。そっちは俺」
座右の銘は父親で、へたくそな文字で気合を入れてきたのは、想像通り知朗だったことに、篤志は呆れながらも、そう、と答えた。
全国制覇。
夏の、インターハイ。全日本ユース。
そして冬の選手権大会。
それがいわゆる高校サッカーの三大大会である。
だが、インターハイで、二回戦敗退。
全日本ユースには、予選である関東大会でベスト４という成績のために出場できなかった。
今年残されたチャンスは、選手権だけになる。
篤志はもう一度、全国制覇と書かれた文字を見つめ直した。
「福山朔哉君、第二診察室へどうぞ」
名前を呼ばれた朔哉は、重い腰をあげて、捻った左足を軽く引きずりながら診察室へと向かう。
まったくもって、ついてない。
ことのはじまりは、篤志の家出だった。
家出と言っても、隣の家から寮に移っただけとも言えるのだが、今朝になって突然大荷物で現れた篤志を見て、三年の横田が聞いた。
「どうした？日比野？お前もついに寮生か？」
冗談のつもりが、篤志は真面目な顔をして、大きく頷いた。
「よろしくお願いします」
呆気に取られている横田の脇を通り、篤志は荷物を抱えて二階へと上がる。反対に階段を降りてこようとしていたケンが、すれ違い様に篤志に聞いた。
「あれ？どうした？アッチ」
「今夜はお前の部屋に泊めてくれ」
ケンは厳己と同じ部屋である。ベッドが空いているわけではない。
「まじ？」
「ああ」
どこか怒り気味の篤志がそのままケンと狭い階段ですれ違う。だが、荷物がひっかかり、篤志の足を止めさせた。
「けど、お前のベッドないぜ」
「床でいいよ、床で」
投げやりにそう答え、篤志は何とか鞄を通そうとした。その瞬間、荷物が篤志の手から離れ、下で階段を登り始めていた朔哉のところに降ってきた。
結果、朔哉はこうして病院に来ることになったのだ。
「ただの捻挫みたいだね」
診察を終えた医師がそう告げる。
そもそも病院に来ることもなかったのに、心配をした篤志の母親が無理やりに朔哉を車に乗せて連れてきたのだ。
「一週間ほど安静にしてくれれば大丈夫だろう」
「部活は―」
サッカーは、できますか？
練習、できますか？
選手権の予選、出れますか？
そう聞こうとした朔哉の言葉を遮って、医師は軽い笑顔を浮かべた。
「それよりも、気になることがあるんだ」
嫌な予感が朔哉を襲う。
「左膝が少し痛むって話をしていただろう？いい機会だから、検査をしてみたほうがいいかもしれない」
「え？」
それは軽い世間話程度にした話だった。たまに、重心を左にした時に痛むことがある。そう告げただけだ。
医者は笑顔のままに朔哉に宣告した。
「とりあえず、ニ、三日入院だね。福山君」
洗濯物の渦が、右に左にと回転する水音が心地よくて、萌子はしばらく洗濯機の前に立ち尽くしていた。定期的な水音は、どこか波の音にも聞こえる。その音を聞くたびに、萌子は不思議な気持ちになった。
心が苦しいのに、感じるのは空虚なのだ。
苦しいのは、心から溢れてしまいそうなくらいの気持ちがあるからなのに、それが何なのか萌子にはわからない。虚しく感じるのは、それがわからないからなのか、それとも全然違うことなのか、それすら萌子にはわからなかった。
考え込む萌子の前に、司がふいに顔を出してきて、挨拶もなしに唐突に聞いた。
「何で早坂、ふっちゃったわけ？」
萌子はそれまで考えていたことを忘れ、一瞬手を止めたものの、何も気にしないようにして答える。
「先輩には関係ないです」
「俺が橋渡ししてやろうとしたじゃねぇかよ」
感謝しろといいたげな司の隣から、俊平が顔を出す。
「それが失敗のもとなんだろ」
二人は萌子の目の前で言い合いをはじめ出していた。
何も言えなくなった萌子は俯いて洗濯機の中を見つめる。水音が一際大きく萌子に聞こえた。
萌子は二人を無視して少し目を閉じる。
そこにあるのは、海。萌子を優しく包む、波音。
何もかも許し、萌子の心を癒してくれる波音。
そして、その音は、萌子の心の鍵をそっとあけはじめる。
「でも早坂と仲良くやってたじゃん。どうしてふったわけ？」
『頑張ろうな、これから三年間』
そういってはじめに笑顔で答えてくれた成。
あの笑顔で、不安だった萌子の心は安心したのだ。ここでやっていけるのだと、そう感じたのだ。
「ってかさ。お前、好きな奴いないんだろ？付き合えばよかったのに」
『このまま、時が止まってくれたらな』
はじめて成と体験した夕凪の瞬間。心の底からそう思った。成以外、誰もいない浜辺で。
「ちと真面目すぎるけど、お前にゃちょうどいいし」
『いいよ、話したいんなら聞くから』
気づいたら話していた嫌な過去も、成は受けとめてくれた。
「ユースにだって選ばれるくらいで、将来も有望だろうし」
だが次の瞬間、萌子の心に冷ややかに響く、百合の声。
『ばいばい、萌子』
「今からでもいいじゃん。つきあえよ」
波音はそれでも繰り返させる。
浜辺で萌子の隣にいるのは、もう、成ではない。
成であっては、いけないのだ。
『君は…』
「あ、それ名案！」
そう、成ではない。
『君は、一人じゃないよ。頑張れる』
「います」
萌子は顔を上げて、そう答えた。
突然にはっきりといわれ、それまで言いたい放題だった二人は萌子の顔を思わず凝視する。その中で、萌子は自信を持って答える。
「好きな人くらい、います」
一瞬の間があって、俊平が尋ねた。
「誰だよ」
ちょうど洗濯機が止まって、終了のブザーを告げていた。萌子は微笑みながら答える。
「三年の、三上さんです」
「早坂成。凪浜高校出身」
ユースの監督である田村に名前を呼ばれた成は、大きく返事をする。
「はい」
ずらりと並んだ全日本ユースの候補生が、一人一人田村に名前を呼ばれていた。周りの選手が名の知れた選手ばかりであることに、成はかなり緊張していた。
田村はそんな成に向けて、和ませるように笑顔で挨拶する。
「よろしく。それから、同じく凪浜高校出身、藤原右京」
だが、返事はない。
思わず成も辺りを見まわす。
「藤原？いないのか？」
先ほどまで、確かに右京は成の隣にいたはずだった。ざわめきだした中で、慌てて成は大声をあげた。
「います。けど、すみません。ちょっと、トイレ…か何かで―」
そこに飄々として右京が現れた。その表情には反省もなく、また遅れたことを口に出して謝ることもない。
田村が視線を手元も資料に落として言う。
「藤原、集合時間にはちゃんと集まるように」
「…はい」
小さく返事をした右京の声にかぶるように、誰かの鋭い声が成に聞こえてきた。
「たるんでんじゃねぇよ」
思わず顔を上げて、その声の主を探していると、田村が次の選手の名前を呼び上げているところだった。
「舟越亮輔。ヴィクトリア・クラブ出身」
「はい」
同じ声がして、成は思わずその声の主を見つめた。
ヴィクトリアって、藤原が前にいたクラブチームだ。
だが舟越は、成ではなく、ただ右京のことを睨むように見つめていた。
練習も終わり、グランド整備が始まっていた。
萌子が救急箱を部室に運んでいると、ふいに柳田が声をかけてきた。
「おい、沢木」
「はい」
だが、呼んだくせに柳田は次の言葉を言わない。
「何か用ですか？」
萌子が柳田を見つめると、その表情は怒っているわけではなさそうだった。
「その…。お前、好きな奴がいるとか、いないとか」
あまりのことの進展の早さに、萌子は思わず言い返す。
「ヤナギさんには関係ないじゃないですか」
「まあ、その通り、なんだが」
そしてまた、柳田は黙り込む。
萌子が次の仕事があると言って、柳田の前から去ろうとしていると、柳田は珍しく遠慮がちに言った。
「三上、だとか聞いたんだが」
思わず息を吸いこむ萌子の目を、珍しく柳田は見ることなく、言葉をつなげようとしている。
「…その」
そして、思いきったように顔をあげると、いつもの厳つい表情で怒鳴りつけた。
「つまり、もう少しで選手権の予選が始まる。
お前に恋愛でうつつを抜かすような時間はない」
その瞬間、思わず萌子は柳田以上の大声で怒鳴り返していた。
「うつつぬかしてなんかないですっ」
そして床を踏み鳴らすように、柳田の前から萌子は去っていく。
肩をがっくりと落とした柳田に、小山がからかうように言った。
「たしかに、あいつはちゃんと仕事してるよ」
成のことがあって、萌子の仕事への力の入れ方は今まで以上だった。小山は、萌子と成の話を噂程度に聞いて少しばかり心配してもいたのだが、それが杞憂に終わったことで、二人を高く評価していた。
「おかしいのはおまえの方だよ、柳田」
「うるさい」
怒鳴られたことが響いたのか、それとも萌子に好きな人がいることを聞いたからなのか。柳田は顔を俯かせていた。小山はそんな様子を見て楽しみながら答える。
「いいじゃん、三上。俺は好きだよ。いい奴だしさ」
「知らないのか、小山」
「何を？三上の弟のこと？知ってるけど、それは関係ないだろ」
小さな溜息が聞こえた。
柳田は、俯いていた顔をそこでようやく上げた。
「違う。…知らないんなら、いい」