Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏暁4
「ねぇ、理香。…起きてる？」
消灯時間を過ぎて、少し経った時に萌子の声が響く。
「うん、起きてるよ」
理香がそう答えると、萌子が寝返りをうって、理香の方を向いた。
「さっきの…。ハンド部の西村君が言ってたこと、だけどさ」
暗闇の中でも、萌子が自分を見つめているのがわかって、理香は気まずさから仰向けになり、天井を見上げた。反対側で、美都も理香の話を待っているのがわかる。
理香は小さく溜息をついた。
「中三の時、ちょうど五月くらいだったかな。由太ちゃんはそのときサッカー部のキャプテンしてて、生徒会長もやってて、忙しかったの。それでね、ちょっと だけ部の方を見てなかったんだよね。うちの中等部って、今と違って、顧問の先生も適当だからさ、締める人がいなくて、皆適当にサッカーしてたんだ。
そのとき、サッカー部の部室でぼや騒ぎがあって。
はじめは、いわゆる不良グループが、サッカー部の部室で煙草を吸ってて、その火がタオルに移っちゃったってことだったんだけど、いろいろ調べたら、その中に西村君たち数人の部員もいたらしいってことになって。
由太ちゃんもね、小火として終わりにすればよかったのに、生徒会長だったせいもあってか、全部はっきりさせようとしてたの。
でも、それをアッチとあたしは反対した。だって、試合が近かったから、もしいろいろ調べて、西村君たちも煙草吸ってたってことわかったら、試合は出れなくなる。だから、お願いだからって。
でもね、由太ちゃんって、ああいう性格でしょ。
はじめは全然聞き入れてくれなくて、大変だったの。結局は、調べないってことになったんだけどね。
でも、ある日突然、西村君たちに『お前たち退部だ』って言い放ったの。一馬くんとか、園部君の時みたいに」
そして誰も、由太に逆らえなかった。
西村たちが悪いのは、誰もが認めるところだったし、由太の言葉は間違ってはいなかったから。
でも。と理香は思う。
でも、皆いい気はしてなかった。
萌子は、由太のことを話していた時の西村の棘のある声を思い出した。
「…西村君は、それで納得したの？」
少したって、理香が答える。
「わかんない。でも、それ以来、サッカー部には顔出さなかったよ」
そして理香が寝返りをうつ衣擦れの音がして、保健室は静まりかえっていった。
午前中の練習が終わり、昼休みの休憩に入った。
朔哉は水道で顔を思いきり洗うと、そのまま髪をかきあげて、タオルで拭く。
いっそのこと、汗と泥でよごれた体を洗ってしまいたかったのだが、そうすれば午後の練習では新しいユニホームが着たくなる。だが、もう替えが無いことを朔哉は知っていた。マネージャーたちも必死になって洗濯をしているのだが、なにぶん百人ほどの衣類の洗濯量は半端な数ではない。
「はーっ」
タオルに向かって、大きく息を吐いたところで、くすくすという笑い声と共に、聞きなれた声がした。
「こんにちは」
「あれ？…美智子さん、コウさん来るの明日じゃ…」
俊平は、たしか明日の練習試合に菊地が来ると言っていたのだ。
だが、菊地の恋人である美智子はてへへと笑い、
「来ちゃった。一人で」
と言って、朔哉に微笑みかけた。
「ほうほう、朔哉もやるよのぅ」
「何が？」
俊平はそう聞くと、司がにやけながらに指す方向を見た。
「ほれ」
そこには、まだユニホーム姿の朔哉と、長い黒髪をひとつに束ねた美智子が仲良く並んで歩いていた。どうやら裏門に向かっているらしい。裏門を出てすぐ右を曲がれば、そこは道路をひとつ隔てて、すぐに海岸が広がっている。
昼休みになるし、ちょっとどこかに行くのかもしれないな。
俊平が複雑な思いで見つめているのに対し、司はあくまでもからかいモードのようである。
「奪っちゃえばいいのになぁ。好きなんだろ？」
まったく、こいつは。
俊平はそう思いながら、司の頭を小突く。
「できるわけないだろ、相手が相手だぜ」
菊地光一は、朔哉にとって単純に前キャプテンという存在だけでは無い。
それは司も知っているはずだ。
溜息をついている俊平をよそに、司は尾行までしていきそうな勢いで二人の背中を見つめながら言う。
「俺だったら、やっちゃうけどな。相手が誰であろうと」
たしかに、司だったら、コウさんの彼女であろうと、監督の奥さんであろうと、それこそ学校の教師だろうと、きっと相手が誰であろうとも関係無いだろうなあ、と俊平は思った。
だが、朔哉は違う。
「お前と朔哉は違うの。お前は考えなさ過ぎ。あいつは考えすぎ」
きっと足して二で割るくらいが、ちょうどいいのかもしれない。
俊平はそう考えながら、裏門を出ていった二人を見つめていた。
朔哉を探していた萌子は、何となく二人に声をかけづらくなり、そのまま体育教官室に向かうことにした。
立ち聞きするつもりはなかったのだが、俊平と司の会話を聞いてしまった後で、二人に朔哉はどこにいったのか、などとは聞けなかったし、ましてや追いかけて掴まえることもできなかった。
仕方ないから、昼休みになって外に出てますと言うか。
石橋に頼まれたことなのだが、朔哉の代わりに自分ができることであればそれでもいいと萌子は思っていた。
それよりも、俊平たちの会話が、萌子の心にひっかかっていた。
『奪っちゃえばいいのに。好きなんだろ？』
『できるわけないだろ。相手が相手だぜ』
微かに見えた後姿の女性に、萌子も見覚えがないわけでもなかった。
でも、あの人だったとしたら。
朔哉があれだけ、浅く広く女の子たちとつきあう理由も、少しだけ萌子はわかるような気がしていた。
「あ」
体育館へ入ろうとしたところで、萌子は一瞬声を上げると、そのまま体を潜ませた。
入り口に、西村がいた。
単に、立っていればもちろん身を隠す必要はない。
だが、西村は、ボールを怪我した右手に掴んでいた。そして、それを思いきり、壁に投げつけていたのだ。
「…ってぇ」
小さい声が萌子にも聞こえてくる。
体育館の中からは、もっと賑やかな声が響いてきていた。
練習、できなくなっちゃったんだ。
萌子はハンドボールのルールをよく知るわけではないが、右手首の捻挫がどれだけ影響を与えるのかは想像できる。
サッカーで言えば、利き足を捻挫したようなものかもしれない。
声をかけるべきか、どうか。悩んで顔をのぞかせた萌子は、西村を見て、今度は驚きのあまりにまた身を潜ませた。
西村が、ハンドボールで、器用にリフティングしていたのだ。
時折のぞかせる笑顔は、はじめて見る笑顔でもあった。
『高岡に辞めさせられたけどな』
そう言った西村の言葉を萌子は思い出していた。
夏の間、凪浜の海にはサーファーを、浜辺には体を焼きに来た観光客であふれかえる。
だから凪浜の生徒たちは、海を眺めたいと思った時、歩道の柵を乗り越えて、その縁へと腰掛ける。そうすると柵のお陰で道路からはあまり見えないし、浅瀬を選べば、下に人もいないから、ゆっくりできるのだ。
美智子はスカートであることも気にせずに、朔哉より先に柵を乗り越えていくと、そのまますとんと座りこみ、案の定、菊地の話をはじめていた。
詳しく聞いたわけではないが、看護学生の美智子にとっても、夏休みというのは菊地と会える少ない時間らしい。だが、菊地はそれでもサッカーに明け暮れているようだった。
それで今日のデートもすっぽかされて、頭にきて美智子は学校に来てしまったらしい。
『お前って、Ｍ？』
俊平の言葉はもちろん冗談だとは思っていたが、朔哉は自分でもわからなくなっていた。
美智子と一緒にいると、つい一年前を思い起こしてしまう。
話しているだけで、幸せだった一年前。
心の傷を抱えていた朔哉を、その天然さで一蹴してしまった美智子。
朔哉は話しかけられると、いつもどきどきして、またそう感じることに少し後ろめたさも感じていた。
けれど、今は、どこかで違和感を感じる。
美智子は呆れるほどそのまま、変わっていないというのに。
その違和感が、何に対してなのか朔哉にはわからなかった。
「あんまりにもムカツくから、いいわよ、海外でも行ってきたらって、言っちゃった。ねぇ朔哉君もひどいと思わない？何でもかんでも、一人で決めちゃって、わたしの入り込む隙をくれないのって」
そのとき、朔哉の視界の端に、見覚えのある姿が見えた。
「あ」
朔哉は思わず声を出し、立ちあがる。
大きな荷物を持ちながら、凪浜のジャージがよたよたと裏門から校舎に入って行く。
話途中に立たれて、美智子は少し驚いて朔哉を見つめたが、朔哉はその視線に気付くことなく、颯爽と柵を飛び越えた。
「ごめん、美智子さん」
「ちょっと？え？」
呆然とする美智子をおいて、朔哉は慌てて道路を横断していく。車に轢かれるんじゃないかと美智子がひやひやしたほどだ。
小さくなっていく朔哉の先に、女の子の姿が見えて、美智子は溜息をついた。
「…そう、だよね」
あれから、一年は過ぎたのだ。
変わるには、十分な時間だ。
「わたしも、そろそろ戻ろっかな」
大きな荷物を抱えたために、足元しか見えず、よたよた歩いていた萌子は、急に荷物が軽くなって顔を上げた。
「ああ、ありがと」
目の前には、笑顔の成がいた。
「今にも転びそうだった」
「ハハハ。でも実は重くて辛かったの、助かった。ありがとう」
萌子の持っていた段ボール箱二箱を成は軽々と持ち上げた。
「どこに運べばいい？」
「ええっとね、いっこは部室。でも、いっこは体育教官室」
「へ？」
「先生方への差し入れ、だって」
手配は笠間がやってくれたらしい。
石橋に言われた萌子が、その荷物を朔哉の代わりにお店に取りに行ったのだ。中身はアイスクリームらしく、中にはアイスはもちろん、大量のドライアイスも入っていた。
「そっか」
部室と、体育館との分かれ目に来て、萌子は成から一箱受け取ろうとした。
「いいよ、こっちはわたしが行くから」
「結構重いから、いいよ。両方とも行くよ」
昼休みは貴重な休憩時間でもあった。
だが、成にとっては、木陰で休むよりも、こうして萌子と一緒にいるほうが何倍も休まった。
「ほんと？ありがとう」
萌子の笑顔を見ていれば、午後の練習も頑張れると成は思っていた。
消え行く二つの背中を見ていた朔哉は、突然背後から声をかけられた。
「あれ？朔哉さん。どうかしました？あ、昼食いました？」
朔哉が振りかえると、篤志と厳己が立っていた。
脳裏に妬きついた萌子と成の後姿をかき消しながら、痛む心を隠し、朔哉は答える。
「ああ…。まだ、だけど」
そういえば、そんなことも忘れていた。
何もかも忘れて、朔哉は萌子を追いかけたのだ。
ただ少し、遅かったけれど。
「あと一時間もないっすよ」
「そ、だな」
「理香たちが作ったおにぎり、調理室にあるみたいですよ」
「あ」
二人と一緒に行きかけた朔哉は、ふと道路に美智子を置いてきてしまったことを思い出した。
「ごめん、先に行っててくれるか？」
だいたい話も途中だった。
大事な人を、俺は…。
慌てて裏門から海に出ていこうとした朔哉に、篤志がコーラの缶を手渡す。
「それじゃ、朔哉さん。コレ」
受け取りながらも、朔哉は首を傾げる。すると、篤志が話出した。
「海岸通り歩いてたら、突然美智子さんが道の向こうから現れて、これ、朔哉さんに渡しておいてくれって。また明日来るって言ってました」
受け取ったコーラは少しぬるかった。
あの人のことだから、話に夢中で出しそびれてしまったのかもしれない。
それにしても。
いくら俺がコーラ好きだからって、今は夏合宿中だぞ。
でもって、昼に。
ぬるいコーラ。
だが、篤志たちには別のことで美智子に驚いたらしい。
「それにしてもびっくりした。突然、だもん」
「しかもスカート姿で柵を越えてきたもんな」
そりゃ突然海から人が出てきたら、驚くだろうな。
しかも、きっと、思いっきりスカートをたくし上げて。
「はは。ははは」
朔哉は声を上げて笑い出した。
やっぱり、変わってないや。あの人は。
コーラといい、柵越えといい。
「はははは」
そうやって笑っていると、朔哉は少しは痛んだ心を忘れられそうな気がしていた。
「ふーっ」
グランドに大の字になると、夜空の星がよく見えた。
ケンはそうして深呼吸をする。
体が疲れていた。
多分、心も疲れていた。
横になっても、なかなか寝つけなかった。
だからこっそり抜け出して、こうしてグランドへやってきたのだ。
練習をするときだけ、ケンから不安が消えていた。
部室の鍵の隠し場所を、ケンは知っていたし、
第二グランドにくれば、先生にばれないこともわかっていた。
「すっげー星、きれー」
夜中で灯りが乏しいせいか、星がよく見えていた。
ケンは、中学生の時によく亮子にプラネタリウムに連れていかれたことを思い出した。
ケンの地元には、小さく古いが、デートスポットとして有名なプラネタリウムがあったのだ。当たり前のようにあったせいか、どの街にもあるのかと思いきや、凪浜にはなかった。
『どうして、ケンちゃん。どうして、扶洋に行かないの？
あたしも受けるし、皆行くのに。どうして？』
あの時。
突然、地元の扶洋ではなく遠い凪浜高校に行くと亮子に告げたとき、亮子は涙目でそう聞き返した。
『凪浜なんて、たかが一度選手権に優勝したくらいだろ？それよりも、伝統のある扶洋のほうが何倍もいい。お前だって、ずっと扶洋に入るんだって言ってたじゃないか』
中学の監督もそう言っていた。
でも、ケンの気持ちは変わらなかった。
『俺たちを裏切るってことだぞ、ケン』
そう言ったのは、赤坂だったか。
俺は、どうして、凪浜に来ようと思ったんだろう。
あの時、亮子に言われた時、俺ってば何て答えたんだっけ？
その答えを、ケンはどうしても思い出せなかった。
真っ暗な中で、小さなペンライトだけを持って、和美が振りかえった。
「ほら、さっさと行くぞ」
その後ろには、今にも泣き出しそうなくらい不安な表情を浮かべる美都がいる。
「うん…キャッ」
小さな悲鳴を上げた美都を、慌てて和美が振り返って確認する。
「何だ？」
「むっ向こうの方で、何かが動いたみたいなんだけど…」
美都の指す方向には、ただの廊下しか見えない。
「そっそんなもんねぇよっ、行くぞっ」
和美はそういって、さっさと歩き始める。それで慌てて美都もついていくしかない。
何しろ、真夜中の学校に一人取り残されるのは、まさに肝だめし以外のなにものでもない。
そもそも、三日目の夜に、この肝だめしを企画したのは理香だ。
「夏！合宿！ってきたら、これしかないでしょ！」
本当は近くの墓地に行こうとしていたくらいだから、それが校舎になっただけでもましだったのかもしれないが、それでも怖がりな美都にとっては、歩くのでさえ恐怖だ。
もしこれで、和美くんが一緒じゃなかったら、あたし絶対に行かないのに。
和美が断ると思いきや、何故かＯＫを出したのは、最近和美の扱い方を覚えた理香のおかげである。
「へ？肝だめし？なんでそんなのやんなきゃなんないわけ？」
と喧嘩腰に言ってきた和美に、理香は無理やり微笑みながら、
「ふーん。怖いんだ。男のくせに。へぇー」
と、言い返す。あとは、理香の想像通りに進んだ。
美都ははじめから乗り気ではなかったのだが、
「萌子と成くんのためよっ、それに和美君、参加するってよ」
と言われたら断るわけにはいかなかった。
とうの萌子は、理香に押しきられるかたちでＯＫを出した。
かくして、スタート地点を昇降口として、真夜中に肝だめしは始められたのだ。参加者六名の男女ペア。持ち物は小さなペンライトひとつのみ。しかも派手に 照らすと教師にみつかるので、できるだけ使わないようにして、化学実験室と、生物室、音楽室を回って帰ってくるコース。きちんと教室に行ったという証拠の品は、すでに理香が仕込んだそうだ。
こういう時の理香ってすごいパワーがあるんだよね。
それにしても。
美都はそう考えながら、先を歩く和美の背中を見つめる。
こんなときくらい、手をつなぎたいのに。
極度の照れやのためなのか、美都はまだ和美と手すらつないだことがなかった。美都としてはつなぎたくて仕方ないのだが、それを口にすると和美が例のごとく怒鳴りそうな気がして怖かったのだ。
いいチャンスだって、理香も言ってたのに…。
そのとき、美都の視界に何かが映った。
「きゃっ…」
思わず和美の腕にしがみつく。驚いた和美も、慌てて廊下の隅をペンライトで照らす。
かさかさと黒い物が駆け抜けていった。
ふうと、溜息をつき、和美は安心する。
「たかがゴキブリじゃねぇか」
さっさといくぞ、と歩き出そうとした和美の腕を、掴んだまま、するすると美都はその場に座りこんでしまった。
「おい？」
さすがに和美の声が心配そうに優しく変わる。
「…どうしよう、和美君」
こんなこと、今までなかったのに。
足に、力が入らないよ。
「歩けない」
「へ？」
「…腰、抜けちゃったみたい…」
昇降口に現れた、小さなライトを見て、理香が小さくだが声を上げた。
「無事生還。おめでとー！あれ？」
美都を背負って、理香の前を和美が機嫌悪い顔をして通りすぎる。
「どした？」
篤志が心配そうに駆け寄るが、美都も顔を和美の背中に隠したまま、黙っている。時折、しゃくりあげる声も聞こえる。
和美が仕方なく答えた。
「悪いけど、部屋に戻すから」
「美都？どうしたの？」
その雰囲気に、萌子も心配そうに声をかける。だが、和美は冷たく答えるだけだった。
「腰、抜けたんだってよ」
四人が唖然とする中で、和美はさっさと保健室へと消えていった。
そして、気づいたように理香が言う。
「もしかして、めっちゃ怖いのかな」
保健室では、先ほどからずっと同じような会話が続いていた。
「ごめん、ね」
「だからっ、謝んなっつってんだろ」
「ごっごめんなさい…」
「泣くなよっ、ったく」
和美はそう言って、大きく溜息をつく。
そのたびに美都は大きな瞳に涙を溜めるのだ。
「だって、いつも迷惑ばっかかけちゃってるんだもん。ごめんね」
ぐずぐずと鼻をすする音までして、ついに和美は怒鳴りつけた。
「あー、もうっ、いいかげんにしろっ、めそめそすんなよっ、オレ、そういうの大っ嫌いなんだよっ」
大っ嫌い…。
そうよね、あたしってば本当にいつも迷惑ばかりかけてる。
「…ごめんなさい…」
今日だって、練習ですごく疲れてるのに、こんなことにつき合わせた挙句、途中で歩けなくなって、おんぶしてもらって。
きっと、もう呆れちゃったんだよね。
あたしのこと、もう面倒見きれなくなっちゃったんだよね。
大っ嫌いってことは、もう。お別れってこと？
…だよね、きっと。
だってあたしってば、本当にドジだし、トロいし、
和美君の足手まといになってばかりだし。
だから、やっぱり。
ふられちゃったんだよね。
俯くと、涙がこぼれてきた。
どうしよう、止まらないよ。また、怒られちゃう。
そう思えば思うほど、涙は止めど無く流れていきそうだったから、美都は顔を上げられずにいた。それでも、和美は怒鳴ることもなく、また保健室を出ていく雰囲気もない。
ふいに、美都の視界に和美の上履きが見えた。
和美…くん？
その上履きが、美都のすぐ傍までやってきて、驚いた美都が顔を上げるタイミングで、ふいに美都の額に、温かく、柔らかいものが触れる。
え？
「…おやすみっ」
小さく、それでも怒鳴るように和美はそういうと、真っ赤な顔のままで保健室を飛び出していった。
え？ええ？
美都は、慌てて自分の額に触れる。
今のって？
和美君、キスしてくれたの？
美都は泣くのも忘れて、しばらくそのまま呆然としていた。
ランニングから戻ってきた西村は、クラブハウスの前で、息を整える。
周りは静まりかえっていたが、このまま寝床にしている教室にもどるわけにはいかなかった。
むしゃくしゃしていた。
怪我してしまったことも、
由太に会ってしまったことも。
でも、包帯を外したからといって、怪我が治るわけでもなかったし、
由太を殴りつけたからといって、気分が晴れるわけでもなかった。
暗闇になると、いろんなことを思い出し、考えてしまう。
それが嫌で、西村は夜中に抜けだし、ランニングをすることにしたのだ。
「ふーっ」
初日に怪我をしたせいで、少し体がなまってしまったように思えた。
西村は、軽くストレッチをしながら、校舎へと入ろうとする。
だが、そのときサッカーボールがひとつ、転がっているのが見えた。顔を上げれば、すぐそこはサッカー部の部室だ。
他のクラブハウスとは違い、部屋も広く、ミーティングルームなるものが併設させている。選手権に優勝して、校長が特別に作らせたらしい。
「何がサッカー部だよっ」
小さく叫び、ボールを蹴る。久々に心地よい感触だ。
ボールはそのままサッカー部のドアに当たって、はねかえってきたが、西村はそれを無視してただ、サッカー部の部室を見つめた。
ボールが当たった反動なのか、鍵がかかっていなかったのか、ドアが数センチ開いている。自然と、西村はそのドアを開けていた。
「で、次は音楽室っと」
ペンライトを片手に、てきぱきと進む萌子を見て、成が半分驚いたようにして言う。
「結構、平気なんだ」
「まあ、うん」
萌子は少し恥ずかしそうにそう答える。そして、人物解体模型の首にかけられていた証拠となるパスを取る。パスの裏には、次のパスカードの隠し場所のヒントが隠されているらしい。
成は真剣にパスを読む萌子の横顔を見つめる。
「きっと女の子だからさ、きゃあとか叫んで、こう抱きついてくるって」
そういって、この肝だめしに成を誘ったのは篤志だ。
「そんでお前は大丈夫、大丈夫ってこうちょっとくらい抱きしめちゃえばいいわけよ」
「…篤志って、やらしいな」
「何だよ、偽善者ぶんなよ、成」
「別に偽善者ぶってないけどさ」
ふいに成は周りを見渡す。いつもいるはずのケンがいない。
「…そういやケンは？」
「肝だめしってさ、男女ペアがいいんだってさ。だから、ケンを入れるとあいつがあぶれちゃうの」
「そっか」
そう答えつつも、成はこの頃のケンが気になっていた。
夜もあまり寝てないのか、うっすらとくまが出てきているようにも思えるケン。
こういう企画にだって、真っ先に動いているのに。
最近なんだか元気がない。
「だから内緒だぞ」
篤志はそれに気づいてないのか、嬉しそうに成に囁いていた。
けど、実際は、全然なんだけど。
むしろ、びくびくしているのは自分のほうじゃないかと思うくらい、萌子はペンライトを持ち、先を行く。
ま、邪なこと考える方がよくないもんな。
萌子は薄明かりの中でパスを読むのに苦戦している。
「それで、次はっと…キャッ」
入ってきたのとは別のドアを開けると、そこには骸骨が垂れ下がっていた。驚いた萌子は、思わず後ろにいた成に抱きついた。
「だ、大丈夫だよ。これ、おもちゃだから」
成の声は上ずっていた。
怖かったから、ではない。
「…う、うん。あ、ごめん…」
抱きついていたことに気づいた萌子が、慌てて成から体を離した。けれど、成は直立不動ままに答える。
「いや、大丈夫。全然、大丈夫」
いや、全然。
全然、嬉しいんだけど。
成は今が夜で、しかも真っ暗闇でよかったと思った。
でなかったらオレ、きっと恥ずかしいくらい嬉しい表情してるから。
「成？どうしたの？先行くよ」
ひょこっとドアの向こうから萌子が顔をのぞかせて言う。
「あっ、ああっ」
成は慌てて答えると、萌子の後を追いかけた。
残る教室は、音楽室のみ。
生物室から音楽室までは、少し距離があった。その中を、颯爽と萌子は歩いていく。
階段を登りながら、成はなんとなく萌子に話しかけた。
「な、萌子―」
ガシャン。
そのとき、どこかでガラスの割れるような音がした。萌子は成と顔を見合わせる。
「ねぇ。今何か割れる音しなかった？」
「うん」
萌子は慌てて踊り場の窓を開ける。
身を乗り出すと、クラブハウスの方に、何やら明かりが見えた。
「あれ…」
萌子の指差す方向を、成も見つめる。
明るい色彩の光が、部室の窓に映っていた。
「キャーッ、こわーいっ」
理香は大袈裟に叫んで、篤志に抱きつく。
けれど、篤志はそんな理香を無視するように、さっさと歩いていく。
「だったらさ、やんなきゃいいじゃん。俺たちまで」
「何冷めたこといってんのよ、アッチ。だって夏なのよっ、肝だめししなきゃ、夏が始まらないでしょう？」
篤志は小さく溜息をつく。
「けどさ、こういうしかけ、全部俺たちが考えてたじゃん。次、何が来るのかわかるだろ？」
「もう、そういうこと言わないのっ」
準備するときに下見はしていたわけだから、篤志にとってはなんの怖さも感じられなかった。
いつまで経っても戻ってこない萌子と成に痺れをきらし、欠伸をしはじめた篤志と理香は、二人を追いかける形で自分たちが決めたコースをそのまま歩いていた。
一番目の美都と和美がスタートから数歩でリタイアしたのに対して、二番目の萌子と成は順調にクリアしていったようで、パスカードはきちんと一枚分なくなっていた。
なのに、なんで戻って来なかったんだろう。
篤志はそう思いながらも、最後の音楽室へと入る。
グランドピアノの中には、きちんとパスカードが三つ残されていた。
「あれ？成たち、ここには来てないのかな」
「でも時間的にはもう来てもいいんじゃないの？」
多めに見積もっても、このコースを回るのに、十五分もかからないはずだ。
だが、萌子たちがスタートしてから、もう三十分が経とうとしていた。
そのとき、ドアがガラリと開いて、いきなり教室の電気がつく。
「あっ、いた理香っ」
その明るさに目がついていけない理香だったが、その声で相手が誰だかわかる。
「萌子…？」
萌子は理香にかけよると、その手を掴んで叫んだ。
「大変なのっ」