Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏暁8
冷たい水で顔を洗い、萌子は水滴を拭きながら、鏡に映った自分を見つめる。
昨日流した涙の跡など、どこにもない。
…涙…。
そう思ったところで、ふと萌子は疑問を感じる。
流したのだろうか。
自分は？
何の為に？
誰の為に？
「おはよ、萌子っ」
肩をポンと叩かれて、振りかえると、笑顔の理香がいた。
「今日で合宿も終わりだね。頑張ろうっ」
「うん」
その後ろからは、低血圧の美都が、目を擦りながらやってくる。
「おはよぅ」
美都はそのまま、蛇口を捻ろうとするのだが、まだ寝ぼけているようで、ただの空間をさっきから掴んでばかりいる。
萌子は理香と顔を合わせて微笑んだ。
「美都、顔洗ったら、朝ご飯の準備だよ」
「おい、こら。成っ。起きろって」
ケンの怒鳴り声がして、軽く体を蹴られたと思った瞬間、かぶっていた布団をはがされた。
きつく目を閉じたままの成に、湊が優しく声をかける。
「おはよ」
成は仕方なく、起き上がった。
「…はよ」
そして立ちあがると、そのまま二人を無視するように、教室を出ていく。その後姿を見て、篤志が心配だ、という表情を湊に投げかけた。
昨日のことは、消えた成を心配して寝ずに待っていた湊だけに告げられていた。その横で、さりげなくケンと篤志も聞き耳を立てていたのだ。
「しばらくは、放っておこう」
湊がそう二人に言う。ケンは俯きがちに答える。
「そう、だな」
ふと成の後姿を目で追いかけようとしたところで、篤志と視線が合った。
お互い、後悔をしている目だった。
朝のランニングも済み、これから練習というところで、グランドにやってきた萌子は、その中央に一人佇む男子生徒を見つけて歩み寄った。
「大西さん。どうかしたんですか？」
ランニングは終わったものの、制服に着替えるにはまだ早い。
だが、大西は、制服姿で鞄を持っていた。
「ああ、沢木か。うん」
「荷物持って。どうしたんです？」
大西は荷物をグランドに下ろすと、相変わらずの笑顔で説明した。
「実は、家に戻らなきゃならなくなってさ。じいちゃんが危篤になっちまって。…合宿も終了だ」
そのわりに、大西は焦っていない。むしろ、感慨深そうにも見えた。
「あの、大丈夫ですか？」
「じいちゃん？うん、もう駄目みたいだな。だから、家に帰って来いってさ。インターも応援行けそうにねぇや」
大西がインターハイの応援まで行くことは萌子ももちろん知っていた。一度も、凪浜のユニホームを着たことがない大西だったが、その大きな声はよくグランドでも、競技場でも響いていた。
「なんだか、ここでこうしていると、いろんなことを思い出すよ。一年の時のキツイ練習とか、監督に怒鳴られたこととか、雨の中の練習。初めて練習試合で得点したこと、それから…」
試合に勝つ喜び、
負ける悔しさ。
このグランドで、それ以上のたくさんのことを学んだ。
たくさんの汗を流し、
たくさんの涙を流して。
「最後に、言いたくなったんだ。ありがとうございましたっ、って」
大西はそういうと、すっと姿勢を正す。そして胸を張り、深く頭を下げ、静まり返ったグランドに叫んだ。
「ありがとうございましたっ」
張りのある声が、響き渡る。
その余韻を残しつつも、大西はぱっと顔を上げると、荷物を肩に背負った。
「それじゃな、沢木」
その笑顔の清清しさに、萌子は思わず声を詰まらせる。
「…おつかれさまでした」
「おうっ」
そうして明るくグランドを歩き出そうとした大西に、笠間が声をかけてきた。
「大西っ」
「あれ？笠間」
「これ、監督がお前にって」
差し出したのは、凪浜の青いユニホームだ。
大西が三年間、正式な舞台で着ることを願い、頑張って、でも着れなかったユニホーム。
「はは…。サンキュ…」
受け取りながら、大西は微笑む。頬を拭いながら、顔を上げて、そこで今度は唖然とした。
「…なんだよ、おい」
グランドの端には、部員全員が整列していた。そして端にいた小山が号令をかける。
「礼っ」
「おつかれさまでしたっ」
全員が、大西に向かって頭を下げていた。
倣うように萌子も、笠間も頭を下げる。
押し殺すようにして、大西が言った。
「…ありがとう」
これから練習、というところで、由太がグランドに向かおうとしたところで、偶然体育館から西村がやってくるのが目に付いた。足を止めた由太に、西村も気づき、二人はしばらく見詰め合った。
「西村…」
すまなかったと、謝ろうとした由太の言葉を遮って、西村は持っていたハンドボールを指の先でくるくると回した。
「あてつけで始めたんだ、ハンドボール。
サッカーじゃ使えない手を使う競技だからって。馬鹿、みたいだけど。
でもさ、結構面白んだよな、これが」
微かだが微笑んでいるようにも思える、その静かな表情に、由太は小さくそうか、と答える。体育館からは、ハンド部員のはしゃぐ声が微かに聞こえていた。
西村は、ボールを大事そうに手に抱えると、じっと由太を見据えた。
「今は、部員も少ないし、だらけてるような状態だけど、いつか、見返してやるからな。
凪浜高校は、サッカーだけじゃないんだってこと、見せてやる」
突然、自分に投げられたボールを由太は受け取る。心地よい強さだった。
顔を上げると、西村の表情がいきいきしていることに気づき、由太もそのボールを投げ返す。
「ああ」
グランドの外に飛び出したボールを追いかけて、捕らえたケンに、誰かが声をかけた。
「名取」
驚いて顔を上げると、菊地だった。
「あ、こんちわ」
菊地の顔が、晴れ晴れとしていて、思わずケンは、尋ねる。
「今日は、用事があったんですか？」
「ああ。監督に、相談があったんだ」
そういえばいつもとは違い、今日はスーツを着ている。何を話したんだろうと考えるケンに、逆に菊地が聞いてくる。
「お前、中学のとき全国大会でベストエイトだったんだってな」
「はい」
「すごいな」
「いえ、そんなこと、ないっす」
選手権優勝のキャプテンにそう言われ、恥ずかしくなったケンはそういって、大きく首を横に振る。
だが菊地は、そんなことにも構わずに続けた。
「センス、あると思うぞ。けど、大事な物が足りて無い」
「大事な物？」
「そう、大事なこと」
ケンはごくりと唾を呑む。
「何、ですか？」
真剣に見つめ返すケンに、菊地はすぐには返事をしなかった。
少し経って、答えの代わりに、明るい声でこう言った。
「それに自分で気づかないと、上には行けないぞ」
右京がドアを開けると、中で待っていた人間はすぐに立ちあがり、握手を求めた。
「はじめまして。田村といいます」
右京は怪訝そうな表情を浮かべながらも、握手を交す。
練習の最中、客が来たという連絡を石橋から受けて、右京は応接室にやってきた。
なんてことない客であれば、グランドで挨拶するくらいで済むのに、わざわざ石橋がここを用意した理由を、右京は理解する。
田村は、右京が座ったのを確認してから自分も席につく。
そして、一息ついたところで話を切り出した。
「今僕は、Ｕ−１７のユースの監督をしていて、君の話は、前前から聞いている。
今日は様子を伺いに来たんだけどね。どうしても、個人的に話したくなって、練習中にすまない」
「…もう、終わりだから」
ぽつりとそう言った右京に、田村は笑顔を向ける。
「そうだね。
それより、練習見せてもらったよ、ミニゲーム。噂通り、素晴らしい才能の持ち主だ。
正式に、ユース代表として、日の丸をつけてもらいたい。そのために、八月に行われる合宿に参加してほしい」
優しい表情の中にも、強さがのぞき、右京も自然と背筋を伸ばして答えた。
「はい」
力強い返事を聞いたところで、再び田村は笑顔を浮かべ、出されていたお茶を一口飲んだ。静まりかえった応接室に、グラスの氷がぶつかる音と、外のセミの鳴き声が響く。
グラスを置くと、田村はさらに和やかな声で言う。
「ところで、個人的な意見を述べてもいいかな」
何の話だ？というように顔を上げた右京を見つめ、田村は自分の目に狂いはないと確信をする。
「君は、世界に行った方がいい。できるだけ、早いうちに。
すぐにプロ選手としては無理かもしれないが、今の君なら、向こうのユースチームに入っても通用するし、そこで一年もすれば、プロになれるかもしれない。
その方が、君の将来のためだ。
僕は、君に、ここで、日本の高校という枠にはまってほしくないんだよ。
確かに、凪浜は優れた高校生のチームとは思う。
でも、プロを目指している選手のチームじゃない。いつか、君にとっては、ぬるま湯に感じてしまう時がくる」
断言をした田村の自信に、右京は少し驚く。
だが田村はそんな右京の僅かな変化を、楽しむように話を続けた。
「私だったら、それなりのツテもあるし、いいところに紹介してやれる。
急には無理だと思うが、少し、考えてはみてくれないか？」
俺に足りないもの―。
大事な、こと―。
それがわからないと、俺はレギュラーになれない？
気合。
ある。絶対にある。藤原なんかより、ある。
技術。
…は、藤原には負けるけど。
でも、下手な奴よりは絶対にある。
そう言える自信もある。
わからない。
経験？
だったら、フォワードからコンバートされた成なんかよりも、俺のがある。
何だろう。
何だろう。
考え込むケンの頭に、ホースの水がザバッと振りかかる。
「ってか、なーに真面目腐った顔してるわけ？名取クン」
興仁がそう言って、にこにこと笑っている。
ケンは俯きながら、声を震わせながら答える。
「てめーは…。こんなに俺をずぶぬれにして、何が言いたいんだよ。水も滴るいい男ってわけか？！」
頭からバケツ一杯くらいの水をかぶり、ケンの髪はおろか、ジャージまでもがびしょ濡れになっていた。
ついに合宿の練習が終わった為か、グランドには開放感が溢れ、スプリンクラーの周りを飛び跳ねる部員や、ホースを持って騒いでいる部員が駆けまわっていた。
ふいに隣にいた厳己が、真顔でケンの髪をまじまじと見つめて言う。
「へぇ、ケンの髪ってほんと固いんだね。濡れてもぺしゃんってならないや」
「…厳己、本当に感心すんなよ、そんなことで」
「けど、そういう奴に限って、将来ハゲるんだぜ」
「げっ？まじっ？」
篤志までもがそういって話に加わる。
俯いていたケンは、思わず怒鳴って顔を上げた。
「てめーらっ、うるさいっつーのっ」
「それじゃ、詳しい日程は追って連絡する」
わかりました、というように頭を軽く下げた右京に向かって、田村は微笑む。
「少しくらい、考えてみてくれ。期待してるよ、君の返事」
それがユースの話でないことは右京にもわかる。
廊下を歩いていく田村の背中を見ていた右京が、グランドに戻ろうとしたところで、ふいに田村が振り返った。
「ああそうだ。相手チームでディフェンダーしてた子は、何という名前かな。青いウェア着てた」
右京は自分の記憶を手繰り寄せ、答えを見つける。
「早坂、成」
「早坂か。彼にも、合宿に来てもらうかもしれないな」
田村はそう言うと、手を上げた。
「それじゃ」
校舎の廊下を歩きながら、田村は先ほどの右京との話を思い返していた。
海外行きを世話してもいい。
またとないチャンスを、だが右京ははっきりと拒否した。
「お断りします」
田村は明らかに驚いたと言う表情を浮かべた。
「どうして？
誰もが願ってるんだよ、世界で活躍することを。だができるのは、わずかな人間、選ばれた人間だけなんだ。君はそういう可能性を秘めた人間の一人なんだよ。これはいいチャンスなんだ」
小さく頭を下げた右京に、田村はさらに大きな声で言う。
「今の君は、これからどうにでもなれる可能性を持っているんだ。欧米の有名クラブチームで活躍することも、ワールドカップに出場することも。でも、その可能性を広げるためには、日本にいてはいけないんだ。
君は、それでもいいというのかい？」
俯いた右京の頭が小さく、縦に動く。
田村は信じられないというように頭を大きく抱える。
「君は…。君はいったい、何の為にサッカーをしているんだ？」
その言葉は、いくらか右京に響いたのか、俯いていた顔を、初めて田村に向けた。
いい目をしている。
田村はそう思った。
一見、冷ややかに思える仮面のような表情。
だが、その瞳だけは、何かを強く求めているのが田村にはわかった。
それが、より上のレベルだと思ったのは自分の間違いだったのだろうか。
結局右京は答えなかった。
答えたくなかったのではなく、答えがなかったのだ。
少なくとも、田村はそう思った。
ふと騒がしい声がして、田村は廊下の窓からグランドを眺めた。練習を終えたサッカー部員たちが、ホースを持って楽しそうに遊んでいる。
田村も、右京の経歴を知らないわけではない。
突然のユースクラブの退団。
そして高校のサッカー部に所属。
君が望んだものは、こういうことなのか？
藤原、右京。
スプリンクラーが勢いよく回り出した。その中で、Ｔシャツ姿の知朗が駆ける。
冷たい水は、乾いたグランドだけでなく、部員たちの気持ちも癒していた。
「気持ちいーっ、来いよ、萌子っ」
「え？へっ？知朗」
ふいに手を引っ張られ、萌子もスプリンクラーの橋の下をくぐる。冷たい水が、頬に触れた。知朗はそのまま萌子に、何度も水の橋をくぐらせた。
「ハハハハッ、気持ちいいだろっ」
そう言いながら、知朗はびしょ濡れになったＴシャツを脱ぐ。
日焼けした体に、浮き上がった筋肉が、童顔の知朗に合っていなく、萌子は戸惑っていた。
「もう、濡れちゃったじゃない」
照れ隠しに、額にはりついた髪を萌子がかきあげると、水の掛け橋の奥に、人工的だが七色の橋を見つけた。
「あ、虹…」
青い空にかかった虹は、まるで本物のように輝いている。
ふと気づけば、萌子と向かい合うように、虹を見ている成がいた。
目があった瞬間、お互いの表情が凍りつく。
先に視線を逸らしたのは、成だった。そしてそのままくるりと背を向けた。
萌子はちりちりと心が痛んだ。
当然じゃない。
ふってしまったんだもの。
傷つけて、しまったんだもの。
だが、ちりちりと心が痛む。
つぅ、と涙がこぼれてきて、萌子は慌ててぬぐった。
どうして？
それはまるで、目薬のように、するりと萌子の渇いた頬を伝う。
たった、ふたつぶ。涙は流れると、そのまま止まった。
どうして？
心はまだ痛んでいたが、萌子は思いきりスプリンクラーに飛びこんで、水を浴びた。
「あ」
帝都スポーツ記者の大内はすれ違った車を慌てて振りかえる。だが、校門を出ると、すぐにその車は見えなくなった。
今のは、Ｕ−１７の田村監督？
どうして凪浜高校に？
だがその答えは、自分と同じだとすぐに大内は気づく。
藤原右京、か。
ユース代表、決定か？しかし、それだけで直接会いに来るのだろうか。
それとも別の話か？
腕組をして悩む大内に、騒がしい声が聞こえてくる。
何だ？何かあったのか？
決定的瞬間を逃さぬようにとカメラを構えて、早足になった大内の目に飛び込んできたのは、グランドで水と遊ぶ部員たちだった。
思わず大内はぽかんと口を開けたまま、その様子を眺める。
あと一週間もしないうちにインターハイが始まるというのに。
大内も、右京だけを追いかけているわけではない。優勝候補の高校を何校かあたった。だが、どこに言っても、試合前の緊張感からか、ピリピリと張り詰めたムードだったはずだ。
なのに、ここは。
緊張感などなく、ただ全員が笑顔で楽しんでいる。
大内はしばらくその様子を見ていたが、ふと手にしていたカメラを構え、シャッターを切る。自分はカメラマンではなく記者だし、この写真が紙面を飾ることはない。
小さな溜息と共に、大内は呟く。
「素晴らしき哉、青春」
気づけば、一年生のほとんどが、スプリンクラーで遊んでいた。
「あいつらって、馬鹿？」
司がそう言って呆れていた。その隣で、俊平が首を傾げるようにして言う。
「つうかさ、透けてるんだけど」
選手たちはだいたいが上半身裸になっていていたが、萌子たちは脱ぐわけにもいかずに、Ｔシャツをびしょ濡れにしてしまっているので、下着の線がなぞれるくらいに見えていた。
俊平が呆れたように答える。
「まあ、いいんじゃない？楽しそうだし」
確かに萌子は笑っていた。
これ以上ないと言うくらい。
昨日は何もなかったかというように。
朔哉もしばし、この状況を忘れてグランドを眺めていた。
「そろそろ監督戻ってくるんじゃねぇの？」
俊平がそう言ったところで、後ろの方から柳田の怒鳴り声が響く。
「おい、お前らっ。せっかく整備したグランド汚してどうすんだっ。やりなおしだぞっ」
「あー、楽しかった」
そう言った理香の隣で、知朗が子犬のように頭を震わせ、雫が辺りに飛び散った。
「ちょっと、知くん。水撒き散らさないでよっ」
Ｔシャツをしぼりながら理香がそう言ったが、知朗は理香を無視して、楽しそうに笑っている萌子に話しかけた。
「萌子」
「え？」
「ずっと笑ってろよ。そうやってさ」
知朗のつぶらな瞳が、嬉しそうに細くなる。
「俺は笑ってる萌子の方が、好きだ」
思わず笑らうのをやめた萌子の脇で、篤志とケンが囁き合う。
「うげ、また場所をわきまえない告白」
「馬鹿？それとも自信？」
二人の視線の先で、萌子は微笑みながら答えた。
「…ありがと、知朗」
それ以上言葉の出ない萌子の肩に、ふんわりとタオルがかかった。振りかえると、朔哉が平然とした表情で、皆に言っている。
「ほら、さっさと着替えてこい。夏でも風邪引くから。
あと十分で監督が戻ってくる。それまでにグランドに集合だ」
「はいっ」
慌てて部室に戻り始めたところで、一番後ろにいた萌子が声をあげた。
「あのね、理香、美都」
「うん、何？」
思わずその前を歩いていた篤志たちも振りかえる。
自分の言葉を待つ部員たちに、萌子は堂々と言った。
「ありがとう」
思わず理香たちも顔を見合わせる。
「何よ、急に改まって」
「どうしたの、萌子」
「言いたくなったの、どうしても。
ありがとう、理香。
ありがとう、美都。
篤志も、ケンも、湊も、厳己も、興仁も、由太も、知朗も」
萌子はそこで、一呼吸をする。
「成も。みんな。ありがとう」
俯いていた成が、一瞬だけ萌子を見た。
ありがとう。
ごめんなさい。
萌子の視線に耐えきれなくなったのか、成はすぐさま前に向き直る。だが、今度は萌子の頬に涙が流れることもなかった。
私が、決めたことだもの。
決めたこと、だもの。
「合宿も終わりですってね」
おつかれさま、と言いながら美智子は朔哉にタオルを差し出した。ミーティングも終わって、喉が渇いて水を飲んでいたところだった。
断る理由もないことから、朔哉はそのタオルを受け取る。そもそも、自分のタオルは萌子に渡してしまっていて、手元にはなかった。
「明日挟んで、明後日からは高松ですから」
高松で合宿を一週間ほどすれば、インターハイが始まる。理香などは、讃岐うどんが食べれるとうかれているが、朔哉は今回の遠征は今までと違うとわかっていた。
インターが終われば、お盆休み。
明ければ、全日本ユース選手権。
それから、ついに選手権の県予選も始まる。
おそらく、こうして美智子と話が出来るのも、今日が最後かもしれなかった。
朔哉は夕陽をバックに微笑む美智子見ていると、一年前に戻ったような気にすらなった。
だが、もう。後ろめたい気持ちになることはない。
そういえば、と朔哉は話を切り出す。
「コウさん、今日来てましたよ」
朔哉もかるく石橋から聞いただけなのだが、どうやら菊地は大学を休学して、欧米のクラブに留学をするということであった。しかも、地元の大学にも通うという。
昔話してくれた、選手ではなく、指導者になりたいと言っていた菊地らしい選択だ。
「留学の話でしょ。昨日、聞いた」
あっさりと答えられ、朔哉は戸惑う。
この前の動揺はどこにもなかった。
「いいんですか？」
「行かないでって行ったら、止めてくれる人だったら、多分好きになってなかったもの」
そう言いきった美智子を、朔哉は今までで一番綺麗だと思った。
「ねえ朔哉君。もう、いい頃だと思うわ」
「何が？ですか？」
タオルを丁寧にたたみ、返したところで美智子はもう一度微笑む。
「あなたは、もう恋をしてもいい頃だと思う。もう、アイドルとか言って自分を呪縛するの、もういいと思うの」
心にナイフが刺さったように思った。
深く、深く、心をえぐる。
だが、そのナイフは朔哉を傷つけようとしているのではなく、その奥にある膿を取り出そうとしていた。
「いい子だと思うわ。ちょっと、いろいろ辛いことあったみたいだけど」
そして美智子は微笑んた。
「幸せに、なってね」