Maybe Blue 第一部 海の鼓動
夏暁3
凪浜高校のサッカー部は、実力別にチームが編成されている。
レギュラー選手であるＡチーム。それからいわゆる二軍になるＢチーム。そして、その下にあるＣチーム。練習もそうなのだが、遠征や、練習試合なども、チーム毎に分かれることもある。
ただ、公式試合の時は、その体制が多少変わる。
Ａチームは選手として。そしてＢ・Ｃチームは、選手をサポートするチームか、応援するチームへと分かれるのだ。
つまり、全てがＡチーム中心に動く。
そう言った意味では今回の合宿は、あくまでもインターハイを目標としていることもあり、練習もどこかＡチームよりで、必ず一日に一試合はＡチーム主体の練習試合が想定されていた。
今日の試合は、Ａのスタメン対ＡサブとＢスタメン選手だった。
「おいっ、朔哉っ。パスッ」
「柳田っ止めろっ」
「ナイスクリアッ」
グランドで飛び交う声を聞きながら、ケンはじっとグランドを見つめていた。
夏休みを前に、三年が何人か引退していったが、それでケンのチームは変わったわけでもなかった。Ｂチームのサブ。少し前までは何とかスタメンだったのに、その座も今日の試合では湊に取られてしまった。
畜生…。
いわゆる推薦組と呼ばれる中で、ただ一人、今グランドに立っていないのがケンだった。
畜生。
もちろん、すぐにレギュラーになれるとは思ってなかった。
でも、ここまでレギュラーの壁が厚いとも思ってなかった。
春に入学してきた一年生の芽が出始めるのが、今度のインターハイだ。
きっと赤坂は、試合に出るんだろう。
ケンの中学時代のチームメイトである赤坂は、インターハイ埼玉県代表となった扶洋高校のフォワードだ。
ふいにケンは、前に関東大会で偶然出会った時のことを思い出していた。
『聞いてくれよ。俺さ、レギュラーになったんだぜ』
『やったな、赤坂』
『お前は？』
『まあ、インターの頃には、そうなってるさ』
インターの頃には。
そのインターハイはあと一週間もすれば始まる。
だが、自分は今、グランドの外に座っている。
畜生っ。
ケンは、熱くなった土を握り締めた。
車から出ると、強い陽射しに思わず亜紀子は目を細める。空を見上げると、綺麗な快晴だ。
トランクを開けて、中から段ボールを出してきた環がそんな亜紀子に声をかける。
「ごめんね。亜紀ちゃん。手伝ってもらっちゃって」
「いいえ。私も何かお手伝いしたいなと思ってたんです」
慌てて亜紀子は、環の隣に行き、段ボールを下ろす作業を手伝う。
夏休みだ。
高校受験がない亜紀子にとっては、有り余るほど時間があった。だが、その時間を一緒に過ごしたいと思う由太は、合宿に入っていた。そんな時に、サッカー部に差し入れする手伝いをしてほしいという環からの連絡は、亜紀子にとっても願ったり叶ったりの申し出だった。
「亜紀ちゃんってほんっっといい子！高岡にはもったいないっ」
感動したのか、そういって亜紀子をひしっと抱きしめている環の隣で、同じように荷物を下ろし終わった日比野家の次男・清志が言う。
「ねぇちゃん、いいからさっさと運んでよ」
「あーうるさいねぇ、清志っ。なんで家には亜紀ちゃんみたいなかわいい妹がいないんだろ」
自分の好きな道を突き進む、長女・環。
その環に虐げられながらも耐えてきた長男・篤志。
そんな二人を見ながら育ってきた清志は、ある意味一番大人でもあった。
「…俺だって、亜紀さんみたいな優しいねぇちゃんがほしかった」
「なんだって？清志？」
「何でもないですっ、ほら、ねぇちゃん。早く運ばないとアイスが溶けるって」
清志にそう言われ、慌てて環はアイスの段ボールを抱え上げた。残るジュースの段ボールは、全て清志に任せてある。
亜紀子も、アイスの段ボールを抱えて歩き始めた。
由太に会うのは、三日ぶりだ。そのせいか、足取りも軽い。
だが、ふとその足が止まる。
幻覚かもしれないが、亜紀子の視界に、いないはずの人間が見えたからだ。
その人間は、ジャージ姿で体育館から渡り廊下を歩いて校舎へと消えていく。
その背中に、確かにその名前が見えた。
でも、どうして西村さんが？
立ち止まっている亜紀子に気づいた環が、振りかえって尋ねる。
「どうかした？亜紀ちゃん？」
「いいえ」
亜紀子は慌てて返事をすると、環の後を追いかけた。
練習試合は、四対一でレギュラーチームが勝っていた。
あと三分もすればこの試合が終わり、そのまま軽い休憩に入る。
グランドを見ていた萌子に、つつっと理香が擦り寄ってきた。
「ね、萌子」
その声は、周囲を気遣ってか、小さい。
「せっかくだからね、合宿の最後の夜に、花火でも皆でやろうと思ってるんだけど、どうかな？」
萌子はふいに七夕のときに見た大きな花火を思い出した。
「花火か…。いいね」
「やっぱり？でしょでしょ」
「でも、監督許してくれるかな」
すると得意そうに理香は説明した。
「そっちは大丈夫。あれで結構メリハリが大事って思ってる人だから、多分ＯＫ出してくれるし、協力を助っ人にもお願いしたし。それにもし万が一駄目だったら、内緒で夜中に集まって、海でやっちゃえばいいんだよ」
理香は簡単に言うが、合宿最後の夜の翌日、合宿最後の練習も待っている。
それに、部員たちの疲労は想像以上で、そんな余力があるようには萌子には思えなかった。
「でも、みんな疲れてるんじゃないの？」
だが理香は、大きく首を振っただけだった。
「もうわかってないな、萌子は。お菓子と一緒で、そういうのは別腹なの」
お菓子と一緒か、はわからないけれど。
確かに、楽しいことというのは、あるだけでも心が軽くなる。
黙った萌子を、賛成と受け取ったのか、理香はそれでね、と話を続けた。
「で、早速なんだけど、時間に余裕があるのが今日の夕食前の時間しかないのね。だから、買い出し行って来てくれる？」
「うん」
「よかった、じゃ成くんと一緒に行ってきてね」
どうして、成と？
萌子がそう聞く前に、試合終了を告げるホイッスルが鳴った。
「うぃーっす、差し入れ持ってきたぞーっ」
グランド中に環の元気な声が響き渡る。
休憩時間で木陰でぐったりとしていた部員たちも慌てて集まり出した。
「はー。疲れたっ」
環はそう言って、持ってきた段ボールいっぱいの飲み物やアイスをどっさりとベンチに並べる。
「ありがとうございます」
萌子たちもそう言って手伝う。伸びてくる部員たちの手に、適当に差し入れを配っていた環は、ふとケンを見つけて声をかける。
「あっ、こら、ケンッ」
「は？」
「は？じゃない。ちょっと来なさいっ」
環はそういうと、ケンの襟首を掴んで、そのままずるずると人気のない校舎付近まで連れて行った。
「あんた、お母さんに寮の電話番号変わったこと言ってないの？
そもそも最近、連絡全然してないんだって？昨日電話あってびっくりしたんだから」
今月の初めだった。
寮にファンからの電話が頻繁にかかってくるようになり、話し合った挙句、電話番号が変わったのだ。
そういや言ってなかったなぁ。
思ってもみない話で、ケンは慌てて思いついたいい訳を口にする。
「…忙しかったもんで」
その返事に、環は大声で叫ぶ。
「馬鹿者っ。電話をかけても『現在使われておりません』ってなってて、親がどう思うか考えたことないのっ？」
考えたことなど、なかった。
むしろ、地元の話を聞くのがいやで、ケンは連絡をしていなかったのだ。
「なんか用、言ってました？」
環は呆れたようにため息をついて言う。
「お盆に帰ってくるかどうか、だってさ。インターハイの試合結果で夏休みがどのくらいになるかわからないから、本人から今日連絡させますって母さん言ったらしいから。はい」
そういって、環はテレホンカードを差し出す。
「母さんからの特別の差し入れ。いい？電話すんのよ。彼女んとこにかけてばっかいないで、たまには声聞かせてあげなさい」
一通り、差し入れを配り終えたところで、ふうと溜息を亜紀子がついていると、理香が大きく手を振りやってきた。
「亜紀ちゃーん、元気だった？」
「はい。理香さんも元気そうですね」
「うんっ、だって楽しいんだもん、合宿って」
亜紀子から飲み物を受け取っていた篤志が軽く睨むようにして理香を見た。
「ためしに理香も一緒に練習してみる？」
それが心外だとでも言うように、理香は篤志に人差し指をつきつける。
「あ、もしかして仕事さぼってると思ってない？
もうね、仕事山のようにあるのよ。
掃除にご飯に、洗濯っ。
特に洗濯なんて大変なんだからっ。
タオルでしょ？ユニホームでしょ？ジャージでしょ？
汗だくで汚いのが、洗濯籠に山のように積まれてて、それをあたしたちが何回にも分けて洗濯機回して、干して、たたんで。配って。それだけで気の遠くなるような作業なんだからっ」
小さく篤志がすみませんと謝る後ろを、由太が素通りしかけ、理香は慌てて由太に声をかける。
「あ、ちょっと由太チャンってば、せっかく亜紀ちゃんが来てくれてるのに」
ちらりと理香を見ただけで、それでも由太は足を止めずにグランドに戻っていく。頬をふくらませた理香に、亜紀子がそっと声をかけた。
「いいんです。部活中ですから」
とはいえ、今は休憩中でもある。
「ほんっと融通利かないんだから」
謝るように亜紀子は微笑んだ。
融通が利かない。
その言葉と、由太の姿を見て、亜紀子は気になっていたことを思い出す。
「それより、理香さん―」
「理香ぁっ。ちょっとぉ」
遠くで美都の助けを呼ぶ声と亜紀子の声が重なった。美都の手には、籠いっぱいの洗濯物だ。
あれを落とされると始めからやりなおさなきゃいけなくなる。
「ごめんね、亜紀ちゃん。ちょっと行かなきゃ」
理香はそういうと、慌てて美都に駆け寄っていった。
そうだよね、みんな合宿中なんだもの。
亜紀子はそう思い、グランドでボールを蹴り始めた由太を遠くから見つめていた。
校門で待っている萌子を見つけて、成は駆け足を早めた。
「ごめん」
息も絶え絶えにそう言うと、また汗がたくさん流れ出てきた。
今さっき、慌ててシャワーに入ったばかりだというのに。
そもそも、こんなに遅れてしまったのも、シャワーに入ることになったせいでもあるのだ。
練習が終わって、そのまま頼まれた花火の買い出しに行こうとしたところで、突然篤志とケンに拉致されて職員用のシャワー室に連れていかれたと思うと、さっさとシャワーを浴びろというのだ。
「何でだよ」
「汗臭いのって女は嫌うだろ？」
「女？」
「買い出しの相手は萌子。正門ところで待ってるからさ」
「え？おいっ？」
戸惑っている成のＴシャツを脱がせた篤志が、代わりにバスタオルと制服を押しつける。
「お前に言うと、練習に集中できないから黙ってたんだっ。ほれっ」
「え？でも、ここ。職員用のシャワー室じゃ…」
「使ってないんだから、いいだろ？」
ケンはそういうと、無理やり成を押しこめた。何かいい返そうとした成だが、
「萌子が待ってるっつってんだろっ」
と怒鳴られるだけだった。それで慌ててシャワーを浴びて、出てきたというのだ。
「大丈夫だった？」
その慌てように萌子はかえって心配したようだった。
成は、まだ濡れている髪をかきあげて答える。
「うん。萌子こそ、夕飯の準備、大丈夫だった？」
与えられた時間は三十分ほどだった。選手たちにとっては、休憩時間であるのだが、この時間、マネージャーは夕食の準備に忙しいはずなのだ。
「理香たちがやってくれてるから。でも、本当に監督がＯＫ出すなんて」
萌子はそういって、手に持った封筒を成に見せた。しかも、資金まで出してくれたのだ。もちろん、他の人間からのカンパもあってのことではある。
「環さんもいろいろ話してくれたらしいよ。うちの部で環さんに勝てるのは、誰もいないって話だし」
成のその言葉に、萌子も納得して頷く。
車のクラクションが鳴り、二人は振りかえった。
歩道もない狭い道をあるいていたために、邪魔だったらしい。
一旦車が通りすぎるのを待ち、二人は店に向かって歩き出した。この坂をあと百メートルも歩けば、目的のスーパーに辿りつく。
成は、萌子が道の端を歩くように、わざと車道を歩き出した。萌子がそれに気づいてふいに顔を上げる。言葉はなかった。
ぎこちなくだが、成が笑いかけると、萌子もそれに応え、空気が和らぐ。
夏の夕日が、二人の顔を照らしていた。そして、二人は再び歩き出した。
「あと一週間くらいでインターハイだな」
珍しく成から話を切り出すと、萌子もそれに応える。
「うん。うちは厳しいブロックになっちゃったね」
大きく四ブロックに分けたうち、凪浜のいるＡブロックは、優勝候補といわれる国里や、強豪帝都がいる。シード校となった凪浜は、二回戦目からの登場で、静岡代表の藤田東と初出場の協栄高との勝者戦うことになっていた。
「まあでも、勝ちあがっていけば、強いところとは当たるわけだし」
さらりとそういう成を、萌子は驚いて見つめたが、言った本人は何も感じてないようだった。
なんだか、成らしい。
「そうだね」
そう答えたところで、坂の向こうに目的だったスーパーが見え始めた。
夕食後、シャワールームは混雑していた。
なにせ五つほどしかない学校のシャワールームを、百人ほどの人間が数時間で使わなければならないのだ。
夜間練習が終わって、予定の時間を過ぎても出てこないハンドボール部に、しびれを切らせた由太が激しくシャワー室のドアをノックした。
「おい、時間過ぎてるぞ」
騒がしかった中が、急に静かになって、一人が顔を出した。
「あ、わりぃ…高岡」
ハンドボール部の入江は、そう言って由太の顔を見つめた。由太は、そんな入江に驚いたのか、無言のままでいた。
どうした？と湊が話しかけようとしたところで、入江の後ろからもう一人ハンドボール部の人間が顔を出す。
「いいじゃねぇか。五分くらい」
そう言って西村は明らかに由太を睨みつけた。
久しぶりに顔をつき合わせた由太は、一瞬戸惑ったが、それを隠すように冷静に答える。
「こっちにだって都合がある」
消灯時間までに、サッカー部員を全員シャワーにいれなくてはいけない。
十人ほどのハンドボール部に割り当てられた入浴時間は一時間。
百人弱のサッカー部に割り当てられた入浴時間は二時間だ。入れなかった部員は、水道で水浴びするしかない。
険悪なムードになりかけたところで、慌てて篤志が顔を出す。
「ま、いいじゃん、由太。少しくらい遅くなっても」
そこで顔を逸らした由太とは対照的に、西村は篤志をちらりと見て、声高に言った。
「お前も高岡の相棒として、ほんと苦労するよな。アッチ」
そして、そのままシャワー室を出ていく。慌てたように入江が西村の名前を呼び、後を追いかける。
「じゃ、またな」
篤志に言ったのか、由太に言ったのか、わからぬままに入江はそういい残し去っていく。それにつられるようにして、中からはずらずらとハンドボール部員が出てきた。皆が皆、すでに仕度も終わっていたようだ。その様子を見て園部が呟く。
「だったらさっさと出て来いっつーの」
三回目のコールで、相手が受話器を取った。
「はい、名取でございます」
「ああ母ちゃん？」
あまりにもあっけらかんとそう言ったケンに、母親が驚いて声を上げる。
「ケンッ、あんたっ」
「ごめんごめん、連絡し忘れてて」
ハハハと笑ってみせるケンだが、電話から聞こえてくる母親の声は、一向に怒りを鎮める気配を見せない。
「本当に驚いたんだよ。全然連絡して来ないし、たまにはって電話かけたら、使われてないなんて。連絡し忘れてたじゃないよ、まったく。
あんた、そんなことよりいつ帰ってくるの？」
「そうだなぁ。多分お盆の頃には帰れると思うけど、わかんね。インターハイで決勝まで行ったら、多分もっとぎりぎりかもしれないし」
本当のことを言えば、今のケンに帰る意志はなかった。
伸ばし伸ばしにして、帰らずに済ませたいというのが本心だ。
大きな溜息が聞こえて、母親はいくらか声を和らげていた。
「電車だと三時間半で帰って来れるんだから、たまには帰ってきなさいよ。父さんも待ってるから。
それより、あんた、試合出るの？」
一番聞かれたくない質問だった。
「出れねぇよ。悪いけど、母ちゃんが考えるほど、サッカーって簡単じゃねぇの」
ケンは、中学の県大会で優勝した時、一人はしゃぎ、ケンのことを天才だと言って褒めちぎっていた母親を思い出した。
だが、その母親は、一番言われたくなかった言葉を吐いた。
「そうかい？でも赤坂くんはもうレギュラーだっていうじゃないの。お前、やっぱり扶洋にしておいた方がよかったんじゃないかい？」
ケンのこめかみがぴくっと動いた。
「うるせーなっ、もう切るぞ」
「ちょっと待ちなさいって。
電話番号のこと、亮子ちゃんに話したのかい？びっくりして亮子ちゃんに聞いたら、亮子ちゃんも知らないなんていうから、母ちゃんびっくりしたよ」
ケンは苛立ちながら、ついに叫んだ。誰もいない廊下に、その声が一人響く。
「忙しくって、知らせる暇なかったんだよっ、うっせーな、ババァ。人の彼女を気安く呼ぶな」
「ケンッ、まったくあんたって子はっ―」
続きは聞こえなかった。
ケンは叩くように切った電話を見つめていた。
かけるんじゃなかった。
かけるべきじゃなかった。
「ほんと、うっせーよ、ババァ」
ケンはもう一度、小さく呟いた。
消灯時間を前に、保健室では理香と美都が声を上げていた。
「ひゃー、すごいっ。これだけあれば十分よっ。ありがと萌子」
並べられた花火は、いろんな種類がある。線香花火から、打ち上げ花火に、パラシュート。
美都もそのひとつひとつを取って、嬉しそうに笑顔を浮かべていた。
ふいに保健室のドアがノックされて、理香が返事をすると、ドアが開いて、萌子の知らない声がした。
「夜分遅くにすみません、ハンドボール部の入江と言いますが…」
えらく丁寧な挨拶と同時に顔を出してきた男子に、理香が思わず声を上げた。
「へ？入江君？」
「ああ。小池。あ、そっか。サッカー部のマネージャーだもんな」
「うん、久しぶり。あ、西村君も」
その後ろからは、西村が顔を出す。萌子は小さく会釈した。入江が済まなそうな顔をして言う。
「ごめん、湿布。またもらえるかな」
「ああ。うん」
萌子はそう言って湿布を用意する。中に入ってきた西村たちに、理香が話しかけている。篤志の話だと西村は内部生ということだから、理香とも顔見知りなのだろう。
「あ、もしかして二人とも、ハンドなの？」
「そう。あ、花火じゃん。なになに？」
「実は最後の日にぱーっと盛り上がろうと思って」
だが会話はもっぱら入江と理香だけだ。西村はむすっとした顔で、萌子の治療を受けていた。きょとんとしている美都に気づいた理香が、二人を紹介する。
「あ、入江君。内部生なんだ。西村君も。萌子は知り合いだったんだ」
「この前西村の手当てしてくれたんだ、沢木さん」
代わりに返事をしたのは入江だった。理香の本当に？という視線に、萌子も軽くうなづいて答える。何となく、その場が静かになったので、萌子は雰囲気を変えようと入江と理香に話しかける。
「二人とも、中学のときからハンドやってたの？」
それは変な質問ではなかったと、萌子は思っていた。
だが明らかに、三人の空気は凍りつき、そして、挑戦的な声で西村が言った。
「いや、中学はサッカー部。まあ途中で、高岡に辞めさせられたけどな」
消灯時間になっても、司は俊平の布団から抜け出そうとしなかった。
「おい、司っ」
試しに揺すってみても、
「ぐーぐー」
と寝息をたてているだけ。
俊平は溜息をつく。
「狸寝入りすんなっての。お前がそこで寝たら、俺はどこで寝ればいいわけ？」
すると、かけ布団をさっと半分開けて、片肘ついた状態に起き上がった司が、にやりと笑って言った。
「来いよ」
「…あのな、俺は野郎と寝る趣味はないっての」
かけ布団を俊平に取られた司は、そのまま布団の上であぐらをかく。
「俺だってそうだぜ。でも、あの部屋で寝たくないんだ。くせーし、ゴキブリ出るし、田島の歯軋りうるさいし、それに今年は友近の寝言がうるせーし」
愚痴を言い出した司に、ついに朔哉が言った。
「わかったから、司。消灯になったら布団、持ってきていいから」
「まじ？サンキュー、朔哉。恩に着るっ」
司はパッと起き上がると、そのまま足取り軽やかに布団を取りにいった。その姿を見て、俊平はまた溜息をつく。
「おい、朔哉」
「俺とお前のスペース詰めればなんとかなるだろ？毎晩愚痴を聞かされるよりはましだし、ヤナギさんに言われたら、俺がいい訳するからさ」
そういって、朔哉はさっそく司用のスペースと作り始める。もっとも、教室に余裕がないわけでもなかった。ようは柳田なのだ。
「まったく、司を甘やかせすぎんなよ」
仕方なく朔哉に倣い、俊平も司用のスペースとつくり、そして布団に入る。
去年でわかっていたはずなのに、やはり一日中練習漬けになる合宿での疲労は大きい。俊平はすぐにでも眠りにつきたかった。
消灯の時間になり、電気が消える。朔哉の寝返りをうつ音がして、俊平は目を閉じたままに口を開いた。
「…合宿の四日目に、コウさんたちまた来るってさ」
その日、菊地は練習試合に出るということまで、俊平は知っていた。朔哉のはっきりとした声が聞こえる。
「ふーん」
「西田さんと、美智子さんも」
「…そう」
俊平は寝返りをうち、朔哉のその背中を見つめた。
「この前、何話してたんだ？美智子さんと」
「何って、別に。いままでと一緒。惚気話」
「ふーん」
朔哉が大きく溜息をつくように、息をはいた。ふいに俊平は聞きたくなる。
「…お前ってさ」
「うん」
「Ｍ？」
返事の代わりに、朔哉の足が、俊平の体を軽く蹴った。
「くだらないこと考えてないで、さっさと寝ろ。俊平」
そしてガラガラと音がして、足音が二人に近づいてきた。寝入ったふりをする二人の隣に、ずかずかと司はやってくると、そのままいの１番に寝息を立て始めた。