Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏暁5
被害に遭ったのは、サッカー部の部室であった。
窓ガラスが割られ、室内には花火の残骸が残されていた。合宿最後の夜にと萌子たちが用意したものである。
花火の火が、他に移らなかったのが幸いではあったが、理香たちが駆けつけた時は煙が充満している状態で、もし窓ガラスが割れていなかったら、中は一酸化炭素で充満していたかもしれなかった。
理香は、箒を持ちながら、ガラスの破片を集め始めていた。
「誰かが窓ガラスを割って入ったのかな」
ガラスは部室の中で散らばっていた。
その上に、サッカーボールが転がっていたから、おそらくはサッカーボールを蹴りこんで、窓ガラスを割ったのだ。
その隣で、篤志がサッカーボールを拾い上げて言う。
「けど、この窓からは無理だろうから、もしかしたらドアが開いてたのかもしれない」
割れてとがったガラスが剥き出しになった窓から中に入るのは、おそらく犯人だってどこかを切っただろうし、篤志が手にしているボールには、部室にしまったはずの凪浜高校の名前が書いてあった。
「俺たちが窓ガラスが割れる音聞いて外から見たときは、もう花火が点いてたんだ」
成がそういって、萌子も頷いた。笠間が軽く溜息をついて言う。
「とにかく、今日はもう遅い。お前たちは戻って寝ること。説教は、明日だ」
笠間は、教室で眠っていたのだが、騒がしいことに気づいて、目を覚まし、部室に辿りついたところで、萌子たちに鉢合わせたのだ。
大方掃除も終わっていたが、花火の跡が、部室の床や壁に黒く残っていた。そのいい訳を石橋にすることを思うと、笠間も頭が痛い。
時計は深夜の一時を回っていた。
「…はい」
部室を出ようとした理香は、ふいに足元に転がっていたロケット花火の残骸を拾う。
それを見て、美都が言った。
「花火。残念だったね」
用意した花火には、まとめて引火されており、線香花火すら残っていない状態だった。
理香は小さく溜息をつき、部室を出ようとして、ふと中に一人残っている篤志に気付く。
「アッチ？どうかした？」
はっと気づいたように、篤志は顔を上げて、理香に続いて部室を出た。
「いや…。何でも、ない」
練習前に、笠間たちに呼び出されたケンは、ミーティングルームのドアを開けて、並んだ三人の顔を目の前にして、思わず唾を飲みこんだ。
昨日の事件は、もちろんケンも聞いていた。
だから、どうして自分が呼び出されたのかも、わかっていた。
「名取はどこ、行ってたんだ？」
笠間は、その後見まわりをして、部屋にいない人間をすでに割り出していた。
聞かれたケンは、思わず顔をそむける。
「…別にいいじゃないすか。だって、窓ガラス一枚割れたくらいっしょ？」
「部室に勝手に入られたんだ。それに、被害の大きさが問題なんじゃない」
びしっと笠間に言い返されて、ケンは黙り込む。
実際に、部室の窓はまだ割られたままだし、花火が置かれていた床は、黒く煤けていた。笠間は、誰かのいたずらだろうという報告だけを、石橋にしていた。
実際、海沿いにあるためか、凪高の校舎の壁にラクガキされたりということは、ままあるために、そのことに石橋は疑問を持たなかった。だが、外部の人間の いたずらであれば、それなりに学校なり警察なりに報告しなければならない。そこだけははっきりさせるよう、石橋は笠間に言ったのだ。
柳田が小さく溜息をついて、吐き捨てるように言った。
「…ちなみに、沢木たちは肝だめし大会をやっていて、大槻はハンド部の女子といちゃついてた。後は部屋で全員眠っていた」
合宿三日目の夜。疲れも溜まり始めているころだ。
腕組をして窓の外を睨む柳田と、その隣で困った表情を浮かべる小山。そして、笠間がまっすぐにケンを見つめていた。
真摯に見つめるその目に、ケンは素直に答える。
「…グランドに、いました」
「グランド？」
「部室を開けたのは、オレです。スペアキーの隠し場所、知ってたから、それで開けました。それで、鍵かけずにグランドに」
「グランドで、何をしてたんだ」
怪訝そうな柳田の視線が、何よりもケンの心に突き刺さる。
だが、黙っていてもいいことはない。
「…ボール蹴ってました」
そう答えたところで、三人はそれぞれに視線を交した。
無言のままに、なされる会話をケンは黙って感じていた。そして、笠間が言う。
「お前が練習熱心なのはわかったけど、名取。休むときは休め。じゃないと体も心も休まらないままで、そのうち体を壊すことになる」
笠間の過去をケンも知らないわけではないから、その言葉は胸に響く。
だが、ケンからすれば、こうしてじっとしていればいるほど、どんどん自分だけ取り残されていくような気持ちになるのだ。
「わかったか？」
サッカー部の練習は、決して易しくは無い。
だが、休憩時間はおそらく他の運動部よりも多い。
それは、集中力を高めて練習をしなければ、意味が無いと言う石橋の判断でもあった。
「…はい」
ケンは、そう答えて、すぐに立ち上がった。
理香は、目の前に並んだ三人の先輩の顔をじっと見ていた。隣には、萌子と美都、そして篤志と成がうなだれている。朝のランニング後の休憩時間である。
まず最初に、柳田が口を開いた。
「遊びに来てるんじゃないんだぞ」
「…はい」
萌子が答える。続いて、成と篤志も、ばらばらと答えた。柳田は並んで立たされている五人をそれぞれ睨みつけながら、いきなり声を荒げた。
「皆必死に練習してるんだ。なのに、肝だめし大会だぁ？」
「すみません」
萌子が深く頭を下げて、他の四人がそれに倣う。
誘われなかったことに、嫉妬してるのかな、ヤナギさん。
こんなことになるなら、ヤナギさんも誘っておけばよかった。
理香はそう思って、少し顔を上げて機嫌の悪いヤナギを見つめたが、目が合うと逆に睨まれて、慌てて頭を下げた。
やっぱ、誘わなくてよかった。
一緒に回る相手がかわいそうだもん。
張り詰めた空気を和ませるように、小山がまあまあと柳田を宥める。
「いいじゃないか、柳田。少しくらいは―」
「お前がそうやってすぐ甘やかすからっ、今回みたいなことになるんだぞっ」
バンと机を叩きながら勢いよく返されて、言葉を詰まらせた小山に代わり、笠間が口を挟んだ。
「部室のこと、気づいてくれたんだから、今回は昼休みに肝だめしで使った教室の掃除くらいで許してやろうよ」
「笠間―」
何か反論をしようとする柳田より早く、理香が明るい声で返事をする。
「ありがとうございますっ」
柳田は出かかった言葉を呑み込むと、再び腕組をして、そのまま横を向いてしまった。途端に笑顔になった理香を諭すように、笠間が言う。
「ただし、今日の花火はなし。あくまでも合宿なんだから、そこはわかってもらわないと困る。
…まあ、花火ないから、実際できないけど」
最後の言葉で、理香たちは項垂れて、それぞれに、はいと返事をした。
隣の部室からざわざわと部員たちの声が聞こえてきた。そろそろ練習が始まる時間だ。
立ちあがり、部室へと移動し始めた笠間を、篤志はひきとめた。
「笠間さん。犯人って…」
その目がどこか思い詰めたように見え、笠間は少しだけ驚きながらも答える。
「とりあえず皆のアリバイはあったわけだから、多分いつもその辺りを走ってる奴らだと思うよ。一応、ハンド部にも犯人を見た人間いるかどうか、確認とってもらってるけど」
気にすることは無い。
笠間がそう言っているのが篤志にもわかった。篤志は、小さく返事をする。
「はい…」
センターサークルの外で、軽くストレッチをする朔哉に、菊地が話かけてきた。
「このグランド走るのも、久々だな」
朔哉の隣で、小山がボールを蹴りながら答える。
「お手柔らかに、頼みますよ。菊地先輩」
「それはこっちのセリフだ。小山」
そして小山がボールを菊地にパスする。菊地はそのボールをしっかりと捉える。
それはまるで宣戦布告のようでもあった。
合宿四日目。
レギュラー選手対、ＯＢプラスＡのベンチ選手・Ｂチームレギュラー選手での練習試合。
レギュラーである朔哉は、凪浜の青いユニホームを着てグランドに立っていた。
ＯＢとして参加したのは、菊地と西田を含め、四人である。うち三人は、選手権経験者であった。
「朔哉とこうしてボールを蹴るのも、半年ぶりくらいか？」
爽やかな笑顔で言われ、朔哉も視線を隣のベンチから菊地に移す。
「よろしくお願いします」
号令がかかり、ベンチで萌子が話をしていた成に、笑顔を送っているのが朔哉の視界の端に映る。雑念を払い、差し出した朔哉の手を、菊地は握り返して答えた。
「悪いが俺は、手を抜ないぞ」
選手たちが列をなした。笑顔の成は、朔哉の相手チームとして並んでいる。
そして、試合開始のホイッスルが鳴り響く。
ケンはどきどきしていた。
本当の試合でもないのに、緊張をしていた。
前半途中、調子を崩した湊の代わりにと、菊地に名前を呼ばれたときから、ケンはどきどきしていた。
もしかしたら。
この練習試合で活躍すれば。
俺はインターハイに出れるかもしれない。
もちろん公式試合でもなければ、他校との練習試合でもない、いわばあくまでも「練習」のひとつ。だが、明らかに石橋の顔つきは変わっていたし、菊地たちも本気でプレーをしていた。その結果、一対一のイーブンで、前半を終えようとしている。
活躍して、Ａチームのやつらより巧いんだって監督が気づいてくれたら、
そうしたら、赤坂との約束だって果たせるわけだし、
母ちゃんに厭味言われることもない。
それに、亮子にだって、胸張って会える。
その気持ちが、いつしか自分を前に前にと押し始めていたことに、ケンは気づかなかった。
「やっぱつえーな、コウさん。西田さんも、現役んとき以上だぜ」
俊平がそう言って、ドリンクを一気に飲んだ。
結局前半は一対一の同点で折り返していた。
タオルで汗を拭く俊平に、呆れたように柳田が言う。
「当たり前なことを言うな、細谷」
柳田は大きくため息をついた。
そして、同じように青いユニホーム姿の選手たちも大きく溜息をついていた。
いくら、Ａチームのサブだからとはいえ、去年のＯＢが四人入っただけで、レギュラーチームと互角に戦えるなど、正直誰もが思っていなかったのだ。
その疲労している様子を見て、笠間が笑顔で話す。
「Ｂチームの奴らも、思った以上に頑張るし、このままじゃレギュラーの座も危ないかもしれないな」
「脅すなよ、笠間」
小山がそう言って笑ったが、目は笑っていなかった。
確かに、ない話でもない。
監督なら、キャリアを気にしないで、調子のいい選手を使うかもしれない。
ドリンクを口にしながら朔哉がそう思っていると、コーチが笛を吹いた。
「時間だ、さ、行くぞ」
立ちあがった小山に付き従うようにして、選手たちは次々とグランドに戻っていく。
朔哉も立ちあがると、そのままグランドを見渡した。その視線の先には萌子と成がいる。二人は仲良く会話をしていた。
わだかまりが、なくなったな。
ふいに肩を叩かれて、朔哉が振り返ると俊平がこう言った。
「…今日、美智さん来ないって」
「へ？あ…」
言われて朔哉は、はじめて美智子がいないことに気づく。
「あ、ってお前、気合入ってないの、そういうことじゃないわけ？」
俊平は、朔哉の視線が、時折グランドの外を向いていることに気づいていた。
「そういうこと？」
「…ふぅ」
口元を拭う朔哉に、俊平は溜息を投げかけた。そして、ついさっきまで朔哉が見ていた辺りを一瞥してから言う。
「あいつら、昨日の夜肝だめしやってたらしいぜ」
「おかげで火事を防げたんだろ？」
朔哉はそう答える。
それがきっかけなのか、どうかはわからないけど。
たぶん。二人は、また前のように仲良くなる。
そうしたら、俺は。二人のことを祝福してやらなきゃならない。
二人の幸せを、先輩として、願わなければならない。
…いつもの、こと。
俊平は、自分のポジションに戻りながら、大きく欠伸をしている司を見て、朔哉に呟く。
「司といい、この合宿中で、どこにそんな元気あるんだか」
朔哉は大きく肩を回しながら、からかうように言った。
「それとこれとは、別だってことくらい、二日目の夜中に抜け出してデートしてたお前なら、わかるだろ？」
あ、とケンは声を出した。
だが、自分の足元にあったはずのボールは、柳田からのディフェンスにあい、簡単にクリアされる。そして、そのボールをすかさず朔哉が拾う。
攻撃体制を取っていたサブチームは、慌てて体制を立て直そうとするが、朔哉から出されたパスは、フリーになっていた右京に渡り、そのまま放たれたシュートはゴールネットを揺らす。
三対一。
後半に入り、気づけば点差が開き始めていた。ケンは大きく溜息をつく。
畜生っ。
自分のポジションに戻る途中、ケンは強く肩を叩かれた。
「おい、名取っ」
顔を上げると、菊地が真剣な表情で、ケンを見据えていた。
「はい？」
思わず緊張して、姿勢を正すケンに、菊地は鋭く言った。
「ポジション、きちんと確認しろ」
「あ…。はい」
ケンのポジションはサイドバックだ。
場合によっては、攻め上がるが、基本はディフェンダーである。
「焦ることはないんだぞ」
前の二点目もそうだった。
チャンスだと思ってケンが上がり、その空いたスペースをついて途中交替した知朗が点を決めたのだ。
「はい」
ケンは力なく答えた。
交替した西田がベンチにつき、ふと気づいたように隣にいた萌子にドリンクを頼む。
熱い喉を冷たい液体で潤し、西田は呟いた。
「やっぱりいいな。凪浜は」
萌子は何気なく話しかけた。
「大学とは、違いますか？」
「ああ。全然、違う」
そう答え、西田は再び飲み物を口にした。
誰もが真剣に駆けまわっている。飛び交う声は、グランドで途絶えることはない。
ただの、校内の練習試合だと言うのに。
全然、違う。
それにつられてなのだろうか。菊地の表情まで生き生きしているように見え、西田は去年までのことを思い出していた。
「しっかし、今年の一年は、ほんっとタフだな。タフっていうか、若いっていうか」
実際若いわけだが、と独り言のように言う西田に、萌子がわからないというような視線を投げかける。西田は説明するように、グランドに視線を馳せた。
「気づいてないかもしれないけど、今グランドに計二十二人がいるわけだ。そのうちＯＢが三人で、現役が合計十九人、選手がいる。
うち、レギュラーのスタメンに藤原、サブで友近。それから相手チームでＡの早坂、それからＢの高岡に、名取。そこにまあ怪我で退場した和泉を入れて、合計六人」
「はい」
萌子は素直にそう答えた。
付け加えるならば、右京も知朗も点を決めていた。
「単純には言えないが、上位二十名ほどの中に、一年坊主が六人もいる。上級生の質が落ちたのか、一年が異常に巧いやつらなのか。わからないが、これじゃ上級生の奴らも、うかうかしてられないな」
「あの…」
西田が言いたいことが、はっきりとわからずに、答えを求める萌子に、西田ははっきりと言った。
「間違いなく、二年後、凪浜は今以上に強くなる。いいチームになる」
練習試合が終わり、三十分の休憩時間になる。
グランドから戻ってきたケンは、大きな溜息とともに、項垂れていた。
結果は、四対一。後半になってからのレギュラーチームは底力を見せ、反対にＢチームはスタミナが切れたようになってしまった。
後半の三点は、全部左サイトからだ。
俺の守る、左サイドから。
「やる気が空回り、してたな」
「笠間さん…」
ふいに声をかけられたケンは驚いたようにそう呟いた。
笠間は、笑顔で飲み物をケンに差し出した。
やる気の空回り。
まさにその通りだった。
「俺はディフェンダーじゃないから、いいアドバイスはできないけど、中盤を支える人間として言わせてもらうと、ディフェンダーに必要だと思うのは、安心感だ」
「安心感？」
繰り返してそう言ったケンに、そうだと笠間は小さく頷いた。
「冷静な判断のできるディフェンダーだってことだ。
こいつなら、止めてくれるだろうっていう信頼だ。
だから、さっきみたいなプレーをされると、攻める側としては焦る」
思わずケンは黙り込んだ。
周りの状況を見ないまま攻めあがり、結果速攻で点を取られる。
一対一の状況になり、味方が戻ってくる前に、一人突っ込んで、交されて、抜かれてしまう。
確かに、安心してバックを任せられるようなディフェンスをしていなかった。
「横田がよく言うんだ。ディフェンスには経験が重要だって。冷静な判断をするにも、無いデータからは相手の動きが読めない。だから、たくさんの経験が必要になる」
経験。
その言葉が重くケンにのしかかる。
経験を得るためには、試合に出なければならない。
そのためには、Ａに上がらなければならない。
そうしなければ、どんどん差がついてしまう。
だが、そんなケンの心中を察してか、笠間はこう続けた。
「例え試合に出れなくても、見てるだけでも真剣に見ていれば、それは十分な経験になる。
インターハイ、ちゃんと観察しておくことだ」
その言葉に、自分がインターハイに選手としては出れないということを示唆しているとケンはすぐに気づく。
「はい…」
そう答えたものの、ケンは悔しさで唇を噛み締めていた。